2018年08月
2018年08月31日
崖の素材
何人かの方に種明かしを迫られたが、沈黙を守っていた。これは天井のタイルである。日本語ではなんという言葉を使うと正しいのかよく分からないが、商品名は大建ダイロートンと書いてある。かなり安いものだが、工事現場で捨ててある半端品を貰って来たからタダである。
材質はロックウール(石綿とは異なる人工物である)とセルロースだろう。後者は不燃加工してある。

それを 7 cm程度の幅に切り、半分に割って切り口を露出させる。表面は多少人工的であるので、下を向けて見えないように積む。
全体の褶曲の様子を頭の中で描いて、ある程度の角度で積む。支えの合板にも接着剤を付けて剥がれて来ないようにする。
この部分は背斜になっている。多分この下には石油が埋もれているだろう。だから石油タンクがあるというのは、出まかせである。
材質はロックウール(石綿とは異なる人工物である)とセルロースだろう。後者は不燃加工してある。




2018年08月29日
ユニヴァ―サル・ジョイントの不等速性
現物を手で廻してみると、この辺りは速くなる、この辺りは遅くなるというのが分かるが、紙の上で説明するのはなかなか難しい。傾いた軸を回転させながら正射影を見ると、回転部分の円周は楕円を描いている。周速度は一定でも、正射影は一定速ではないのだ。
そんな説明ではだめであるが、例の工学のエキスパートT氏が、素晴らしい絵を描いて送って下さったので、紹介したい。これを見れば一目瞭然である。よくもこんなうまい絵を描けるものだと、感心した。
優秀な人は易しい説明で相手を納得させるという良い実例である。自称専門家は、専門用語を並べ立てて、相手を煙に巻こうとするが、それは説明能力がないことを立証していることに他ならない。
先回紹介した音で角速度の変化を示す動画では飽き足らず、T氏は角速度変化を目でみる装置を作られた。まだ改良の余地があるそうで、この動画はより良いものができれば更新するそうだ。
途中の黒いリンク装置は動力を二つに分けるクランクである。歯車ではバックラッシがあって誤差が出るので、クランクにしたそうだ。その部分は見る必要が無いのだ。向こうの回転板は左右で位相差が分かるようになっている。追い越したり、抜かれたりする。
反対側から見た動画もある。

