2014年09月09日
続々々 土屋 巖氏の死去
土屋氏の存命中に博物館をお見せすることは出来なかったが、設計図、工事中の写真は頻繁にお送りし、配置、色彩等について、細かい指示を戴いた。土屋氏の頭の中では、博物館は完成されていたはずである。土屋氏のコレクションは指示された通りに、全て運び出し、博物館に運び込んだ。
ところが、一番の理解者だった奥様が、7月に急死されたのである。
「大変なことになってしまった。自分の死後のことを全部頼んであったのに、順番が変わってしまった。」
土屋氏の憔悴された様子は、本当にお気の毒であった。
伊藤剛氏が亡くなり、氏の作品群、蔵書を全て当博物館に収蔵したことを報告に行くと、
「それは素晴らしい。どこにもない博物館になる。むしろ伊藤剛博物館と銘打って発表した方が良いかもしれんな。」と喜んでくれた。土屋氏は初期のTMSの時代から、伊藤剛氏のファンであった。
剛氏所蔵の古い雑誌を、デジタル化して公表することには大賛成で、その具体的な方法のヒントも戴いた。
博物館の線路は、吉岡精一氏の設計されたものを用いる。土屋氏と筆者、吉岡氏の所蔵分を合わせたもので、大半の線路本体は完成しているが、路盤はまだできていない。
工程数を省くため、木の支柱は取りやめにし、スティールの支柱をコンクリート床に直接留める工法に切替えた。床のカーペット・タイルを介さず、直接取り付けるので、精度が出やすい。トランシットで水平を見ながら、路盤を支えるアングルを熔接する。このことを報告すると、
「そうだ。あの方法では、精度を保つのが難しいから心配していた。鉄骨の熔接が良い。祖父江氏の機関車の中にはベベルギヤを採用したものもあるから、ちょっとでも傾いていると流れて行ってしまうからね。線路が水平であることが大事だ。うちのコレクションにはこの種のカスタム・ビルトがたくさんあるから。」
と賛同を戴いた。
最後にお会いした時、
「ちょうど良かった。明日から入院するんだ。もう会えないかもしれないから、来てくれて良かった。」
とおっしゃった。博物館に掲出する予定の土屋氏の経歴の文案を持って行って、赤を入れて戴いた。
「本当に世話になった。ありがとう。今後のことは頼む。」
と筆者の手を握り締めたが、もう以前のような力は感じられなかった。
そして間もなく、訃報を受けることになる。
ところが、一番の理解者だった奥様が、7月に急死されたのである。
「大変なことになってしまった。自分の死後のことを全部頼んであったのに、順番が変わってしまった。」
土屋氏の憔悴された様子は、本当にお気の毒であった。
伊藤剛氏が亡くなり、氏の作品群、蔵書を全て当博物館に収蔵したことを報告に行くと、
「それは素晴らしい。どこにもない博物館になる。むしろ伊藤剛博物館と銘打って発表した方が良いかもしれんな。」と喜んでくれた。土屋氏は初期のTMSの時代から、伊藤剛氏のファンであった。
剛氏所蔵の古い雑誌を、デジタル化して公表することには大賛成で、その具体的な方法のヒントも戴いた。
博物館の線路は、吉岡精一氏の設計されたものを用いる。土屋氏と筆者、吉岡氏の所蔵分を合わせたもので、大半の線路本体は完成しているが、路盤はまだできていない。
工程数を省くため、木の支柱は取りやめにし、スティールの支柱をコンクリート床に直接留める工法に切替えた。床のカーペット・タイルを介さず、直接取り付けるので、精度が出やすい。トランシットで水平を見ながら、路盤を支えるアングルを熔接する。このことを報告すると、
「そうだ。あの方法では、精度を保つのが難しいから心配していた。鉄骨の熔接が良い。祖父江氏の機関車の中にはベベルギヤを採用したものもあるから、ちょっとでも傾いていると流れて行ってしまうからね。線路が水平であることが大事だ。うちのコレクションにはこの種のカスタム・ビルトがたくさんあるから。」
と賛同を戴いた。
最後にお会いした時、
「ちょうど良かった。明日から入院するんだ。もう会えないかもしれないから、来てくれて良かった。」
とおっしゃった。博物館に掲出する予定の土屋氏の経歴の文案を持って行って、赤を入れて戴いた。
「本当に世話になった。ありがとう。今後のことは頼む。」
と筆者の手を握り締めたが、もう以前のような力は感じられなかった。
そして間もなく、訃報を受けることになる。