2012年03月
2012年03月30日
続々々々 San Jose の電車

ウニモグはダイムラ・ベンツの多機能作業車で、無車軸懸架装置を持っている。コイルスプリングの有効長が極端に長く、不整地を乗り越える能力の高い、最低地上高が極端に高い車である。日本にもかなりの数が輸入されている。

この部分には自転車を載せるようになっている。片側面に自転車を吊り、反対側に座れるようになっているのだ。


2012年03月28日
続々々 San Jose の電車



「どちらに非があったか?」と聞くと、「100%自動車の方である。」と答えた。今まで電車の方に非があったことはないそうだ。原因は携帯電話らしい。こんな大きな電車が目に入らないはずはないのにぶつかって来ると言う。
脱線したらどうするのかと聞くと、車庫の裏に止めてある復旧用トラックを見せてくれた。ウィンチと小さなクレーンが付いていて、どんな状態においても復線し、牽引して帰ることができるそうだ。



この大型トラックには軌陸車になっていて線路上も走れる。連結器が付いているから押すのも引くのも簡単である。

2012年03月26日
続々 San Joseの電車


切削機はセンタで押している。センタ穴はゴミが付いていると心が狂うので、普段はプラスティックのキャップをはめてある。






Chevron Rubberである。鉄板を挟んで加硫した緩衝材で、ここでは剪断力を利用している。ブレーキは車輪の外にある。

2012年03月24日
続 San Jose の電車



この部分には、走行中間断なく、かなり強い力が掛かる。そのため、屋根板に亀裂が入り、切りとって厚い板を張り付けたと言っていた。よく見ると補修跡が見える。




台車を外して、車輪切削盤に廻すための通路である。小さなターンテイブルがあって、手で押していく。直角フログ部分のレイルは45度に切断して熔接してある。このような部分は速度が小さいので、そこまで拘る必要が無いのであるが、細かい細工がしてあって驚いた。
2012年03月10日
San Jose の電車


Santa Clara Valley Transportation Authorityの略である。これを渓谷鉄道と訳した本に良くお目に掛かるが、とんでもない誤訳である。Santa Claraは、もともとこの地方の郡の名前であった。San Jose が急速に成長してそちらが有名になり、お株を奪われた形である。 この郡の中にはいくつかの都市がある。現在サンタクララ市は、高級住宅地である。
さてこれらの街を市電が結び、それは郊外では高速電車となる。その車輌はLRV(Light Rail Vehecle)と呼ばれて、重軌条の上を走る貨物列車や旅客列車とは規格が違う。もちろん線路規格も違う。
LRTというのはLight Rail Transitであって、鉄道システムを指す言葉である。

入口の守衛は我々が行くことを良く知っていたので、支障なく入れた。この車庫は空港のすぐ脇にある。
2012年03月08日
続 San Jose へ

ガイド付きのツアを申し込む。ガイド無しでは建物の中には入れてくれない。迷ってしまうからである。
総部屋数は 160もあるという。ツアでは半分くらいを見ることができるが、それだけでも1時間以上も掛かり、とても疲れる。ウィンチェスタ銃の製造元の未亡人が迷信に基づいて作った家で、全ての部屋に13の窓があるという不思議なつくりだ。
当時としては超豪華な設備である油圧式のエレベータや照明用ガス製造設備もあり、そのあたりの構造は筆者の興味のある部分である。 写真を撮って解析中である。石を詰め込んだ網で重しをしてガスに圧力を掛ける工夫があり、面白い。
現在の貨幣価値で、毎日3万ドルほどの利息があるほどで、途方もない財産家であった。馬車に乗ったまま家に入ることができるような作りにもなっているほどである。階段は、背の低かった未亡人の足に合わせて、極端に低い段差でできている。1階から2階に上るだけで、50段ほどもある。それを真っ直ぐには作れないのでつづら折りに作ってある。使用人用に短い階段もある
召使いの部屋はざっと見ただけで40くらいあり、どれにも電気式の呼び鈴が付いている。しかもそれは、どの部屋から呼んでいるのかを認識できるようになっている。当時としては高級な論理回路になっているのだ。
San Joseの発音は以前から気になっていた。栗生氏の掲示板でも少々話題になっていた。理屈を言えば、”J”の音は摩擦音に近い「ハ」であり、スペイン語のJaponは「ハポン」の「ハ」を思い切り勢い良く吐き出すようにすれば正しい発音になる。
そうなるとSan Joseは 「サンホセ」になりそうだ。しかし、たいていの人はサンノゼと発音するような気がするし、地図にさえそう書いてある。今回は、地元民にその発音を念入りに聞いてみた。
結果はやはり「サンホゥセ」である。後述の電車の中の録音されたアナウンスも「サンホゥセ」と言っている。
このブログでは、今後「サンホセ」で統一することにする。
2012年03月06日
San Jose へ

