2016年08月

2016年08月31日

続 O Scale Resource

 OSRは、もともとあった紙媒体の雑誌を受継いでいる。数千部では経費ばかりかさんで採算割れしてしまった。いっそのこと、無料のウェブ雑誌にしてしまえば、採算が取れるという計算だ。大きな利益を目的としていないので、損失がなければよいのだ。編集者は、良い書き手を求めて、取材活動をしている。くだらない投稿記事ばかり並べるような雑誌とは、一線を画しているのだ。

 編集者は、筆者と過去に何回か話をしている。記事にあったように、Melissaが日本に来て、当家に逗留していった報告を聞いて、ぜひとも詳しい話を聞きたいと思ったのだそうだ。
 博物館のレイアウトの分岐がハンドメイドであることには甚く感動していた。例の4番Y分岐と8番の関係など、目から鱗だったようだ。また、持って行った等角逆捻りのサンプルを見て、眼を輝かした。
「これはすごい発明だ。このデモンストレイションをやったら、みんな拍手喝采だよ。」
線路を持って行かなかったので、ハーマンの遺品の線路を借りて置いた。p.28の写真を見ると泣き別れになっているが、そんなことはどうでもよい。3点支持のまずいところがよくわかったのだ。

 ハーマンの奥さんが、
「線路がたくさんあるが、持って帰れるものなら博物館に寄贈したい。」
と言う。有難い申し出であった。線路はいくらあってもよい。ショウケースの中の展示用が不足していた。縦横高さの和158 cm以下であれば持って帰れる。航空会社の上級会員になっているので、荷物の数も余裕がある。数十本貰い、ちょうど良い箱を作って入れた。他にも、
「組み掛けの貨車キットなども、持って帰ればどうか。」
と勧めるので、10輌分ほどもらってきた。完成時には「ハーマンからの寄贈」というシールを貼る。
  墓地でハーマンの墓に参り、
"Bye bye, Harmon."
と言った瞬間に、それまで気丈に振舞っていた奥さんが号泣した。遠いところを来てくれたことを感謝された。

 帰国してから、すでに半分以上組んでしまった。欠落した部品は自作して補った。どれもシカゴ近辺の鉄道会社の貨車である。久しぶりの車輛工作だ。ハーマンのことを思い出している。

2016年08月29日

O scale Resource

 昨日友人から連絡があって、記事が載っていると言う。開いてみたら、5ページもあって驚いた。27ページからである。編集者によると5,6回の連載にするつもりだそうだ。この雑誌は無料のウェブ雑誌で、広告費と寄付だけでやっている。金を取る雑誌よりも中身が良いと評判である。数千人の定期読者がいるそうだ。

 先日、シカゴに行ったときに、亡くなったハーマン宅を弔問し、墓参した。その時、奥さんが編集者に筆者が来ることを連絡したのだ。彼は急いでやってきて、3時間半のインタヴュを受けた。
「世界中であなたしかやっていないプロジェクトを紹介したい。なぜ、ここまで機関車の性能向上に心血を注ぐのか、それは一体何が始まりだったのかを知りたい。誰があなたに影響を与えた(mentorという言葉を彼は使った)のか。」と聞く。
 彼はジャーナリストである。今まで、仕事上でも趣味の世界でも、さまざまな報道関係者と話をしたが、彼の姿が一番正しい。核心を突いているのだ。

 i-Padの写真を見せながら、いくつかのサンプルを机の上に並べて見せた。彼は一つずつ動かしてみて、驚嘆した。
「これは模型の世界ではない。とてつもなく素晴らしい性能だ。どうして模型製造業者が飛びついてこないのだろう。」と聞く。
「単純に言えば、彼らに能力がないからです。見ても理解できない人たちなのです。実際に走らせていないから、100輌牽くと言っても、フーンで終わってしまうのですよ。」
と答えた。
「誰にもわからない、とは思えないけど。」
「ごく一部の人はわかります。今回も車輪を1000軸ほど買ってくれた人がいて、それを持ってきました。また、韓国の製造業者はこの歯車を欲しがりました。」
「でも、実用化されなかったよね。」と畳みかける。
「アメリカのインポータがそれを蹴ったのです。頭が悪いとしか言えませんよ。『単なるマスターベーションの一種だ。』と言ったそうです。でもヨーロッパには売れたようです。それほど高いものではないからね。」
「うーん。そうだね。」

