2024年05月

2024年05月30日

アメリカの道を走る

 今回もかなりの距離をレンタカーで走った。ガソリンはテキサスが一番安く、1ガロンが3ドル弱であった。すなわち 1 L が110円程度だ。ところがロスアンジェルスでは異常に高く、1ガロンが5ドル強であった。つまり、1 L が200円以上である。日本より高い。こんな経験は初めてだ。大排気量の車に乗っている人は困るだろう。

 テキサスの田舎道を走ると、その制限速度に驚く。2車線の分離帯のない道でも 70マイル/時である。これは時速110 km以上である。車線の幅は 5 mほどで、路側帯はそれと同程度の幅があるが、舗装されていない。その外側は砂漠のような畑である。このごろの車は車線をキープする装置がついているので安心であるが、対向車にもついている保証はない。大型トラックとすれ違う時は、さすがに怖い。

GPS speed 今回はNISSANのROGUEという車に乗った。滑らかに走る良い車だった。速度計がきわめて正確である。この写真で分かるようにGPSの速度とパネルの速度とは一致している。70マイル制限のところを65マイル/時で走っているところである。すなわち速度計は誤差がないものを作れる時代なのだ。前回乗ったTOYOTAも誤差がまったく無かった。
 ところが日本で走っている車は全ておかしい。速度が7%多めに表示されるように作ってある。昔からある誤差の計算式によって許される最大の誤差をあらかじめ設定してあるのだ。107 km/時が表示されているとそれは100 km/時で走っていることになる。スピード違反しにくくなるからありがたく思え、ということでもなさそうだが、実に不愉快だ。高速道路の容量が7%減ってしまう。そのような権限は国土交通省にはない。

 同じ車を日米で同時に走らせて日本の方が7%遅く走るように作られているというのは、どう考えてもおかしい。

2024年05月28日

またまた Original Whistle Stop

Original Whistle Stop 帰路、ロスアンジェルス郊外の友人を訪ねた。その時に思い付いてパサディナの模型店を訪ねた。店主の Fred とは、1985年からの付合いだ。祖父江氏を伴って訪ねた。その2週間後ミルウォーキのNMRAコンヴェンションの会場で再度会い、筆者のFEF2,3を見て仰天したのだ。祖父江氏の3条ウォーム改造の代理店契約を結びたかったらしいが、それほどの数もなさそうなのでそれは立ち消えとなった。しかし、その後さまざまな局面で助けてもらった。

 今回は1時間弱の訪問であったので、模型は見せずもっぱら動画を見せ合って話した。この動画はYoutubeで見たが鮮明さと滑らかさに欠けると言う。そこでオリジナルの動画を差し上げた。

 慣性増大装置の動作を見て驚嘆し、仲間を呼んで見せた。
「凄い!お前はいつも世界の最先端に居る。」と言ってくれた。お世辞であっても嬉しい。
 パシフィックが単機で、ゆっくり前後進し、その度にスリップして止まる場面を見せた。極端な低速であるが、それでもスリップするのが面白いそうだ。
「一体、このテンダはどれくらいの質量があることになるのだ。」と聞くので、「約430ポンド相当だ。」と答えた。
「ワォ、それはすごい。まさか本当にその質量を持つと思う奴はいないだろうな。」
「それが居たんだよね。」と、かいつまんで話した。
 彼は爆笑してこう答えた。
「アッハハハ。簡単にできると言うなら、どうして今までそれを誰も見たことが無いのか教えて欲しいね。」


2024年05月26日

続々々々々 Tomの娘

Tom Harvey 1941 Paulaは筆者と祖父江氏が訪問した時のことを何回も聞かされていたらしく、「素晴らしい機関車を持ってきたのだそうですね。」と言う。

 祖父江氏についても十分に知識があるようで、類稀なる模型作りの達人であったことは認識していた。1985年に3泊ほど居候させてもらった。   
 Tom と近くの公園に置いてある機関車を見に行ったとき、Tomは祖父江氏の実物の知識には舌を巻いた。どうしてそんなに知っているのだと怪訝な顔をした。戦前、機関車の部品を作る工場に居たと知り、合点が行ったようだった。
 その時Paulaが帰ってくる予定だったけれども、何かの不都合で会えなかった。

