アメリカの生活
2026年03月10日
2-dome の構成
「Tydol」と「Veedol」は、かつての Tidewater Oil Company の主要ブランドです。これらに関連する 2-dome のタンク車には、当時の物流における重要な実用的理由がありました。
異なる製品の同時輸送 2つのドーム(タンク上の突起部分)があるタンク車は、内部が2つの独立したタンクに分かれていることを示しています。これにより、1つの車輌でガソリン(Tydol)と潤滑油(Veedol)など、異なる種類やグレードの石油製品を同時に運ぶことが可能でした。
熱膨張の管理 タンク上部のドームは、温度変化によって液体が膨張した際の「逃げ場」として機能します。2つのタンクにそれぞれドームを設けることで、両方の液体に対して安全な膨張スペイスを確保していました。
配送効率の向上 バルク(大量)輸送において、需要の異なる複数の製品を一度に小分けにして配送できるため、特に小規模な給油所や顧客への配送効率が飛躍的に高まりました。
これらの 2-dome などの複室タンク車は、単独室のタンク車を改造することによって作られたものが多い。片方のエンドを外し、内部に新たに隔壁を作ったので、その部分にはリヴェット列がある。ドーム部分の大きさが異なるのが普通であったようだ。小さいタンクのドームは小さくてよく、細くて低いものが多かった。筆者の作ったタンク車では、ほとんど同じ大きさだったので正しくないことになる。当時の写真を見るとかなり小さいものが載っている。Champ のディカールの解説にはその部分説明がないので、リヴェットを削らずそのまま完成させてしまったのは残念である。もうこのディカールは入手不能で、作り直すわけにはいかない。
2025年11月01日
KKCの総会に出席
KKCとは今野喜郎氏が率いる工作派の集団で、小型機、古典機、地方鉄道の頭文字を取ったものらしい。筆者はそのどれにも関係がない異端者であるから、開き直って高効率、高出力、超大型と称してごまかしている。
KKCには金属工作が得意な人が沢山いる。TMSの過去号を開けば、名前を見つけるのは容易だ。
会場では机を貰っているので、そこに見せたいものを並べて訪問者と話をするという形式を採っている。最後の1時間半には全体の前で各人が1分から3分程度の話をする時間を設けている。このような発表の時間があるというのは良いことだ。日本のクラブではあまりないのではないか。
アメリカでは、”Show and Tell” という自己発表の練習を小学校からやっているので、彼らはこのようなことに慣れている。日本ではあまりやらない。単に挨拶と、何をやっているか程度で終わってしまう。
アメリカでは、短い時間ではあるがそこに起承転結を入れて、ユーモアのある発表をすると評価されることが多い。日本のクラブでもそのような方式を取り入れてはどうだろうか。
伊藤 剛氏はその種のお話の達人であった。クラブの会合では皆がそれを聞くのを楽しみにしていたのだ。
2024年05月30日
アメリカの道を走る
テキサスの田舎道を走ると、その制限速度に驚く。2車線の分離帯のない道でも 70マイル/時である。これは時速110 km以上である。車線の幅は 5 mほどで、路側帯はそれと同程度の幅があるが、舗装されていない。その外側は砂漠のような畑である。このごろの車は車線をキープする装置がついているので安心であるが、対向車にもついている保証はない。大型トラックとすれ違う時は、さすがに怖い。
今回はNISSANのROGUEという車に乗った。滑らかに走る良い車だった。速度計がきわめて正確である。この写真で分かるようにGPSの速度とパネルの速度とは一致している。70マイル制限のところを65マイル/時で走っているところである。すなわち速度計は誤差がないものを作れる時代なのだ。前回乗ったTOYOTAも誤差がまったく無かった。ところが日本で走っている車は全ておかしい。速度が7%多めに表示されるように作ってある。昔からある誤差の計算式によって許される最大の誤差をあらかじめ設定してあるのだ。107 km/時が表示されているとそれは100 km/時で走っていることになる。スピード違反しにくくなるからありがたく思え、ということでもなさそうだが、実に不愉快だ。高速道路の容量が7%減ってしまう。そのような権限は国土交通省にはない。
同じ車を日米で同時に走らせて日本の方が7%遅く走るように作られているというのは、どう考えてもおかしい。
2024年05月18日
続 Tom の娘
Tomは筆者のことを非常に気に入って、”very much intelligent" と褒めちぎり、Paulaに会うように仕向けたが、タイミングが合わず会えなかった。彼女は化学を専攻していたこともあって、会わせたかったのだ。
筆者に向かって、「日本に帰るな。アメリカにいてくれ。」と言った。最終的には「息子になって欲しい。Paula と結婚しろ。あの子はいい子だから。」と来た。
会ってもいない娘と結婚の約束などできるわけもなく、そのままになったが、彼とは20年ほど文通していた。
日本からの手紙は赤と青の縁取りの付いた航空便の封筒であった。Tomはその手紙が待ち遠しく、来るといろいろな人に見せびらかしていたようだ。外国人が英語で手紙を書けることに驚いたそうだ。当時あの地方 Wyoming では外国人は珍しく、ほとんどの人は地元から動いたこともなかった時代だった。”Howdy、palses!”で始まる会話しかなかったのだ。
すべての手紙が保存してあるそうで、今思えば少々恥ずかしい。当時はタイプライタで手紙を打っていた。手動の機械で、指が痛くなった。インクテープがすぐ駄目になり、何度も替えた。
当時の日本では英文タイプを打つ人は少なく、筆者が猛烈な速度で打つのを見た人が、とても驚いたことを思い出す。今はほとんどの人がパソコンを使うので、キーボードを打てない人の方が少ないだろう。
2024年04月18日
visiting Texas
今回は天気が良くなく、日食は薄雲の隙間から見えただけで、星が輝くのは見られなかった。前回快晴であったのは、運が良かったとしか言いようがない。
Dennisはレイアウトでの運転を完全にするために努力している。すべての機関車、貨車の連結器を整備し、全く手を触れないで列車の解結作業を行えるようにした。また、DCCサウンドを更新し、実感的な運転ができるようにしている。
ストラクチュアは整然と並び、街路を構成しているのは素晴らしい。大きなレイアウトではないが、運転を楽しむ(operation first) ことに注力している。こういう楽しみ方は日本ではまず見ることができない。いつもなら、DFW ダラス・フォートワースまで300 kmを迎えに来てもらうが、彼は体調が良くなく運転を避けているようなので、近くまで飛行機を乗り継いで行った。この頃は国際線とは異なる路線に乗り継ぐと手荷物料金を取る。スーツケース1個で30ドルも取るのには参った。ドルが高いのでさらに驚く。
持って行ったお土産を開くと、彼は歓声を上げた。彼が一番気に入っているものであったようだ。彼は筆者のブログを丹念に見ている。最近の表題が英語表示になったのは、彼の識別を助けるためである。彼は気に入った記事を自動翻訳で読んでいるのだ。
2024年01月22日
続 "freelance", "prototype"
やはりフリーランスはイギリス語である。アメリカでは "private road” であるそうだ。要するに、好きなようにやっているから文句言うなよ、という感じである。デンヴァにあったカブース・ホビィズの店ではそういう分類をしていたそうだ。
イギリスの模型の世界では、普通に使われている。極めて初期のTMS(一桁号)に、なかおゆたか氏がその言葉を使っているのを確認した。彼らはイギリスの本を見たのであろう。
また、このように教えてくれた。
フリーランスというのは実物に忠実に作ることに束縛されない模型作りで、ナローゲージ模型でよく見る。しかしMR誌でフリーランスの模型を見ることは非常に少ない。
物事を断定的に言うことに快感を覚える人が居る。この趣味界ではそういうことはたくさん経験して来た。その結果、信用を失うのだが、そのことにさえも気付けない人が多いと感じている。
2024年01月20日
"freelance", "prototype"
確かに、フリーランスとは組織に属さず、自営業者や下請けも含む、
それはそうなのだが、上記の文章を読んでかなりの違和感があった。「間違いである」と切り捨てることはできないと思ったのだ。古い Model Railroader の記事にそれらを見たような記憶があったからだ。
50年ほど前のことだから、記憶が怪しく反論のしようがなかったが、先日の DT&I のカブースの件で古いファイルを開いてみると、パラパラといくつか見つかるではないか。
これはどうだろう。1976年1月号である。著者はCharles S.Small氏である。懐かしい名前だ。この言葉はイギリス語であると書いてある。要するに non-prototype の自由な発想の模型であるということだ。確かにMRの記事にはそういうのは少なかった。最近はさらに少ない。MRでは ”true to prototype” の模型を追求しているのだろうか。
2023年07月06日
配管工事
2LDK、60平米強である。省エネルギィ・サッシに全て取替え、全室エアコン付き。18畳LDKのエアコンは最新の省エネルギィ・モデルである。全室LED照明で最新型日本製食器洗い機も付いている。最寄り駅には電車の車庫があり、最終電車はこの駅止で、乗り過ごす心配はない。また一番電車もここから出て、ターミナル駅まで最速12分である。先月洗濯乾燥機を差し上げると書いたところ、3時間で譲渡先が決まった。
水道工事をして、すべての配管、水栓を日本製にした。当時の日本製のシングルアーム水栓には、特許の関係でろくなものがなくアメリカ製のものを導入した。しかし今後の修理のことを考えれば、日本製にしておかないと、困ることになると思ったからだ。帰国時にアメリカから、銅配管の材料を大量に持ち帰り、局部電池による電蝕の害を防ぐ継手を使って配管した。大半を取り外して処分したが、銅スクラップの引取り価格が高くて驚いた。当時のアメリカの銅価格は極端に安かったのだ。
我が家もキッチン周辺には銅配管が多く、食器洗い機への接続等があったが、30年も経つと微妙な漏れが発生し、その原因の銅製可撓継手を取替えるついでに、水栓も日本製に更新した。食器洗い機は例の Maytag である。日本製のステンレス可撓継手に合う継手は 3/8インチと1/2インチを結ぶエルボ(直角曲がり)で、これは日本では手に入れにくい。手持ちの2つの部品を旋盤で挽き、 0.03 mmの隙間を空けて組合わせる。塩化亜鉛ペーストを塗り、ガス火で炙る。そこにこのスズ−アンチモンハンダを押し付けると一瞬にして終わる。融けたハンダは隙間を均一に満たし、強固な結合ができる。この融点は240 ℃と高く、炙り付けが基本である。40年ほど前にアメリカで買った水道工事用である。健康に影響はないはずであるが、今は含アンチモンハンダは使わないようだ。このハンダの硬さは素晴らしい。快削性がある。2023年05月31日