 100輌以上の列車が1輌の機関車によって牽かれ、なおかつ下り勾配で発電しながら降りて来る様子をヴィデオで見せると、
「これは世界中に見せる必要がある。」と言った。           
 
 忘れていたが、このブログの開設10周年の記念日が過ぎたことを指摘された。 

2016年08月27日

gas engine

Greenfield Village (26) これがそのガス・エンジンである。gas motorとも言う。「〇×モータース」という言葉はここから来ている。アメリカではいまだによく聞く。diesel motorという言葉もある。

Greenfield Village (29) さて、エンジンはこの配置であったのだ。排気ガスは観客のほうに出て行ったらしく、途中で切れている。軸受は二つで、クランクケースはない。コンロッドやピストンの潤滑はどうしたのだろう。シリンダの中頃にパイプがある。そこから潤滑油を滴下したのであろう。油は飛び散り、ブロゥ・バイ・ガスはすさまじいものだったろう。点火プラグが見えないから、焼玉エンジンのようなものであったのかもしれない。窓を開けないと、とても運転できないだろう。
 当時は電気モータは非常に高価だったようだ。また直流送電の区域では大電流が取れず、使えなかったらしい。

Greenfield Village (25)  翼の組み立てはここで行われたのだ。堅い木を接続して作られ、ワイヤで引張って羽を捩じる工夫がある。細かい細工は自転車の技法を駆使してあり、自転車屋ならではである。

Greenfield Village (28) この一角にはボーリング中のガス・エンジンがある。4気筒だ。既存のものでは役に立たなかったので自作し、出力を上げている。この大きさでもせいぜい12馬力であるが、他の熱機関に比べると、対質量比で大きく勝っている。

 風洞では、揚力を羽の断面を変えながら測定していた様子が分かる。彼らは職人であると同時に科学者であった。考えながら作るというところが、他の挑戦者と大きく異なるところであったことを実感した。理屈だけではだめなのだ。

2016年08月25日

Curator

 Henry Ford博物館の隣にあるGreenfield Villageは、古き良き時代のアメリカを再現している博物館である。明治村は、これの劣化コピィである。

 Edisonの研究所とか、Wright Brothersの自転車店もそのまま本物を移築して、内部も再現してある。エジソンの研究所には電池の開発のための、ありとあらゆる試作品があった。試薬瓶もかなりたくさん当時のものを置いてある。錫箔に録音した当時の機械を実際に作動させて、音声の再現を見せてくれる。ただしアルミ箔であった。

Greenfield Village (18)Greenfield Village (19) ライト兄弟は自転車屋を開いていて、その利益で飛行機の開発をした。当時の自転車はとても高く、現在の3000ドルほどもしたそうだ。だからこそ、開発資金が賄えたのだ。
 裏には自転車を加工する工場があり、その一角で飛行の原理を研究した。風洞なども当時の本物がある。研究ノートも再現してある。

Greenfield Village (23)Greenfield Village (22) 1989年に行ったとき、筆者はその工場の動力がないのに気が付いた。天井にはベルト駆動で旋盤、ボール盤を動かすシャフトがあるのに、どこにも動力がない。
 たまたまやって来たキュレイタに、
「この工場の動力は何を使っていたのですか。ないのはおかしい。」と聞いてみた。
 彼女は博士号を持つキュレイタで、
Greenfield Village (29)「確かにおかしいですね。蒸気機関はこの工場にはあまりにも大きすぎて維持が大変ですし、水車というのも考えられない場所です。小型のgas engineかもしれない。」と言う。
ちなみにガスエンジンというのはガソリンエンジンのことである。
「とても素晴らしい質問です。早速調査して、今度お越しになるときには、納得のいく形にしておきます。」ということであった。
 今回はその確認もあって、楽しみにしていた。 

