人情味のある話

2017年03月13日

Kimpei Sofue’s life  (7)

 国内で祖父江氏のOゲージ模型を欲しがる人は多かったが、祖父江氏には新規にそれを作る資力がない。そこで、神戸の地震で亡くなった魚田真一郎氏が良い方法を提案した。買いたい人から毎月一定額を集めて、それで新しい機関車を作ってもらう。1年ほどで、注文者は新しい機関車を受け取り、祖父江氏は注文数以上の機関車を個人的に売ることができる。一部はアメリカに私自身が持って行ったし、直送もした。この方法は祖父江氏に素晴らしい機関車を作り続けてもらう、良い方法だった。

 こうしてできた機関車は3条ウォームとボールベアリングを装備し、テンダには抵抗の少ないLow-D車輪を付けていた。こうしてこの特製品を作る方法は10年ほど稼動し、C&NW H-1, CB&Q O-5, SP5000, ATSF 4-6-4, PRR DD1 が完成した。それと並行して、古いKTM製の機関車の動力を、3条ウォーム、コアレスモータ、ボールベアリング化する改装工事を引き受けた。こうして2009年10月27日午前2時の突然の死まで、彼は仕事を続けることができた。彼は87歳の人生を終えた。

 私は彼と35年余の長きに亘って良い友達であった。私は彼の顧客であるが、写真、図面を入手するのに手を尽くした。それ以外に新技術の導入の手伝いをした。いわゆるlaunching costomerである。(ローンチング・カスタマーというのは、新型航空機を発注して導入する会社が、設計時から深くかかわる時、その航空会社のことを言う。)我々はいつも助け合った。ある時、祖父江氏はこう言った。
「あんたには本当に感謝するよ。あんたがいなけりゃ、俺はとっくに廃業して、アル中になって逝っちまってたよ。」 
 私は彼の友達として、かくも長くお付き合いできたことを、誇りに思う。 

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2017年03月07日

Kimpei Sofue’s life  (4)

 祖父江氏は1985年までアメリカに行ったことが無かった。日本とアメリカの経済の関係が変化し始めたころで、為替レートが日本からの輸出に不利な状態になった。アメリカの輸入業者は、日本から韓国へと切替え始めた。
 そこで、私は祖父江氏をアメリカに連れて行き、友人らに会わせた。アメリカの模型人は誰も、この小さな男が14,000輌もの機関車を作ったとは知らなかった。

 Bill Wolfer氏はとても驚き、話は尽きなかった。彼はPomonaの競馬場にあるOスケールのレイアウトを見せに連れていってくれた。そこにはビッグボーイ 、UP9000, SP5000などの本物もあった。祖父江氏はSP5000の模型を作ったことがあった。本物を見ての感想は、「俺の作ったのと同じだ。よく出来てた。これを見て安心したよ。」であった。彼は自分の作ったものが実物通りであったことを知って、とても喜んだ。マックス・グレイはこの機関車の図面を用意できなかったのだ。20枚ほどの写真と諸元だけしか寄こさなかったのだ。祖父江氏はそれらの資料から作らねばならないので、1月ほど死に物狂いで取り組んだ。彼の作った機関車の中で、最も難しいものであったそうだ。
 
 次にテキサス州サン・アントニオのLorell Joiner氏に会った。彼は祖父江氏に会って、とても感銘を受けたようだ。日本に帰らず、ここに居てくれと言った。家と日本食のコックを用意してくれると言うのだ。
 ジョイナ氏は、模型会社を立ち上げるつもりだった。私も残して、通訳と経営をさせようとした。3人で長い時間話したが、結局我々はその話をお断りした。もし残ってジョイナ氏の下で仕事をしていれば、おそらく模型界はかなり変わった姿になっていただろうと思う。

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2017年03月05日

Kimpei Sofue's life  (3)

 資料が少ないので、出来の悪い模型しかできなかった。良い模型を作ろうとすれば、図面が必要なのだ。カリフォルニアから来た男が、祖父江氏にたった一枚のシェイの写真を見せて、それを作ってくれと頼んだ。写真はエンジン側だけで、反対側の情報はないが、祖父江氏はドライヴ・シャフトの裏にウォーム・ギヤを隠して、なんとかそれを作り上げた。発注者はとても嬉しそうだった。

 1年後、ある紳士がKTMに来て、Bシェイを多数注文した。彼の名前はマックス・グレイであった。これがKTMが商業規模の対米輸出をするきっかけとなった。次の注文はSPのキャブ・フォワードであった。マックス・グレイは本物の図面を持って来た。祖父江氏にとって、アメリカの機関車の図面を見るのは初めてであった。マックス・グレイは次の注文のための、いくつかの図面も持って来た。祖父江氏はマックスグレイのためにパイロット・モデルを作るのに忙しかった。

 祖父江氏は英語ができなかった。KTMはマックス・グレイと祖父江氏の前で何度も話をするのだが、一度も紹介されたことが無い。彼は、誰が職人の長(master craftsman)であるかということを知らなかった。KTMにとっては、祖父江氏は「金の卵を産むニワトリ」であった。もしマックス・グレイがそれを知ったなら、彼は何としても祖父江氏をアメリカに連れて行ってしまっただろう。 祖父江氏はマックス・グレイと直接話ができなくて残念であった。マックス・グレイはNYCが好きで、それがハドソンやナイアガラを何度も再生産した理由である。

 60年代の終わりに、祖父江氏は独立して工場を持ち、KTMからの注文を受けた。マックス・グレイはレヴォン・ケマルヤンを連れて来た。彼はその後、後継者となり、その会社はUS Hobbiesである。ケマルヤン氏はいい男で、発注したL&NのバークシャのBig Emmaを見て、「とてもよくできている」と祖父江氏を褒めた。