洗濯乾燥機

Maytagという家電メーカがある。少々高いが、とにかく壊れない製品を作る会社だった。戦後すぐの洗濯機でも、50年経っても問題なく作動した。友人宅の洗濯機は例外なくMaytagであった。これらの写真はここから引用した。現状は3つに分解した状態であるので、後日掲出する。有名なTVコマーシャルがあった。なんという俳優かわからないが、朝8時に工具入れのカバンを持って出社してきて、椅子に座って修理依頼の電話を待つ。時計の針はくるくると廻って、5時になる。「あーあ、今日も仕事がなかった。」と言って帰るのである。これを20年ほど流していた。決して誇張ではないという評判だった。
壊れないのは本当で、ボールベアリングの大きさが他社の2倍もある。塗装ではなく厚い鉄板に琺瑯(ほうろう)が掛けてある。錆びない。ネジの太さは他社の1.5倍もある。筆者の現在の家にも設置して30年経つが、一回も不具合を起こしていない。
この写真を見て、Mil-spec washer だと言った人が居る。その通りで、アメリカの軍艦の居住区にはこれがずらりと並んでいる。もちろんその乾燥機は電熱仕様だ。重いが、とにかく壊れないのが取り柄だ。1回に12 kg近く洗える。乾燥機が別なので、連続して使用できる。電熱仕様の乾燥機の出力は4.8 kWもあるので、深夜電力しか使えない。その深夜電力が最近は高くなり、困っている。
改装中のマンションにも設置してあったが、大きすぎて風呂に入る時に邪魔なことと、音が大き過ぎるので、外して処分することになったが、完動品なので捨てるには忍びない。活用してくれる人が現れたので、引き取られて活躍することになった。
仕様はAC120 V、60 Hz、電源の昇圧トランスは1.5 kVAが必要だ。その乾燥機はLPガス仕様で直径 4インチ(約10 cm)の排気ダクトが必要である。質量は 110 kg(洗濯機65 kg、乾燥機と脚45 kg)だ。冷水と温水の供給が必要。専用ホースに適合する蛇口は専用のサイズである。
ガスの種類は、天然ガス用のオリフィスを買えば変更が可能だが、アメリカから取り寄せる必要がある。それは今でも売っているはずだ。
メイタグの製品は、もうすでにアメリカ国内製の物が少なくなり、信頼性はやや劣るようになったと言う人も居る。それを考えるとこの製品は本物であって、信頼性は抜群である。
2023年05月29日
プロの大工
ある時、その友人に質問をぶつけた。
「プロの大工とアマチュアとは何が異なるのだろう。」
友人は笑って答えた。
「単純なことさ。プロはプロの道具を持っている。プロの道具を持てば、お前だって家を建てられるさ。」
「いや、僕は1年しか、しかも週1日しか手伝ってないよ。」
「十分だ。お前はなかなか優秀だ。道具さえ持っていれば大工で稼げるぜ。」
そんなバカな、とは思ったが、そのプロの道具のリストを作ってもらった。20品目くらいで、総額6000ドルくらいだった。いつの日か、全部揃えようと決意した。銘柄はマキタ、日立、Milwaukeeが多かった。また、日本のあるメーカのものは、買うべきでないと釘を差された。
その4年後、その時がやって来た。ボストンから住宅のキットを輸入することになった。ある程度は買い揃えていたが、足らない分を一挙に買った。一人ではできないので、4人の大工を雇った。ほとんど手ぶらで来て、こちらで揃えた道具を使ってもらった。
彼らを雇うときは苦労した。大工の棟梁を何人か呼んで面接し、麻薬をやってないかを問い質した。
「日本では、マリファナでさえも持っているだけで捕まる。3年は帰れないだろうな。」と言うと、次回の面接には誰も来なかった。仕方がないので、ある宗派のキリスト教徒で、酒もタバコもやらない人を紹介してもらえたので、雇うことになった。
そのプロの道具とは、直角を含む所定の角度に正確に切ることのできる丸鋸、いわゆる丸鋸盤、60 mmの板を縦割りすることのできる強力丸鋸、ここまではいずれも、1.5馬力以上の出力があるものだ。刃渡り200 mmくらいのレシプロ・ソウ、手持ちのジグソウ、ラウタ盤、強力なベルトサンダ2種、大小様々なクランプ20本くらい、電気ドリル3種、インパクト・レンチ、釘打機3種などが主なもので、その他は小物であった。不思議なのはカンナとかノミが無いことだ。彼らはそういうものはほとんど使わない。一度ノミを準備する場面に遭遇して、絶句した。ベルトサンダで刃先を”削って”いた。研いでいるとは言えない。それで叩き切る、という感じである。
これらの道具で、自宅の内装はほとんど一人で仕上げることができ、投資額の数倍を稼ぎ出したことになる。また、その後の色々な場面で役に立っている。
2023年05月25日
spline joint
こういう時は廊下の一方の壁に沿って最初の1本を打ち付ける。それは完全な直線上になければならないので、糸を張って確認する。廊下全体を張ったら、各部屋の入り口を連続して張る。部屋の中まで同じ調子でできるだろう。しかし反対側の部屋をどうするかだ。床材のその方向には、tongue(飛び出している部分)が無い。
床板の切れ端から、溝にやや固めに入る細い材料 spline を切り出し、紙ヤスリで研いで押し込める程度の厚さにする。 強力な接着剤を塗って押し込む。このスプラインは、長さは30 cmくらいにすると失敗がない。一本ものである必要はないので、何本かに分けて嵌め込むと良い。筆者はこのスプラインを作るのが得意で、Ben が褒めてくれた。 普通の人にはできないのだそうだ。こうするとどちらにも凸部がある部材ができるので、そこから反対方向に張り始める。この部材には、最初に両方向から釘を打っておく。そうしないと反対側に打った時にずれるおそれがある。
この種のテクニックは友人の大工から学んだのと、本を読んだことから得た。400ページくらいの本で、それを読むと体力と機械があれば家を建てられる。日本の大工の腕とは異なる次元のテクニックなのだ。最近は日本の大工も機械を使うようになったので、それにやや近付いていると感じている。
splineは自分で作るものと思っていたが、調べると市販されている。1.2 mの長さで3.5ドルだそうだ。自信のない人には、ありがたいだろう。 問い合わせたところ、30 m分で160ドルというのもあった。この材料は堅木でなければならない。数学を勉強された方はスプライン曲線という概念をご存知だろう。有限個の点を通るなめらかな曲線を作る工夫だ。この図では三次スプライン曲線になるが、曲がり方が大きいので、多少ずれる。
spli〜で始まる言葉は、ほとんどが木を細く裂いたものに関係がある。splint は骨折の治療に用いる副木(そえぎ)である。ギプスが実用化されるまではこれしかなかった。
2023年05月23日
floor plank
筆者が使用する床材 (plank)はこの寸法だ。プランクというのは厚めの板材を意味する言葉だ。海賊に襲われて海に落とされる時に歩く板がプランクである。床用のプランクはこのような断面を持っている。tongue and groove(凹凸がついている)であるから嵌まり込んで外れなくなる。この嵌合は絶妙な硬さになっていて、押し込まれると取れない程度になっている。斜めに釘を打ち込む前に、ハンマの尖った方で軽くコンコンと板の飛び出している部分を叩いて、凹凸をしっかり食い込ませる。そして釘を打つのだ。斜めに力がかかるので、かなりの勢いでピッタリと押し付けられるわけだ。
最初の一枚は壁際で垂直に打たざるを得ない。接着剤を塗って動かないようにする。その時の釘はドリルで孔をあけておいて沈める。その頭はトリム材(壁の裾に張るボロ隠し材)で隠れるような位置に打つ。接着剤が固まってから床張りを始める。隠せない時は上から木栓を打って隠す。
時々、壁からの距離を測定して、壁と平行に打たれているかを確認する。最後はテコでこじて寄せ、最初と同様に垂直に打つ。
貼り終わったら、サンドペーパをかける。最初は40番、次は80番、仕上げは120番である。全体に1 mm程度削ることになる。これは手ではとてもできない。強力なベルトサンダを使う。かなりの電力量を消費する。18畳程度の部屋で、4 kWh程度である。体育館などでは大型の乳母車のような機械を持ってくる。3 kWほどの出力を持ち、削りカスが山になる。ベルトも10分程度しか持たない。昔は鉋(カンナ)を掛けていたのだ。
2023年05月21日
Powernailer
意外なことに、床についての問い合わせがたくさん来た。釘打機の写真を見たいとのことで、自宅の地下室から発掘してきた。30年ぶりに取り出したが、傷んでは居なかった。タイルの大きさが 30 cm角であるから、大きさの見当は付くであろう。 ハンマは900 gである。かなり重い。ゴムの付いている方で、叩き込む。反対側の尖っている部分は、床材を叩いて密着させる時に使う。自宅を建てる時に雇った大工のBenは 2 mの大男で、一発で叩き込んだが、普通の人は2回叩かないと入らない。叩く力が強過ぎると、その部分の板が強く寄せられてまっすぐにならない。Ben が絶妙の力で一回で打ったのには感心した。
左に飛び出している銀色部分に釘を入れる。釘は接着剤で固めてあり、この写真の4倍くらいの量を収容する。オークは極めて硬く、普通の釘を手で打つことはできない。釘が折れ曲がる。このL字の釘は厚さ1/16インチ(1.6 mm)の鋼板を打ち抜いたもので、加工硬化して極めて硬い。打ち込まれて先端が入ると、その後は鋸状のギザギザがあって、オークを粉砕しながら貫通する。そして最後のL字の頭が喰い込んで止まる。このあたりの設計は巧妙で、実にうまく留まる。と同時に床材は相手に固く喰い付いて、隙間は出来ない。この床材を日本で購入して使う人がたまに居るようだ。ウェブ上でその結果を披露している人も居るが、大抵は隙間が空いて埃が溜まってしまうと不満をこぼしている。それは本質を理解しないで、うわべだけを真似したからだろう。
床材は入荷してすぐに釘を打ってはいけない。一年中でもっとも乾いた時期に打ち付けるのだ。そんなに待っては居られない場合は、エアコンを利用する。床材の封を切り、床一面にばらまいて、エアコンで除湿する。2週間乾かして張るのだ。そうすれば、隙間は空かない。そういうことは床材の説明書にちゃんと書いてある。それを無視して、「隙間が空いた」という不満を書くのはいかがなものか。急いで作りたい人は、化粧合板の床材を使うべきだろう。
大工仕事は経験上の裏付けがあって確立されている。素人の浅い知識だけではできないこともあることを知るべきだ。
2022年08月31日
model railroading
「model railroadingのはずなんだけどね。見ていると、車輌とかレイアウトだけなんだよね。足らないと思わないか?」と聞く。
彼はアメリカに居た。模型の楽しみ方をよく知っている。車輌工作だけしかしない人を模型人とは言わない人である。
「この言葉は、オペレイションもメンテナンスもあるよと言っているんだ。動きそうもないものを選んでいるのは、まずいんじゃないかな。」
TMSの表紙にはHobby of Model Railroadingと英訳がつけてある。この語は正しい。しかしながら、中身は少々この訳語からは乖離していると感じている。