優秀な人は易しい説明で相手を納得させるという良い実例である。自称専門家は、専門用語を並べ立てて、相手を煙に巻こうとするが、それは説明能力がないことを立証していることに他ならない。
先回紹介した音で角速度の変化を示す動画では飽き足らず、T氏は角速度変化を目でみる装置を作られた。まだ改良の余地があるそうで、この動画はより良いものができれば更新するそうだ。
途中の黒いリンク装置は動力を二つに分けるクランクである。歯車ではバックラッシがあって誤差が出るので、クランクにしたそうだ。その部分は見る必要が無いのだ。向こうの回転板は左右で位相差が分かるようになっている。追い越したり、抜かれたりする。
反対側から見た動画もある。
2018年08月27日
阿里山のシェイ
阿里山のシェイについては多くの方から情報を戴いた。古い写真を点検されて間違いを確認して下さった。
結論として言えることは何も考えていなかった訳ではなく、間違った方向に統一したようだ。完全に孤立した社会で、他から全く干渉されなかったというのが、その間違いが温存された理由だろう。アメリカの場合は、シェイを使っているところがたくさんあるから、他所のを見るチャンスがあって、間違いを指摘されたりしたはずだ。
トラックのドライヴ・シャフトの話も出たが、それは正規の位相しか組めないようになっているのだそうだから、間違いようがない。急勾配の曲線上で客貨車を押し上げている時、彼らは何を感じたのであろうか。振動して当たり前と思っているなら、悲しい。
ちょうど友人のN氏が、1968年撮影というvideoを貸して下さった。DVDになっている原氏の台湾旅行記である。例によって撮りまくったもので、細かいところは一切写っていないが、当時の雰囲気は分かる。若かりし頃の 植松宏嘉氏の姿が写っていて、懐かしい。
原氏は機械工学を専攻したことになっているのだから、気が付いてもよさそうだが、その件については何もない。
最近のニュースによると、嘉義は大雨で浸水し、阿里山鉄道も運休のようだ。
結論として言えることは何も考えていなかった訳ではなく、間違った方向に統一したようだ。完全に孤立した社会で、他から全く干渉されなかったというのが、その間違いが温存された理由だろう。アメリカの場合は、シェイを使っているところがたくさんあるから、他所のを見るチャンスがあって、間違いを指摘されたりしたはずだ。
トラックのドライヴ・シャフトの話も出たが、それは正規の位相しか組めないようになっているのだそうだから、間違いようがない。急勾配の曲線上で客貨車を押し上げている時、彼らは何を感じたのであろうか。振動して当たり前と思っているなら、悲しい。
ちょうど友人のN氏が、1968年撮影というvideoを貸して下さった。DVDになっている原氏の台湾旅行記である。例によって撮りまくったもので、細かいところは一切写っていないが、当時の雰囲気は分かる。若かりし頃の 植松宏嘉氏の姿が写っていて、懐かしい。
原氏は機械工学を専攻したことになっているのだから、気が付いてもよさそうだが、その件については何もない。
最近のニュースによると、嘉義は大雨で浸水し、阿里山鉄道も運休のようだ。
2018年08月25日
再度 ユニヴァーサル・ジョイント
阿里山のシェイは混迷の度合いを増してきた。彼らは一体何をやっていたのだろう。曲線では異常な振動があるはずだし、駆動系の寿命も短くなる。
写真集もたくさん出ているが、それらも間違いを写している。撮影者や、編集者は何も感じないのだろうか。機構学の知識がなかったとしても、正しいシェイの写真を見たことがあれば、何かおかしいと気付くのが普通ではないか。

実はしばらく前のことだが、博物館の図書の整理をしていて、1976年のNMRA Bulletin(会報)を見付けた。その中に無視できない問題があった。
その記事は鉄道模型の動力伝達方式の研究で、10ページほどもある大論文である。モータの架装の仕方とかギヤトレインについて、細かく実例を書いてある。ところが、ユニヴァーサル・ジョイントの接続法が間違っている。丁寧に書かれた図が間違っている。説明文にも、90度捻るとある。これはどうしようもない。
その図の上の方にゴムパイプでつなぐ絵があるが、ギヤボックスの反動受けの話もない。前後進で調子の違う機関車ができる。
2,3箇月後の号に訂正が載るはずだと思って調べたが、見つからなかった。おそらくそのままになっている。NMRAも意外に低レヴェルである。AJINは間違っていたが、その図を見て間違えたわけでもあるまい。しかし、これは由々しき事態である。
その後NMRAには車輪の件で何度も手紙を出して間違いを知らせたが、規格担当者の資質の問題で、ますますおかしくなった。その件もあって、NMRAとは縁を切った。アメリカの O scale の友人たちは、「NMRAはHOの連中の集まりだから、付き合う必要などない」と、切り捨てた。
この件に関しては、栗生氏の記事の一番下の【追記3】にその顛末が出ている。
写真集もたくさん出ているが、それらも間違いを写している。撮影者や、編集者は何も感じないのだろうか。機構学の知識がなかったとしても、正しいシェイの写真を見たことがあれば、何かおかしいと気付くのが普通ではないか。


