2013年12月
2013年12月22日
Bear Lake



日本人には華氏温度は縁がないが、これだけは覚えていた。−40 °F は−40 °Cである。
華氏というのは英語でファーレンハイトというから、その最初のファを中国語の華(ホァ)で置き換えたのだ。
しかしそんな温度になるはずがないと思っていたら、この地ではよくあるのだ。高地で盆地であるから、よく冷えるのだ。筆者がソルトレークで経験した最低気温は、−37 °Cである。大して違わないが、ローガンはとにかく信じられないほど寒いところだ。
ちなみに筆者が体験した最も低い温度は−57 °Cである。スキー場の山のてっぺんで標高3800mである。新雪の中を滑りながら、ここで転ぶと、春先まで見つからないのだろうなと、ヒヤヒヤした。
オグデンから北に伸びる支線は、峡谷を登り、ローガンの近くをかすめてポカテッロの方に行く。ローガンには支線は通っていない。分岐した枝線が街を一巡りしているが、果たして現在も使っているかどうかは怪しい。おそらく、収穫期にカヴァード・ホッパをつないで、短い貨物列車が通る程度であろう。踏切は警報器も設置してある。
支線の開通当初は街の中を通る線ができたのだろうが、そのうち短絡線ができて、そちらを列車が通過するようになったのだと思う。
久しぶりのユタ州訪問で、あちこち友人を訪ねて走り回った。その書き溜めてあった訪問記もこれで終わりである。年末は、しばらく休刊とさせて戴く。
2013年12月20日
Bear River

Bear Riverの河口には、淡水域を設けて、野鳥の楽園が作られている。渡り鳥の休息のための池である。かなり広い。数十平方キロぐらいある。渡り鳥が、塩湖に間違えてたどり着いても、ここまで来れば安心だ。


河口付近の町にBrigham Cityがある。Promontoryを通る旧線の跡を探してここに来たのだが、既に宅地化していて分からなかった。もう一度詳しく下調べしてから来たいと思った。
ユニオンパシフィック鉄道の支線は、ここから北上してPocatelloを経て、Portland方面に行く。Snake Riverに沿っていく風光明媚な路線だ。ただ、勾配がかなり急なので、あまり長い編成ではない。
1989年にFEF3(4-8-4)が走ったときに、ここに来て写真を撮った。自動車があまり高性能ではなかったので、振り切られた場所だ。90マイル/時(144km/時)以上出ていた。友人たちはポカテッロまで追い掛けていった。
日本では蒸気機関車は遅いものの代表であったが、アメリカでは速い物の代表である。轟音を発して筆者の車を抜き去って行った。
2013年12月18日
続々々々々々 Lucin Cutoff


Midlakeは1945年まで45年間機能し続けたが、腕木信号機を廃止し、CTC方式を採用してその歴史を終えた。当時の電信係は3人で、全て女性であった。戦争中であったからそれは当然であったろう。
建物は全て取り外されて、プロモントリィ半島の先端のキャンプに移され、保線作業の宿泊所になった。
Midlakeは遠足の場としても人気があった。「汽車に乗って海に行く」と銘打って、遊びに行ける場所であった。そこで降りて、1、2時間を過ごし、帰りの汽車を待つわけである。どこにも行けないので、すぐ飽きてしまっただろうが、この企画は、随分人気があったようだ。筆者が世話になった人(1927年生まれ)の話によれば、デートをする場所としては良い場所であったそうだ。
ここまでの話は、筆者自身が多くの人に聞いたことをもとにしている。その主たる部分はDon Strack氏の談話である。 図面や写真はアメリカの国会図書館からお借りしている。
追記 Youtubeに、参考になる記録映画がUPされた。(2017.10.2記)
上記のリンクは新しいものが公表されたので更新した。(2019.12.21記)
2013年12月16日
続々々々々 Lucin Cutoff