彼が所属していたクラブでは、オペレイションにかなりのウェイトを掛けていたそうだ。筆者の友人のレイアウトでも、オペレイションの面白さを強調している。
オペレイションにはいくつかの意味があるが、わかりやすいのは列車の組替えである。この貨車をある駅で落として、そこにある別の貨車を拾って来なければならない。
また、勾配線があれば機関車を足さないと登れない。用が済んだ補機は回送して待機させるなど、本物の鉄道で行われていることを、楽しむのである。
筆者の博物館の場合は、解結作業は少ないが、坂を登るのはなかなか大変である。動画では楽に上っているように見える(with ease などと格好をつけているが、限界である)が、あの機関車の粘着力でなければ登れない。しかも時々スリップしている。当初の案では補機の待機場所も用意していた。
勾配はできる限り正確に作り、剛性のある構造にして、均一な負荷を作り出せるようにしてある。この種の情報は、今までのどの記事を読んでも得られなかった。
2022年06月28日
貨車を仕上げる
アメリカでの友人なのだが、あまり賢明とは思えない男がいた。その男 Frank が、固定資産税の納付の時期になるとやって来て、
「Hey Tad, 頼みがある。これらの貨車を買ってくれないか。」
と言う。理由を聞くと、
「税金を払えないと、家から追い出されてしまう。頼むよ。」
当時の相場ではカツミ-安達製のホッパ車とかゴンドラは、1輌40ドル近辺だった。それを20ドルで良いと言う。数輌買ってしまう。小切手を渡すと、感謝して帰って行く。貨車は、元箱入りの新品同様のもあれば、多少擦り切れているのもある。そんなことは、どうでも良い。こちらとしては、安達氏から譲り受けたブラス板を組む見本として使うのだ。
毎年、彼は売りに来る。一体どれくらい持っていたのかは知らないが、120ドルほどの税金を払えないのも不可思議な話だ。
そういうわけで、やってきた貨車は、用が済むと片付けられてしまった。安く買ったものは、記憶に留まりにくいということもあり、その存在は忘れ去られてしまったようだ。
30年ぶりに取り出して、台車と連結器とを取り替える。多少のディーテイルも付けて完成だ。洗って、天気の良い日に塗装する。
すでに10輛以上が出来たが、すでに博物館のヤードには300輌弱載っていて、満杯である。ガラスのショウケースの中に線路を敷いて、並べた。
これ以上見つかると、まずい。
2022年02月28日
ウクライナ
その頃は、韓国が日本にひどい目にあったということを言い始めた時期だ。その説明を求められた。
朝鮮を併合して搾取したと言っているがどうなのか、と聞かれた。叔父が戦前朝鮮に居て、いろんな話を聞いていたからそれを伝えた。叔父(父の妹の配偶者)は化学肥料製造の技術者だった。
日本は朝鮮で何をしたと聞くので、奴隷制度をなくし、戸籍を作った。学校を作り、文字を教えた。病院を作ったので平均寿命が2倍になった。また、鉄道を敷き、発電所を作った。農業指導をし、収穫量は倍増した、などの話をした。
そうしたら、彼は目を剥いて驚き、韓国民は日本に感謝すべきだ、と言う。そこまでやってもらって何を恨んでいるのだ。ロシアがウクライナにしたことを教えてやろうか。
何百年もの間、ウクライナ人は誰も学校には行けなかった。病院など無い。穀倉地帯だから農奴としてこき使われて、戦争が始まると男は全て徴兵され、最前線に行かされた。逃げて来ると銃殺だ。要するにロシアにとっては、ウクライナは使い捨ての兵隊の飼育場だった、と言った。おじいさんの一家は、ロシア革命の頃逃げてきたらしい。日露戦争のときに戦ったのもコサック兵(ウクライナ人)だ。将軍は無能なロシア人で、負け戦であった。その後日本にもかなり移住したらしい。
今回のロシアの動きを見ていると、そのおじいさんの表情が目に浮かぶ。人種への偏見が根本にある。ロシアとウクライナの人種は違う。
(ウクライナでの農奴解放令は19世紀中頃であるから、昔のことを語っていたのであろうが、嘘ではない。)
叔父の話とよく符合する動画があった。ご参考に。
2022年02月12日
複数形
house の 複数形は houses で、発音は濁って”ハウズィズ”と習った。確かにそうなのだが、それではクリスマスの複数形はどうなるだろう。
White Christmas(1942)という有名な歌がある。
"I'm dreaming of a white Christmas, just like ones I used to know."で始まる。最後は、
"And may all your Christmases be white." で終わる。戦地にある将兵に向けての歌だったらしい。皆さんのクリスマスが全て雪で白くありますように、という意味である。
この発音はクリスマスィーズであろう、と誰でも思う。現実にこの歌手は、そう歌っている。
Louis Armstrong という トランペット吹きであり、歌手でもあった人がいた。だみ声で歌うこの歌は、クリスマズィーズと濁っている。そんな発音は、この人以外聞いたことがない。色々あるものだ、と驚いた。
Tom Harvey は、出会った友達には、
"Howdy, palses! " と声を掛けた。向こうも同じことを言う。Howdy!はカウボーイが発する挨拶で、「よぉ!」とか「やぁ!」という挨拶である。これは西部劇の映画でよく見聞きする。その次の pal はペンパルのパルであって、 友達という意味だ。その複数形は、pals だ。ここまでは分かる。
palses とは一体何だろう。このsの発音は、両方濁っている。 この意味を本人に聞いてみた。
驚いたことに、「何かおかしいか?」と聞かれた。理屈はよくわからないと言う。
「友達はたくさんいるから、もうひとつ ”s”を付けて、何か悪いことがあるか?」先回の waters に似た感じだ。日本語の幼児用語で、友達にたちを付けることがある。「ともだちたち」が、ずばり、これである。
これはワイオミングでの話である。よそでは通用しない。
何回目かに彼と会ったときに、”Howdy, palses!" と大きな声で挨拶したら、顔をくしゃくしゃにして笑った。
最近、彼の娘さんと文通している。
2022年02月10日
複数か単数か
1967年頃英語の模型雑誌を読み始めた。Model Railroaderにはあまり書いてなかったが、Railroad Model Craftsman誌には、興味のあるパワーパックの記事が載っていて、電圧を見て調整する話があった。0.1 Volts、0.0 Volts などの数字が並んでいた。どうやら、小数点があると複数形になるということはわかった。
そのうちに0 Voltsという表現も見つけたが、どういうわけか1 Voltだけは単数だ。1/10 Voltsがあったので、分数も複数らしいということがわかった。ここまでで、2年くらい掛かっている。言葉は理屈では解決できない。使われているものであるから、たくさんの実例を調べて帰納的に理解するしかない。
その後アメリカに行ったので、チャンスを見つけていろいろな人に聞いてみた。答は全くてんでんばらばらで、全部単数で良いと言う人やら、ハイフンをつければ(100-Volt)ごまかせると教えてくれた人もいた。大学の先生でさえも、怪しいことを言う人がいた。
最終的に得た結論は、1 Volt以外は全て複数形である。
小数が複数形というのは不思議である。分数も、もっと不思議だ。1 Voltは単位の量だから、これは単数で納得がいく。
0 Voltsになる理由については、日本人の友人の言語学者が、いかにも、もっともらしいことを言った。
「インドゲルマン系の言葉はゼロでも複数形になる。例えば、
”I have no friends here.”
って言うだろ?」
こういうことを言う人は、信用してはいけない。
今回の記事を書くにあたって、複数のネイティヴの人に当たって確認をとってある。安心されたい。
アメリカの友人の奥さんは、「迷ったら複数形にしておけば、間違うことはまず無いわ。」と言う。不可算名詞でも複数にして良いこともある。彼女の口癖は、
”A lot of waters under the bridge."
である。たくさんあるときには複数形で問題ないのだ。これは日本ではほとんど教えていないのではないか。しかし気がかりなのは、彼女はテキサスの出身だ。そういう点では、少々怪しいかもしれない。
ちなみにこの文の意味は、さしずめ ”九牛の一毛” だろうか。たくさんあって探すのは無理、という意味で使っている。
2020年06月08日
Solarium
これは3輌持っているので、1輌は2色塗りとした。優等列車に入れておけば、それなりの意味を持つだろう。この混成時代のしっかりとした資料はあまりなく、どんな組合せにしてもそれなりの解釈ができるはずだ。他にもプルマンが何輌かあるので、そのうちの2輌ほどを、2色にしようと思う。
UPの写真集を見ると、この種の車輛の写真が何枚か見つかる。窓が大きく特別な車輛である。列車の最後尾につないでいるのも見る。列車名を記したDrumhead(行燈・アンドンと読む)を付けている写真もある。要するに、密閉式展望車として使われていたのである。どういうわけか、ブレーキ・ハンドルがこの最後尾の妻面に付いている写真が多い。反対側の妻面に付けたほうが、設計も楽であろうと思う。
まだ塗り立てで、ディカールが貼ってないので、寝ぼけた感じである。塗り分け線には銀色の線が入る。細かい色差しとか、エア・ホースなどを付けると俄然、実感が出て来るはずだ。
側面に付いている黒い点は「ゴミ」のようだ。今までの写真の中にも同じ場所で見つかっている。この写真はトリミングしてあるので、大きくなって目立った。清掃せねばならない。
2019年11月14日
再度 Four's a Crowd


例の映画の話だ。伊藤剛氏から来た図書の整理をしている。”模型鐵道”は大半揃っているが、その中の16号に、”Four's a Crowd” を紹介する酒井喜房氏の解説があった。この映画については、以前ここで you tubeによるダイジェスト版を採り上げた。戦前の検閲の厳しい折に、裕福で自由なアメリカの生活を賛美するような映画が封切られたことには、驚きを禁じ得ない。部分的にカットされた状態での公開だったのかもしれない。 当時の字幕スーパーが見てみたいものだ。
再度検索すると、驚いたことに全編を見られるウェブサイトが見つかった。しかも再生速度を遅くできるので、あの早口が聞き取り易い。
この映画については400号あたりのミキストだったかで山崎氏が何か書いていたように記憶する。まだ探し出せていないが、手放しの褒めようであった。当時はこれを戦前に見た人が生き残っていた時代であるし、またそのような人が限られていたから、紹介記事を書けることが自慢であったのだろう。
Four's Crowdの意味であるが、これは英語のことわざ(成句)にこんなのがあることから来ている。これは16世紀から使われている言い廻しだという。”Four’s” は ”Four is” の短縮形である。
Two is a company. Three is a crowd.
