訃報

2018年12月17日

Kleinschmidt氏の死去

 クラインシュミット氏が亡くなったとお知らせ戴いた。この二年ほど会っていなかったので、驚いた。
 かれこれ30年ほど、いろいろな形で接触のあった方だ。当初の10年は、筆者は睨まれていた。3条ウォームの真価についての理解をして貰えなかったのだ。
 筆者が現物を見せると驚嘆し、その後は非常に良い関係になった。部品のやり取りをし、訪問すれば歓待してくれた。鋭い批評も戴き、互いに助け合う関係になったのだ。

 彼は真の意味で技術者であり、たぐいまれな技能者でもあった。日本では技術と技能を分けることが少ないが、彼は山の向こうを見通す技術力があった。工学のエキスパートであり、熟練工でもあったのだ。彼に匹敵する人はPFMの Longnecker 氏くらいのものだ。 

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2016年06月06日

Alf の死去 

 先ほど我々の共通の友人であるBoからAlf Modineの死去の連絡を受けた。87歳であった。

 アルフとは25年ほどの付き合いであった。お互いに助け合った仲である。さまざまな部品を作って供給し、また逆に向こうから部品をもらったりした。
 最近は、博物館の工事進行状況を知らせて、意見を聞いたりしていた。

 昨年の春には泊めてもらった。日本に来ないかと誘ったのだが、健康上の理由で少々難しいという話であった。最近は足が悪く、歩きにくそうであった。

 訪問した際には上機嫌でワインを次々に開け、こちらがあまり強くないのを笑っていたものだった。いつも政治がらみの話を持ち掛けるので、事前に予習してから会うようにしていた。

 もうあのような話ができないと思うと悲しい。

2016年03月02日

Harmon の死去

 Harmon が死去したと、先ほど奥さんから連絡があった。

 実は昨日彼からのメイルで、「シカゴのショウに来るかい?またうちに遊びに来ないか。」という連絡があったばかりなのだ。すぐに返事を出して、
「いま博物館の建設で忙しいから今年は行けない。夏までには片付くから行きたいもんだ。ところでそちらはどうなんだ、奥さんと一緒に遊びに来ないか?」
と送ったばかりだった。

 先ほどメイルボックスを開けたら、奥さんから来ていた。
「大変なことになった。ハーマン が今朝3時に脳卒中で死んでしまった。とても残念だ。友達でいてくれてありがとう。」
 本当に残念だ。昨年のショウで賞を取って、満足だったようだ。その後、モータを換装するから、コアレスモータの良いのを紹介してくれ。」という打診があった。

 彼は筆者の3条ウォーム、Low-D車輪に興味があり、導入するつもりであった。地下には大きなスペイスがあり、そこにレイアウトを作るつもりで、図面を見せてくれたのだ。それはイリノイの田舎の実にのどかな風景であった。

 今度行くときには飛行機に乗せてもらう予定であったのに、それも叶わなくなった。

2016年01月10日

Henry Bultmann のこと

 Lou の訃報はここに載っていると友人が教えてくれた。 4ページである。それほど詳しくは書いてないが、ご興味のある方は読まれると良いだろう。
 その次のページには驚いた。ヘンリィ・ボルトマンの死去を伝える記事である。発音はバルトマンではなくボルトマンに近い。筆者自身も綴りがBoltmannだと思っていたくらいだ。

 彼は機械工学に強いことになっていた。誰もが同じことを言う。彼の設計したギヤボックスは最高だという。確かに悪くないが、良いとは言えない。筆者が一番気になったのは軸の太さである。高速回転する部分が太いと損失が大きい。グリスも硬い。もう少し粘性の少ない油を使うべきだ。
 いろいろと論議したが、彼は教条主義者で教科書に書いてあることを守ろうとする。実物はそれでよいが、模型ではまずいと思えることを、とうとうとまくし立てる。見かけ上、弁が立つから、信ずる人もいるのだろう。

 ワシントンDCで会った時に、こちらのSP5000を見せて、動輪上重量、牽引力、電流その他を友人のレイアウトを借りて測定した。彼の機関車は重いから牽引力はあるが、効率はこちらのほうが断然よかった。「押して動く」ということへの無関心は彼だけではないが、全く考慮しようとしない。そういう機関車は「効率が良い結果として逆駆動できるということを認識すべきだ。」と言ったら、「模型には効率なんて関係ない。」と言い張る。
「じゃ、電流が多いと君は幸せか?」と聞くと、「5 Ampくらいどうってことない。」と言うのだ。
「それではその状態で1時間走らせたらどうなる?」
「そんなに走らせる奴はいない。」
 何か矛盾していることは本人もわかっていたと思う。

 そこで、例の84輌牽く動画を見せると息を呑む。なんと言うかと思ったら、
「そんなにたくさん牽かせる人は居ない。貨車の車輪まで全部替えるというのは行き過ぎだ。」と言う。

 あれから何年経つのだろう。その後の様子が知りたいと思っている矢先にこの訃報だ。博物館のレイアウトを100輌以上の貨車を牽いて、静々と走る機関車を見せてやりたかった。

2016年01月08日

Lou Cross 氏の死去

 Right of Way のLou Cross氏が亡くなったと、友人から知らせがあった。93歳であった。 
 寝ているうちに亡くなったとのことである。二日前には友人と一緒に食事をして模型の話をしたばかりだったという。歳を感じさせない矍鑠とした人であった。100歳まで生きられると思った。残念である。

 もうかれこれ30年近く親交があった。大きなレイアウトが遺された。
 彼のことについては当ブログで何回か採り上げている。類まれな器用な人で、様々な模型を作った。どれも実によくできていた。
 下記の記事等を参照されたい。  