 それ以来、彼女は模型には多少の興味を持ったらしい。Oゲージの模型は HO や N に比べて少ないことは気付いていた。最近知り合った模型人は、庭に線路を敷いてBig Boyを走らせているとのことで行ってみたら、1番ゲージだったそうだ。写真を見せて貰ったが、大きなレイアウトで線路は腰の高さ(90cmほど)であった。

 筆者のYoutubeを見てもらっていたが、機関士が Tom Harvey の風体を表していることにとても感動していた。
 白い帽子、白いシャツ、赤いバンダナ、青いオゥヴァオールがまさにそれであった。少なくとも 4輌はTomが乗っている機関車であることを伝えた。彼女はそれを聞いてとても喜び、全部の写真を撮って送るように頼まれた。

 手袋の汚れが服に付かないように、立つ時は手袋の内側を外に向ける仕草をして笑い転げた。彼女は父親の蒸気機関車乗務時代を知らない世代だ。話だけはたくさん聞かされているのだろう。 

2024年05月24日

続々々々 Tomの娘

B17 crew この種の恩人探し時々見るようになった。戦後80年近くになり、すでに存命者はほとんどいなくなったが、その子孫同士の交流はまだある。希望を捨てずに探し続けるようにと伝えた。
 この件に関しては、多くの方から積極的なご意見を戴いているので先方に伝えた。

 Paulaは、父親の一生について別の本を書きたいらしい。その中の一つに、”Tad and Tom” があるのだそうだ。彼女曰く、「貴方は父の人生の中の非常に大きな部分を占めている。出会わなければ、Big Boyとの人生について書き残すこともしなかっただろうし、私がそれに興味を示すこともなかったかもしれない。」

 新たに共著で本を書こうと言う。
「もう私の英語力はかなり衰えているから難しいかもしれない。」と言うと、「私の会った外国人の中で、貴方の文章能力はNo.1である。信じられないほどの語彙力がある。」と褒めちぎる。かなり社交辞令が入っているが、それを聞いてこのプロジェクトには多少興味が出てきた。
 Tomから来た手紙、録音は全て保存している。まずこれを彼女に送り届けることから始めなければならない。 

2024年05月22日

続々々 Tomの娘

B17 crew 2 Paulaは、Tomの軍隊生活についての情報を集めていた。知っていることは全て話した。その中で、B17が不時着した時の話を聞きたがった。ベルギィのどこかに降りて、レジスタンスの助けでイギリスに逃れることができたと聞いていた。それは今度の本にも書いてある。

 それ以上のことを知らないかと問われたが、残念ながらそこまでしか知らない。彼女はそのレジスタンスの人たちにお礼がしたいのだそうだ。
 その子孫でも良いから見つけ出して、自分が現在あるのはその人のおかげだと伝えたいと言う。きわめて困難であるが、そのようなことを考えているということを知って感動した。

 写真は白黒であったが、コンピュータの助けを借りて色を付けたものだという。右奥の背の高い人が Tom である。

2024年05月20日

続々 Tomの娘

 Paula は昨年出版した本の評判が良いそうで、嬉しそうだった。写真があまり鮮明ではないことを指摘すると、原版を出版社が水に濡らしてしまい、使えなかったと言う。仕方なく、筆者がプリントしたものを複写したそうだ。

 父親のことを詳しく聞きたがり、細かく話すと、筆者の記憶力が良いことに驚いた。実の娘でも知らないことを筆者が知っていることもあり、感銘を受けたようだ。

Big Boy brake handle ビッグボーイのブレーキハンドルを筆者の博物館に飾ってある写真は送ってあった。博物館への来訪者には必ず触ってもらう。日本のものと比べるとかなり大きく、皆さん驚かれる。

 Tom が出版の記念に2本送ってくれたのだ。Paulaは、1本はここにあることは知っていたが、もう1本のブレーキハンドルの消息を知りたがった。それはプレスアイゼンバーンという会社にあると伝えると、取り戻せないかと聞いてきた。