一番大きな流入河川は北東部からのBear Riverである。北東部の湾は土砂で埋まり、とても浅いので塩田が発達している。深さ1mほどの見渡す限りの塩田に湖水を導き入れ、太陽光をよく吸収するように青い染料を溶かす。放置しておけば塩が析出するので、それをブルドーザでかき集めて出来上がりである。ブルドーザのキャタピラ(クローラ)は塩水に浸かり、エンジン部分と人間だけが水面から出ている。仕事が終わって陸地に上がってくると、キャタピラは全く錆びていない。飽和食塩水中には酸素が溶けにくいので、錆が発生しないのだ。使用しない時にしばらく外に置いてあると、多少錆びる。
水面の上下は、降雨量によって決まる。80年代の水面上昇により、Causeway(築堤)は大幅に積み増しを余儀なくされた。防波堤になった貨車は、もう見ることができない。完全に埋められてしまったのだ。
南北の水面差が大きくなると、築堤に掛かる力も大きくなって、不安だ。製塩業者は湖水の塩分が減少して、商売が上がったりだと訴訟になった。結局のところ、築堤を一部破り、橋を架けて南北の水が通じるようにした。

この湖は大きさが九州程度で、深さが7、8m程度らしい。もちろん水位が高くなると、10m以上の深さになる。流入と蒸発のバランスが取れていれば良いのだが、たまにそれがずれると、人間はあたふたするのだ。流出河川のない湖は、往々にしてこのようなことになる。
2013年12月14日
続々々々 Lucin Cutoff
湖の深さはせいぜい 10 m 足らずであるから、埋め立て用の岩石を運ぶ箱船が通れるように、canal(水路と訳すのだろうか、要するに多少深く掘った掘割)を作って、積出の岸壁と現場を結んだ。この水路と波止場は衛星写真でもはっきりわかる。
箱船はカリフォルニアの工場で組み立てられ、いくつもの部分に分割され、鉄道で現場に運んで再組立てされた。箱船の底は開いて岩石が投下されされるようになっていた。
岩石を採る場所はプロモントリィ半島の先端より西岸を2マイルほど行ったところにある。運び出すベルトコンベアは、 Hewitt-Reynoldsによって作られた。少々高いところにあるので、重力で自力で動き、付いているモータが発電機となって24時間操業の電力の大半を供給した。掘削するパワー・ショベルの動力もまかなえた。
このようにして作られた築堤は標高4218 ft (1285 m)まで積み上げられた。1905年の木橋建設の時の築堤は 4213 ftに作られたのだが、長年のうちに沈下し4205 ftにまで下がっていた。新しい築堤も少しずつ沈下し、4212 ftになってしまった。
1982年、突然湖の水位が上昇し始め、1985年には最終的に4212 ftにまでなった。築堤は水没の危機に見舞われ、築堤の積み増し工事が急ピッチで行われた。築堤の北側部分の水位上昇が早かったので、そちらの手当が急がれた。古いboxcarやhopperが大量に集められ、線路際にぎっしりと並べられた。天井は外してある。それらに土砂を詰め込み、防波堤としたのだ。しかし、南側も高くなり始めた。
嵐がやってくると、波は線路を洗い、線路は曲げられて無茶苦茶になった。保線作業で数日間は不通となってしまう。その間、列車は南岸沿いのWestern Pacific経由とせざるを得なかった。
箱船はカリフォルニアの工場で組み立てられ、いくつもの部分に分割され、鉄道で現場に運んで再組立てされた。箱船の底は開いて岩石が投下されされるようになっていた。
岩石を採る場所はプロモントリィ半島の先端より西岸を2マイルほど行ったところにある。運び出すベルトコンベアは、 Hewitt-Reynoldsによって作られた。少々高いところにあるので、重力で自力で動き、付いているモータが発電機となって24時間操業の電力の大半を供給した。掘削するパワー・ショベルの動力もまかなえた。

1982年、突然湖の水位が上昇し始め、1985年には最終的に4212 ftにまでなった。築堤は水没の危機に見舞われ、築堤の積み増し工事が急ピッチで行われた。築堤の北側部分の水位上昇が早かったので、そちらの手当が急がれた。古いboxcarやhopperが大量に集められ、線路際にぎっしりと並べられた。天井は外してある。それらに土砂を詰め込み、防波堤としたのだ。しかし、南側も高くなり始めた。
嵐がやってくると、波は線路を洗い、線路は曲げられて無茶苦茶になった。保線作業で数日間は不通となってしまう。その間、列車は南岸沿いのWestern Pacific経由とせざるを得なかった。
2013年12月12日
続々々 Lucin Cutoff