その記事は鉄道模型の動力伝達方式の研究で、10ページほどもある大論文である。モータの架装の仕方とかギヤトレインについて、細かく実例を書いてある。ところが、ユニヴァーサル・ジョイントの接続法が間違っている。丁寧に書かれた図が間違っている。説明文にも、90度捻るとある。これはどうしようもない。
その図の上の方にゴムパイプでつなぐ絵があるが、ギヤボックスの反動受けの話もない。前後進で調子の違う機関車ができる。
2,3箇月後の号に訂正が載るはずだと思って調べたが、見つからなかった。おそらくそのままになっている。NMRAも意外に低レヴェルである。AJINは間違っていたが、その図を見て間違えたわけでもあるまい。しかし、これは由々しき事態である。
その後NMRAには車輪の件で何度も手紙を出して間違いを知らせたが、規格担当者の資質の問題で、ますますおかしくなった。その件もあって、NMRAとは縁を切った。アメリカの O scale の友人たちは、「NMRAはHOの連中の集まりだから、付き合う必要などない」と、切り捨てた。
この件に関しては、栗生氏の記事の一番下の【追記3】にその顛末が出ている。
2018年08月23日
続々々 Shay geared locomotives



ユニヴァーサル・ジョイントの件には参った。ひどい話だ。誰も理屈が分かる人が居ないのだろう。昔はどうだったのだろうか。どなたか、古い写真集をお持ちの方は確認願いたい。台湾には知らせてやるべきだろう。開き直られると大変だ。そういう人もいるらしいから、気を付けて手紙を書かねばならない。
2018年08月21日
続々 Shay geared locomotives



火を入れればすぐ動きそうである。これはオイル炊きに改造されている。石炭を焚くのにはある程度の技量が必要であり、カマ焚きを養成するのはもう賄いきれないのであろう。



2018年08月19日
続 Shay geared locomotives



ユニヴァーサル・ジョイントは外してある。静態展示なら付けておくべきである。
ボイラーさえ更新すればいくらでも寿命は伸ばせるのだが、放置してある。要するにお金さえあれば直せるはずだ。どなたか懐の温かい方が手を伸ばして下さらないだろうか。



空気圧縮機が一つしかないが、不都合なく使えたのだろうから十分であったのだろう。ギヤード・ロコはエンジンブレーキが良く効くそうなので、それで良かったのかもしれない。
2018年08月17日
Shay geared locomotives

エンジンの構成が同じなら、逆転レヴァの向きが逆になりそうな気がするが、良いのだろうか。小傘歯車の減り具合によっては、歯の裏を当てて均一な減り具合を期待しているのかもしれないとも考えたが、前後を逆に運転すればよいことで、それも考えにくい。筆者は小ギヤは必ず前側にあるものだと思っていた。

鉄道公園になっていて、そこにはシェイが3輌あった。1輌は動態である。あとの2輌は保存状態が良くないのだろう。静態展示されている。



2018年08月15日
続々 阿里山



ここには整備工場もあったが、もぬけの殻で、壁に近いところに、古い旋盤とボール盤があった。旋盤の展示は向きが逆で、スピンドルが右にあった。おそらくもともとそういう向きにあったのだろう。観客の観覧スペイスを作るために、平行を保って奥にずらしたので、意味不明の展示となってしまった。こういうところは考えるべきである。






彼らもこの機関車が観光資源になると気付いたので、最近は大事にしている。40年前は、買おうと思えば、目方で買えるという話さえ聞いた。北朝鮮の蒸気機関車も、おそらく目方で買えるだろう。代わりの機関車を持って行けば、喜んで交換するかも知れない。狙っている人も居る筈だ。しかし、石油のない国だから難しいのかも知れない。
2018年08月13日
続 阿里山

この辺りから高原に入り、窓ガラスが熱くなくなる。植生も変化する。シェイの能力はこの種の急勾配、急曲線によく適合する。3気筒のものは特に調子が良かった。ドライヴシャフトが一回転する時のトルクが均一化されているから、スリップが起きにくい。


バスに乗ると阿里山頂上まで行けるが、時間的余裕が少ない。何かあると帰りの汽車に乗れない惧れがある。3時間ほど、そのあたりを散策した。
弁当屋が何軒かある。弁當という字を使う。日本語が残っているのだ。
2018年08月11日
阿里山