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2016年06月27日

Walker氏のこと その3

opentop hopper 井上氏はその図面を祖父江欣平氏にも見せている。だから、Oゲージの アレゲニィはよく出来ている。Max Grayの時代にしては、他の機種より数等、出来が良いのだ。
 祖父江氏は、そのお礼にOゲージのアレゲニィの鋳物、プレスで抜いた板を井上氏に差し上げた。その板や部品は長い間井上氏の押し入れに眠っていたが、ある時、
50-ft boxcar「もうOゲージを作ることは無いから、君に上げるよ。組めるだろ?」
と筆者に譲ってくれた。半分くらい組んだところで、祖父江氏が仕事が無い時期があったので、組んでもらった。
そうしたら、
「鋳物の台枠なんてオモチャっぽいから、厚板で作り直したよ。他にも気になっていたところを全部作り直しちまったよ。」
と言って送ってくれた。それは完全にカスタム・ビルトと言えるものであった。そして、韓国で作っていた怪しいアレゲニィの鋳物部品のうち、正しいものだけを組み付けた。当時のメーカが提供してくれたものから、選り出したのだ。半分以上は捨ててしまったが。
 そのアレゲニィは筆者のコレクションの中で、最も価値ある機関車である。

livestock car さて、ライヴのアレゲニィであるが、井上氏は国鉄の工場の旋盤を使って主要部品を作り、自宅で仕上げをしていた。
 ウォーカー氏は時々寄って、ヤスリ掛けを手伝ってくれたりしたそうだ。そういう時には、
”For your family."
と言って、缶詰をたくさん持ってきてくれたそうだ。
「食べ盛りの子供がいたから、あれは助かったね。」

 蒸気の自在継手を球状に仕上げて、漏れないことを確かめたときは嬉しかったそうだ。  

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2016年06月23日

Walker氏のこと その1

剛氏のアルバム 連合軍が日本を占領していた頃の事情を細かくつづった本を読んでいるときに、筆者はある名前を見てどきりとした。ウォーカー中将という名が出てきたのだ。
 もちろん別人なのだが、名古屋には別のウォーカー氏が居た。剛氏の遺品の中にそのアルバムがある。

 アメリカから派遣されて、当時の中部地方の工業地帯を統括していた人の名である。軍属ではなく民間人であろう。
Mr.Walker ハロルド・ウォーカー氏はこの地方のすべての産業を押え、アメリカの国益を守る経営をさせるために派遣されていた。あまりにも厳しい人で、どの会社も、どうしたら少しでも目こぼししてくれるかを考えていた。ある時、彼は鉄道模型が好きだということが分かった。そこで日本車輛の伊藤剛氏が抜擢されて、話をしに行ったのだそうだ。剛氏は模型人であるし、英語が堪能であったからだ。ウォーカー氏は、Missouri Pacific鉄道に勤めていたことが分かったのだ。

 そこで日本車輛が車輛を、大同製鋼がレイルを作り、彼の好きな列車を進呈することになった。はっきり言えば、賄賂である。鉄道模型を用いて懐柔しようというわけだ。蒸気機関車は井上 豊氏が作ることになった。三菱や日本碍子、国鉄まで巻き込んだ大作戦である。

 車種は先方の指定で、NYCハドソンとC&Oアレゲニィ、FMのディーゼル機関車、流線形客車5両、貨車7両であった。すべてアメリカから本物の図面と写真を取り寄せ、その1/32、1番ゲージ模型を作ることになった。(写真は完成した模型を手にするウォーカー氏)

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2015年11月07日

さらに図書が到着

 突然、それは始まった。
 親しい友人が、故椙山満氏の蔵書を預かっている人に博物館の話をした。そうしたら、「ぜひ椙山氏の本を保管してほしい。」と言っていたという。

 椙山氏の蔵書がどうなったのかは、知らなかった。筆者もよく知っているK氏が預かっていたのだが、「この先のことを考えると然るべきところに移動させたい。」ということであった。
 早速伺うと約400 kgほどある。懐かしい本がいっぱいだ。高校生の時、土曜日にお邪魔してたくさんの本を見せて戴いた。中には特別にお借りして、書き写したりしたものもある。当時はコピィの機械は特別な場所にしかなかったので、写真に撮ってコントラストを強く、焼き付けてもらったりした。

 本棚を整理して、新たなスペイスを確保しなければならない。本を並べるだけでも2日はかかるとみている。

 とりあえず100kgほど、乗用車に積み込んで帰った。来週、軽トラックを借りて残りを運び出すつもりだ。書籍以外に、さまざまなカタログもあり、当時のことがよくわかる。 

 驚いたことに、16 mm映画フィルムもたくさんあった。映写機も4台あり、とりあえず2台持ち帰った。試運転してみる。これで、博物館で映画会を開ける。
 日時を決めて、アメリカの鉄道映画をお見せすることができる。

 現在ではDVDで公開されているものもあるが、未公開のものもあると思う。昔は映画はとても高価であった。ましてやアメリカからフィルムを買うとなると、おいそれとは行かなかった。もちろん、16 mm映写機は極めて高価であった。大切に保管したい。

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2014年09月07日

続々 土屋 巖氏の死去 

 土屋氏は祖父江氏の改造した機関車を大変気に入り、全ての機関車を改造した。重いブラス製客車もボールベアリングを装備し、極めて軽く動くようになった。たくさんある貨車にはLow-D車輪が装着された。 長い編成が慣性をもって走る様は、非常に実感的である。筆者の車輌も持って行って、会社の大きなレイアウトで走らせて遊んだ。

 18年前、土屋氏は体調を崩して入院した。癌が見つかったのだ。幸い手術は成功したが、土屋氏はその後の不安を訴えた。
「dda40xさん、自分が死んだら、この素晴らしいOゲージの模型はどうなるのだろう。いろんな奴らが来て、『これはくれることになっていました。』などと言って、持って行ってしまう。もう狙っている奴もいるのだ。」
「まさか、そんなことはないでしょう。」
「いや、心配なんだ。自分が心血を注いで集め、祖父江さんに頼んで改造した機関車がばらばらになるのは許せない。万一の時はdda40xさんがまとめて保管してくれ。カミサンにはそう言ってある。」
「うちはそんなに広くないのです。」
「準備をしていてくれ、ということだよ。」

