2026年09月

2026年09月09日

シカゴの高架鉄道

Clarence_A_train_on_the_Lake_Street_Elevated,_1893 480891238_532928189830702_680144221026843732_nシカゴの高架鉄道を ’L’ と言う。エルとはループではなく、高架鉄道 elevated railroad のことだ。昔は EL という表現もあったが、最近は大文字の一文字で表す。
 
 1890年頃の完成で、当初は 2-4-4 の蒸気機関車(Forney)が客車を牽いていた。この機関車は従台車キングピン位置が固定で第2動輪にはフランジがなかった。このウェブサイトにはフランジの無い写真とその説明がある。写真はそこからお借りしているが、メインロッドが外されているのは不思議である。

 フォーニィが開発された当初は先輪がなく 0-4-4であったが、急曲線に対応するためには先輪があると良いということになったらしい。メイン州にある保存鉄道のフォーニィには全車輪にフランジがあるが、これはむしろ珍しいものである。炭水庫の真下に従輪があるので、積空にかかわらず動輪の軸重が変化しないというのが売りであった。

 この環状高架鉄道の中が、シカゴの中心である。52年前、バスでここに到着した時、その場所がどこかわからず係員に聞いたところ、「’L’ の中だよ」としか教えてくれず面食らったことを覚えている。このウェブサイトには参考になる写真がある。

Chicago L 2 15年前、土屋氏を案内して行った時は、高架が陥没して運行できなくなり、歩いた部分もあった。正直なところ既に耐用年数は過ぎていて、いずれ大規模な崩落が起こる予感が筆者にはある。曲線部では遠心力が無視できないので、超低速で走る。速度を出すと橋が壊れそうだ。地震のない国だからこその細い柱である。車がぶつかったらと心配する人は居ないのだろうか。

Wilson station DC 600 V の第3軌条からの集電で、ガラガラゴロゴロ走る。車輪踏面が荒れているのだ。
 運転は on, off を3秒ごとに繰り返すので、気分が悪い。要するに慣性を利用した運転をしていない。走行抵抗が大きいということなのだろう。

 今回行って驚いたのは、シカゴの中心部の高層ビルのうち、古いものがすべて取り壊され、新しく建て直されていたことだ。また、鉄道のヤードが無くなっていた。そこは掘割になっていたので地下駐車場となり、その延長線上には高層ビルが沢山建っていた。このリンク先の3枚目以降の写真のヤードである。

 20年程前に行った時は、1920年代に建てられた高層ビルの外壁が崩れ始めていた。強風時に煉瓦が落ちて車がつぶれ、けが人が出る状態であった。危険な区域の道路には鉄骨で骨組みを作り、厚さ10 cmほどもある木板を張って安全を担保していた。しかしそれでも煉瓦が落ちて一部が下に顔を出すという例も見た。また、古いビルの土台が沈下し、隣のビルに接触している例もあった。
 それらは全て取り壊されて、新しいビルになっている。筆者の知っているシカゴはもう無くなって、近代的な街並みになっているが、高架鉄道だけは昔のままだ。 

2026年09月07日

バーボンの蒸留所見学

Maker's Mark Kentucky 州を通るので何か面白い物がないか調べたところ、バーボン・ウィスキィの工場があった。ツアがあって工場の中まで見せてくれるという。50年前は、即売所の横にある工場を、窓から覗き見る程度のものであった。


IMG_5875IMG_5881 樽を作る工場から始まって、蒸留装置、瓶詰装置を順に見せて貰った。どのウィスキィ工場も殆ど同じで特筆することはないが、とにかくよい香りである。



IMG_5884 この Maker's Mark の製品は、赤いロウを瓶の口に塗り付けてあるのが特徴である。これは一本ずつ手でひっくり返して融かしたロウの中に浸けている。 



IMG_5877 樽は低温倉庫で1年程寝かす。その間に樽の white oak材の焦げた香りが抽出されて溶け込む。その間にウィスキィは蒸発して減る。それを angel’s share 天使の分け前と言うのはどこも同じだ。
 樽の作りはやや荒っぽく、漏れた跡が分かるものもある。日本のウィスキィ工場での緻密さとはかなり違う。樽材で作ったアクセサリィを売っている。よい香りだが何年くらいその香りが持続するものだろう。 

IMG_5886 試飲もあったが、酒酔い運転になるので舐めただけで遠慮し、そのあと1時間ほど歩いた。捕まるとただでは済まないからだ。この国ではアルコールも薬物とみなされるので、事故を起こすと罪が重くなる可能性が高い。


O scale boxcar これはその近くの別の蒸留所のショウルームにあったものだ。O scale の建物は良く出来ていた。
 この模型の貨車はおそらく3線式の台車を付けている。タイヤが異常に厚い。単なるディスプレイであって走らなくても良いのだから、こういうものこそ Proto48 の29.9 mmゲージにすべきであった。レイルも太くて残念だ。

 この地域には蒸留所が点在し、樽を寝かして置く巨大な倉庫がそこかしこにある。 

2026年09月05日

続々 Kitty Hawk に行く

5th flight 5回の飛行でのそれぞれの到達地点には大理石の石碑がある。この距離を 59 秒で飛んだわけで、おおよそ時速 15 km 強である。その速度は自転車程度ではあるが、かなり強い向かい風であることを加算すると対気速度はその3倍程度であろう。
 無風であれば、実験場はかなり広くなければならず、機体を回収して戻すには多大な労力が必要である。そういう意味でもこの場所の選定は理に適ったものである。気象台に問合わせて、一定の強さの風が吹くところという条件でこの地に行きついたそうだ。