   Louの仕事

   続Louの仕事

   続々Lou の仕事    


       
Double Slip

        Daylight

        Hard Center

 
彼の作ったフログ等は当レイアウトにもいくつかあって、その精密感は大したものである。

2014年09月09日

続々々 土屋 巖氏の死去

 土屋氏の存命中に博物館をお見せすることは出来なかったが、設計図、工事中の写真は頻繁にお送りし、配置、色彩等について、細かい指示を戴いた。氏の頭の中では博物館は完成されていたと思う。土屋氏のコレクションは指示された通りに、全て運び出し、博物館に運び込んだ。

 ところが、一番の理解者だった奥様が、7月に急死されたのである。
「大変なことになってしまった。自分の死後のことを全部頼んであったのに、順番が変わってしまった。」
土屋氏の憔悴された様子は、本当にお気の毒であった。

 伊藤剛氏が亡くなり、氏の作品群、蔵書を全て当博物館に収蔵したことを報告に行くと、
「それは素晴らしい。どこにもない博物館になる。むしろ伊藤剛博物館と銘打って発表した方が良いかもしれんな。」と喜んでくれた。土屋氏は初期のTMSの時代から、伊藤剛氏のファンであった。

 剛氏所蔵の古い雑誌を、デジタル化して公表することには大賛成で、その具体的な方法のヒントも戴いた。

 博物館の線路は、吉岡精一氏の設計されたものを用いる。土屋氏と筆者、吉岡氏の所蔵分を合わせたもので、大半の線路本体は完成しているが、路盤はまだできていない。
 工程数を省くため、木の支柱は取りやめにし、スティールの支柱をコンクリート床に直接留める工法に切替えた。床のカーペット・タイルを介さず、直接取り付けるので、精度が出やすい。トランシットで水平を見ながら、路盤を支えるアングルを熔接する。このことを報告すると、
「そうだ。あの方法では精度を出すのが難しいから心配していた。鉄骨の熔接が良い。祖父江氏の機関車の中にはベベルギヤを採用したものもあるから、ちょっとでも傾いていると流れて行ってしまうからね。線路が水平であることが大事だ。うちのコレクションにはこの種のカスタム・ビルトがたくさんあるから。」
と賛同を戴いた。

 最後にお会いした時、
「ちょうど良かった。明日から入院するんだ。もう会えないかもしれないから、来てくれて良かった。」
とおっしゃった。博物館に掲出する予定の土屋氏の経歴の文案を持って行って、赤を入れて戴いた。

「本当に世話になった。ありがとう。今後のことは頼む。」
と筆者の手を握り締めたが、もう以前のような力は感じられなかった。

 そして間もなく、訃報を受けることになる。

2014年09月07日

続々 土屋 巖氏の死去 

 土屋氏は祖父江氏の改造した機関車を大変気に入り、全ての機関車を改造した。重いブラス製客車もボールベアリングを装備し、極めて軽く動くようになった。たくさんある貨車にはLow-D車輪が装着された。 長い編成が慣性をもって走る様は、非常に実感的である。筆者の車輌も持って行って、会社の大きなレイアウトで走らせて遊んだ。

 18年前、土屋氏は体調を崩して入院した。癌が見つかったのだ。幸い手術は成功したが、土屋氏はその後の不安を訴えた。
「dda40xさん、自分が死んだら、この素晴らしいOゲージの模型はどうなるのだろう。いろんな奴らが来て、『これはくれることになっていました。』などと言って、持って行ってしまう。もう狙っている奴もいるのだ。」
「まさか、そんなことはないでしょう。」
「いや、心配なんだ。自分が心血を注いで集め、祖父江さんに頼んで改造した機関車がばらばらになるのは許せない。万一の時はdda40xさんがまとめて保管してくれ。カミサンにはそう言ってある。」
「うちはそんなに広くないのです。」
「準備をしていてくれ、ということだよ。」

 それから土屋氏はさらに2度の手術を受けたが、特殊な抗癌剤のおかげで回復し、一緒に海外旅行もできるようになった。しかし、将来への不安は大きくなっていった。

 本年3月、土屋氏は電話を掛けて来られ、「近々に直接会いたい。」とおっしゃった。出向くと、
「実は、もう余命が3ヶ月しかないんだ。医者に、『治療は終わりです。』と言われてしまった。ホスピスを探せってさ。この子たちはどうなる。自分が死んだらどうなってしまうのだ。」
 言葉を失った。

「息子たちは興味がない。自分が死んだら捨てられてしまう。dda40xさん、あなたに頼みたい。博物館を作ってくれ。全ての模型を一括して管理して欲しい。あなたにしか頼むことができない。」
 同席されていた奥様も、「よろしくお願いします。経済的なサポートはさせて戴きます。この人の夢をかなえてあげて下さい。」とおっしゃった。

 大変なことになってしまった。
 
 それから一月、運良く空き店舗を見つけ、それを無期限で借り受けることになった。

2014年09月05日

続 土屋 巖氏の死去 

 当時、祖父江氏は元請からの注文を切られて廃業を考えていたのだが、土屋氏からの改造注文を受け、息を吹き返した。動力の改造は蒸気機関車以外に、ディーゼル、電気機関車等があり、その滑らかな走行に、土屋氏は大満足であった。
  しばらくして、筆者がアメリカに引っ越すと、土屋氏からはよく電話を戴いた。市場から良い製品を選んで購入し、日本に送った。その後、吉岡精一氏設計の線路も共同で製作し、経営されている会社の3階に大きな線路を敷いて遊んでいらした。 その後、ご自宅の3階に25坪程度のレイアウトを作られ、DCC運転を楽しまれた。