 それから土屋氏はさらに2度の手術を受けたが、特殊な抗癌剤のおかげで回復し、一緒に海外旅行もできるようになった。しかし、将来への不安は大きくなっていった。

 本年3月、土屋氏は電話を掛けて来られ、「近々に直接会いたい。」とおっしゃった。出向くと、
「実は、もう余命が3ヶ月しかないんだ。医者に、『治療は終わりです。』と言われてしまった。ホスピスを探せってさ。この子たちはどうなる。自分が死んだらどうなってしまうのだ。」
 言葉を失った。

「息子たちは興味がない。自分が死んだら捨てられてしまう。dda40xさん、あなたに頼みたい。博物館を作ってくれ。全ての模型を一括して管理して欲しい。あなたにしか頼むことができない。」
 同席されていた奥様も、「よろしくお願いします。経済的なサポートはさせて戴きます。この人の夢をかなえてあげて下さい。」とおっしゃった。

 大変なことになってしまった。
 
 それから一月、運良く空き店舗を見つけ、それを無期限で借り受けることになった。

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2014年09月05日

続 土屋 巖氏の死去 

 当時、祖父江氏は元請からの注文を切られて廃業を考えていたのだが、土屋氏からの改造注文を受け、息を吹き返した。動力の改造は蒸気機関車以外に、ディーゼル、電気機関車等があり、その滑らかな走行に、土屋氏は大満足であった。
  しばらくして、筆者がアメリカに引っ越すと、土屋氏からはよく電話を戴いた。市場から良い製品を選んで購入し、日本に送った。その後、吉岡精一氏設計の線路も共同で製作し、経営されている会社の3階に大きな線路を敷いて遊んでいらした。 その後、ご自宅の3階に25坪程度のレイアウトを作られ、DCC運転を楽しまれた。

 土屋氏は東京藝術大学の出身で、二度も首席で入学したという特異な経歴の持ち主である。高校では一番だったそうで、東大に行くつもりだったのだが、不本意な結果に終わり、冗談半分で出願した藝大の入試を受けることになった。試験会場では黒板に題が書かれ、試験時間は5時間であったそうだ。氏は5分で描き終わり、周りを見ると誰も絵を描き始めていなかった。さらに30分待っても、誰も身動き一つしなかったそうだ。氏はバカバカしくなって席を立ち、作品を受付に出して帰宅したという。

 翌日電報が来て、首席合格だという。そして入学者総代として、宣誓文を読んだ。入学したものの、冗談で受けた自分が首席ならば、こんな学校は行く価値がないと退学届を出し、当時開校したばかりの代々木ゼミナールに通い始めた。ところが、東大クラスには優秀なのがたくさん居て、たとえ合格してもビリかもしれないと、心配になったそうだ。しかし藝大に行けば1番だ。よし、もう一度入ってみようと再受験すると、またもや首席合格だったという。

 土屋氏が絵を描くのは、信じられないほど速い。「見て描くのではない。頭の中にあるものを描くのだ。」とのこと。要するに、土屋氏の目には、紙の上にあるべき絵が見えているのだ。他の人には見えない。それを見えるようにする操作が、彼にとって絵を描くことなのである。天才という言葉が、ここでは適当だろう。
 それにしても、土屋氏を二度首席に選んだ藝大の先生方の眼力には、恐れ入る。ただし、二年目は音楽科と交代でその首席入学者が宣誓文を読んだので、宣誓文を二度読むということはなかった。学生時代は優れた先生や良き友人に恵まれ、楽しい日々だったそうだ。

  学生時代はアルバイトで絵を描いていた。ホンダのオートバイのカタログの絵や、初期のタミヤのプラスティック・モデルの箱絵は、ほとんど土屋氏の作品だという。このころから、ゴーストライターをしていたのだ。
 卒業後は非常に優秀な先輩の居た日産自動車に入社したが、その先輩が病気で辞めてしまい、やる気をなくしてしまった。退社後はフリーのデザイナーとして本領を発揮し、世界中から殺到する注文をこなされた。

 その世界では、誰が何をデザインしたかということは、誰でも知っていたのだそうだ。だから指名で注文が来るのだ。

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2014年03月25日

機関士人生

 川端氏から2枚のCDを送って戴いた。
 1枚目は名古屋機関区のお召し列車の機関士であった伊藤 実氏を椙山 満氏が招いて、談話会を開いた時の録音である。C52が関ヶ原で、中央シリンダのコッタ・ピン脱落で脱線事故を起こした話とか、グレスリィ弁の水平クランクの中心のボールベアリングから玉がこぼれる話など、信じられないほど面白い話があった。
 C52は、名古屋機関区に集中的に配置され、そののちはC53の初期ナンバー機が大量に居たということだ。新型機の実験場のような雰囲気で、日本で最も先進的であったという。「いや、東洋一の…」という言葉が出るところが当時の人たちの意識だったのだろう。
 C53のテンダの水が少なかったので、容量が増えたものも作られたようだ。その3トンの違いが、大きな違いをもたらしたと言う。
 名古屋から沼津まで240 kmを早くて3時間強、遅い列車は4時間半乗務して、2時間半の休み時間でまた折り返して帰るのだそうだ。同じ機関車に同じ乗務員が乗るようにしていたらしい。その休み時間に飯を食い、機関車の点検をするので、実質の休みは1時間ほどしかなかった。

 もう1枚は、NHKラジオのラジオ深夜便という番組で、ディレクタの質問に答える形で川端氏が語っている。あらすじは先回紹介した。機関士と機関助士は強い絆で結ばれ、親子、兄弟、夫婦のようなものであったという。
 機関士の娘は機関助士と結婚する例が大変多かったそうである。いつも一緒に居ると人格が全部見えてしまうので、「こいつならいい。」と家に呼んで御馳走し、それが見合いになっているという話だ。川端氏は「私はそうではなかった。」と念を押していらした。