(恋仲の)二人はうまく行く。しかしそこに三人目が居ると、 意見が分かれてうまく行かない、という意味だ。似たような意味で、fifth wheel というのがある。車輪は四つで良いのに五つ目を付けると、とんでもないことになるわけだ。そういう意味では、大型トレーラのトラクタ後部に付いている回転部分を fifth wheel と言うが、それはこの言葉を知っている人が、わざと付けたのだろう。
そこでこの題名だが、四人だったら・・・という、茶化した題名である。
日本での公開時に付けられた題は ”結婚スクラム” だったらしい。これまたわからない題名だ。本来なら “四人でしっちゃかめっちゃか” くらいが良いだろう。
2019年03月26日
船の中

食堂の朝昼はかなり豪華なカフェテリア方式だが、食事の好みは、伝えると反映してくれるところが素晴らしい。
毎晩のショウは面白く、クラッシック、洋楽、
バァは見晴らしの良い最上階や、船尾のプール脇にあり、
車椅子の人もかなり居るが、完全に対応できるようになっている。驚いたことは船の運営スタッフに白人の割合が少ないことだ。
2018年02月25日
続々 プラグマティズムについて
要するに、「主体性の有無」が、「プラグマティズムの有無」を決めていると感じています。プラグマティズムというと高尚な感じがしますが、要は、自分がやろうとする目的に対し、どうしたらいいか考え、それを実践するという単純なことです。
主体性がある人は、その考えや行動が是か非かは人にもよりますが、少なからず行動しています。考えを実践しなくても平気であるということは、そもそもの目的がはっきりしていない、即ち主体性がないということです。どうせ考えてもやらないのであれば、考えるだけ時間の無駄です。
主体性がある人は、「やらないなら考えない」、きっとこういう行動でしょう。実証して初めてその考えが認められることを知っているからです。
考えても実践しないのであれば、考えていないのと同じ、「考えている風」なのです。ただ、この「考えている風」の人が一番厄介です。彼らは、理屈上できることは、何とかすればできると信じています。
彼らの話自体の理屈が通っていると、その分野に精通していない人は「よく物事を考えている人」だ、と感じてしまいます。しかしその分野に精通していて、勘所がある人からすると、それは理屈だけで、経験から来る技術を踏まえた考えではないことに気づいてしまいます。そのため「考えるのはいいけれど、やってから言ってくれ」と思い、辟易してしまうのです。日本に居た時にはそういう人が多く、気にしていませんでしたが、アメリカに居ると、それを言った瞬間に評価が下がることが分かるのです。
本や文献からの知識、理屈は、ベースとはなり得ても、それが全てではありません。以前、辞書に載っていないから間違っていると評価された話が記載されていましたが、良い例です。知識に加えて、足で稼ぐ、手を動かすといった、
壮大な計画が、具現化されるのをブログを読みながら楽しみにしています。
2018年02月23日
続 プラグマティズムについて
鉄道模型の話をしましょう。アメリカでは、「走行第一主義の鉄道模型を作りたい」という人は、走らせるための線路を持ち、自分で改造、あるいは製造できる設備を整え、試行錯誤しながら、自分の考えを具現できる人がほとんどです。
もちろん、「写実第一主義の鉄道模型を作りたい」という人もいます。そのようなモデラーは凝ったレイアウトを作り、模型を楽しむわけです。走行第一主義者と写実第一主義者とで話をすると、互いに目的が違い、フォーカスするところが異なるため、お互いにやはり考えが違うなと感じるでしょう。ただ、意見を言いあって、考えが違っていても、否定をされたとは捉えません。主体性があるから、人は人、自分は自分という考えがはっきりしていて、ブレがないからでしょう。
他人が何を言おうが、自分の評価は自分が決める。故にアメリカ人は自己主張が強いと言われるのでしょうが、自分の幸せを自分で追求するのがこの国の特徴でしょう。
一方日本では、他者評価を気にする人が多いのではないでしょうか。目的が違えば、考えも違って当たり前なのです。たとえば写実第一主義者の方からの意見に、「それは『走り』を追求する上では採用できない。」と言えば、”否定された” と感じる人が多いのではないかと思います。その逆のパターンの場合も同じです。
人と同じであれば良い、人より幸せであれば良い、という比較の判断基準は他人の眼ですから、「違う意見=否定」と捉えられても仕方がないのかもしれません。
<続く>
2018年02月21日
プラグマティズムについて
私は、こうすれば良くなる、こうすればできると考えたらやってみたい、と思うタイプの人間です。ところが、日本の殆どの人は、考えただけでできた気になり、やらない人が多いと感じます。いざとなったらやるし、やればできるはずと思うのでしょうが、実践していない人には経験から得られる勘所がないので、それまで手を動かしてきた人間にはかないません。それだけではなく、考えたことをやってみてどうなるか見たいと思わない人は、最後まで実践することもできません。
「考えたことをやってみたい!」と行動する人間と、「考えた。理屈上うまくいく。」と満足する人間とは、生き方の根幹が違うからです。
アメリカには、考えて終わりという人はあまりいませんね。学生達は、私などそっちのけで考えを言い合い、白熱した討論の後、必ず「その実験をやってみよう」となります。残念ながら、日本ではあまり見ない光景です。
日本では考えは言い合っていますが、自ら行動することは非常に少なく、大学院にもなって「指導してもらう」という感覚の学生がいることには驚きます。教育の違いかと考えたこともありますが、結局、主体性があるかないかの違いなのだと思うようになりました。主体性があるということは、「自分がこうしたい」という目的意識がはっきりしているということです。そのため、その目標達成のためにはどうすべきか考えて、実践するということになります。
<続く>
2017年08月29日
帰国
レンタカーは3回借りて、合計1万キロ走ったことになる。テキサスの友人宅には1週間も居候し、あちこちのレイアウトを見て、楽しく過ごした。帰国直前にあった皆既日食も、日本からの来訪者を交えて、最も皆既食の長い場所(イリノイ州マリオン)に陣取り、堪能した。
皆既食は初めての経験であったので、いくつか面白い経験をした。まず、太陽からの輻射が極端に減ると、気温が、かなり低下する。食が始まってしばらくすると、太陽が半分くらいしか見えなくなる。今まで炎天下で焼けていた車の表面を触っても、気温ほどになり、熱くない。3/4ほどになると、車は冷たい。明け方に車を触ると冷たいのと同等の温度である。多少暗くなっても、人間の目にはあまり暗くなったとは感じないが、輻射は確実に減っているのだ。
皆既食になった瞬間、星がいくつか見え、周りから大歓声が起きた。地平線が見えるような平らな場所だったので、周囲360度が黎明時のようになり、地面に沿った部分だけがわずかに明るかった。気温が急速に下がり、夜中のようであった。何らかの原因で日照が減ると、寒冷化する。過去の地球の歴史の中で、火山の爆発などで粉塵が多量に巻上げられた場合、その後の何年かは氷河期のようになる。現在温暖化しているのは太陽の活動が活発化しているのが原因で、二酸化炭素濃度とは関係がない。1億7千年ほど前には、二酸化炭素濃度は現在の2倍以上もあったことを示す化石が見つかっているが、当時の気温は現在よりはるかに低かったことが別の化石で証明されている。
良識ある科学者はそれを主張しているが、政治家には科学者が少ないらしく、世界中で詐欺同然の二酸化炭素排出権の売買が行われている。一番得をするのは誰かと考えてみれば良い。それは国土面積の大きな国で、人口密度が小さい国だ。ロシアは、黙っていても金が入る。概算だが、日本は過去に17兆円ほどドブに捨てているようだ。
二酸化炭素は空気中に0.038%ある。それが0.039%になったとして何が変化するのだろう。10万個の粒子のうち38個が、39個になると大きな変化が起こると思う人が居るのだろうか。コメ粒で考えれば、そのような差は全く認識できないと考える人が普通だ。
二酸化炭素の濃度が今よりはるかに少なかった産業革命初頭でも、小氷河期と温暖期が何度も来ている。これも温暖化ガスの考え方では、全く説明はつかない。
一つだけ確実に言えることは、二酸化炭素濃度が増すと、穀物の収量が大幅に増える。ある資料によると、コメは二酸化炭素濃度が現在の値の0.1%増大で、収量は1%増す。これは喜ばしいことではある。日食のあと、このようなことを考えていた。
留守中、拙ブログを読みに来て下さる方が、一定数いらっしゃることに気が付いた。いつもの6割ほどの方が、いらっしゃる。その数はほとんど一定であることは興味深い。pv(ページ・ヴュウ)ではなく、uu(ユニーク・ユーザ)の数を話題にしている。pvは機械的に処理される数だから、参考にはならない。一文字更新しただけでも、2倍以上にも増えるものだ。pv数が多いと言って喜んでいてはいけないのだ。uuの数を話題にしているウェブサイトは少ない。
写真は Dr.T.S 撮影
2017年03月19日
英語表現
p.31の下から8行目に、
"No one was able to do what he did."