 土屋氏は東京藝術大学の出身で、二度も首席で入学したという特異な経歴の持ち主である。高校では一番だったそうで、東大に行くつもりだったのだが、不本意な結果に終わり、冗談半分で出願した藝大の入試を受けることになった。試験会場では黒板に題が書かれ、試験時間は5時間であったそうだ。氏は5分で描き終わり、周りを見ると誰も絵を描き始めていなかった。さらに30分待っても、誰も身動き一つしなかったそうだ。氏はバカバカしくなって席を立ち、作品を受付に出して帰宅したという。

 翌日電報が来て、首席合格だという。そして入学者総代として、宣誓文を読んだ。入学したものの、冗談で受けた自分が首席ならば、こんな学校は行く価値がないと退学届を出し、当時開校したばかりの代々木ゼミナールに通い始めた。ところが、東大クラスには優秀なのがたくさん居て、たとえ合格してもビリかもしれないと、心配になったそうだ。しかし藝大に行けば1番だ。よし、もう一度入ってみようと再受験すると、またもや首席合格だったという。

 土屋氏が絵を描くのは、信じられないほど速い。「見て描くのではない。頭の中にあるものを描くのだ。」とのこと。要するに、土屋氏の目には、紙の上にあるべき絵が見えているのだ。他の人には見えない。それを見えるようにする操作が、彼にとって絵を描くことなのである。天才という言葉が、ここでは適当だろう。
 それにしても、土屋氏を二度首席に選んだ藝大の先生方の眼力には、恐れ入る。ただし、二年目は音楽科と交代でその首席入学者が宣誓文を読んだので、宣誓文を二度読むということはなかった。学生時代は優れた先生や良き友人に恵まれ、楽しい日々だったそうだ。

  学生時代はアルバイトで絵を描いていた。ホンダのオートバイのカタログの絵や、初期のタミヤのプラスティック・モデルの箱絵は、ほとんど土屋氏の作品だという。このころから、ゴーストライターをしていたのだ。
 卒業後は非常に優秀な先輩の居た日産自動車に入社したが、その先輩が病気で辞めてしまい、やる気をなくしてしまった。退社後はフリーのデザイナーとして本領を発揮し、世界中から殺到する注文をこなされた。

 その世界では、誰が何をデザインしたかということは、誰でも知っていたのだそうだ。だから指名で注文が来るのだ。

2014年09月03日

土屋 巖氏の死去

土屋 巖氏 2 土屋 巖氏が、昨日死去されたことを、ご家族から知らされた。1937年生まれであるから77歳であった。写真は2014年5月筆者撮影。
 土屋氏はその世界では著名なデザイナーであった。世界中の車の1割弱が土屋氏のデザインであった時代があったのだ。ご本人曰く、「世界一のゴーストライターさ。」
 クライアントとの契約があるので、車種は明らかにできないが、日本車はもちろん、韓国、中国、インド、イラン、フランス、アメリカをはじめとして多くの乗用車、バス、トラックをデザインされていた。鉄道車輌も特急列車の半分弱は土屋氏の作品である。航空機の内装なども手掛けられた。

 筆者とはちょうど30年のお付き合いを戴いたことになる。何度か海外にご一緒し、ビジネスのお手伝いをしたこともある。知り合ったのは、カツミ模型店が主催したOゲージの運転会であった。筆者の機関車の走りを見て、質問された。
「いったい何が違うのだ?こんなに良く走る機関車は初めて見た。」
「何もかも違うのですよ。機関車のボディはKTM製ですが、下回りは完全新製です。モータも、ギヤも、軸受も、ロッドまでも違うのです。」
と答えたら、「ウーン」と唸ったきり、黙ってしまった。

「うちに来てくれないか?」と言われて付いて行ったところ、大変立派な御屋敷で、Oゲージの機関車がたくさん飾ってあった。
「どいつもこいつも、まともに動かないんだ。電流ばっかり喰ってさ。あなたのメカニズムで行きたい。改造してくれないか?」

 当時筆者は大変忙しく、自分の工作をするのが精一杯であった。
「私にはその改造を引き受ける時間がありません。でも、素晴らしい職人が居ますから、ご紹介しましょう。」

 その次の週、筆者は土屋氏の車で、祖父江氏を訪ねた。土屋氏は祖父江氏の作品をいくつか見せて貰ってから、
「少し持ってきたから、改造をお願いしたい。」と、車のトランクを開けた。10台もあった。

 祖父江氏は電話を掛けて来て、「大変な人を紹介してくれたね。一台ずつ改造してたんじゃ、間に合わないからさぁ、量産体制を取るよ。部品を設計し直すから、ひと月くらい、待って貰うようにお願いしてくれ。」

 以来、土屋氏は祖父江氏の重要な顧客となり、3条ウォームの標準化に貢献されたのである。 

2014年08月10日

続々 吉岡精一氏の死去

 Low-D車輪の開発も、吉岡氏の助言に負うところが大きい。
 当初、出来の悪いプラスティック製のRP25車輪をステンレス製に置き換えようということになって、筆者が図面を描き、旋盤屋に1000軸ほど発注した。それを見本として送ったところ、逆鱗に触れた。
 
 「RP25が正しいと思っていたら、それは大間違いだよ。正しい知識を身につけるまで、車輪の発注をするべきでない。」
 それ以降、ナダルの式の勉強をさせられ、MRの記事の間違いを教えられた。フランジ角を何度にするか決めるのに半年ほどかかった。摩擦係数の小さい材料を用いた車輪は模型では有利であることも、その時認識できた。
 フランジウェイの寸法や、チェックゲージの決定に、さらに半年くらい掛かった。その間に来た手紙が、たちまち10 cmほども溜まった。当時、返事を書く暇がないほど忙しかったので、電話で返答した。
 手紙でないと叱られるかと思ったら、逆に褒められ、「君は偉いよ。全ての手紙を読んで、必要な返答を寄こしている。電話も掛けて来ない奴が大半なんだから…」
「先例に捉われず、全てを洗い直し、最高のものを作る」ということを繰り返し言われて、かなりの重圧であった。 図面はこの間に20回ほど往復した。