 筆者はアメリカの機関士を何人か知っているので、彼らの話と照らし合わせると、共通するところも多々ある。しかし、狭軌の機関車を少ない石炭で効率よく走らせる技量というのは、アメリカ人にはとても理解できないだろう。


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2013年11月02日

続々々 Green River

Green River railroad nuts 跨線橋の上を行ったり来たりして写真を撮っているうちに、汽車見物の人が来たのに気が付いた。じいちゃんばあちゃんに連れられた4歳の男の子である。毎日1時間ほど来ているそうだ。
 この子は機関車にはなかなか詳しい。おじいちゃんは鉄道員ではなかったが、鉄道関係の仕事をしていたらしい。蒸気機関車の時代から、地元に住んでいて、Big Boyの汽笛の音がすごかった話で盛り上がった。 近くに当時の機関士が住んでいて、親しいという話だった。紹介してもらえば良かったと後悔した。
 おばあちゃんは亭主の汽車好きに付き合っているうちに、自分も好きになったと言う。この孫は間違いなく鉄道趣味者になるだろう。家にはライオネルのレイアウトを持っているそうだ。
 我々を含めて、汽車キチガイを英語で railroad nutsという。nutsというのは不思議なことに形容詞で、It is beautiful.のbeautifulと同じ使い方をする。正確な使い方はI am railroad nuts.である。複数形ではないのである。形容詞のみならず、狂っている人も指す。

Green River Castle Rock 2Green River I-80 西部劇に出てくるCastle Rockはこんなに近くにある。ふもとに国道が通っている。平地の大部分を鉄道が占拠していることになる。
 高速道路を通す場所には苦労したようだ。結局山の下をトンネルでくぐることにした。本当は町はずれを通過して、町には連絡路を付ける方が安かったに違いない。
 右の写真を見て欲しい。トンネルの位置が分かるはずだ。ちょうどトレーラーが出てきたところだ。

 昨日のポイントの写真で一つ奥のポイントにガードレイルが付いていないというご指摘があった。筆者も気が付かなかった。これはセルフ・ガード・フログである。現役のものを見るのは初めてだ。この写真をご覧戴くと、その原理がお分かりと思う。タイヤの厚みが一定なら、フログでの割り込みが防げるはずだ。

Green River self guard frog この写真を拡大してみた。セルフ・ガードの様子がわかる。たくさんの貨車が通ると中には怪しいのがあるかもしれないが、機関車だけしか通らないので安全と考えたのかもしれない。


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2013年06月09日

ローカのボーシ

 もう35年ほど前の話だ。剛氏から年賀状を戴いた。例によって上手なイラスト入りだ。
 長い廊下があって、壁に帽子掛けがいくつかある。そこに野球帽がひとつ掛かっている絵だ。向こうの方で剛氏が、「鉄道模型はローカのボーシ」と言っている。そうしたら、奥さんが「廊下の帽子?」と聞き直している様子が描かれている。

 これが分からなかった。何度も年賀状を覗きこんで何かヒントが無いかと調べるのだが、分からない。壁に張っておいて時々見るが、見当もつかなかった。
 夏に剛氏とお会いして色々なお話を伺っていると、「鉄道模型は老化の防止には良いんだよ。」という話が出てきた。筆者が「ああそれですか!」と言うと、剛氏は「今年の年賀状は、良く分からないという人がいっぱい居ましてね…」と仰る。

 音で聞けばすぐ分かるのだが、カタカナで「ローカのボーシ」と書いてあったら分からない。しかも誤解を誘うような絵まであってはたまらない。

年賀状 それ以来、剛氏の年賀状は非常に単純明快なものが多くなったが、イラストはいつも素晴らしい。
 今年の年賀状はご自宅の窓からの風景を描かれたものである。

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2013年04月30日

続 "Model railroading is not a hobby"

 ハーマンにどうしてあの標語が掲げてあるのか、聞いてみた。答は「いや面白い言葉だろう。友達にもらったから、あそこに掲げたんだ。」としか言わなかった。

Harmon's 8Harmon's 3 しかし、彼の工作を見ると、この標語そのものであるという感じがする。
 ほとんど完成品を持っていない。60年も鉄道模型をやっているのにコレクションはせいぜい20輌だ。しかも動力車は3輌だ。棚の上にはMax Grayの時代の機関車が箱入りで置いてある。「参考に買ったけど、そのうち売ってしまうさ。」と言う。

113_8083 毎日図面とにらめっこし、寸法の計算をして、ロッドの納まりを確認する。一つの部品を何日もかけて製作し、それをひとつずつ写真と見比べながら取り付ける。
 彼を見ていると、あたかも求道者のように思える。こんな図を描いて検討している。筆者のように、ラフ・スケッチだけで、えいやっとは作らない。

forming 2つしか作らないものでもこのような型を作って押し出して作る。ここしばらくは白内障で仕事が停滞していたようだが、最近手術を受けたので 糸鋸の8/0の刃も見えるようになったから仕事がはかどると言っていた。

 毎年筆者が作ったものを持って行くと、その中に発見されるいくつかの工夫を見て、的確な論評を加えてくれるありがたい友達だ。

 3日間であったが、楽しい訪問であった。

「そうだ、ここから1時間位のところに鉄道博物館があるんだ。行ってみないか。」と言う。
 
 それはMonticelloという町にあり、昔のWabash鉄道の駅や車輌を集めている。規模としてはイリノイ鉄道博物館の1/10位であるが100輌は持っている。  

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2013年04月28日

"Model railroading is not a hobby."