朝だけ3本の列車が、30分ごとに出る。うっかり早いのに乗ってしまい、席がないのでびっくりしたが、「30分後の列車である」と指摘され、慌てて下車した。車輛はリクライニング座席で、冷房付きである。冷房は個別のエンジン駆動のものである。
出発後10分足らずで、北門駅に着く。ここはその昔、大きな製材所があったそうだ。既に台湾ヒノキの巨木は枯渇し、製材所は取り壊された。現在は車輌基地があり、シェイの復元工事もしている。ここからさらに30分くらいは、ほとんど勾配を感じない。

古橋氏はシェイの運転室に乗って行くほどの ”顔” であった。また、機関士が名古屋に訪ねて来ることもあった。

2018年08月09日
台湾
台湾は時差が少ないので来やすい。最近は、台北の地下鉄網が完備されたので、市内の混雑の中をタクシィで移動する必要がなくなったのは助かる。しかも電車賃が安い。地下鉄のことを「捷運」という。英語の ”rapid transit” の直訳である。新幹線は「高鐡」という。高速度鉄道の略だろう。外国人には割引切符を提供してくれている。事前にインターネットで押さえるのだが、行ってみると、無効であったりする。金額的には大したことではないが、腹立たしい。ソフトウェアに問題がある。鉄道側は、随分恐縮していた。
阿里山の乗車券もインターネットで押さえられるが、これは外国人にはなかなか難しい。友人のアシストがなければとても無理であった。開通直後で、乗ってみると満席だ。立ち乗りもできるようで、かなり混む。
同行者は実によく知っているので、安くて安全な宿を押さえてくれた。また、食べ物も廉価で美味しい店ばかり行ったので、日本にいるより安いくらいだった。
筆者はシェイを1輌持っている。 祖父江氏が作った試作品である。途中まで作って放置してあったのを貰ったものだ。動力伝達装置を工夫して作り直そうと手を付けて、そのままになっていた。車輪も作り替えるつもりでいた。
本物のシェイを見るたびに写真を撮り、細かい構造を調べてきた。今回の訪台は良いチャンスである。じっくり見てきた。今回見たシェイは、今まで見た中で最小のものである。2-1/2フィートのシェイは初めてだ。
阿里山には、45年ほど前に、シェイの大家の故古橋正三氏に連れて来てもらう予定であったが、たまたま渡米することになって、そのままになってしまった。当時は生きたシェイがたくさん働いていた時代で、今思えば、万難を排しても来る価値があった。古橋氏には、8mm映画等をよく見せて貰ったが、そのうち行けるだろうと思っているうちに、チャンスが無くなった。
阿里山の乗車券もインターネットで押さえられるが、これは外国人にはなかなか難しい。友人のアシストがなければとても無理であった。開通直後で、乗ってみると満席だ。立ち乗りもできるようで、かなり混む。
同行者は実によく知っているので、安くて安全な宿を押さえてくれた。また、食べ物も廉価で美味しい店ばかり行ったので、日本にいるより安いくらいだった。
筆者はシェイを1輌持っている。 祖父江氏が作った試作品である。途中まで作って放置してあったのを貰ったものだ。動力伝達装置を工夫して作り直そうと手を付けて、そのままになっていた。車輪も作り替えるつもりでいた。
本物のシェイを見るたびに写真を撮り、細かい構造を調べてきた。今回の訪台は良いチャンスである。じっくり見てきた。今回見たシェイは、今まで見た中で最小のものである。2-1/2フィートのシェイは初めてだ。