 そして、ついにLow-D車輪発注の承認が得られて、工場に注文した。図面は全てに吉岡氏の手が入っていて、それを見た工場の人が言った。
「こんな図面は初めて見ました。全ての点に座標が入っています。これを手で計算するのは大変だったでしょうね。おかげで入力は楽ですよ。」

 その後、CNC旋盤の入力の仕方が分かり、簡略化した図面になった。
 Low-Dの性能を測定するのは難航し、たくさんつないだ状態でカーヴを通し、その抵抗の変化を測定した。それはかなり大雑把な実験であったが、吉岡氏は大変満足そうであった。
 「車輪の抵抗なんてのは、1輌では分からないし、分かる必要もないんだ。たくさんつないでどうなったかが大事なんだよ。」

 その後のLow-D車輪の売れ行きにはいつも目を配って戴き、3万軸を越えたという報告をすると、大変御満足そうであった。Low-Dの設計をご自分でされる代わりに、筆者に設計をさせ、それを監修されたことになる。きっと御自身でされた方が早く出来たはずだと思うが、「良いチャンスだからこいつに勉強させてやろう」というお気持ちがあったのだろう。

 氏は筆者のことを管理型模型人と名付けられたが、吉岡氏はどの様な分類になるのであろうか。
 多分、監督型模型人というのが適当ではないかと思う。

2014年08月08日

続 吉岡精一氏の死去

 吉岡氏は受け継いだトウガラシ畑からの一次産品を処理するだけでなく、中国での栽培も手掛けた。中国でのビジネスの厳しさを何度となく聞かせて戴いた。日本のトウガラシを持って行って栽培しても辛味が薄くなるという話もあった。
 家内工業から近代的な工場へと脱皮させ、大きく成長させた。工場を見学させて戴くと、吉岡氏らしい様々な工夫があることが分かる。

 吉岡氏の住宅も御自身の手による設計である。最初のお家も御自身の設計のすばらしいものであった。建築雑誌に載るほど洗練されたデザインであったのだ。ところが隣の病院の拡張により立ち退きを迫られ、代替地に選ばれたのは廃止された鉄道の駅の脇であった。
 庭は公園と間違えて入って来る人があるほど広く、素晴らしい。

 吉岡氏は東京生まれで、ちゃきちゃきの江戸っ子である。祖父江欣平氏の言葉を聞いて、「ああいう巻き舌の江戸言葉は久し振りに聞いたよ。」とおっしゃったのが印象的であった。お手持ちの全ての機関車の動力機構は、祖父江氏のところで三条ウォームに改装された。その時、祖父江氏は、「素晴らしい能力のある方だねぇ。あんな人が〇〇〇の社長だったら、日本の鉄道模型はこんな状態にはならなかっただろうよ。」と仰った。

 どの順番に繋いでもよい、互換性のある組立て式線路を設計され、筆者、魚田真一郎氏と土屋氏、そして吉岡氏で半径2900mmの複線を発注した。Oゲージだけでも合計3セットである。他にOJ用もあった。合わせると結構な金額になり、受注した木工所は張り切って作ってくれた。神戸の震災で潰れたものを除いて2セットが、今度の博物館の線路として利用される。
 この線路は、饋電線を内蔵したホゾ継ぎの高級仕様である。カントも付いていて素晴らしい出来である。ゴムを制震材として採用しているので、走行音が実に良く、実感的である。この音響効果については吉岡氏が10年以上かけて研究されたものである。

 イコライジングは理論だけでなく、様々な試みを実現したモデルを作られ、実際に走らせて挙動をテストされた。理論だけで終わらない実践家としての主張は、傾聴すべきところが多かった。

 ご自宅に伺うと、物理実験に使うような精密電流計、可変抵抗器、定電圧電源を並べて機関車の性能試験をされていたことが多い。旧来のモータ、ギヤでは効率が10%台であったのに、筆者の三条ウォームとコアレス・モータを採用すると50%以上もあることに、とても驚かれた。

 そこで「モータ調書」という論文をものにされた。コアレスモータの特性を順次測定され、目的別のギヤ比の策定をし、負荷が掛かった時の回転数の落ち具合を調べられたのだ。
 すなわち、重連をしても問題の無い組合せを探し出されたのである。現在はDCCであって個別調整が効くから意味が無くなってしまったが、DC二線式の時代には重要な意味のある論文であった。

 吉岡氏の口癖は、「客観的なデータを出せ。」である。それは筆者の仕事と重なるところも多く、様々な測定値を送ると、測定時の条件を必ず問い質された。

2014年08月06日

吉岡精一氏の死去

吉岡精一氏近影 筆者撮影 吉岡精一氏が一昨日お亡くなりになったと、御家族から連絡を受けた。大正15年1月1日生まれであるから、88歳であった。写真は本年5月筆者撮影。

 吉岡氏とお知り合いになれたのは1983年であるから、もう30年以上も指導戴いたことになる。本当はもっと早く、お会いできたのであるが、TMSが接触を意図的に妨害したので3年遅れとなった。それが分かったときにはお互いに憤慨した。
 何度か泊めて戴いたことがあり、拙宅にも何回か逗留された。

 吉岡精一氏は、イコライザの研究者として名を知られている。古今東西の機関車のイコライザを徹底的に調べて、その理論を読み解き、数学的な検討を加えて冊子にされた。内野日出男氏と共著の形になっているが、実際は吉岡氏が大半を書かれた。

 氏は文章を書くのが大変お上手で、筆者の保管している書簡はB5の便箋で高さ1m近くにもなる。どの手紙にも精緻な図と数式がぎっしりで、毎回、手紙を戴くたびに、白紙に式を写して検算をするのだが、間違っていたことは一回もない。