113_8074 ハーマンの工作室にはこのような文が掲示してある。
"Model railroading is not a hobby, it's way of life." 「鉄道模型は趣味ではない。それは人生のありかた(行動の指針)である。」


 この文はおそらく、Ullmanの詩の一部 
”Youth is not a time of life, it is a state of mind.” をもじったものである。このアルマンの詩は日本では有名であるが、アメリカではそれほど知られていなかった。戦後の日本を統治したダグラス・マッカーサの執務室の壁に張ってあったのだそうだ。彼の座右の銘であって、彼の演説の中に何回も引用されている。
「青春とは人生の中のある一期間のことではなく、ある種の心理状態である。」
この詩の全文は検索すれば、いくらでも出てくる。のちにアメリカの政治家がよく引用するようになって、現在ではアメリカでも有名な詩となった。

 この一節は、形を変えて引用される。
"Christianity is not a religion, it's a way of life." 「キリスト教的な精神とは宗教ではなく、人生における指針である。」 この文はアメリカの有名な宗教家の言葉である。これを覚えていたので、色々な場面で役に立つことがあった。

 アメリカはキリスト教の国であると言ってよいので、我々のような異教徒は暮らしにくい。さまざまなパーティの場でも、やはり宗教にもとづく観念の差というものを感じる。
 二年前にテキサスに行ったときにも、教会に連れて行かれて紹介された。筆者はこのようなチャンスには、必ず参加することにしている。色々な出会いがあってプラスになることが多いからである。しかし、そこで聞かれたことは唖然とすることであった。
「日本にはキリスト教がそんなにも浸透しているのか?この間のニュースで、津波で流された金庫が何千個も見つかって、中味の現金が入ったまま持ち主に返されたと報道されただろう。キリスト教徒でなければそういうことはするはずはないからな。」と言うのである。
 なんという傲慢さ!
 
 彼らは、「キリスト教徒は正直で、それ以外の連中はウソつきである。」と決めつけているのだ。指名されてスピーチをすることになった。日本人とはどういう人たちなのかを説明したのだが、彼らの頭からは前記の思い込みが取れない。
 そこで最後に、"Christianity is not a religion, it's a way of life. To be a Japanese, it's the same way of life as yours." と言ってやった。「キリスト教的な精神とは宗教ではなく、人生における指針である。同様に、日本人であるということは、あなたたちと同じ人生の指針を持っているということである。」
 すると、彼らの表情が大きく変化し、全員が立ち上がって拍手した。  

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2012年09月25日

続々 2012 O Scale National Convention

712_5511-2712_5509-2 Leider氏Pantera氏それとP&DのPat達も来ていた。
 前にも書いたような気がするが、年に何回かある同窓会のような感じだ。互いに身の周りに起きた色々な話をして楽しく時間を過ごす。


 今回筆者がテーブルを持ったのは、いくつかの部品を売りたかったからだ。それはディーゼル電気機関車の動力機構である。自分で制作したものでなく、既製品の動力機構である。KTM製とかAll Nation製、あるいはCentral Locomotive Works製の動力である。筆者は動力付きの中古を手に入れることが多い。上廻りが欲しいからである。下廻りは全く新しく作る場合が大半だ。 ロストワックスで台車を一から作れば、文句の付けようのない物になる。上廻りは皆ある程度は図面と写真でそこそこのものができている。多少手を入れるだけで良いからだ。下廻りは全体の価格の半分以上の価格で売れることがあるので、結局上廻りを安く手に入れることができることになる。

 下回りをごっそり外してそのまま売却する。どうやらその価格設定が低かったらしく、筆者のテーブル前にはたくさんの人だかりがある。皆、目的のものを指で押さえてこちらと交渉が始まる。
”Do you have any flexibility of the price?”(少し負ける気はないかね。)
すると隣の男が、”No need to discount! I'll buy it."(負けなくても良い、俺が買う。)と言う。最初の男は仕方ないという顔をする。すると二番目の男は、「おれがもう少し払っても良いから俺に売れ。」と来る。
最初の男は、「おれの買い物にケチをつけるな。」と言うと3番目の男が「俺はもう少し払いたいから、こっちに売れよ。」と言う。

 ついに喧嘩になり、「あっちで喧嘩してくれ。誰が買うか決まったら来てくれ。取っておくから。」ということになった。彼らは廊下に出て長い間揉めていたが、結局最初の男がこちらの決めた価格で買った。

 この種の話はいくらでもある。いずれ書くこともあるだろう。

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2012年04月05日

The man who built the Engines for Max Gray

 今年は、見学に行くと、Garyが客を放り出して筆者の方にやってきた。
「明日のClinicの件だけど、」と切り出した。
「祖父江氏の作品がいくつあるのか知りたい。リストを持っていないか。」と聞く。

Clinic 次の日、筆者は祖父江氏についての講演をすることになっていたのだ。そのタイトルは、
”The man who built the engines for Max Gray" 「マックス・グレイに機関車を作った男」である。以前から、この演題についての講演を頼まれていたのだ。
 
 中身はしばらく前、とれいん誌に頼まれて書いたものをもう少し詳しくしたものである。参加者が多く、用意した椅子が全部ふさがった。50分の講演であるが、面白いエピソードをいくつか入れておいたので、参加者は皆大笑いしながら聞いてくれた。
 やはりハンダ鏝の持ち方の件は受ける。蒸気機関車のスポーク動輪を筆者と話しながら糸鋸で切った話などは興奮して聞いていた。
 マックス・グレイが日本に来た時、カツミの社長が、祖父江氏を横においていながら、紹介しなかった話をすると不思議そうだった。そこで、”He was a chicken that laid golden eggs." 金の卵を産むニワトリだから紹介したら引き抜かれてしまうと思ったのだというと大爆笑が起きた。
あとで、「そうだよ。こいつが作っていると分かったら、どんな方法を講じてもアメリカに連れて行っただろうさ。」と言われた。

 講演の最後に、Oスケールの殿堂入りの話をした。「殿堂入りしているのは全てアメリカ人である。アメリカのOスケールを支えた人が入らないのはおかしい。彼には十分に資格がある。」と言うと、全員が立ち上がって拍手をしてくれた。
 殿堂入りを決める役員が二人来ていて、次回の会合でこれを議題に入れると約束してくれた。期待できそうだ。