阿里山には、45年ほど前に、シェイの大家の故古橋正三氏に連れて来てもらう予定であったが、たまたま渡米することになって、そのままになってしまった。当時は生きたシェイがたくさん働いていた時代で、今思えば、万難を排しても来る価値があった。古橋氏には、8mm映画等をよく見せて貰ったが、そのうち行けるだろうと思っているうちに、チャンスが無くなった。
2018年08月07日
ロストワックス
ケムトロンは鉄道模型に大量のロストワックスを提供した最初の会社である。社長のKemalyan氏はエッチングで車体を作り、手際よく製作できるキットを作った。
ケマルヤン氏は、Max Grayの友人で一緒に日本によく来ていた。カツミでいろいろなものを作らせて、アメリカで売るためだ。LobaughのChallenger用のテンダをはじめとして、様々なものを注文した。
本業は印刷屋で、フォト・エッチングはお手のものである。彼の製品のブラス板は普通のアメリカのブラスとは異なり、さらに緑色がかっている。印刷原版を作る板は腐食しやすい配合になっていて、それを使っているからだ。
日本では、鉄道模型社が世界で最初にエッチングを使った事になっているが、アメリカでも戦前からあったという話もある。大量か個人の楽しみかはわからない。
ケムトロンはゴムで型を取ってロウを流し込む普通のロストワックス以外に、金型にプラスティックを注入して作る方法(investment casting)を開発し、精巧な台車等を作っていた。
ライアン氏はそれをHOに応用したかったので、ケムトロンの主要な従業員を、ケマルヤン氏が日本に来ているうちに全て引き抜いた。別会社を作り、それをPFM製品に付けたのだ。かなり強引なことをやってのけたわけだ。このあたりのことは、またの機会に詳しく話そう。
博物館のレイアウトは少しずつ進捗している。今、崖の部分の堆積岩を作っている。地層が傾いているのがミソである。こうすると実感的である。隙間があるが、それはあとで埋める。
材料は何であろうか。
実は先月末から台湾に来ている。阿里山鉄道が何年も不通だったのだが、ようやく開通したので乗りに来た。筆者の中国語は全く感心できないレヴェルなので、元台湾に来ていた技術者の方たちに、連れて来てもらっているのだ。
その間の記事は、自動的に送り出されている。
ケマルヤン氏は、Max Grayの友人で一緒に日本によく来ていた。カツミでいろいろなものを作らせて、アメリカで売るためだ。LobaughのChallenger用のテンダをはじめとして、様々なものを注文した。
本業は印刷屋で、フォト・エッチングはお手のものである。彼の製品のブラス板は普通のアメリカのブラスとは異なり、さらに緑色がかっている。印刷原版を作る板は腐食しやすい配合になっていて、それを使っているからだ。
日本では、鉄道模型社が世界で最初にエッチングを使った事になっているが、アメリカでも戦前からあったという話もある。大量か個人の楽しみかはわからない。
ケムトロンはゴムで型を取ってロウを流し込む普通のロストワックス以外に、金型にプラスティックを注入して作る方法(investment casting)を開発し、精巧な台車等を作っていた。
ライアン氏はそれをHOに応用したかったので、ケムトロンの主要な従業員を、ケマルヤン氏が日本に来ているうちに全て引き抜いた。別会社を作り、それをPFM製品に付けたのだ。かなり強引なことをやってのけたわけだ。このあたりのことは、またの機会に詳しく話そう。