しかし、橋の信頼性が確立された1933年には、放棄された。そこにあった駅、補給設備、保線のための設備は全て撤去され、砂漠に戻った。ただ、沿線の牧畜業者のために、水を運ぶ列車が月に2回程度運行されたのだそうだ。そこでは羊を飼っていた。保線されていない線路だから、かなりの悪路であったことが想像される。
勾配は急で、貨車を6輌しか牽けなかったという。
鉄道会社は完全に廃線にしたかったのだが、建設当時に国との契約で得た沿線の権利を失う可能性があって、なかなかそれもできなかったが、1942年に戦争が激しくなり、鉄を供出する必要もあって、完全に線路がめくり取られた。大陸横断鉄道敷設時には、建設促進のため、敷いた線路の両側10マイル(16 km)が鉄道会社のものになるという、今では信じられないような条件が提示されていた。

湖の底には泥が10mほど堆積しているので、ただ岩石を投げ込んだだけでは意味がない。浚渫作業が必要であって、それを請け負ったのがMorrison-Knudsenであった。この会社は現在では機関車を作っているが、創業からしばらくはアイダホ州を中心に土木建築を請け負っていた。モリソン氏はコンクリートの専門家だったらしい。
築堤が建設され始めた頃、木橋が火事になって、180mほど焼失した。その復旧工事をしたのもこの会社である。水面下の燃え残った部分に継ぎ足して、仮の鉄橋を掛けて復旧した。それを短期間にやってのけたので、名を挙げた。Pentrexから、その時の動画が発売されている。
火事の原因はhot box(軸箱の過熱)であった。油切れで焼けたぼろきれが軸箱から落下したのだ。
2013年12月10日
続々 Lucin Cutoff

レッドウッドは雨ざらしにしてもあまり傷まない赤身の部分のみを使っている。この写真は我が家の破風を飾っているレッドウッドの切れ端である。日光の当たるところに10年ほど置いてあったのを持ってきて、写真を撮るために、さっと払っただけである。さほど傷んでいるわけではない。上の木片が載っていたところの色が少し違う。多少の雨が当たったようだが腐らずによく持っている。
レッドウッドは巨大な木で、直径 5 m, 高さ 70〜80 m 位が普通である。山火事になっても生き残るので、レッドウッドの森ができると聞いた。

これは手斧で仕上げた暖炉の上の横木である。この再生レッドウッドを使って立てた家や、仕上げた床などが映っている。筆者はこの種の素朴な仕上げが好きである。英語ではrusticという表現をする。このような家を建てたかった。

杭が打たれると、上を揃えて切り、横木を渡して梁を掛ける。床板を張ったらアスファルトを塗って、砂利を30cm以上の厚さで敷く。
湖の真ん中には信号所(Midlake)ができ、要員が寝泊りできる設備もあった。汽車が止まるので、そこまでの遠足も企画された。
2013年12月08日
続 Lucin Cutoff
「大陸横断鉄道がどうして塩湖の北の経路を取ったか?」ということはよく質問される。それは南岸ルートは塩の上にあるからである。水が入り込んでやや緩い部分が何箇所かあり、そのぬかるみを避けたのである。
いわゆるオウヴァーランド・トレイルは南側の山の中を通るが、、湖岸の平坦な近道はタイヤの細い馬車にはなかなか大変な道だったらしい。だからほとんどの人は、地盤がしっかりしていて、勾配の緩いオレゴン・トレイルを通りたがったのだ。
湖岸は現在はI-80やWestern Pacificのルートになっている。土木技術の進歩で、そのぬかるみを排除して堅い岩で基礎を作ったのだ。
さて、木橋は徐々に傷んで、永久的な構築物に作り変える必要が出てきた。causewayで出来ている部分はそれを補強し、橋は放棄して新たなcausewayを築く必要があった。その莫大な量の岩石を調達したのは、Promontory半島の西側である。80年代にそこに行ってみた。山を崩して岩を取った跡がありありと見える。岩石は、薄く割ることができる頁岩shaleである。それを運んで埋め立てたのだ。幅は20mもある。一体何台のダンプでやったのかは知らないが、世紀の大工事の一つである。 この写真はこのサイトからお借りしている。