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2011年01月15日

続々 危険信号

 この番組は長く続いたので、高橋氏にとっては、それが部品の耐久力試験の場であったと述懐する。
 電圧をセットして、スナップ・スイッチでパチンと電源を投入すると動くようにしていたのだが、そのスイッチはすぐに壊れてしまった。意外に寿命が短いものであることが分かったのだ。

 次はロータリースイッチにしたが、これも壊れた。最終的には肉が厚いナイフスイッチにしたらしい。

 当時はあちこちの地方都市に開局記念番組として出張した。人気番組であったから引っ張り凧だったらしい。
 地方都市にとっては、NHKの放送局が出来るということは大変重大なことであって、番組放映後の打ち上げは、今では想像出来ないほど豪勢なものであったそうだ。市長、警察署長、消防署長…という御歴々がずらりと並ぶ大パーティであった。この番組を支えるのは楽しかったけど、とても疲れたそうである。

 高橋氏は、カツミの現社長を毎日品川のM学園の幼稚園まで送っていったという。当時は家内工業的な企業であった。そして高橋氏はカツミ模型店を支える大きな柱であった。このころからアメリカとの交渉に当たり、年に何回も渡米して打ち合わせをした。おそらく当時のわが国の鉄道模型業界ではもっとも訪米回数が多い方であろうと思われる。英語が非常に堪能な方である。
 


[追記]
 ナイフスイッチは1回しか使用しなかったということだ。
 視聴者から、電車の速度が速い回と遅い回があって、不公平だと指摘されたのだそうだ。それで変圧器の1次側に3Aのスライダックを入れたところ、スイッチが要らなくなったのだそうだ。今までは変圧器の出力が2V刻みであったが、無段変速になって具合が良かったのだ。

 風船を載せる台のあとに金網で作ったトンネル風のものがあったことをご記憶の方もあるだろう。風船が割れるとゴムの切れ端が飛んでレイル上に落ちる。それを列車が巻きこんでしまうことが立て続けにあったそうだ。インサイドギヤに巻き込まれると外すのに苦労する。
 それで、風船のゴムが落ちないようにトンネルを作ったところ、列車が見えないと言う苦情が来て、それでは透けて見える金網にしようということになった。大道具を作る人がすぐ作ってくれたそうで、それ以降全く問題なく運営された。
 この金網は、出演者が走って戻るときに列車を壊さないためだと思っていたが、全く別の理由であったのは大発見であった。                           
                                  1/31/2014記

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2011年01月11日

危険信号

高橋 淑氏 危険信号というTV番組があった。記録を見ると1956年から64年まで放映されたとある。
 筆者の世代は毎週土曜日はこれで盛り上がった。実際に三線式Oゲージでこれをまねて遊んだ覚えもある。


 先日、元カツミ勤務の高橋淑氏にお会いしてその当時の話を伺った。当方にとって意外だったのは、それが2線式Oゲージであったことである。1番ゲージであるとばかり思っていた。

ALCO PAPB By KTM 放送開始当初はALCOのPAPBを黄色に塗装し赤のラインを入れたものにNHKと書いて使用していたそうである。写真の模型は栗生弘太郎氏所蔵・撮影の同等品。
 この模型は荻窪の職人が手作りで10両くらいずつ納品していたのだそうである。筆者も何台か持っているが、全て出来具合が異なる。

 二代目は「こだま号」になった。スケール車輌ではなく、ショーティであったそうだ。16メートルくらいに切り縮めたものらしい。それは使用をやめたあと、誰かが持ち去って、行方不明だそうだ。
 新幹線開業が近づいて、国鉄から新幹線を使用してくれという要望があり、ショーティの0系「ひかり」を作って使用した。それが人気を博したので、量産して販売したのだそうだ。これは今でも中古市場でよく見る。

 放送時には高橋氏が詰めて運転、保守に携わったとのこと。確かに、途中で動かなくなってもすぐに代替車輌が登場し、しばらくすると「直りました。」と交換されるのを、手際が良いと感心して見ていたものだ。 


[追記]
 当時の国鉄が新幹線開業を控えて、宣伝のために新幹線の模型を使わせたいと思い。国鉄本社が発注して、それを NHK に寄贈したそうだ。テレビを見て「こだま号」の製造元を調べ、カツミに注文が来た。
 新幹線車輌は、初め鋳物で前頭部を作ったのだそうだ。厚さ4 mmほどもあって、重くて走りが悪かったという。その理由は、厚いスカートがあるので、外側台車を付けることが出来ず、輸出用の蒸気機関車の先台車を、前部台車として用いた。それは内側台車であって、軸の太さが5 mmもあり抵抗が大きかったためである。
 完成したものを車に積んで国鉄本社に納品に行ったところ、守衛が怪しんで入れてくれず、電話して担当者を呼び出した。守衛を排除して地下の駐車場に入り、エレベータで4階に行って展示したところ、みな興奮して見ていた。走らせてみると、ちっともうまくいかない。重心が前に在って、動力台車がスリップしたのだそうだ。すぐにそれは解決したのだが、窓ガラスを入れろと言われた。放熱用に窓は開いていた方が良かったのだが、とにかく窓ガラスを入れた。鋳物であるから、厚みがあって、難しかったのだそうだ。
 放映が始まると、大人気でカツミには「あれを売ってくれ」という要望が多数あり、プレス型を作って薄い板金製の車輌を作った。何台かはフルスケールの長さの物を作ったそうだが、短いものを作ると爆発的に売れたそうだ。いわゆる三線式Oゲージのショーティである。  
                            1/30/2014 記

dda40x at 01:11コメント(0) この記事をクリップ!