「その会社は、それを持っていることを全く公表していない。貴重なものだが、博物館に置いて来訪者が見ることができるようになっているなら、返せとは言わない。でも、誰も見ていないところに死蔵されているのなら、返してもらえないか聞いて欲しい。」と言う。確かにそうだと思ったので、やってみようと答えた。

 Paulaはデンヴァの鉄道博物館と緊密に連絡を取っているようだ。 

2024年05月18日

続 Tom の娘

 TomとはGreen Riverの駅で偶然会い、その後複数回訪ねたが、不思議なことにPaulaとは一度も会っていない。次女の Linda には何度も会っている。

 Tomは筆者のことを非常に気に入って、”very much intelligent" と褒めちぎり、Paulaに会うように仕向けたが、タイミングが合わず会えなかった。彼女は化学を専攻していたこともあって、会わせたかったのだ。 
 筆者に向かって、「日本に帰るな。アメリカにいてくれ。」と言った。最終的には「息子になって欲しい。Paula と結婚しろ。あの子はいい子だから。」と来た。
 会ってもいない娘と結婚の約束などできるわけもなく、そのままになったが、彼とは20年ほど文通していた。

 日本からの手紙は赤と青の縁取りの付いた航空便の封筒であった。Tomはその手紙が待ち遠しく、来るといろいろな人に見せびらかしていたようだ。外国人が英語で手紙を書けることに驚いたそうだ。当時あの地方 Wyoming では外国人は珍しく、ほとんどの人は地元から動いたこともなかった時代だった。”Howdy、palses!”で始まる会話しかなかったのだ。

 すべての手紙が保存してあるそうで、今思えば少々恥ずかしい。当時はタイプライタで手紙を打っていた。手動の機械で、指が痛くなった。インクテープがすぐ駄目になり、何度も替えた。
 当時の日本では英文タイプを打つ人は少なく、筆者が猛烈な速度で打つのを見た人が、とても驚いたことを思い出す。今はほとんどの人がパソコンを使うので、キーボードを打てない人の方が少ないだろう。 

2024年05月16日

Tom の娘

 Tomの長女 Paula(発音はパーラ)とは一度も会ったことが無かった。最初にTomと出会ったのは1976年で、彼女はまだ中学生だったはずだ。たまたま外出していて会えなかった。その後祖父江氏と訪問した時も、彼女は大学生で学生寮に入っていたので会えなかった。今回の訪米で、彼女には会う必要を感じていた。テキサスに住んでいると勘違いしていたが、最近コロラドに引っ越したのだそうだ。

 片道1300 kmを飛行機で行くか、車で行くか迷った。飛行機だと2回乗り換えで7時間掛かる。車だと15時間だが、途中で一泊すれば大したことはない。金額的には車の方がかなり安く、迷うところだ。
 飛行機で行けば、空港からは車を借りねばならない。会ったことのない人に迎えに来てもらうのは、出会い損ねることもあり、なかなか難しい。迎えに来るとは言ったが、片道1時間半も掛かるところを来てもらうのは気が退けた。

Paula H.Conger and her husbund Jeremy Paula の亭主 Jeremy は石油掘削の技師とのことだ。現在の仕事がコロラドにあるので、しばらくはそこにいるようだ。以前はヒューストンの近くに住んでいたのだ。 

2024年05月14日

ヤスリの柄

IMG_4173 ヤスリをたくさん持っている。最近大きなものが増えた。それらに付ける柄を購入した。こういうものを扱う店は少ないので、見つけ次第大量に購入する。


 ヤスリに柄を付けないと、狙いが決まらない。すなわち平面が出しにくい。このことを友人に話したところ、
「そんなことはないですよ。」
という話だったが、彼は試しに一つ購入して使ってみたようだ。

「使いやすくなりました。力も入りますし、必要なものですね。」
ということだった。10個ほど購入したようだ。

 ヤスリ掛けは奥が深い。柄の付いていないものではどちらに傾いているのか分からない。すなわち丸く削れてしまう。
 このあたりのことは友人の仕上げ工経験者から詳しく聞いている。祖父江氏 Bill Melisからも厳しく仕込まれた。