Wright Flier「操向するには羽根を捩じる」というのは知っていたが、その捩じりがどの程度のものなのかは想像するのが難しかった。この施設では学芸員が捩じって見せてくれた。翼端を持ち、捩じると実に簡単に 1.5 m ほどが動いた。と同時にワイヤで反対側の翼端に動きが伝わり、バシャバシャとひねられた。その途中に操縦桿があり、当然それも動いた。すなわち、操縦桿の微妙な動きに俊敏に応答する設計であった。良く出来た設計だ。長さ方向の剛性はかなりあるが翼端は捩じりに対してしなやかなのだ。 

 極めて初期のプロペラの実物があった。ピッチが中心部に近付くと大きくなっている。彼ら以前のプロペラはそういう工夫がなかった。彼らは理論的追及と実験とを同時に行っている。これは実にプラグマティックである。
 エンジンは自作のアルミニウム合金製ガソリンエンジンである。自転車屋であったので、チェイン駆動はお手のものだが、このチェインは自動車用の太いものである。日本では自転車のチェインと書いてある伝記が多いが、それは間違いだ。6馬力の動力伝達はとてもできないことは分かりそうなものだが。

Wright Brothers 初飛行には成功していたが、その後の特許論争ではかなり苦労したようだ。ともかく、彼らは空気より重い機械を用いて制御された飛行に成功した最初の人たちであることは間違いない。 

2026年09月03日

続 Kitty Hawk に行く

 ライト兄弟は、居住地 Ohio州 Dayton から Norfork まで資材を荷造りし、汽車で行った。その先は小さな船を雇って行ったとある。
 Kitty Hawk を選んだ理由は、定常的に穏やかな風が吹くこと、木が生えていない砂地であること、人がいないことであったらしい。地元では野次馬が多く、訳の分からぬことを書く新聞記者を嫌ったのだ。

letters to Wright Brothers 気象台に問い合わせた手紙が保存されている。それには、この地では秋には北、北西の風が吹くと記されている。
 彼らは実用的な飛行機を作ることを目的としていたので、何度も実験をしたかった。すなわち、飛行実験が短距離で終わる条件を探していたのだ。極端な言い方をすると、巨大な風洞の中で飛べば、飛行距離はゼロにできる。それに近い均一な向かい風のある所を求めていたわけだ。これに言及している資料には筆者は出会っていなかったので、これを見ることができたのは嬉しかった。

rail for takeoff 離陸時に使用するレイルもあった。木材の上に鉄板がネジ留めしてある。これは複製品であろう。




Wright Brothers Monument (1)Wright Brothers Monument (1)Wright Brothers Monument (2) 飛び立った丘の上には巨大な石碑がある。そこに書いてある文面は凄い。天才、偉業、不屈の精神、努力その他あらん限りの賛辞をこれでもか、と書いてある。こういう石碑も珍しい。しかし、彼らはアメリカが世界に誇る偉人であることは間違いない。
 筆者は小学生の頃より彼らの姿勢に憧れていたが、日本語で読む様々な伝記は極めて怪しいものばかりだった。今回いろいろな点で合点が行き、嬉しい体験だった。  

2026年09月01日

Kitty Hawk に行く

 この場所には50年程前一度行ったことがある。寂れた場所で、大きな石碑があっただけであった。アメリカの代表的な偉人としては寂し過ぎる。もう少しましな顕彰の方法があるはずだと思った。今回 Norfolk という港町に行ったので、そう遠くないキティホークに寄ることにした。そこには立派な施設が出来ていた。(動画の27分あたりから)
  
 ここに行くには細い砂州を通って行く。途中にはたくさんの長い橋があり、120年前はどれほどの僻地であったのか想像することもできないほどの田舎である。船でしか行けなかったのである。

 昔読んだライト兄弟の伝記には、飛行は海の方に向かって行われたとあった。大西洋側では東風は少ないから、それは怪しいと思っていた。
 実際の飛行は真北に向けて(要するに海岸にほぼ平行に)行われた。その出発点から5回の飛行のそれぞれの到達点に石碑がある。

 飛行機を収納した小屋が残っている。1つはオリジナル、もう一つは複製品のようだ。

 博物館の建屋には飛行機の原型を再現したものが置いてあり、curator が上手に説明してくれる。方向舵の代わりに主翼を捩じって操向するのを、実際に動かして説明した。実に簡単に捩じれるのは驚いた。この一瞬を見られただけでも、来た甲斐があったと感じた。

 その場の観客は100人くらいで、最初にどこから来たのかと前方の数グループに聞いた。一番遠いのは南米から来た人のようだったが、順に聞いてきて筆者が日本だと答えるとどよめきが起きた。何時間のフライトだったかと聞くのでシカゴまで12時間だと答えると、全員が驚いた。学芸員は、「人類最初の飛行時間は59秒です。その何倍になるでしょうね。」と言った。「そのあとはどの飛行機で来たのか」と聞くので「車で3日掛かった」と言うと大笑いであった。 
 スミソニアンデイトンに行く人は多いだろうが、こんなところまで来る日本人は珍しいようだ。 

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