2016年08月23日

Atlantic

Greenfield Village (32) このアトランティック 4-4-2は出発時の牽引力を一時的に増すための装置を持っている。文字通り、traction increaser と呼ぶ。従台車のイコライザ中心穴が上下に長い。長穴の上は親指が入るくらいの隙間がある。

Greenfield Village (4) 下から覗くと、蒸気シリンダが2本下向きに取り付けられている。テコでイコライザの動輪に近いところのピンを押し下げるようになっている。そうすると第二動輪の軸重が3割くらい増す。機関車は後ろが持ち上がり、妙な姿勢になるが、短時間のことである。加速する間はこの姿勢を保つ。機関士の乗り心地は良くないだろう。これは以前理屈を図示したので、覚えていらっしゃる方もあるだろう。筆者は、理屈は承知していたが、現物を見るのは初めてだった。図面はp.202にある。

 機関庫内にいたcurator(日本語では学芸員)に、この装置のことを聞いてみた。多分知らないだろうと思っていたのだが、実に正確にその機能を説明してくれた。その瞬間に機関車の姿勢が変わることまで知っていた。さすがはヘンリィ・フォード博物館である。

 博物館はキュレイタで持っている。能力のないキュレイタしかいない博物館は、「仏作って魂入れず」である。日本の博物館には、不合格点しか付けられないものがかなりある。

2016年08月21日

Russian Iron の表現

 この方法は膜が薄いところが良い。電着した膜は加熱によって硬化させる。おそらく、熱硬化性樹脂(エポキシ系か)を用いている。低温ハンダを使うと、ばらばらになるかもしれない。
 常識的にはマイナス極に析出させるはずだ。陽極には溶けにくい金属が良いが、ステンレス板で十分だ。電圧はそれほど問題にはならない。適当に調節すればよい。模型用の電源で十分だ。電流は少ない。

 この方法では、色が自由に選べるので、黒染めの代用になるかもしれない。あらかじめニッケルめっきを施すと色が良くなるだろう。アメリカの機関車の一部にはラシアン・アイアン風の緑色のボイラ・ジャケットがある。それも簡単に再現できるはずだ。 

 先回の黒い被膜の機関車も、この方法で仕上げる方法が可能だろう。 塗装に依らない機関車の仕上げの時代が来るかもしれない。
 HO以下のサイズなら、全体を容易に液の中に沈める ことができる。凹凸があると、凹んだ部分は電界が小さくなるので、やや不利だが、それも工夫によって克服できる範囲にあるとみている。相対する電極をとがらせて、その近くに持って行けばよいのである。電界を狭い範囲だけ大きくするわけだ。

2016年08月19日

続 Russian Iron

 ラシアン・アイアンの表現は塗装による再現もあるだろうが、筆者の興味のある方法は化成処理である。これは顔料を含む電荷をもった粒子の懸濁液(suspension)であろう。電圧を掛けると電気泳動を起こし、被着物の表面で析出する。自動車の車体を防錆加工する時の電着塗装と同じ原理を用いている。 
 この製品はある程度の厚さに着いたところで、加熱処理をして定着させている。見たところ、めっき面のような光沢と適度な色を持っている。

 残念ながら、筆者のコレクションにはこれを施すべきものがない。どなたか試されたら、報告をお願いしたい。


henryford1 さて、Greenfield Villageの鉄道には素晴らしい4-4-2がある。この色をご覧戴きたい。塗装ではない。表面処理でこの色を出している。
 文字では表現できない色だが、黒みがかった銀色である。30年ほど前、木曾森林の0-4-2のGゲージ程度の大きさの置物が売り出されたが、その色と似ている。上廻りのみならず、下廻りにもかなり施されている。