 金属工作では、糸鋸、ヤスリ、孔あけ、ハンダ付けは大切な単元である。先回のプレスもそうだが、このような技能をきちんと習得するチャンスの無いまま模型作りをしている人はとても多いと思う。誰からも指導が無いと、それで良いのだと思い込んでしまうから進歩はない。菅原氏の「技法」の本を読んでも、残念ながらプロの目から見た記述はほとんどない。

 例の真ん中を凹ませる話も、「そんなこと、できるわけがない。」と鼻で笑う人が居る。こういう人は進歩しない。
 そういう意味でも基礎単元の習得を狙った講座を開く意味は大きいはずだ。


2024年05月12日

resistance soldering

 Dennis の工房には工夫が満ち溢れている。炭素棒の保持具は面白い。筆者の作例では、握りの軸の延長上に炭素棒がある。それでも良いのだが、曲がっていると楽だろうな、とたまに感じることがある。

carbon rod soldering (2) これを見て戴きたい。厚いブラスの板に貫通孔をあけ、それをスリ割フライスで切ってある。炭素棒を差し込み、ネジを締めるのだ。下の板はアースとなるブラス板だ。


carbon rod soldering (1) 簡単にして確実な保持方式であり、力も入れやすい。握りは熱くなるので、熱絶縁が必要である。ベークライトの板と管で作った握りである。電流は20 A程度で、スライダックで一次側を調節している。

IMG_4168 Dennisはこの種の工夫をする能力に長けている。ありとあらゆる工具を使いやすい形に改良している。 これを見習って作ってみたい。握りは木製にするのが簡単そうだ。ヤスリの握りで大きなものがあるがそれを少し加工すればできそうだ。

2024年05月10日

続 Dennis' workshop

IMG_4045 (1) このように広い工作室を持つことは、わが国ではかなり難しい点もあるが、その中に置いてあるいくつかの工具は日本でも買えるので、それについて説明していきたい。


IMG_4010 まずこのプレスである。何度も紹介しているが、プレスを持っている模型人は少ない。相も変わらずコンコン改軌をしているらしい。この大きさ程度のプレスを持つだけで、精度の高い車輛ができるということを認識してほしい。プレスは高価なものではない。


IMG_4011 これはシァ、ベンダ、3本ローラが一つになったものである。中国製で使い心地は今一つであるが、整備次第でもう少し良くなるであろう。本当は単能機3つある方が、はるかに使い心地は良い。


IMG_4014 これはハンダ付け専用のテイブルである。各種のジグがあり、押さえ付けて炭素棒でハンダを融かす。直角ジグはいくつか作ってある。フレキシブル・シャフトの回転工具もある。


IMG_4022 (1) クランクピンを作っているところである。快削鋼で作るので、つるつるに仕上がる。M2のネジを切るタップが必要となり、持って行った。彼の地ではメートルネジの工具は手に入れにくい。 

2024年05月08日

Dennis' workshop

 Dennisは長らくロストワックス鋳物の工房を経営していたが、体調の問題があって、設備一式を友人に譲って廃業した。

Workshop (1)Workshop (3)Workshop (2) その後工房を整理し、広い日当たりの良い工作室に作り替えた。車庫にあった大きな2トン近くある旋盤、フライス盤を処分し、小型のものに買い替えた。寒い冬にも座ったままで作業できるというのは有難いと言う。テキサスでも西部の高地にあるので、寒い時期の車庫での作業は辛かったそうだ。

Workshop (4) 床のモルタルをつるつるに仕上げ、樹脂を浸み込ませてあるので埃も立たない。小さな部品を落とした時は掃除機の袋を新しいものに替え、全体を掃除すると必ず見つかるという。これは見習いたい。

 蒸気機関車の整備はお手のもので、クランクピンを新製し、クランクを植え替えることなど朝飯前だ。すべての工作を3/100 mm以下の誤差に収めている。韓国製の全くダメな機関車を捨て値で手に入れ、下廻りを全て作り替えて最高の走りを作り出す。これは筆者の方針と完全に一致するので、長く付き合っているのだ。  

2024年05月06日

dead rail の課題

 アメリカには屋外レイアウトも多くなってきた。45 mmゲージが主流である。通電の確保には苦労しているようだ。LGBは集電シュウを付けているとは言え、通年で外に敷いてある線路から集電するのはかなり難しい。その結果、dead rail に移行する人が増えている。