という文がある。どうしてここでcanの過去形の could を使わないのですか、というものだ。
日本の英語教育では、canの過去形は could と習う。筆者もそう習ったが、アメリカで手厳しい批判を受けた。could は仮定法の時に使うものだ、と言うのだ。そんな馬鹿な、とは思ったが、確かにその通りであった。
仮定法を英語の時間に習って、うんざりした人も多いだろうが、婉曲表現とか反語表現などの別の表記だったら分かり易いと思うのは、筆者だけだろうか。
You could do that. は 「あなたはそれをできた。」ではない。 「できるかもしれない(けど、多分しない)。」という感じである。場合によっては、なじっているのかもしれない。
過去の話であることが時間の関係を示す語でわかる文章なら could でよいが、そうでないときは、
I was able to do that. 私はそれができた。
である。このことを日本の学校ではほとんど教えていないように思う。
ついでに、よくある誤りとして、「やったね!」という誉めるときに使う言葉を、
”You could do it.” と言う人がいる。これでは「やればできるものを(どうしてやらないの?)。」になってしまう。
正解は、”You did it."
である。 これは厳密に言うと、仮定法過去で、「できないと思っていたけど、よくぞやったよね。」という意味を持っている。単なる過去形ではないが、この説明をした人に会ったことがない。
日本の英語教育で最も怪しいところが、この仮定法の部分である。英語教師もわかっていないと思われる節がある。 要するに話せない人が英語を教えている場合が多いからだ。
英語圏で生活すると、この仮定法表現の大切さがよくわかる。親切な対応を受け、それに対する礼状をしたためるときは仮定法過去完了を使って丁寧な文章を作ると、相手が評価してくれる。
日本語で言えば敬語表現に相当するということを、どうして教えてくれなかったのだろう。現在は教えているのだろうか。
2015年09月30日
英語の発音
その中の一つに"teething"があった。普通の辞書に載っている意味は、「歯が生え始めること」を指している。それはよいのだが、問題はその発音である。
tooth の複数形はteeth だから、ingが付けばそのままの発音だと思ってしまうが、実際にはこの”th”は濁る。動詞になると teethe だから、既に濁っている。brother のthと同様の濁った有声音である。これは英語を母国語としない我々にとっては、まず気が付かないことだ。辞書を丹念に読まないと、その音にたどり着けない。
どうして動名詞は濁るのかと聞いたところ、後ろに”i”の音が来るときは、口の形がそれを準備するために、濁らせた方が楽なのだそうだ。
いくつか例を出してもらったが、すぐピンと来るのはsheath(小刀の鞘)から派生したsheathing(鞘およびその用をなすもの)などの語である。前者は濁らないが、後者は濁る。もちろん動詞は sheathe である。
このほかいくつか、ためになる話を聞いたが、鉄道とはあまり関係ない分野なので割愛する。言語学の先生の知識というものは極めて広汎であって、歴史、地理、哲学などすべてを含んでいる。
久しぶりに知的好奇心をくすぐられた夜であった。彼女もまた、こちらに質問に丁寧に答えてくれ、「英語を母国語としない人の質問は面白い。」とのことであった。
2015年08月11日
Rentacar
よく使う会社の上級会員になっているので、予約しておけば、電光表示板に名前が出ていて、その番号のところから乗り出すことができる。会員の出場は非常に簡単で、免許証を見せればたちまち遮断機が開く。
今回は長距離を乗るので、燃費の良いカローラを予約していたのに、やや大きなV6 3.5Lエンジンを積んだNISSANのMaximaという車に当たった。燃費は感心しなかったが、アメリカ人好みの加速性能を持っている。かなり乗ってある車で、6万マイルとあった。日本で10万キロ乗ってあればかなりガタが来ているはずだが、高速道路が多いので十分新しい。しかし、座席はややくたびれ感があり、シートベルトのラッチが壊れていて、はめにくい。一部のプラスティック部品が欠けているのだろう。押し込んでおいて差し込めば、何とか掛かるが、腹が立つ。途中で交換してもらおうと思ったが、ついつい最後まで乗ってしまった。後ろのドアの断面が変わっていて、窓の下に角がある。サイド・ミラで見ると飛び出していて、バック運転の時の基準を失わせる。妙な設計である。機能を重視していない。
アメリカ国内用のGPSを持っているので、出発前に行き先を打ち込んでおけば大変楽である。走っている途中でも、腹が空けば、最寄りのスーパ・マーケットを教えてくれる。まず安いボトル入りの水を大量に買って、スタートした。
ロス・アンジェルスで用を済ませてから、アリゾナに行った。そこまで、あちこちの鉄道施設の写真を撮りながらの移動である。Tucsonは2回目である。25年前、トゥーソンは田舎町だったのにかなりの都会になっている。
この辺りだけには、saguaro (サハロと発音)がたくさん生えている。日本人にはこれがサボテンのイメージだが、本当は非常に限られた地域にしか生えていない。
友人に会った。どこかお勧めのところはないかと聞くと、航空博物館があるという。第二次世界大戦の飛行機がたくさんあるというので、行ってみた。入場はシニア料金で入れて助かったが、寂しくもある。
2015年08月09日
LAXの変化
今回はロスアンジェルスに用事があったので覚悟を決めて降りてみたのだ。入国審査に並ぶ前にトイレに行き、水を持って臨んだ。
ところが、行ってみると人がほとんど居ない。他にもいくつかの飛行機が降りているのに、流れが滑らかである。「ESTAを持っているか?」と聞かれた。ESTA(エスタと読む)は事前入国審査の一種で、14ドル払うと2年有効である。過去にアメリカ国内でトラブルを起こしていなければ、すぐ認証される。
「ESTAの客はこちらへ。」と誘導しているので、そちらに行くと、コンピュータの端末があり、それに自分でパスポートを差し込んで読み取らせると、ESTAの情報を確認される。
いくつか質問に答えなければならないが、例によって破壊活動に参加しているかとか、麻薬を持っているかとかと云う下らない質問だ。その画面に日本語で、「すべてにNOを押してください。」とあったのには笑ってしまった。間違えてYESを押すと別室に連れ込まれての押し問答になる。それを防ぐためとはいえ、日本人は信用されているのだと再確認した。
そのあとは係官による面接だが、「何日?、観光か?」と聞かれておしまいだ。スーツケースは一つだったので、税関は何も言わずに通してくれた。総時間、わずかに15分だ。そのうちの5分は、手荷物回転台から取るために待った時間である。
今回の体験で、LAX経由が素晴らしく快適になったことを知ったので、利便性が格段に高まった。なんといっても、LAXからの乗継便の多さには魅力がある。
今回の誤算は、この入国審査に長い時間がかかると想定して、レンタカーのピックアップ時間を遅く設定したことだ。事務所に行ったら早過ぎて、準備ができていず、違う車を探してもらうのに、30分ほど掛かった。
2015年07月07日
地名、人名
正直なところ、現地の発音はカタカナに当て嵌めることができないものが大半だ。日本の地図、辞書などの表記は明治時代から大して変わっていないだろうと思われる。
アメリカで気づいたのは、地名、人名ともアクセントが大切だということである。それはシラブル(音節)の中のどれが一番大きな音かということに過ぎない。
ジョン万次郎はhundredを「はんずれ」と書いたそうだ。「はん」と「ずれ」の二音節であることをよく理解している。
東部に行ったときに一番驚いたのは、Philadelphiaの発音である。「デル」以外聞こえないことが多い。要するに、アクセントのある音さえ聞こえれば、用は足りるのだ。Wilmingtonも「ウィ(ル)以外あまりよく聞こえない。発音していないのではないかと思ったぐらいだ。Pennsylvaniaも「ヴェイニア」以外は弱い。
Mississippiは1番と3番にアクセントがあるが、後のほうが強い。Cinncinatiは後ろから2番目にアクセントがある。
法則性をいろいろと考えたのだが、アメリカの地名にはアングロサクソン系の地名、フランス系、スペイン系、ドイツ系、インディアン系等があって、残念ながら統一法則はない。スペイン系の名前はたいてい後ろから2番目にある。
困るのは綴りから推測しにくい発音だ。たとえば、Readingはレディング である。「リーディング」とアメリカ人でも間違う人もいるそうだ。Wikipediaにも書いてあるが、単なる豆知識で、掲載する価値があるとも思えない。この記事は以前にも述べた「娯楽」の範囲に入るのだろう。
ネヴァダ州にBeattyという小さな町がある。この発音はベイディである。母音もありえないし、TをDと発音するのは不可思議だが仕方がない。地名とはそういうものだ。
カリフォルニア州の砂漠にZzyzxという地名がある。ありえない綴りだが、発音はザイズイックスである。これは辞書に載せれば最後になるような綴りを考えてつけたようだ。
先回のBucyrusの発音は、その隣の町出身の友人がいて、クイズとして出されたのが筆者との最初の出会いだ。その時、「あれ、君知らないの?君の好きなものに書いてあるよ。」と言うのでクレインの製造会社だと気付いた次第だ。
2015年03月17日
続 Barstow へ
Santa Fe鉄道は拠点駅に食堂、宿泊が出来る施設を持っていた。Fred Harveyと云う人が経営していたので、Harvey Houseと呼ばれた。列車内で食事の注文を取り、到着前に機関車の汽笛で連絡して、すぐに食事が出るようにするサーヴィスもしていた時期がある。駅のウェイトレスとの恋を描いたThe Harvey Girlsという映画もあった。



しばらく前、Kingmanという町に行った。グランドキャニヨン方面に行く宿場である。そこにはHarvey Houseがあるという話を聞いたので行ってみたのだが、敷地の址があるだけで 、全くの外れであった。その駅はMission Styleのなかなかきれいな建物であった。
バーストウのハーヴィ・ハウスの話に戻る。ここではプラットフォームの址も良く見え、昔は大きな駅であったことが分かる。最盛期には30分ごとに旅客列車が来たそうである。

二階にはホテルの部屋があり、豪華なスイートもある。厨房のあった部分も保存されていて、かなりの規模であったことが分かる。大きなホールは二つあり、結婚式などに使われている。
