2021年05月14日

続 稲葉氏の言葉

 稲葉氏は、HOには熱心ではなかった。Oゲージの時代が過ぎると、模型はほとんどやめてしまわれたようだ。筆者が初めて会ったのは1960年代後半で、筆者の作ったOゲージのコンソリをご覧になって、細かい批評を激励と共に戴いた。

 そのコンソリは手に入れた動輪径から計算して図面を描いて作った自由形でアメリカ型であった。椙山氏のところで見せて戴いた本の写真と図面から作った。動輪は3点支持のイコライザ懸架で先輪は復元を利かせていた。九割方出来たところで放置されていたが、引越しの際に派手に壊してしまい、処分した。板が薄くて、剛性がなかったからだ。その後の筆者が作る模型は、厚い板で構成し、十分な剛性を持たせるようになった。探せば動輪だけは見つかるはずだ。動輪やロッドは銀めっきをしたので、後には真っ黒になってしまった。銀は錆びやすいのだ。

 その時稲葉氏は、
「おや、まだOゲージの新作を見ることができるとは思わなかったな。これはいい形をしているね。椙山先生に見せたかい?彼の好きな形だ。」
と褒めてくれ、さらにこう述べた。 
「Oゲージは、模型として正しい大きさだと思う。大きさ、重さが良いのだ。Oゲージが斜陽化したのはメーカの努力が足りなかったからだ。良い製品、パーツを出してくれれば、我々も作リ続けたのだ。最近はHOが盛んになっているが、それは部屋が狭いからという制約だけから来ている。その大きさが素晴らしいというわけではないんだ。大きな部屋があれば問題はない。田舎なら土地はふんだんにある。君たちが頑張って、いつの日か再興してほしい。」

 それについては、椙山氏も同じことをおっしゃった。
「Oゲージはすばらしい模型の大きさなのですけど、今や子供の玩具(三線式)に成り下がってしまいましたね。Oゲージでスケールの車輛を作ろう、走らせようとしても、キットや部品がなくなってしまったのです。もっと素晴らしいものを提供してくれれば、我々はOゲージのままでいただろうと思いますよ。」

 その後も稲葉氏とは、椙山邸で何度もお会いしているが、模型は作っていないとのことだった。   
 その後、数十年が経った。稲葉氏の作品が走る日が近付いてきた。


コメント一覧

1. Posted by YUNO   2021年05月15日 13:52
今の日本では、さらに小さなNゲージが主流になりましたね。
日本の人口の9割は地価の高い都市に集まっていますし、たとえ田舎でも土地の極端に安い場所は日常生活にも不便なことが少なくないです。
これはもう個人の事情だけではなく、国土の広さそのものと物価の高さの違いが、欧米と日本の模型事情の差に現れているのではないかと思います。
椙山先生は経済的には余裕のあった方だと思うのですが、それでも先生のレイアウトは、HOにしてもだいぶ狭い感じで、大型の機関車が通れない急なカーブがあったのを覚えています。
2. Posted by dda40x   2021年05月17日 09:37
HOへの移行はアメリカのほうが早く、1950年代にはHOの時代になってしまいました。Oは10%近辺で生きながらえていましたが、1975年あたりから、”O gauge is Back!" の掛け声で、少し増え、15%位になりました。
その後ライオネルで代表される3線式の車輛に使える精密ボディをプラスティックで大量生産して金型代を回収し、スケールの模型を生産するという面白い方式で、スケールは助けられました。それでOの人口はあまり減らずに来たわけです。
 アメリカでもOのホームレイアウトは多くはなく、殆どがクラブ依存です。日本ではクラブがレイアウトを持つことは殆ど無かったので、それが衰退の引き金を引いたと私は見ています。だからこそ、私設博物館の存在意味があります。

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