 筆者のイコライジングの記事は吉岡氏の書かれたものを翻案して、数式を使わず直感的理解できるように表したものである。クロス・イコライジングの説明は、「良く書けている」とお褒めに与った。

 ウォーム歯車の効率についても、精緻な計算をされ、結果として筆者の採用した仕様が最高値を示すことを証明された。その時のお言葉には驚いた。
「偶然か、それとも計算の結果か?」
「一応計算しましたが、コンピュータを使ったわけではないので、極大値かどうかは分かりませんが、かなり良いところにあるという自信はありました。」
「運がいい奴だ。」

 吉岡氏は栃木県大田原市に在住で、食品会社を経営されていた。父君の開拓された畑にトウガラシを栽培し、その精製にかけては日本一の技術を持っていた。現在でも日本の香辛料の大半が氏の会社の製品である。カレーなどの加工食品にも広く用いられている。

 正直なところ、初めてお会いした時、大学の物理の先生だと思っていた。
「いや、これは趣味でね、社長室で暇な時、数式を弄っていると時間が経つのを忘れるよ。」
 とても趣味の範囲とは言えないレベルの考察を加えて、クラブ員の知的レベル向上に貢献された。 

2014年06月30日

続 伊藤剛氏の死去

 伊藤剛氏は名古屋模型鉄道クラブ NMRC の創設者である。以来、67年間、クラブを牽引し、新しい試みを次々と発表されてきた。その功績たるや、日本の鉄道模型史そのものであると言っても過言ではない。

 拙ブログでは、氏の功績を順次再録してきた。若い方も、剛氏のアイデアを再認識されたと思う。剛氏はアイデアを出すだけでなく、それが模型界に浸透する様に、様々な努力をされた。また、筆者に部品を売るように強く勧められた。おかげさまで、Low-D 車輪は 3万軸弱が市場に出ていった。
 今回の博物館には剛氏の業績を伝える展示も用意するところであった。

 剛氏は階段で足を滑らせたのが原因で亡くなった、とお聞きした。杖をつくのを嫌がられたのだそうだ。もう少し長生きして戴きたかった。
 86歳を記念して8620が牽く列車を完成されたので、96歳では9600を、101歳では101系をという冗談もあった。決して不可能ではない範囲にあったと思う。とても残念だ。

 

 

  


2014年06月28日

伊藤 剛氏の死去

MRを見る伊藤剛氏 6月24日、伊藤剛氏が逝去されたと、ご子息から先ほど連絡があった。93歳であった。

 昨年、鉄道模型功労賞が授与され、筆者も立ち会ったが、お疲れのようで心配していた。しかし、その後の会合では元気にやって来られて、楽しいお話を皆さんに聞かせて戴いた。

 今回の博物館構想をお話しして、賛同を戴き、「うちのも頼むよ」と言われたのが、つい先日のことであった。そのとき、オーストラリアの吉岡利隆氏が急死された件で、とても残念そうであった。線路工夫のギミックを全コンピュータ制御することを頼みたかったのである。その後、機械式シーケンス制御を苦労して直された。

 まだまだ教えて戴きたいことがたくさんあったのに、あっと言う間に旅立たれてしまった。

 剛サン、ありがとうございました。貴方から教えられたことは、多くの人に伝えますよ。

 


2014年03月19日

吉岡利隆氏のお別れ会

故吉岡利隆氏 すでにお伝えしたように、急死された吉岡利隆氏の日本でのお別れ会が、去る3月9日午後、新宿の某ホテルで行われた。ご遺族の了解を得て、紹介させて戴く。

 会場には彼を偲ぶ方たちが集まり、しめやかにお別れ会が執り行われた。彼の主だった作品も展示され、参列者の目を引いた。

 弔辞では東芝にお勤めであった頃のエピソードが紹介された。いかにも彼らしい痛快な出来事を、いくつか教えて戴いた。

 吉岡氏は高校生時代から、カメラを担いで全国を巡り、写真を撮っていた。筆者とどこかで出会っているのかも知れない。

 ひとつ偶然の接点があった。彼は昭和44年、初回の情報処理技術者認定試験の合格者である。当時19歳だった。筆者の兄も21歳でその試験に合格し、「きっと、最年少合格者だ。」と新聞発表を楽しみにしていた。ところが「もっと若いのが居た。」と落胆していたことを思い出す。吉岡氏こそが最年少合格者であったのだ。
 その試験は、年を追うごとに細かく多段階に別れ、兄も吉岡氏も全て同期で合格していた。したがって、受験には経験年数が要求されるので、常に彼が最年少であったようだ。
 


2014年02月09日

吉岡利隆氏の死去

 本ブログにもリンクされているシドニィ在住の吉岡利隆氏が、ご病気で本年1月9日にお亡くなりになった。本日ご子息からお知らせ戴いた。鹿ケ谷氏と言った方が通りが良いかもしれない。時々コメントを投稿されていたので、名前をご記憶の方もいらっしゃるだろう。

 吉岡氏の腕の確かさは折り紙つきで、筆者はライヴスティーム方面のことしか詳しく知らなかったが、飛行機の模型においても卓抜した力量を持ち、その世界でも有名人であった。

吉岡利隆氏
 
 日本に出張されるときはよくお会いし、また、拙宅にも逗留されたことがある。名古屋模型鉄道クラブの例会にも特別参加され、伊藤剛氏やお客様の今野喜郎氏と親しくなれたことをとても喜んでおられた。
 当家にいらしたときは特殊な刃物類を差し上げ、それが工作に使われている様子が発表されて喜んでいたのに、あまりにも早い逝去で、残念至極である。

 この夏にはオーストラリア訪問を実現させようと思っていたところであった。

 ご子息からの連絡によると、3月9日に都内某所で、国内の関係者のお別れ会が開かれるとのことである。

 