入口のホールの受付の上に飾ってある写真には、不可思議なものが写っている。どうしてこの写真が飾ってあるのだと聞いたら、「良くわからない。これについて質問する人は日本人であることがすぐ分かる。」
という変な答であった。
2015年03月07日
O Scale West 2015
今年は博物館の方が忙しいのと円安で、OSWはパスしようと思っていたが、講演の依頼があって行くことにした。帰りの便が中国の正月帰省の客で込んでいて、思う便が取れなかった。友人たちが「歓迎するから来い。」と執拗に誘ってくれたので、泊めて貰ったりして節約できた。開催地のホテルは毎年値上がりして、今年は116ドルもした。しかし立派な部屋で、面積は30畳以上ある。
毎年、参加者の平均年齢が上昇する。このままではどうなるのだろうと、クリニックでは「OSWの未来」と題する講演まで行われた。来年は5月ごろに開くと云うので、筆者の参加は難しいだろう。テーブルの数は昨年とほぼ同数だが、売っているものが古い貨車等が大半であった。初日は高いが、最終日の昼過ぎになると値札を貼り替えて最終的には半額になるのだろう。頼まれていたものがあったので、手際良く買った。




レイアウト・ツアは毎年同じ顔触れで、工事の進捗があれば良いが、もう完成していると、行っても面白くない。しかし、Garyには会いたかったので行ってみた。
博物館のことは知らせてあったので、最近の写真を見せ、いきさつを話した。
「君のLife-time project だね。」と言うので、「その通りだ。」
「100輌を牽いて1.6%を登るんだ。」と言ったら、彼は眼を丸くした。
「君のメカニズムとLow-Dなら可能だろう。」と言った。
「そのうち行くからな。」ということで、早く完成しなければならない。
2014年11月19日
Four's a Crowd
この映画の題名にご記憶がある方はもはや極めて少数であろう。昭和15年に日本でも公開されている。「科学と模型」誌、あるいは「模型鉄道」誌上で、酒井喜房氏が絶賛紹介していたように記憶する。話の筋はたわいもないが、そこに登場するライオネルのレイアウトはすばらしい。撮り方が稚拙な点もあるが、面白い。
そこには、アメリカの生活が描かれ、日本との国力の差がはっきりとわかる。開戦直前にこのような映画を見ながら、開戦に踏み切ったのはどうしてだろう、と考えさせられる場面が多い。
この映画は、のちに椙山満氏のところで、映写して見せて戴いている。その時、同時通訳ではないが、逐次通訳をしたことがある。
この映画のレイアウトは屋外の地面上にある。それを歩いて追いかけながら、信号所に指示を与え、ポイントを次から次へと切替えさせる。究極のウォークアラウンドである。
本物の転轍梃子もあって、それをよいしょと切り替える場面もあった。
地面と立っている人の眼の標高差は63インチ(1600 mm)以上だろう。これは高さ 900 mmの台上のNゲージのレイアウトを、座って見下ろす場合と大差ない。HOならば立って見る時であろう。
Youtube で、さわりの部分と言っても10分以上も見られるので、これをご覧戴いて、HOあるいはNゲージに置き換えて想像して戴きたい。
視点の高さという概念は、日本の模型界であまり議論されていなかったことの一つである。先回も書いたように、跨線橋から見る高さが限界であるというのが筆者の主張である。
伊藤剛氏の蔵書の整理を始めた。古い「科学と模型」誌、「模型鉄道」誌、「モデランド」誌などがある。その中で、剛氏が執筆された記事の載っている号は、すべてあることが分かった。
2014年08月28日
Tornado Shelter

近所のSallyの家から電話があった。
「うちに遊びに来ないか。友達も呼んであるから、ハンバーガ・パーティをしよう。」
料理自慢のサリィだからきっと新しい趣向の料理何だろうと期待して出掛けた。ホームメイドのアイスクリームをお土産に持って行った。
料理などそっちのけで、亭主が新しく設置した竜巻から避難するシェルタの披露が始まった。プレキャスト・コンクリートの上下をシール材を塗って重ねるのだそうだ。
穴掘り、設置、土掛けを1日でやってくれて、費用は5000ドルくらいらしい。
乾燥地であるから、水がしみ込んでいない。日本では、おそらく中が湿ってしまうであろう。温度変化が少ないから、食料保存庫としても使用している。
この日集まったのは空軍の仲間で、15人ほどだ。サラダやケーキなどを持ち寄り、メインディッシュのハンバーガは不思議な調理法であった。
大きな手製のバーべキュウ・セットに炭とMesquite(香木の一種)を入れ、火を付ける。待てども待てども、火が広がらない。待ちきれなくて肉を載せ始めるのだが、これではいくら待っても焼けない。
薄い合板で煽ぐと、多少は燃える。サリィに、
「扇風機は無いか?」と聞くと、小さな扇風機を持ってきた。延長コードをつないで焚口から送風すると、たちまち燃えさかり、よく焼けるようになった。」
「ベストアイデアだわ。」と褒められたが、もう少し早く思い付いて欲しかった。
焼けたハンバーガをそのままパンに挟むのかと思っていたら、今日の新しいレシピだそうで、スープに漬け込んだ。スープの味見をしたが、ビーフのスープに多少の薬味を入れたものである。
3分ほど漬けてパンに挟んで食べた。もちろんトマトとレタスその他もろもろの香辛料をたっぷり入れて喰らいつく。いつものジャミジャミした感じはなく、妙におとなしいハンバーガであった。
この家は売りに出ていた農家を買ったのだそうで、10エーカ(4万坪)もある。全ての野菜は自家製である。庭にはrattle snake (ガラガラヘビ) までいるそうで、「気をつけなさいよ」と言われた。
2014年08月16日
Houston 着
久し振りにアメリカに行った。1年半ぶりである。徐々に歳を取って来て、時差を乗り越えにくくなったので、行くのが億劫になってきたのである。仕事のみの訪米なら仕方なく行くが、遊びが大半であると、面倒になってきたのである。
飛行機の切符が安いところを狙うと、サン・ホゼ着かヒューストン着である。ヒュ−ストンは乗り換えで通ったことは何度もあるが、降りたことが無かったので、今回はそれを狙った。その時間に外国から来る飛行機は少ない時間帯だったので、入国審査はすぐ済むと思ったら大間違いだった。その時間帯に入国審査官が食事に行ってしまったらしく、延々と2時間待たされた。その前に、着陸直後消防車が来て機内の点検を始めたので、すでに30分遅れている。結局、乗り継ぎのDFW(ダラス・フォートワース)行きには間に合わず、3時間後の飛行機になった。
DFWにはデニスが迎えに来ているので、メイルを送って待って貰った。遅れて到着すると、「待ちかねたよ。」と抱きついて来た。
デニスは新しいカムリに乗って来ていて、家までの3時間、車の話をした。力がある割に、燃費が良いのだそうだ。高速道路を長く走るので、ハイブリッドよりもエンジン直結型の方が良いと言う 。
「1ガロンで35マイル走るよ。」と言う。14.5 km/L程度だ。「お前のはどれくらいだ?」と聞くので、「80マイルは走る。」と言ったら、仰天した。
「トップギヤのギヤ比を小さくして、高速クルージングがかろうじてできる程度に、エンジン回転数を低く保つんだ。追い越しその他の急加速が必要な時は、モータでアシストするのだよ。」
と言うと、
「それは賢い方法だな。ハイブリッドは高速道路の多いアメリカには向かないと思っていたが、今の話を聞くと考えを改めたほうが良いかもね。」
「しかもブレーキを掛けると発電して、エネルギーを貯めるから、勾配の多い路線には適するんだ。」と言ったら、目を輝かして、「それはすごい、乗ってみたい。」と言った。箱根峠を下ると、そのエネルギィで平塚まで行ける話をした。信じられないようだった。
到着後5日間、時差調整で苦しんだ。寝ても2時間で起きてしまい、朝になると眠くて仕方がない。横になるとそのまま昼過ぎまで寝てしまう。時差調整の特効薬は日光を浴びることであると医学書には書いてある。光で脳のリズムがリセットされるという話である。ずいぶん頑張って日光を浴びたが、あまり効果が無かった。
2014年08月05日
博物館経営
アメリカには模型鉄道博物館がたくさんあるが、長続きしているのはどのようなタイプの経営方針なのかが知りたかったのだ。日本ではこのようなことを相談できる相手は皆無である。
カリフォルニアに在った素晴らしいレイアウトを持つ博物館が、最近閉鎖されたそうだ。解体されて無くなったという。存命中は良かったのだが、その没後、奥さんが博物館を売ってお金に変えたいと言い始めたのだそうだ。
結局のところ、誰もそれを引き受けることができず、車輌は分売され、ストラクチュアは一部は誰かが持って行ったが、ほとんどが壊され、線路は引き剥がされた。空になった建物は売却されていくばくかの金になり、奥さんのものになった。
個人経営の博物館はほとんどこのような運命になるそうだ。やはり法人化が必要である。法人化して、政府の認可する博物館として登録されれば、無事に運営されるということは、日米を通じて共通の認識であった。
「でもな、政府の認可を得て、税制上の特典などを得ようと考えると、政府が介入してくるぞ。例えば車椅子の人が入れるように入口にスロープを付けよとか、通路を広く取って車椅子が全周廻れるかとか、防火・避難設備のことについて相当うるさいことを要求されるぞ。」と言う。
「それについてはかなり考慮して、通路幅を決めてあるし、避難用の充電池付きの誘導行燈も付けたんだ。」と答えると、
「それはすごい。そこまでやってあれば言うことはない。」ということになった。
持って行った線路配置図を見せると、
「当初はこれで良いだろう。そのうち増設の必要が出る。ディスプレイ・レイアウトとして行くのならこれでOK」ということになった。
デニスの口からディスプレイ・レイアウトと言う言葉が出たのは当然ではあったが、この言葉は日本ではまず聞かない言葉である。
2013年12月18日
続々々々々々 Lucin Cutoff
木橋ができたとき、湖の真ん中には信号所を置き、名前も Midlake と付けられた。当初は、橋の建設のためのキャンプであった。信号所のプラットフォーム(床版)の大きさは36 m × 72 m 程もあった。単線の本線はここで3線になり、側線もあった。建物は信号所、保線小屋、倉庫、職員の宿舎、人夫たちの宿泊施設があった。