石は1988年に筆者が採取したもの。
もともとのcausewayから、橋に切り替わる部分で、500mほど北に離れて並行する線路を作った。地図で見ると急に見えるが、ゆるやかな曲線である。廃止された橋はそのまま橋脚が残っていた。友人とその利用法について話したことがある。
「昔は無尽蔵にあると思っていたレッドウッドも最近は国立公園に指定された森林が増えて手に入りにくくなってきた。どうだろう、あの木橋を払い下げて貰って、それを製材すればきっと売れるよ。」
「そりゃそうだけど、そんなことに銀行が金を貸してくれるだろうか。」
その場ではそれ以上話が進まなかったが、その後同じアイデアを実行した人達がいる。この写真はここからお借りしている。
いわゆるオウヴァーランド・トレイルは南側の山の中を通るが、、湖岸の平坦な近道はタイヤの細い馬車にはなかなか大変な道だったらしい。だからほとんどの人は、地盤がしっかりしていて、勾配の緩いオレゴン・トレイルを通りたがったのだ。
湖岸は現在はI-80やWestern Pacificのルートになっている。土木技術の進歩で、そのぬかるみを排除して堅い岩で基礎を作ったのだ。



もともとのcausewayから、橋に切り替わる部分で、500mほど北に離れて並行する線路を作った。地図で見ると急に見えるが、ゆるやかな曲線である。廃止された橋はそのまま橋脚が残っていた。友人とその利用法について話したことがある。

「そりゃそうだけど、そんなことに銀行が金を貸してくれるだろうか。」
その場ではそれ以上話が進まなかったが、その後同じアイデアを実行した人達がいる。この写真はここからお借りしている。
2013年12月06日
Lucin Cutoff

最近は、辺り一帯はNational Historical Siteになっていて、犬釘一本拾っても検挙されるそうだ。70年代は犬釘がゴロゴロ落ちていて、来た人たちは、拾って帰った。友人の家にはそのコレクションがあったほどだ。筆者も何本か貰い受け、椙山満氏に差し上げた。椙山氏は立派な額を作ってそれらを飾られた。
この線路が放棄されたのはもっと短く平坦な線路が開通したからだ。それが Lucin Cutoff である。Cutoffというのは短絡路のことである。塩砂漠の中を何10キロも線路を敷き、その先に広がる塩湖にこれまた何10キロも伸びる橋を架け始めたのだ。それが1902年のことである。ちょうど土木機械が発達し始めた頃の話である。Licinはその西の分岐点の地名で、今はゴーストタウンになっている。ルシンは女性の名前である。
工事は休みなく行われ、1905年1月1日を以て、すべての列車が湖面を見ながら走ることになった。


上記のリンクで 写真を見ると、ロケットの噴射実験の場面がたくさんある。近くに、ロケット・エンジンの工場があるからである。その名前はThiokol社で、スペースシャトルの爆発のときによく出てきた。
2013年12月04日
続 Antelope Island へ



当時は湖面が比較的高く、島までは馬で30cmの水の中を歩いて行ったという。島には十分な湧水があり、入殖が始まった。その後、20世紀になってから、バッファロを放し飼いにした。今では数が増えて、アメリカでも有数の繁殖地である。ただ、元になった個体が少ないと近親交配で弱くなるので、定期的に他の血筋を入れているということである。
上の3枚目の写真は、牧場から望遠レンズで撮ったものをさらにトリミングしたものである。左のブッシュのすぐ脇の奥に、バッファロらしきものが見える。小さすぎてよくわからない。



砂が細かいのでうっかりすると、めり込んで歩きにくい。この砂は長年の間に角が削り取られて、山にしても自然に流れてしまう。サンドブラストに適する砂である。
最近サンドブラストが安く入手できるので、筆者も持っているが、砂の確保には困る。砂ならなんでも良いわけではないのだ。ここに示すような角の無い砂を探さねばならない。窯業の材料を扱っている友人に頼んで、ベトナム産の海砂を手に入れてもらった。20kg入りの袋であったが、袋に穴があくと、そこから全て流れ出してしまう。それほど流れやすいのである。
穀物などは細かい凹凸があって、ひっかかりやすい。すなわち流れにくい。小麦粉もそうである。ホッパ車で運ぶ時は、下から出すときに、振動を与えたり、空気を吹き込んだりする必要がある。
2013年12月02日
Antelope Island へ



この湖はとても浅い。九州ほどの面積があるが、最深部で7mほどである。だから雨が多いと水位が上がる。日照りが多いと下がるわけである。