 

2009年10月29日

続々 祖父江欣平氏の死去

祖父江欣平氏 2007年撮影 祖父江氏は実物のことを実によく知っていた。それもそのはず、もともと機関車や艦船の部品を作る工場(東京機器工業、のちのトキコ)に仕上げ工として勤務していことがあるのだ。
 祖父江氏の工房には国鉄の蒸気機関車についていた速度計がある。時計仕掛けになっていて、カチンカチンとある速度で針の示度が下がる。下から軸を回すとそれが針の示度を上げる方向に働く。二つが釣り合えば速度を指示することになる。
「これも俺が組み立てたんだよ。何回かばらして、組み直してあるよ。部品も作り替えたしね。中身は新品さ。」

 先日訪ねた時、「最近働けねえんだよ。朝飯を食うと眠くて寝てしまう。起きると11時だから、1時間しか仕事が出来ねえ。昼飯を食うとまた眠くて寝ると4時だろ。また1時間働いたらもう夕飯だ。この間までは1日8時間仕事をしてたのにね。」と、おっしゃっていた。
 85歳を過ぎても現役であった。かくありたいものだ。

 まだ、あれも作らなきゃならない、これをしなければならないとおっしゃっていた。
「最後にNYCのナイアガラの完全な模型を作る。これは誰にも売らない。棺桶に入れるんだ。」とおっしゃっていたが、図面と一部の部品だけで終わってしまった。


 古今東西の模型を分析し展開する能力は、単なる模型屋とはまったく異なる。工学的な素養があるからこその仕事なのである。
 長年のお付き合いの間に、筆者のアイデアもいくつか製品に組み込まれた。筆者の夢を叶えてくれる"神の手”を持った方であった。

 祖父江氏がいなければ、日本の模型界いや世界の模型界はかなり異なるものになっていたであろうことは想像に難くない。

2009年10月28日

続 祖父江欣平氏の死去

祖父江欣平氏 1997年7月27日 祖父江氏がKTMで働いていた時、Max Grayが日本にやってきた。

 1952年ころ、あるアメリカ人が、シェイの写真を持ってきたそうである。1枚だけでエンジン側だけであったそうだ。それを見せて、これを作れと言ったのである。反対側の写真もないのに、祖父江氏は作った。そのメカニズムがMax Gray を驚かせ、彼は日本に乗り込んできたのだ。
 そうして1956年より、怒涛のような輸出が始まった。アメリカにあったいくつかの模型メーカはたちまちつぶれてしまった。

 その件は以前にも書いた。祖父江氏は「俺がつぶしたんだ。悪いことをしたとは思っているよ。でも順番なんだよ。次は韓国、中国って決まってんだから。俺も飯の食い上げだよ。」

 祖父江氏は、事実上の日本の鉄道模型隆盛の基礎を作ったまさにその人なのである。しかし、このことは意外と誰も知らない。ほとんどの模型人はHOのことしか知らないので、その前のOゲージが中心だった時代のことは意識の外にあるように感じる。
 日本型は粗悪であったが、輸出用の機関車はすべて軸箱可動であった。そのほとんどが祖父江氏の設計、製作であった
 KTMの中に祖父江工房を持ち、すさまじい速度で製作していた。
 
「図面を持ってくる奴なんていねえんだよ。写真を数枚持ってきて雑誌から切り抜いた仕様書だけで作るんだ。いいものが出来るわけねえよな。」とはおっしゃったが、当時の製品は今でも通用する出来である。
「図面を持ってきたのはMax Grayが初めてだよ。」

「作ったのを取りに来て、KTMの社長と話をしているんだけどね、社長は俺のことを紹介しねえんだよ。作った本人が横にいるのにさ。」その悔しさはよくわかった。だから、アメリカを案内した時は、「この人こそ、KTMの大半の機関車を作った本人である。」と紹介した。祖父江氏は嬉しそうであった。

 その後、アメリカからの客が2人あった。直接工房に案内すると、驚く。
「こんな場所で作っていたのか。従業員は何人だったのか。」と聞く。35年前はパートのおばさんが5人くらい居たように思う。ジグを作ってそれに合わせて部品を取り付けて、ハンダ付けする。奥様も手伝っていた。

 テキサスの富豪は丸抱えで雇ってやるから引っ越して来いと言ったが、その話に乗っていれば、世界の模型界地図は大きく変わっていただろう。筆者もその世界に居たかも知れない。

2009年10月27日

祖父江欣平氏の死去

祖父江欣平氏 本日午前2時、祖父江欣平氏が亡くなった。87歳であった。35年以上のお付き合いを戴いた。(写真は本年9月撮影)

 KTMの下請けをされていたころ、酒井喜房氏の紹介でお会いした。あの出会いが筆者に鉄道模型人生の方向付けを与えた。それまでいくつか模型を作ってみたが、どうしようか迷っていたのだ。

 祖父江氏の手の切れるような仕上がりの模型を拝見し、進む方向は自ら定まった。何度か泊まりがけで指導を受けた。ヤスリ掛け、糸のこ、ハンダ付けのテクニックはいくつか伝授願えたが、とても足元にも寄れない。

 ハンダゴテを渡されて、「ほれ、付けてみろ。」と言われた。
「ハイ。」とやってみた瞬間、ブラスの角棒で手首をバチンと叩かれた。
「握り方が違うよ。そんな握り方でハンダが付くと思っているのか。こうやんだよ。ほらこうだよ。」ハンダゴテはすりこぎのように持たねばならない。それができるようになっただけでも、感謝せねばならない。

