アメリカの自然
2019年10月27日
崖を塗る
”ドリルと発破で修整した部分”は、縦にも刷毛を動かす必要がある。ドリルで掘ったように見えねばならない。
塗料がかなり飛び散る。周りは、半径1.5 mほど古新聞で完全に覆ったので、飛散は完全に防げた。グレイに塗ると、全体が落ち着いて見える。
次の区間は水平な地層で、仕事は単純である。あっという間に完成だ。この左の部分は擁壁になる。脆い岩山を崩し、擁壁で抑えて線路を通した想定になっている。そのように見えるようにしたつもりである。
擁壁はT氏に頼んで枠を厚紙からレーザで切り出して貰い、プラスティック板をレンガ風にエンボス(押出加工)したものを裏から貼った。曲線に馴染ませる必要がある。円錐台側面に貼る部分と直線部分、そしてその緩和部分があるから、かなり面倒である。この写真は仮置きの状態を写したものである。整列させてから写真を撮るべきであった。
色は、全体を今までと同じグレイにする。これは土屋氏からの指定事項だ。車輛以外には色があってはいけないということなのだ。
2017年09月22日
またまた Abo Canyon
Santa Fe鉄道の大陸横断線は1888年に開通して(UP、CPの1869年に続く、二本目)いるが、それはRaton峠を越えるものであった。あまりにも急勾配で大量輸送には向かなかった。それで、1907年3月にClovis方面に抜ける新線を開通させたのである。緩勾配で鉄道の特性を生かせるものであった。現在は事実上複線化され(Vaughnの西の数マイルが工事中)、交通量は莫大である。北廻り線は40%ほどしか複線化されていない。
Raton峠の線は、既に役目を終えているような気もする。歴史的に大切な峠であったが、もう昔の話だ。新しいトンネルは旧線の脇に掘ったので、動画をよく見ると塗り込めた旧トンネルがちらりと見える。旧線は1.5 mほど高いところを通っている。コロラド側からの画像では左側に見える。本当はそれを見に行きたかったのだ。
Abo の発音であるが、エイボゥが現地音である。前にアクセントがある。但し、それはSF関係者の発音で、上記のTrains誌にもその発音が示してある。メキシカンの人たちはアーボと発音するが、圧倒的に少数である。
先回扱ったRatonは、感心なことに日本語版Google Mapではラトゥーンになっている。
2017年09月14日
Cajon Pass の変化
翌朝、カホン峠を通るのだが、例によってルート66の旧道を通ってみた。道が良くなっている。昔の駅のところは完全に削り取られている。新しい道を作っているのだ。以前の180度カーヴの道は完全になくなる。
この写真の矢印のところが今度作られる道だ。白い線は昔の山の形である。かなり削ったのだ。線路わきの段になっているところが昔のルート66である。
峠を越えて西を見ると、こんな調子である。今までの起伏に富んだ道は無くなり、勾配は均一になる。左の方にくねくねしているのが、現行のルート66である。以前よく行ったお立ち台には乗用車で行く道がなくなってしまい、今回は諦めた。
そうこうするうちにBNSFの貨物列車がやって来た。22‰の勾配をあえぎながら登って来る。駅の跡地は信号所になっているが、最近はほとんど通過する。左の方の高いところを走っているのはUP線である。後発の路線は不利な高所を通っているのだ。現在の技術なら、掘り下げることは不可能ではないし、トンネルを掘ることもできるだろうが、その気配はない。
この区間だけ電化すれば、電力回生ができそうだが、万一の事故を考えるとできないらしい。石油・電気の安い国であるから、というのも大きな要因だ。
2017年09月12日
続 Raton Pass
その間、トンネルはこの峠だけであるから、機関車の煙突は長くし放題であった。煙突を伸ばすと、通風が良くなり、効率が上がるらしい。トンネルに入るときだけ縮める方法が採られ、普段は1 m弱も伸ばしていた。サンタ・フェの近代型蒸気機関車は、概して背が高く、5 m以上ある。煙突を伸ばすと6 m近いわけだ。
トンネル全体はニュー・メキシコ州にある。北の出口から10 mほど行ったところが州境である。写真を撮るためにあちこち探したが、すべての道路は閉鎖されていた。
仕方がないので、車で走りながら撮った写真がこれである。全く参考にならない。この区間の最急勾配は35‰で、本線としては、とんでもない勾配である。この線路上から高速道路に向けて撮った動画が、下にある。