店も郵便局も警察もなかった。食料品、新聞、郵便はOgdenからの汽車で届けられた。職員の子供の学校や病院もOgdenまで行かなければならなかった。Midlakeは1945年まで45年間機能し続けたが、腕木信号機を廃止し、CTC方式を採用してその歴史を終えた。当時の電信係は3人で、全て女性であった。戦争中であったからそれは当然であったろう。
建物は全て取り外されて、プロモントリィ半島の先端のキャンプに移され、保線作業の宿泊所になった。
Midlakeは遠足の場としても人気があった。「汽車に乗って海に行く」と銘打って、遊びに行ける場所であった。そこで降りて、1、2時間を過ごし、帰りの汽車を待つわけである。どこにも行けないので、すぐ飽きてしまっただろうが、この企画は、随分人気があったようだ。筆者が世話になった人(1927年生まれ)の話によれば、デートをする場所としては良い場所であったそうだ。
ここまでの話は、筆者自身が多くの人に聞いたことをもとにしている。その主たる部分はDon Strack氏の談話である。 図面や写真はアメリカの国会図書館からお借りしている。
追記 Youtubeに、参考になる記録映画がUPされた。(2017.10.2記)
上記のリンクは新しいものが公表されたので更新した。(2019.12.21記)
2013年12月10日
続々 Lucin Cutoff
木橋はモミの木の杭と、レッドウッドの床板からなる。杭は60 cmから90 cmほどの直径、床板は7.5 cmの厚さである。中にはクルミ材も使ってあったそうだ。それらはボルトで留められていた。レッドウッドは雨ざらしにしてもあまり傷まない赤身の部分のみを使っている。この写真は我が家の破風を飾っているレッドウッドの切れ端である。日光の当たるところに10年ほど置いてあったのを持ってきて、写真を撮るために、さっと払っただけである。さほど傷んでいるわけではない。上の木片が載っていたところの色が少し違う。多少の雨が当たったようだが腐らずによく持っている。
レッドウッドは巨大な木で、直径 5 m, 高さ 70〜80 m 位が普通である。山火事になっても生き残るので、レッドウッドの森ができると聞いた。
Trestlewood社は橋を解体し、陸揚げして製材する会社である。 この動画はそれを手短かに紹介している。引き揚げた木材はプロモントリー半島の先端に寝かせて風雨に当て塩抜きをする。ボルト類を機械で抜き取り、金属探知機で鉄片が入ってないのを確認して鋸で挽く。これは手斧で仕上げた暖炉の上の横木である。この再生レッドウッドを使って立てた家や、仕上げた床などが映っている。筆者はこの種の素朴な仕上げが好きである。英語ではrusticという表現をする。このような家を建てたかった。
杭は30mの木材を打ち込むのだが、場所によっては杭をぶら下げただけで、ずぶずぶと入ってしまうこともあったようだ。そのような時はもう一本継ぎ足して打ち込んだそうだ。50 mも入ったところがあったという。杭が打たれると、上を揃えて切り、横木を渡して梁を掛ける。床板を張ったらアスファルトを塗って、砂利を30cm以上の厚さで敷く。
湖の真ん中には信号所(Midlake)ができ、要員が寝泊りできる設備もあった。汽車が止まるので、そこまでの遠足も企画された。
2013年11月16日
続 Rock Springs へ
数十年の間単線であったが、戦後、線増せざるを得なくなったのだ。しかし、第二次世界大戦中の膨大な貨物輸送を単線で行っていたというのは、信じ難い話だ。
ロックスプリングズは水場である。Sweet Water と呼ばれる町である。
大陸横断鉄道が出来た時に西の方からやってきた中国人工夫が、この街にも住み着いた。後に炭鉱が見つかり、鉱夫として働いた。そしてそこの争議でかなりひどい殺し合いがあった、とアメリカ史の本に書いてあったことを思い出す。今は平和な町である。


この街は鉄道とともに発達したので、駅前はそれなりに繁華街であった気配はある。この銀行は1890年に創業したのだ。
UPが90年代に旅客営業をしないことに決定したので、駅は単なるモニュメントになってしまった。UP自身による旅客営業は1971年に廃業して、そのあとAmtrakが受け継いでいた。しかし、80年代にAmtrakもデンヴァ経由になってUPの本線を経由しなくなった。その後しばらくの間、駅は原型を保っていたが、高速で貨物列車が通過すると危険なので、柵で仕切ってしまった。この機関車の塗り分けは珍しい。
このモニュメントは石炭を掘り出す様子である。馬が力を込めてそりを引っ張っている様子だ。天井の坑木が半分しかないので、とてもわかりにくい。写真を撮った本人もわからなかったが、brass_solder様に教えて戴いた。土台には、寄付した人の名前を彫り込んだプレートが貼ってある。現在は、炭鉱に発電所が建ち、掘り出した石炭をその場で電力にしている。
横にはお定まりのカブースが置いてある。大抵の町には置いてあるが、ここは程度が良い。ほとんど場合は廃墟と化している。2013年11月06日
続 FMC
水はGreen Riverの支流から、燃料は近所で採れた天然ガスと石油を使う。国土の広い国は羨ましい。
この写真は立坑に向かう道である。典型的なアメリカの田舎道である。土地の表面に沿って舗装を敷いただけである。少しの凸凹を削って埋めれば平らになるのに、と思うのは日本人だけなのかもしれない。カリフォルニアの砂漠の中に、もっとひどいところがある。交通量が多いのに、昔囚人を使って作っただけのやっつけ仕事の道がたくさんある。100 mごとに3 mくらいの高低差があり、寝ている人が起きてしまうほどのピッチングが起きる。トラックの荷物が傷むだろう。
最近は見ないが、70年代には本当に囚人を使ってこの種の工事をしていた。大きな看板が出ていて、”No Hitchhiking"とあった。なんだろうと思ったら、足首に大きな錘を付けられた囚人が例の縞模様の服を着て補修工事に従事していたのだ。そして大きなライフルを持った看守が小高い丘のテントの下で監視していた。
帰り道、UP本線をたくさんのカヴァードホッパを繋いだ列車が走っていた。向こうで石油精製所のフレアスタック(一時的に処理しきれないガスを排出して燃やす煙突)から巨大な炎が上がった。2013年09月13日
Jim を訪ねて
ユタ州の南のはずれの州境にセント・ジョージという町がある。40年前にそこに行って泊まったことがある。
街道の北に赤い崖があって、そこが街の中心でレストランが4軒とモーテルが3軒あった。それだけしかなかった。当時の人口は7000人ほどであった。もともと住んでいた人たちは牧畜業を営み、あとから来た人たちはほとんどがリタイアした人たちであった。
夏は暑いが冬は冷え込まないので、年寄りには良い場所だ。エアコンが出来て急に人が住み始めた町だ。それまでは、だれも引っ越そうとは思わないところだったのだ。
この20年でセント・ジョージは急速に大きくなり、当時の10倍以上になった。高速道路のインターチェンジは3つもある。そう言えば、昔はここには高速道路が無かった区間だ。I-15が工事中で制限速度が55マイル/時の2車線の街道しか無かった。
50年代にはここで甲状腺ガンが多発したと言われている。すぐ西に原爆の射爆場があり、時々西の空が明るくなったそうだ。夏でも雪のようなものが降ることもあったと言う。それがいわゆるfallout(放射性降下物)で、大きな問題となった。しかし、ユタ州は西部の砂漠の中であって、当時のアメリカではほとんどだれも知らない場所であったから、当時の政府は知らぬ顔をして蓋をしてしまったようだ。そのような放射性物質は半減期が短いので、現在はほとんど影響がない。
カリフォルニアに住んでいた人が、リタイアした後、家を売ってその金でこちらに引越すのがはやりだ。3倍の広さの家に住めるそうだ。ここからラスベガスに車で1時間で行けるのも、大きな魅力なのだ。
そこにJimが引っ越したと聞いて、訪ねて行かねばなるまいと思った。ソルトレークから車で5時間だ。日本から到着したばかりで、時差ボケがひどい中、気合いを入れて出掛けた。安いホテルを探すサイトで調べて予約した。到着してわかったことは、昔泊まったホテルの隣のホテルだった。昔通りの最低限のサーヴィスのホテルだ。しかし、エアコンさえまともに効いていれば、文句は無い。
2013年07月23日
Boeing 787
同窓会があって出掛けていた。安い切符を買ったせいで、帰りは搭乗率の低い便に押し込まれた。それはデンヴァ発のUnited便である。787を使った成田までの直行便が出来たのに、利用客が少ないのだ。朝早い便でデンヴァに飛ばねばならないので、それで売れていないのだろう。しかし出発時刻を遅らせると、成田に着くのが遅れて接続便が無くなるから、ギリギリの設定のように見える。
ユナイテッド機内は全日空とはやや仕様が異なり、シンプルである。エコノミィ席ではTV画面までの距離が小さく、老眼の筆者には見えにくい。座席は、座面がスライドしてリクラインするので快適である。身長180cmの筆者にも不自由はなかった。
窓が大きいのが良い。今までの1.5倍程度大きい。今までは窓側の席でないと外が見えなかった。787では通路側からもかなりよく見える。
Variable Tint(ボタンで液晶の色が変わる)を採用している。その変化速度をかなり遅く設定している。急に変わると。まぶしくてびっくりするからだろう。
5段階あって、左が全開、右が全閉の状態である。
映画を見たり、寝ている時は右の状態である。この程度の光の漏れがあると、機内の照明電力を節約できるのだろうと思う。なかなかうまく出来ている。
来週はANAの787に乗るチャンスがあるので比較してみたい。
2013年03月08日
続々々 Key West へ
これがUS1(国道一号線)の起点である。US1はKey Westを起点として、北へと伸びる3800 km以上の国道である。ワシントンDC、ニューヨーク、ボストンを経て、メイン州の北端まで行っている。わざわざ、「起点」という看板を出しているところを見ると、これを見に来る人が多いということだろう。ヘミングウェイの家は、この国道に沿って、すぐ近くにある。

帰り道は腹が減ったので、通りがかった屋台風のシーフード・レストランに入った。冬だというのに日差しは強く、気温は28℃くらいだろう。そよ風 (light breeze)に吹かれながら、生ガキと Pulled Beef を食べた。生ビールがうまい。この州ではアルコールは多少なら飲んでも良いらしい。
”You can drive drinking, but you can't drive drunk." 「飲んで運転しても良いが、酔っ払って運転してはいけない。」ということである。当方は自信があったのでそのまま運転した。道はあくまでも真っ直ぐだ。