材料は何であろうか。
実は先月末から台湾に来ている。阿里山鉄道が何年も不通だったのだが、ようやく開通したので乗りに来た。筆者の中国語は全く感心できないレヴェルなので、元台湾に来ていた技術者の方たちに、連れて来てもらっているのだ。
その間の記事は、自動的に送り出されている。
2018年08月05日
2-truck Shay
PFMの極めて初期の製品に 2-truck Shay がある。筆者が祖父江氏に最初に会ったときに見せて貰った。その時は単なるHOのシェイだとしか思わなかったが、そのうちにそれがHOの最初のプロダクションモデルであると気付いた。再度じっくり見せてもらった。(写真は上のリンクの一番下の方にある。)
Oゲージのものとは伝導方式が違う。細いウォームをドライブシャフトに取り付けたウォームホイールに、斜めに裏側から当てている。ウォーム軸は片持ちである。うまい工夫だな、と感心した。しかしながら、祖父江氏は、
「3気筒のは、真ん中のヴァルヴギヤは動かねえんだ。インチキなんだけど、これでいいってんだから、しょうがねえよ。」
とぼやいた。
その機関車は祖父江氏の設計である。その試作品を保管していたのだ。
あと2,3輌のHOモデルがあった。ドイツ型の4気筒の機関車は、内側まで作られていた。プロダクションモデルでは、内側は省略されていたそうである。多分、ご自身の設計のものだろう。ギヤは外してあり、押すとするすると走った。
既に当時祖父江氏は50歳になろうかという時で、「老眼で、もうHOは見えやしないよ。」と言っていた。それから30年以上、彼はより進歩した模型を作り出したのだ。
このシェイのギヤトレインの設計は、その後の United の標準仕様となった。生産総数は万の桁であろう。もし祖父江氏がいなかったら、様々な点で大きな違いが生まれたことは間違いない。
Oゲージのものとは伝導方式が違う。細いウォームをドライブシャフトに取り付けたウォームホイールに、斜めに裏側から当てている。ウォーム軸は片持ちである。うまい工夫だな、と感心した。しかしながら、祖父江氏は、
「3気筒のは、真ん中のヴァルヴギヤは動かねえんだ。インチキなんだけど、これでいいってんだから、しょうがねえよ。」
とぼやいた。
その機関車は祖父江氏の設計である。その試作品を保管していたのだ。
あと2,3輌のHOモデルがあった。ドイツ型の4気筒の機関車は、内側まで作られていた。プロダクションモデルでは、内側は省略されていたそうである。多分、ご自身の設計のものだろう。ギヤは外してあり、押すとするすると走った。
既に当時祖父江氏は50歳になろうかという時で、「老眼で、もうHOは見えやしないよ。」と言っていた。それから30年以上、彼はより進歩した模型を作り出したのだ。
このシェイのギヤトレインの設計は、その後の United の標準仕様となった。生産総数は万の桁であろう。もし祖父江氏がいなかったら、様々な点で大きな違いが生まれたことは間違いない。
2018年08月03日
続 職人たち
HOの蒸気機関車の窓枠を抜くのは面倒だ。細い十字の窓枠を残さねばならない。
祖父江氏に聞いた話だ。竹野三郎氏という職人がいた。彼は0.2 mmのブラス板を12枚重ねてハンダ付けして糸鋸で抜いた。もちろんヤスリを掛けてから、ばらばらにする。大したもんだということになったが、祖父江氏が
「そんなもの、タガネでも抜けるぜ。」
と言って、6枚ずつ重ねて万力に銜え、先を斜めに研いだタガネで打ち抜いた。万力には研いだ口金を付けているのは言うまでもない。
板厚の半分の 0.1mm ほどずらしてやれば抜けるという。剪断による歪が出るから、そのひずみを窓枠に関係ない方向にもっていくのだそうだ。抜いたカスは、菱(ヒシ)の実か、蕎麦殻のような形になる。こうして6枚ずつを2回で12枚抜く時間は、竹野氏より短かったそうだ。
こういった特殊技能の自慢会ができるくらい、素晴らしい職人が揃っていたのだ。竹野氏は、PFMのリストにいくつかの作品が載っている。
日本には錺(かざり)職人の系譜がある。とんでもなく細かな作業をキサゲとヤスリでやってしまう。そういう人たちは、腕を磨いて、自慢し合っていたのだ。ライアンが来た頃には、その種の職人がたくさん居た。