2010年04月14日

Dick のこと

Dick Tomlinson Dick Tomlinson氏は筆者の最も古いアメリカの友人である。1970年頃のModel RailroaderDetroit Model Railroad Clubの紹介が載り、MR誌経由で手紙を出して以来の知り合いである。全米一の模型クラブの会長から頻繁に手紙を貰うのは、惧れ多いことであった。
 MRは筆者の手紙をすぐに転送してくれた。日本の某出版社とは大変な違いで驚いた。その出版社は、「記事の執筆者への手紙は取り継ぎません。」というメモを、筆者が同封した切手付きの封筒に入れて、筆者の手紙を送り返してきたのだ。

 その後、アメリカに行くことができたので、デトロイトに訪ねた。豪雨の中、遠いHollyの町まで筆者をレイアウトを見せに連れて行ってくれた。当時、ディックはデトロイト警察の刑事であった。家に泊めてくれ、奥さんのJudyには本当に良くして戴いた。その後、1985年に、祖父江欣平氏を伴って訪れた際、
Henry Ford Museumに連れて行ってくれた。ポケットにピストルを入れて。
「俺は警察バッジがあるからタダで入れるからな。俺は君たちの護衛さ。君たちはVIPだろ?」
「そこの警備主任は友人で、なんでも言うことを聞いてくれるよ。」という調子であった。

C&O Allegheny 2-6-6-6 at Henry Ford Museum 祖父江氏は、C&O Allegheny 2-6-6-6 の実物が見たかった。「どうしても確認したいところがある。煙室戸に付いているステップの表面の模様がどんな形か、写真を撮りたい。」と言う。
 ディックに相談すると、「訳ないことさ。警備主任を呼んで頼んでやるよ。」と答えた。

 現場に着いて、ディックが頼むと、その警備主任が付いてきてくれて、筆者に「登れ。」と言う。「大丈夫ですか?」と聞くと、「私が許可をしている。さっさと登れ!」
 筆者が屋根の上に立った瞬間、遠くの方から警備員が笛を吹きながら警棒を振りかざして二人走ってきた。
「直ちに降りろ!」
 筆者は撃たれるのではないかとひやひやしながら、「私は特別許可を得ている。」と怒鳴り返した。すると、「そんな許可があるわけない!この ass holeめ、降りろ!」と怒鳴る。アス・ホウルと言うのは最大限の罵り言葉である。
「反対側に廻れ。君たちの上司が居る。」と言うと、「がたがた言ってないでさっさと降りろ。さもないとぶちのめすぞ。」と言ったところで、警備主任が、「君たち、もういい。あっちへ行きなさい。」と促した。
 警備員たちは不思議そうな顔をして去って行った。

Allegheny's Step at Smoke Box Front その時の結果であるが、ステップはデッキと同じ模様であった。模型製作には上から観察した資料が必要なのである。そのときの調査のおかげで、筆者のコレクションには祖父江氏のカスタムビルトのアレゲニィが加わった。

2010年01月15日

続 忘れ物 見つかる

これがAthearnと称したWeaver trucks, e-Bayより 忘れたものの中に Athearn のデルリン台車がある。この台車は発売以来50年以上経過しているだろう。当初はダイキャストであったが、それをデルリン(ポリアセタール)で作るようになった。コイルバネ3本が付いていて、ちゃんと作動する。摩擦も少なく評判がよかった。当初、組立済みで売られていたが、その工賃が高くなってバラキットで売るようになったら、誰も買わなくなり、ついに発売が中止されてしまった。

 そうなると、欲しがる人は一定量あるので価格が吊り上がり、オークション・サイトでも手に入れるのが難しくなった。
 O Scale West のようなスワップ・ミートでは、たまにその価値を知らずに売る人がいるので、ごっそり買い占めたのであった。それを忘れたので、大損害であった。

 仕方なく、e-bay で手当たり次第に落としている。結構高いものについた。その中で見つけた「アサン・ベッテンドルフ台車3組」というものをいくつか、他のタイプのアンドリュースとかシミントン台車と同時に沢山落札した。

 それが届いてびっくりしたことに、それはWeaverの安物のデルリン台車であった。早速苦情のメールを送り、「あなたの写真をよく見てくれ。これはアサンではなく、安物のウィーヴァである。これはあなたのミスであって、私の責任ではない。従って、払い戻しを請求する。そしてここにある不良品はあなたの負担で送り返すが、良いか?」

 すると1時間もしないうちに、「あなたは正しい。これは私のミスである。恥ずかしい。直ちに返金する。そちらにあるゴミは好きなようにしてくれ。返してもらう必要は無い。」と言ってきた。総額の4割くらいの返金で、トータルとしては随分安く上がった。

 売主は非常に潔い人で、好感が持てた。また、買おうと思う。

2010年01月13日

忘れ物 見つかる

 最近、嬉しいことがあった。昨年の2月、カリフォルニア州サンタクララ市で行われた O Scale Westに参加した際、忘れ物をしたのが戻ってきたのだ。
 それは、もう市販されていない部品とか、ウェブ上でもなかなか探し出せない細かい部品などを数十個入れた箱であった。

 テーブルの下に置いておき、それをあとで取りに行こうとして忘れたのだ。会場の撤収作業をしているときに駆けつけて、係りの人に聞いても分からなかった。ホテルの忘れ物のところに届いていないかも調べ、主催者事務局に電話して聞いたが分からなかった。一応、代表者のRod Miller氏にメイルして何か連絡があったら知らせてほしいと書いた。
 彼は、1か月後、丁寧なメイルをくれて、調査報告を送ってくれたが、結局のところ手がかりなしであった。

 年末に見知らぬ人から手紙が届いた。それには、「あなたのものではないかと思われるものを保管している。先日Rod Miller氏から、次回のO scale National Convention(全国大会) の案内文書が来て、その中に、『こういう忘れ物を探している人がいるから、心当たりの人は連絡してくれ』と書いてあった。」とあった。
「早速、Rodに連絡してあなたの住所がわかった。だからもしその該当者であれば、その中身を知らせてくれ。一致すればすぐに送ってあげよう。」とあった。