電光掲示板にアルファベット順に名前が出ているので、その番号の駐車場に行けば、トランクを開きキィを差した車が置いてある。そのまま乗って出口で免許証を見せて、向こうのデータと合っていれば即乗り出せる。まず間違いはないが、過去に一回とんでもないミスがあって、間違って拘束されたことがある。向こうのタイプミスであるのに、こちらが書類を偽造したと勘違いしたのだ。レンタカー泥棒は多いからだ。筆者は怒って徹底抗戦した。
お詫びに100ドルだったかの割引券をくれたが、怒りは収まらなかった。現在は全ての車にGPSの位置情報を送信する装置が付いていて、盗んでもすぐ捕まるらしい。
このレンタル・システムは、会社によって多少違う。昔、どの会社だったか忘れたが、大きな駐車場に車が放射状に止まっていて、どれに乗って行っても良いという時代があった。みな一巡りして車を選ぶので、大きな荷物を持っていると結構疲れた。
アメリカの運転免許証を持っていると、保険料も安いし具合が良かったのだが、いよいよその恩恵も受けられなくなる。実は免許の更新がむずかしくなったのだ。
今までは運転免許は持っていないのが普通でないくらいで、誰でも取れたし、日本に引っ越してからも、友達の住所を使って20年以上も免許の更新ができた。今度は、いくつかの条件を満たさないと更新できなくなったのだ。例のテロ以降、条件を厳しくするように法律が改正されたからだ。
まず、Social Security Number(国民総背番号)が必須で、その他、就労証明、在学証明、あるいは納税証明などの書類を持っていかねばならない。SSNは持っているが、その他はもう事実上不可能だ。今年中に切れてしまうので、もう乗り納めである。来年からは毎年国外免許証を申請する羽目になりそうだ。面倒である。
2012年03月04日
San Francisco へ



低床車と高床車とが組み合わさってくる。これは連接車である。タイヤと車輪の間にゴムがはさんであって、音はとても静かである。低床車の連接台車は無動力であって車軸もない。左右の車輪が別回転するようになっている。要するに車輪の間を人が歩くようになっている。標準軌だからこそできる設計である。この写真はいずれお見せする。

「ただ今到着の飛行機には退役軍人が乗っています。皆さんこぞって御迎えをお願いします!」
この放送を聞くのは久しぶりだ。筆者の世代はベトナム戦争の時代にアメリカに居たので、当時はよくこのような場面に遭遇した。反戦運動のリーダ達が来て、「人殺し!」などと叫ぶものだから、警察とよく小競り合いがあった。
危ない目に遭い負傷して帰国したのに、罵声を浴びせられて精神状態がおかしくなった友人もいた。
今回は、そのあたりに集まった人が温かい拍手を浴びせ、穏やかな帰国であった。兵士にはマイノリティが多いということを改めて知った。貧困層からの兵役志願者が多くなるのである。ベトナム戦争のときは徴兵もあったので、知り合いも何人か行った。

ここに内野日出男氏をご案内したとき、ずいぶん興奮されていたのを思い出す。対岸には6インチの砲座がまだ何箇所かある。このように湾の入口に向かい合って存在する砲台をBattery という。この言葉はのちに、電解液に差し込まれた二つの電極を意味するようになり、電池という言葉になった。ニューヨークにもバッテリィ・パークがあるが、地図を見ればその語源を知ることができる。そう言えば、野球の投手と捕手の組もバッテリィという。
ともあれ冷静に考えてみれば、大日本帝国海軍の艦隊にはそれほどの航続距離もなかった。石油もなかったのだ。油槽船すら、ろくになかった。
しかし40年前、筆者はサンフランシスコの人達に聞いたことを思い出す。
「本当に怖かった。燈火管制が敷かれて、町が真っ暗だった。ヤマモトは絶対やってくると思った。」と言ったのだ。

冬に雨の多いオレゴン州から、乾いたカリフォルニアに来た。西岸海洋性気候からステップ気候への変化である。
2012年03月02日
Larryの事務所

ホテルからスーツケースを持って電車に乗り、一駅で彼の事務所前の停留所に着いた。


彼の部屋に入るとまるで模型屋の店先の様である。自由業であるから、やりたい放題だ。模型談議に入り、あっという間に時間が過ぎた。近くのレストランで御馳走になるうちに時間が無くなり、彼の車で空港まで送ってもらった。本当は電車で帰りたかった。
Larryは祖父江氏の機関車をコレクションしている。毎回購入するたびに、それは祖父江氏の製品かどうかを確かめに連絡してくる。最近はボイラ裏側を見ただけで、祖父江氏のハンダ付けかどうかが分かるようになったらしい。

彼のおばあさんが、この写真を見せて、「これを知っているかい?」と聞いたそうだ。彼はこの機関車の由来を語ったところ、「違うよ、この娘を見なさい。これが誰かわかるかい?」と、聞いたそうだ。
それは彼のお母さんであった。12歳のときの写真で、機関車に向かって右のリボンを持つ女の子がそれである。この時は、まさか、自分の息子が汽車に狂うとは思ってもみなかったろう。
<写真のリタッチは栗生弘太郎氏にお願いした。>