<追記>
mackey氏の情報により、竹野氏のフルネームが判明した。感謝に堪えない。
祖父江氏に聞いた話だ。竹野三郎氏という職人がいた。彼は0.2 mmのブラス板を12枚重ねてハンダ付けして糸鋸で抜いた。もちろんヤスリを掛けてから、ばらばらにする。大したもんだということになったが、祖父江氏が
「そんなもの、タガネでも抜けるぜ。」
と言って、6枚ずつ重ねて万力に銜え、先を斜めに研いだタガネで打ち抜いた。万力には研いだ口金を付けているのは言うまでもない。
板厚の半分の 0.1mm ほどずらしてやれば抜けるという。剪断による歪が出るから、そのひずみを窓枠に関係ない方向にもっていくのだそうだ。抜いたカスは、菱(ヒシ)の実か、蕎麦殻のような形になる。こうして6枚ずつを2回で12枚抜く時間は、竹野氏より短かったそうだ。
こういった特殊技能の自慢会ができるくらい、素晴らしい職人が揃っていたのだ。竹野氏は、PFMのリストにいくつかの作品が載っている。
日本には錺(かざり)職人の系譜がある。とんでもなく細かな作業をキサゲとヤスリでやってしまう。そういう人たちは、腕を磨いて、自慢し合っていたのだ。ライアンが来た頃には、その種の職人がたくさん居た。
<追記>
mackey氏の情報により、竹野氏のフルネームが判明した。感謝に堪えない。
2018年08月01日
職人たち
PFM-NakayamaのUP7000は有名である。手際よくまとめられている。ボイラの上端の高さの線が、実物通りだ。それほど細かくはないが、繊細な仕上がしてある。
実は中山氏には1987年に、3回ほど会っている。中野区大和町に在住であった。その頃はもう引退して、お孫さんと遊んでいた。また、目が悪くなってもう仕事はできないと言っていた。作業場をみせてほしかったのだが、仕事をやめたのでつぶしてしまったと言う。その場所は駄菓子屋になっていた。眼光鋭い職人を想像していたが、穏やかな長身の好々爺であった。つぼみ堂系列の職人だったようだ。
「あのUP7000は素晴らしい。」と告げると、「写真と図面を渡されたから、その通り作っただけですよ。大したことは無いです。動輪は何かの流用ですよ。」と言った。確かにこのボックス動輪は、あまり感心しない。Mohawk L4b の動輪に孔をあけ足したような感じだ。聞けばOゲージもいくつか作っていて、その中にMcKeenもあった。
残骸が転がっていたので、お願いして簡単に修復してもらい、相当額で購入した。後部台車はないとのことで、それは自作した。
この McKeen の屋根は叩き出して作ってあり、そのすべての面にリヴェットが打ち出してある。なかなか難しい細工である。また、窓は糸鋸で切り抜いてあり、曲げた真鍮線の縁取りが付いている。
現在はDCC化してあり、内部には3つのデコーダが載っている。走行、はずみ車、音声用である。マーカーライトには小型電球を入れたが、現在のLEDを使えば、もう少しうまくまとめられる。更新が必要だ。
実は中山氏には1987年に、3回ほど会っている。中野区大和町に在住であった。その頃はもう引退して、お孫さんと遊んでいた。また、目が悪くなってもう仕事はできないと言っていた。作業場をみせてほしかったのだが、仕事をやめたのでつぶしてしまったと言う。その場所は駄菓子屋になっていた。眼光鋭い職人を想像していたが、穏やかな長身の好々爺であった。つぼみ堂系列の職人だったようだ。
「あのUP7000は素晴らしい。」と告げると、「写真と図面を渡されたから、その通り作っただけですよ。大したことは無いです。動輪は何かの流用ですよ。」と言った。確かにこのボックス動輪は、あまり感心しない。Mohawk L4b の動輪に孔をあけ足したような感じだ。聞けばOゲージもいくつか作っていて、その中にMcKeenもあった。


現在はDCC化してあり、内部には3つのデコーダが載っている。走行、はずみ車、音声用である。マーカーライトには小型電球を入れたが、現在のLEDを使えば、もう少しうまくまとめられる。更新が必要だ。