Greenfield Village (33) この角度から見るとよくわかるが、ボイラーバンドも同じ処理である。とても立派な機関車である。キャブは木製だ。この機関車はヘンリィ・フォ−ド本人がとても気に入っていて、早い段階から購入して保存していたものだそうだ。

 この種の表面処理は機関車ではあまり見ないが、古い大型のキッチン・ストーヴ(調理用のかまど)や、暖炉に施されているのを見たことがある。

2016年08月17日

Russian Iron

Greenfield Village (10) ラシアン・アイアンの処理の仕方の説明を探しても、なかなか見つかるものではない。もうすでに誰もやっていないからだ。
 博物館での再生処理は秘伝の方法でやっているのだろうが、公表されているとは思えない。 古い文献を当たると、それらしいものが見つかる。
 筆者の祖父が使っていた金属便覧昭和25年版には、 400 ℃ で融解した硝石(硝酸カリウム)に清浄な鉄板を浸すと書いてある。
 硝酸カリウムの融点は 333 ℃ だから、それほど高くない。ハンダごての先の温度のほうが高い。るつぼに硝酸カリウムを入れて融かし、磨いた釘を入れると確かに酸化被膜が付き、青みを帯びた艶のある被膜ができる。高温の硝酸カリウムは徐々に分解して酸素を放つので、それが鉄に結び付くのだ。
 しかし、これを大きな鉄板に施そうと思うとなかなか大変だ。どういう装置でやっているのだろう。 
 
 出来たものを、油を付けてぼろきれで磨くと、さらに艶が出る。青い色は干渉膜の色だろうから、削らないように拭く程度だろう。昔の機械式の掛時計のゼンマイ・バネの色が近いが、あれはすぐ錆びてしまう。おそらく、緻密な膜ではないのだ。その点、ラシアン・アイアンは屋外で使っても大丈夫だ。

 模型に塗ってあるのをたまに見るが、艶消しになっていることがある。これは明らかな間違いだ。本物はピカピカだ。そうでないと錆びてしまう。塗装で再現するのは難しいが、銀塗装して磨き、さらに透明青塗料を掛けるぐらいしか思いつかない。プラスティック模型の世界には達人がいらっしゃるだろうから、テクニックを紹介してほしいものだ。

2016年08月15日

the Henry Ford

 アメリカに行っていた。友人に案内を頼まれて、シカゴ、デトロイト方面に行ったのだ。降って湧いた話で、何の準備もなく出発した。 向こうに着いてから、会うべき人と連絡した。
 最近はこの手の話がよくあって、今後この種の通訳・ガイド・ビジネスができるかもしれない。

 表題のヘンリー・フォード博物館はこれで5回目だと思う。最初は1973年で、
まだ隣のGreenfield Villageがそれほど充実していなかった。76年もさほど変わりがなく、89年はかなり建物が増えていたと感じた。
 名古屋に、トヨタの作った産業技術記念館という博物館がある。明らかにこのヘンリー・フォード博物館の劣化コピィである。真似をするなら、完全な真似をすべきであった。

 周辺の道路にある行先表示は、最近は表題のような表現になった。固有名詞にtheが付くようになったのだ。「あなたの行きたいヘンリー・フォード博物館はここです。」という意味になったわけだ。
 
 2009年に鉄道施設の拡充があり、扇形機関庫、転車台が整備された。収蔵されているのはかなり大型の4-4-2などで、非常に美しい。塗装でなく、鋼の表面を緻密な酸化被膜で保護した、いわゆるRussian Ironである。

 この色については様々な場所で論議されているが、あまり正しいことは示されていない。塗装による再現の話題もあるが、それを見ても正しいとは思えない。反射光であるから、塗膜の中での反射では解決するわけにはいかないのだ。 

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