カキは殻が厚い。厚さ7 mm位はある。とても重い。世界中のカキは気仙沼の種を使っているらしいが、育つ環境によってこんなにも違いが出るものだろうか。レモンを絞って、タバスコを掛けて食う。ケチャップにはホースラディッシュ(ワサビに似たもの)を混ぜてある。これを付けてもうまい。
バーベキュービーフを骨から外したものをPulled(引っ張って外した)という。筆者の好物である。この屋台の柱や梁には、たくさんの1ドル紙幣が張ってある。さまざまな人がサインしている。有名人のもあるのだろう。
岸辺では冬だというのに水遊びしている人たちもいる。スノーケルを付けて潜っている。 2013年03月06日
続々 Key West へ


この動画をご覧戴くと、全貌が分かる。椙山氏のところで見せて戴いた本の写真が多数使われている。コンクリート製アーチ橋は、マイアミで木製の型を作り台船で運んで来て設置している。土台は杭を数本打ち込んだだけだ。ガーダ・ブリッジは道路橋に造り替えるときに幅を広くする改造を施されている。トラス橋は先回のように上に載せる以外、拡げる方法は無い。
1910年ごろ完成だから、明治時代の末である。アメリカにはこのようなレジャー目的の鉄道を建設する余裕があったのだ。マリリン・モンロゥ主演の”Some Like It Hot” (お熱いのがお好き)という映画があった。舞台は1929年である。楽団がフロリダに汽車で出掛ける場面がある。プルマン寝台車を借り切っての移動である。フロリダ(多分マイアミ)に着くと、リゾートホテルがたくさんあって、富豪が遊んでいる。当時から、冬のフロリダはそのような場所であった。成功した人たちはフロリダに別荘を持ち、豪華な列車で移動していた。椙山氏のところで読ませて戴いた本にはフロリダ行きの話がたくさんあった。氏のレイアウトにもフロリダの景色がある。まさに海の上を走る場面もあった。しかし、夏は暑くてとても住めたものではない。
今回車で気が付いたのは、湿地帯を突き抜ける道はかならず細かい金網で囲われていて、外に出ることができない。この網はワニ除けである。周りには体長 5m以上のがごろごろいるそうで、危ないことこの上ない。
2013年03月04日
続 Key West へ
今回借りた車はこれで、カローラの新車である。時速70マイルで15 km/L走る。まずまずの性能である。今走っている橋が完成したので、旧橋は取り壊しになるはずであった。全部壊すのが面倒なので一部だけ壊したようだ。
この赤いブイ状のものがアメリカ本土最南端を表す表記である。キューバまで90マイルとある。泳ぐわけにはいかないが、密航者が多いのも当然だ。Key Westは昔からの避寒地で、ヘミングウェイの家があったことでも有名である。
この家はアメリカ最南端の家であると書いてある。二度もSouthernmostと書いてあるのが笑わせる。地図を見るともう少し南にも何かあるが、民家としてはこれが最南端なのであろう。
帰りに客車が居るので写真を撮った。プルマンのSolarium Carである。この車の発音は難しい。ソウレイリアムに近い音である。何かの売店になり下がっている。2013年03月02日
Key West へ
大きな地図で見る
マイアミの南にあるHomesteadという都市が、事実上のフロリダの最南の都市である。この地は塗料などの素材の暴露試験に適する。だから、その種のデータにはこの地名がつけられている。
そこから、島伝いに国道が延々と続き、最南端のKey Westまで約160 kmである。この区間は最高速度がせいぜい55マイル/時であるから、片道3時間以上かかる。思い切って行ってみようと思った。というのは昔、友人が飛行機の Stand-by Ticket を買って、アメリカ中を旅した。のどかな時代である。空港に行って、空いている飛行機を見つけて乗ってしまう。機内持ち込みだけでだと簡単に乗れた。2週間乗り放題だ。確か、450ドルだった。
それで彼はKey Westに行ったのだ。3時間滞在して帰って来たのだそうだが、「街並みが面白かった」と言ったのがとても気になった。いつかは行ってみたかったが、鉄道があるわけでもないし、チャンスは来ないと思っていた。
ところがNew OrleansからHomesteadまでは1400kmで1日で行けない距離ではない。行ってしまえば、次の日1日を使ってKey Westを見られそうだ。というわけで、朝の6時に出発して16時間で到着した。途中2回昼寝をして、サンドイッチを齧りながらの強行軍である。持って行った音楽CDを、順次大音量で掛けながらのドライヴである。6枚を4回ずつ聞いた気がする。過去の最高記録は1100kmであるから、もうこれを破ることはできないであろう。


次の日は疲れて起きられなかった。10時ころ出発し、海沿いを走ったり、長い橋を渡ったりしてひたすら走る。2013年02月28日
続々 New Orleans へ


町並みはこのような調子で、バルコニィ・デッキの付いた3階建ての家ばかりである。
これは古いビール工場であったが、現在はショッピングセンタになっている。
あちこちにライヴ演奏をしている小屋があるのだが、どれもこれもやかましく、酒とたばこの煙で充満している。この町ではビール瓶を持って歩きながら飲んでも良いらしい。歩きながら煙草を吸うことも許されているらしい。昔住んでいた町ではいずれも厳しく禁止されていた。
初めは石膏の像だと思っていたのであるが、前の人が通り過ぎる瞬間にこの白い像が動いて肩を叩いた。叩かれた人はとても驚いて廻りを見廻すが、まさかこれが生身の人間だとは思わないので、不思議なこともあるものだと行ってしまおうとする。そうするとまた、肩を叩くのである。とても驚いて、面白かった。筆者が遠くから見ていると、何人もひっかかって驚き、相応のチップを置いていくので、かなりの稼ぎである。1ドル置いてうんと近接して撮ったが身動き一つしない。鼻の穴の内部は白くなかった。
去り際に、このように会釈した。2013年02月26日
続 New Orleans へ

どの写真も台車がはっきり写っていない。道路工事中で渋滞に引っ掛かって、イライラしながら窓から撮った写真である。軌間が広いので内側台車である。モータを収容するスペースは十分であろう。
線路はこの通りにも入っていく。このあたりはこの町の一番の繁華街である。鋳鉄製の装飾の付いたバルコニィがある。きれいな通りなのだが、水害がしょっちゅう起こるので、一階にはあまりめぼしいものがない。
この通りにはジャズの生演奏を聴かせる店がたくさんある。どの家も装飾付きバルコニィが飛び出しているのが特徴である。泥棒に入られやすいのではないかと心配した。
その道では有名な男性誌の”Hustler"はこの州で生まれた。この町には直営の店がある。売っているものはきわどいものばかりであるが、女性客がたくさん入って品定めしているのには、少々驚いた。2013年01月31日
Boeing 787 の不調
ANAの成田−San Jose便が就航したので、それを予約した。いつものことだが、アメリカ入国審査で時間が掛かるのはとても腹立たしい。おそらく一番ひどいのがLAX(Los Angeles国際空港)で3時間半ほど掛かることが多い。迎えに来ている人はイライラするだろうし、乗替便にはまず間に合わない。日本で発券すると、乗り換え時間を2時間と見ている場合が大半で、間に合ったことが無い。そういう意味で、入国はシアトルかポートランドのような中都市を狙うのが賢明である。シカゴも夏だととても込むし、ニューヨークは年中込む。そういう意味でサンホゼ便はありがたい。入国審査は15分で終わるはずだ。しかも目的地が空港から数キロしか離れていず、市電で行けて、しかも電停の正面というのはありがたい。 レンタカーも良いのだが、3日で100キロも走らないのに200ドルも払いたくない。その程度なら、タクシィに乗っても変わらないのだ。
全ての面で好都合の便であって、就航が決まって予約開始と同時に押さえた。
出発日の朝、空港までの道路状況を調べていたら、突然787が高松で緊急脱出をする騒ぎを起こしたことが分かった。飛ばない可能性がある。案の上、空港カウンタに着くと、欠航を知らされた。先回もたまたま欠航してひどい目に会っているので、事前にバスの中で代替便の調査はしておいた。
ANA職員は「LAX経由で用意しましたから、それにしてください。」と言ったが、それは断固断った。提示された乗り継ぎ時間は2時間半だ。間に合うはずが無い。乗り遅れると、その日のうちにフロリダまでは到着できない。予約したホテルも無駄になるし、レンタカーもキャンセルしなければならない。彼らはプロであるはずなのに、そのあたりの読みが間違っている。ニューヨーク経由、シカゴ経由も提示されたが、お断りして、一番手堅いSFO(サンフランシスコ)入国にした。それしか認めないと言ったら、席が無かったらしくて、アップグレードしてくれたので助かった。待ち時間が4時間で、入国審査が1時間半であったのでまだかなり余裕があった。
空港のラウンジで情報収集すると、世界中で運行取りやめが発表されている。これでは帰りの便もアウトである。ということは、サンホゼ空港のすぐ近くに居ながら、サンフランシスコまで行かねばならない。これはかなりの手間である。問い合わせると、サンホゼ空港に朝9時までに来てくれれば、バスでSFOまで送ると言ってくれた。
上の写真は、帰りに成田で写した駐機中の787である。当分飛び立てないであろう。
2012年11月12日
Redhook Brewery
近くにあるビール工場に行った。比較的小さな醸造所である。西海岸を中心に売られているブランドで、筆者の好物でもある。瓶の形が変わっていて良く目立つ。アメリカのビールにはMiller, Coors、Olympiaなどに代表される淡色系のものと、最近急速に勢力を拡大してきたDark系のものがある。後者はこの会社のようなやや小規模な醸造所が出している。

IPAとはIndian Pale Ale の略記である。 筆者はアメリカに行くとSam Adamsかこれを好んで飲む。
工場見学が一人5ドルで可能である。このお兄ちゃんが案内してくれて、面白おかしく説明してくれる。各種のビールを試飲することができる。
醸造タンクはどこも同じようなものであるが、麦芽の種類とその煎り方に秘密がある。黒ビールほどではないが少し深く煎って、香味を付ける。ホップはその地方の独自のものを使っている。煎った麦芽を齧ってみた。なかなかいい味である。
この工場の中に興味深い写真があったので撮ってきた。シアトルの市電の車庫である。舗装もしてない時代の電車の線路は泥だらけであった。