 いささか厳しいご指導ではあったが、おかげさまで、その後上達してなんでもつけられるようにはなった。ありがたいことである。

 3条ウォーム、ボール・ベアリング装備の件では、手法が確立され売上に貢献できたのはうれしい。一時は廃業も考えていらしたが、その後20年以上も営業できた。

 1985年には、アメリカにご案内した。多くの模型人を紹介し、クラブにもいくつか行った。その時撮った写真でBig Boyを作った。 一部の方とは、商売が成立し、アメリカに Sofue Brand が定着した。

Tom Harvey and Mr. Sofue in 1985 Big Boy の機関士だったTom Harveyの自宅に泊めてもらい、詳しく話を聞かせてもらった。その時の写真が出てきたのでお見せしたい。

2008年11月26日

続々 椙山 満氏の思い出

 我々の趣味は本当にこの社会で認知されているのだろうか、と時々心配になる。椙山氏は、ありとあらゆるメディアに取り上げられ、鉄道模型の楽しさを宣伝された。
 その後、10年以上経つが、意外と新規参入者は少ない。

 鉄道模型は本物と同様、設備産業であるため、車輌だけでは面白くないのである。工作の腕の立つ人は車輌工作をして、人に見せるという楽しみ方が出来るが、そうでない人は、運転を楽しみたい。
 すると、ある程度の広さの運転する場所が必要になる。組立て式レイアウト(このような言葉は英語にはないようだ。Snap Trackというのが近いらしい。)で楽しむだけでは面白みに欠ける。

 必然的に、レイアウトを所有する人のところに行くことが必要となる。このような新規参入者を暖かく迎え入れてくれる趣味人が多く存在しなければならない。椙山氏は、それを熱心に実践されたのである。彼ほど多くの人を自宅のレイアウトに迎え入れた人は珍しいのではないか。

 素人でもにこやかに迎え入れ、仲間に紹介された。いろいろな催しに招待するうちに、いつの間にか、その素人が主催者側の人間となり、次の世代の新規参入者を迎え入れている。すばらしいことであった。

 業界が率先してこのような人材育成をしなければならないのだが、その気配はない。雑誌も役に立っているようにはとても見えない。

 趣味者が主催するコンヴェンションが、小規模であっても各地で行われると良いと思う。そのとき、レイアウト・ツアも同時に行われるべきである。車輌工作だけでは寂しい。
 

 椙山氏の逝去の報を受け、いくつかの思い出を書いた。最初にも記したが、いかなる趣味にも指導者は必要である。卓越した指導者としての椙山氏のおかげで、幾多の模型人が育てられたことを、この趣味界は記憶せねばならない。 

2008年11月24日

続 椙山 満氏の思い出

 椙山氏の名前は初期のTMSによく出てくる。伊藤剛氏と共によく紹介されている。TMS主催のコンテストを、意味のないものと批判された後はあまりTMSにはそのお名前が載ることはなかった。
 どちらかと言うと、現在のコンテストは記事の題材集めに近いもので、それを当時から見抜いていらしたことは特筆すべきことである。

 氏のポリシィは明確であった。「楽しまねばならぬ。楽しくなければ趣味ではない。楽しむ時は仲間がいるともっと楽しい。仲間を広げよう」である。

 そのとおりなのだが、それを身を以って実現された方は少ない。医者として地域の医療に貢献しつつ、献身的に奉仕活動をされ、友人を家に招いて楽しく遊ぶ。一体いつ寝るのであろうと不思議であった。

 一月に1本くらいのペースで新作映画を作られた時期もあった。伺うと、16mmフィルムがたくさんぶら下げてあり、編集作業の真っ最中であった。順につないで、テープレコーダと連動させるとトーキィになる。それを磁気再生が出来るように外注し、映写会を開く。当時としては高価なズームレンズを使用しているが、決してズーミングをされない方であった。遠くから走ってくる車輌をズーミングしていつも同じ大きさに撮ることを極端に嫌われた。「人間の目にはそういう見え方はしない。」ということだ。「ズームは画像の大きさを調節するものである。」からだ。
 パニング(カメラを列車の走行方向に廻す事)も、してはいけないことのひとつであった。「列車は通り過ぎるものである。」のだ。

 自動車で列車を追跡することはお好きであった。蒸気機関車のロッドの動きを丹念に撮られた。 機関区での人の動きを撮った作品もあった。

 その後、アメリカの映画をテープやDVDで簡単に買えるようになって、60年代の映画を見ることがある。その撮り方が椙山氏の撮り方に似ているのは興味深い。  

2008年11月22日

椙山 満氏の思い出

 椙山氏の存在は東海地方の模型人の中では、大変大きな存在であった。毎週土曜日には、各地から来客があリ、紹介して戴いた。

 どなたもその規模、質の高さに感銘を受けた。車輌のコレクションも立派であったが、出来合いの車輌を切り継いで、面白い車輌群を作られた。その発想が極めて独創的で、筆者の後々の模型製作に大きなヒントを戴いた。

中学生のときに封切られた「大平原」Union Pacificに夢中になり、連続45回見たとのことである。全てのせりふを暗記されていたのには驚く。この映画が椙山氏をアメリカ型鉄道模型の世界に引き込んだ。それに登場する4-4-0をOスケールで2輌自作された。
 4-4-0を大変好まれ、HOスケールで市場にあるものは全て集められたはずだ。

 また、特筆すべきこととして、"Ready to Run"がある。この言葉は、箱から出してすぐ走る完成品を表す言葉であるが、椙山氏のお宅での意味は少し違う。何百輌もある機関車がどれも線路に載せると、音もなく動き出すのである。とにかく調子がよい。
 筆者は今まで多くの趣味人とお会いしたが、このレベルに到達されている方はほとんどない。氏は、購入されると分解、調整を直ちに終え、3日以内に塗装、ディカル貼りをする、と決められていた。集電を良くし、ジョイントを取替え、ギヤを慣らすために負荷を掛けて運転する。そして外して洗浄し再注油する。