 早速電話して礼を述べた。すると次の日には発送してくれたのだ。それが新年早々届いた。「送料以外にお礼がしたい。」と申し出ても「とんでもない、もっと早く連絡すべきであった。申し訳ない。」とメイルを送ってきた。

 その部品はアメリカまで行ってこの種のスワップ・ミートに行かないと手に入りそうもないものばかりで、回収出来てとても助かった。
 しかも今年の夏は多忙で、その全国大会には出席できない。代わりに3月のシカゴでの行事に行こうと思っているので、今年の夏にその方と会うこともできなかったであろう。

 最近撮った動画のYou Tubeのリンクを送ったところ、ずいぶんお気に召されたようで、友人に連絡してくれたらしく、視聴者数がぐんと増えた。    

2009年01月21日

続々 Buying Brass Models by Weight

Max Gray Parts この幸せをもたらしてくれた安達製作所の社長安達庄之助氏には、心から感謝している。そのご親切に報いるためには、とにかく完成させねばならない。そればかり考えて、この30年間ひたすら作り続けてきた。

 最近、かなり要領がよくなり、手際よく作れるようになった。残りの部品も少なくなった。
 あと1 kg程度である。

 残った部品を眺めて、あれも出来る、これも出来ると考えるのは楽しい。すでに残っている部品は、小さな部品なのであるが、それさえあれば出来る車種を探すのである。

 当然大きな部品、例えば床板、側板などは板を切って作る。スクラッチ工作では大変面倒なものも、その部品があればたちまち出来てしまう。

 
Max Gray Drop Bottom Gons 上の写真の小物部品、例えばGondola(無蓋車の四隅のキャップ)などは自作は困難だ。これと補強用の縦桟(Hat Section)さえあれば、ゴンドラを作るのは簡単だ。この貨車などは、部品の数を数え終わった瞬間から3時間でここ(左の車輌)まで出来た。後は順次細かい部品を作っていけばいつかは出来る。妻板は、アメリカ製のブリキである。

 完成見本の車輌とは機能が違うが、それを承知で簡易版を作るのだ。

 実はこの完成車はすばらしい機能を持っている。発注者のMax Gray氏が驚嘆したというすばらしいメカニズムがある。
 
 さすがにこの見本となった車輌は高価である。

2006年12月13日

続 正直Jackのこと

この件がきっかけとなって、Jackの店は大はやりだ。一応通信販売もやっているようだが、在庫の回転がすさまじく速いので、なかなか、「これ!」というものを押さえるのは難しい。

 電話するなりして、次のコンヴェンションの場所を聞き、その場で買わないと難しい。
 掘り出し物が多いので彼の店はいつも人が一杯である。最近は店員も多くなり並ばなくても買える。価格が適切なので素人でも安心して買えるというのが「ウリ」であろう。
 以前は車両のみであったが最近はレイル、しかも引き剥がしてきましたというのがありありと見えるものがかなりある。恐らくレイアウトを解体したのだろう。
  
 筆者が必ずコンヴェンションに年一回は出かけるのは、このようなブローカとの出会いを楽しむためだ。顔ができれば、指値をして頼んでおいて、送ってもらうこともできるようになる。彼らのなかには、たまに腹黒い奴もいるが、そういうのは直ちに淘汰されていく。 

 アメリカの新聞を見ていると、[鉄道模型レイアウト付きの地下室あり]という不動産屋の広告もたまに見る。 

 いつぞや我が家にやってきたアメリカ人は、「レイアウト付だからこの家は高く売れるぞ」と私にささやくのである。私はぎょっとして、「日本では売れないよ」と言うと、彼は「宣伝の仕方さ。」と言うのだ。
 そういう点でも日本の模型界でリセール・ヴァリュについての認識が深まらなかったのは残念なことであったと思う。

 趣味も経済活動の一つであるからには、何でも売ります、買いますというのがあってしかるべきである。先日の01175氏のコメントにもあったように、雑誌社の努力が足らなかったのは間違いがない。



2006年12月12日

正直Jackのこと

 日本ではブローカという言葉の響きははあまり良いものではない。安く買い叩いて高く売る人というように思われているのではないだろうか。
 アメリカではブローカとして名を成している人は、膨大な知識を持ち、良識があって正直な人ということになっているように感じる。日本では仕入れの10倍で売る人もいるようだが、アメリカでそんなことをしたらたちまち商売が成り立たなくなってしまうでだろう。

 アメリカでのブローカの適正利潤は2割と言われている。そんな中で「15%しか上乗せしません。」と言い始めた業者Jackがいた。Jackはその少ない利潤で経費をまかない食べていかなければならないのだから、その目利きはたいしたものだ。
 だんだん評判を高め、いろんな人が彼に査定してもらいたいと依頼するようになり、売上高も大きくなり始めた。コンヴェンションでの彼のブースは徐々に大きくなり商売は順調になりつつあった。
 そこである"事件”が起こった。

 ある未亡人にところに呼ばれたJackは、彼女の夫のコレクションの査定を頼まれ、相当の金額で買い受けることになった。支払いが済み、コレクションはJackの事務所に運ばれた。
 商品の点検をしていたJackはある貨車の中に数十枚の百ドル紙幣を見つけた。それは、亭主のへそくりだった。
 次の日、Jackは車で5時間もかけてその未亡人の家に行き、「貨車は確かに買ったが、その積荷は買わなかった。」と言ってその現金を返したそうだ。
 未亡人は感激して、その日のうちに亡夫の友人たちの所に電話し、その噂は1週間でアメリカ中に広まったと言う。
 
 それ以来、"Honest Jack"として有名になった。Jackに会うことがあったので、その話を切り出すと、照れ臭そうにしていた。ウソではなさそうである。

 中古市場が大きくなるとブローカ同士の競争が起こり、必然的に淘汰も起こることであろう。日本ではまだまだとてもその域には達することが出来ない。地震で亡くなった友人のコレクションを安く買い叩いている業者もいるようで、奥様が不憫でならない。
 その中にはJackから買ったものも含まれているのだから。


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