 このサイズであるとバッテリィはかなり大きなものを積めるのであろうが、動力車の効率がよくない。どう考えても伝達効率は10%ほどである。これが30%になればかなり航続距離が稼げて楽になる。
 聞くところによると、機関車のみならず客車、貨車の中を電池で満たしている場合が多いという。ところがその客車、貨車の車輪はプラスティック製で摩擦が大きく、車軸も太いものが多いようだ。すなわち電池を増してもその重さで負荷を増やし、結局のところ、航続距離の増大に寄与しているようには見えない。

 軽い機関車でたくさん牽くというのが鉄道の本質である。問題解決の最初のところで間違っているような気がするのは筆者だけだろうか。そういう意味では高効率ギヤの価値が増すような気がしている。

 dead rail はこれからも進歩するだろうが、航続距離の問題だけは大きな部分を占め続けるだろう。突き詰めればそれは伝達効率の問題以外の何物でもない。高効率ギヤを採用された方はこの問題の半分は乗り越えているわけだから、ぜひ残りの部分に挑戦して戴きたいと思う。筆者のヤードのような特殊な事例でなく、普遍的な課題解決にもなるはずである。

 以前紹介したこのデヴァイスは約 5 Vで作動させることができるので、高効率ギヤには相性が良いのではないだろうか。 

2024年05月04日

続 最近のDCC

 Dennisは筆者のYoutubeを見て、関節式機関車の前後のエンジンが微妙にスリップしているのを感じ取った。その機関車には2個のモータが付いて、前後を独立に駆動しているからだ。きわめて自然である。

 ところが見せて貰った Bluenami には、あたかも "スリップしているかのような音" が出るモードがあるのだ。
 まず、一般の機関車は左右で2気筒であるが、3気筒を選ぶことができる。これはコンタクト・ホィールを付けているわけではないから、モータの回転から読み取るタイミングの間隔を狭くするだけであって簡単な話だ。しかし、そのタイミングは完全な三等分になっていないところがミソである。

 問題はその次で、スリップ・モードである。加速率を少し上げると、動輪が滑っているわけではないのに、スリップ音がするのである。その機関車の動輪を近くでじっと観察していると、奇妙なものである。
 関節機の場合は1回転で4回音がするのが2つあるわけだから、合計8回のドラフト音がするはずだ。その4つのタイミングを微妙にずらして坂道でのスリップを模擬する。片方だけ派手にスリップする様子も再現できる。しかしここまで来ると、何か詐欺にあっているような感じである。でも、売れているのだそうだ。HOのサイズで 5 mも離れていれば動輪の回転など見えはしないのだろうか。もちろん単機でも派手にスリップする音が出る。それはないよと思うのは、筆者だけなのだろうか。

2024年05月02日

最近のDCC

DCC (1) Dennisのレイアウトは1990年代から DCCである。はじめはLenzであったが、徐々にいろいろな機種を経てNCEになった。筆者は最初からNCEである。彼に2年ほど遅れて参入したが、かれこれ25年以上の経験があることになる。当時日本では、誰もと言っても良いほど仲間が居なかった。今でもDCCを採用している人は、2%以下だろう。  
 
DCC (2) 最近はかなりいろいろなところが進歩している。無線のcommander(手元の発令機)はいくつも市販されているし、車上に載せる子機の機能も異常なほどの発展を遂げた。写真はタブレットから操作するものである。これは類似品がいくつかある。

 Dennis のところで最新型の Blunami を見せてもらった。これは例の Tsunami の発展型である。こういうものに日本語を使うのも不思議だ。Tsunami が出てすぐに東日本大震災が起き、"Tsunami" が国際的に認知される言葉になった。彼らはその名前を使い続けるのかどうかを気にしていたが、結果として変化はなかった。今までのサウンド装置と比べてはるかに高性能で、大音量で明確な音がすることは間違いない。これは高価であったので、Econami というラインも発売している。 

 今度の Blunami には不可思議な機能が付いている。不可思議というのは筆者の主観的な感想である。一般には”大したものだ”と受け入れられているのだそうだ。 

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