 当たり前のように見えても、これを徹底するのは難しい。来客があると、「どれがいいですか。」とリクエストを受け、その機関車を走らせる。どの機関車も本当によく走る。聞くところによると、棚の上の機関車を毎日順番に走らせて、調子の悪いものはすぐ修理するのだそうだ。

 走りが悪い電車は、全てSPUD(いわゆるパワートラック)に取り替えられた。その前に、MRの広告をご覧になって、「これをやってみよう」と仰り、台車枠の中にモータを入れたHO用の動力台車を取り寄せて差し上げたが、満足がいかなかったようだ。SPUD をテストして、「良し」となったら百台単位で購入されて、御友人にプレゼントされた。そのため、急速に使用者が増えた。

 しかし、設計者は毎日走らせる客が居るとは思わなかったらしく、焼けたり、磨り減ったりした。それが製造元に伝わると、改良された商品が届いた。椙山氏はこれをMRに紹介された。アメリカでもよく売れたのではないだろうか。

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2008年11月20日

椙山 満氏の死去

 椙山 満氏が9月8日に亡くなった。82歳であった。
筆者の自宅のレイアウトがある程度完成した時期に、見て戴いて開通式のクス玉割りをお願いしたいと申し出たところ、あまり調子がよくないからとそのまま延期になってしまったのが悔やまれる。
 ここしばらくはご無沙汰してしまい、そのまま訃報を受け取ることになってしまったのは、返す返すも残念だった。

 椙山氏とは高校生の時にレイアウトにお招きに与って以来、お付き合いさせて戴いた。高校の大先輩でもあり、郷土史の研究家としても有名であった氏のおかげでアメリカ型に開眼し、ありとあらゆるアメリカの鉄道映画を見せて戴いた。
 戦争のせいで学生時代に英語をあまり勉強できなかったと、私に映画を見せて「今なんと言ったか?」と問われた。高校生であやしい英語能力ではあったが、半分くらいは理解できた。その後アメリカに引っ越した時も、よく電話を戴き、いろんなものをお送りしたことがある。

 趣味であっても指導者は必要である。筆者は最高の指導者を得たことになる。
Model Railroaderを航空便で購読されていて、氏のお宅に伺えば、おそらく日本で一番早くアメリカの情報に接することが出来た。MRが届いた週の土曜日にはそれを読むことができた。これは最もよい英語の勉強法であった。外国から客人があれば、極めて怪しい通訳をするはめになるが、意外に通じるものであった。お互いに鉄道のことはよく分かっているからである。

Blue Star Pacific Railroad (MRに紹介された)を作られるとき、どのレイルが一番良いかを調べるために、仮設レイアウトのエンドレスに各種のフレクシブル・トラックを一本ずつ、つぎはぎに敷き、その減り具合を調べるのにお付き合いした。結果はPecoが一番であったので、新レイアウトにはPecoを全面的に採用された。

 TMSよりも早い時代に模型趣味を持つ全国の友人と回覧雑誌を作られ、全国に多くの御友人を持たれた。
 御友人がいらっしゃるときには、よくご相伴させていただいた。また、新着映画があれば16mm映写機で鑑賞会を催したりされた。16mm映画の撮影、編集はプロはだしで、多くの作品を残された。

 日本シトロエン・クラブの会長でもあられた。ご趣味のシトロエンを全国で一番たくさん買われたとのことで、フランスから販売部長が挨拶に来たこともあった。

 最近は四日市の軽便鉄道の調査をおまとめになった。氏の祖父は関西(かんせいと読み、今の関西本線四日市ー大阪間)鉄道の創始者の一人であられた。その経緯をまとめた冊子も拝見した。鋭い観察眼によって新しい切り口を見せて戴いた。 

 現代の鉄道模型の礎を築かれた方が、また一人亡くなられた。

2006年10月02日

訃報

9dffc2fa.jpg   内野日出男氏が亡くなった。68歳だった。

 氏とは25年ほどお付き合いをさせて戴いた。まだ都庁の建築課にお勤めの頃であった。東京駅八重洲口でお会いした時、豪快なビールの飲み方に驚いた記憶がある。

 「遊びにおいで」と誘われて、ご自宅にお邪魔した。
 工作台に0.8mmの真鍮板を置き、コンパスで半径3cmの円を描かれた。

 ドリルでその円周上に孔をあけ、糸鋸の刃を通されたのだ。何をされるのかと思いきや、突然鼻歌交じりで、さくさくと円周を切り始めたのである。

 「ほら、廻してご覧なさいよ。」とおっしゃる。机の上に真鍮板を置き、円板をその穴の中に置く。指先で廻すと、どこにも引っかからずにするすると廻るではないか。円周上のどの部分も隙間が均等で、真円と言ってよい仕上がりであった。

 自宅に帰ってやってみたが、これはとても難しい芸当であることが分かった。内野氏の達人ぶりを示す良い例で、友人にこの話をすると皆さんとても驚かれる。

 また旋盤工作の名人で特殊なヤトイを自作されたりして、その工夫は私も活用させて戴いている。

 懸架装置のイコライズはもちろん本物通りにも作られるが、量産品用の簡易三点支持装置(某模型店が特許と言っている)は内野氏のアイデアである。また、曲線で伸縮して車両隙間を狭く見せるカプラーも内野氏のアイデアである。

 オリジナルのアイデアを大切にされる方で、私もいくつかお褒めに与ったものがあり、懐かしい思い出である。

 その他鉄道模型界に多大な貢献をされ、アメリカの模型界にもMainline Modeler誌を通じて大きな影響を与えられた。

 3年前ご夫婦で訪米される時案内をさせて戴いたが、その後体調を崩され一昨日の悲報となった。
 
 まことに残念なことである。



写真は2003年2月、シアトル市内から空港へ向かうリムジン車中でのひとコマである。左は筆者(の腕)。



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