昔の写真を見ると、補機をたくさんつけて押し上げている。50輌ほどの貨物列車に、ディーゼル電気機関車を中補機、後補機を入れて、総計10輌も付けているものがある。
事実上、この Raton Pass は貨物の通過路線としての価値は、すでに失われたのであろう。YoutubeにAmtrak車内から撮った動画がいくつかある。
2017年09月10日
Raton Pass
ところが、現地で確認すると、かなりの割合で ″ゥラトウン″というので驚いた。若い人は、ほとんどそう発音する。tone の音と同じなのだ。年寄りはちゃんと、″ゥラトゥーン″ と発音してくれる。綴りからは想像できない音なので、より単純な音に移行しているのであろう。これは仕方がない。
Ratonはスペイン語のネズミの意味である。試しに近くの店でネズミ捕りを買い、メキシコ系の人に発音を聞いてみた。例によって巻き舌であったが、ラトーンに近い音であった。”トウン”ではない。意外なことに、コンピュータのマウスもratonであった(当然か)。
駅に行くと閑散としている。貨車の一輌も止まっていない。既にこの線は旅客列車だけが通るのだろう。線路近くの安ホテルに投宿したが、夜中にも貨物は通過しなかった。
町全体が静かで、昔の宿場町としての賑わいは全く感じられない。廃業したモーテルがたくさんあった。
2017年09月08日
Southern Transcon
Northern Transconは北廻りでGreat Northern路線を通る。一方、UPは何も言わなくても、だれもが知っている大陸横断鉄道である。BNSFは2本持っていることになる。
この3本が主要な経路で、線路は多少は分かれているが、通るべき隘路は限られている。通行量は膨大である。旅客列車は勾配がきつくても構わないので、これ以外の線路も通るが、長大な貨物列車が頻繁に通るのは、この3本以外にはない。北廻り線は、冬季には雪の影響を受けやすく、その点でも南廻り線の増強が必要であったのだ。
テキサスのアマリロに向かう国道60号は、この南廻り線とほとんど並行している。かなりの数の貨物列車を追い抜き、すれ違った。テキサスとニューメキシコの州境のFarwellという町では、大きな道路を踏切で横切って長大貨物列車が走っている。とても面白いが、危険である。いずれ高架化されるのだろうが、それまでは毎日数十回もその光景が繰り広げられるのだ。
たまたま通り過ぎる列車を横から撮った。このような撮り方をする人はまずいないだろうという動画である。
2017年09月02日
続 Abo Canyon
唯一の接点は国道60号が直角に立体交差しているところで、そこからの眺望は限られているが、多少はある。
車内から見るには、アムトラックが旅客列車を運行しているのでそれに乗る方法がある。あるいはBNSFに正面から取材を申し込む必要があるが、個人では無理だろう。放送会社などにコネクションがなければ、相手にしてくれそうもない。
アメリカの鉄道ファンの間では、カホン峠、パウダ・リヴァとここが三大聖地となっているそうだ。これは通過トン数による数字だろう。
相対的には、行きにくい場所である。サンタフェの街に投宿し、車で2時間かかる。ベレンの街からでも1時間かかる。
2017年02月23日
Rutland
「これはルートランドではありません。ラットランドです。dda40x君、ちょっと発音してくれませんか。」と仰るので、やって見せた。
「単なる『ラ』ではなく、最初に僅かに『ウ』を付けて、『ウラトラン』と言えば良いです。ランドの方はLの音ですから、舌を上の歯に当てるようにします。 」と答えると、何回も発音練習をしていらしたことを思い出す。
印象に残っていたので、ディカールを買ってしまった。ディカールは30年以上も経って劣化が進み、補修材を塗って再生した。緑の色がなかなか難しい。BNの緑とも違う。Vermont 州の新緑の緑だそうだ。
Vermont は緑の山という意味だから、この色はかなり正確に合わせた。 ディカールとほぼ同じ色である。
ラトランド鉄道には、比較的小型のテンホィーラ、コンソリ、ミカド、パシフィックなどがたくさんいた。椙山氏はこの鉄道のディカールをいくつか購入し、客貨車にも貼っていらした。
それもあって、ラトランドの町には興味があり、行ったことがある。ニューヨークの東北東 約400kmにある小さな町で、中心街はヨーロッパの街並みのようである。
大理石の産地であり、鉄道で積み出した。NYC ニューヨーク・セントラルの傘下に入っている。
2015年09月20日
ピン接合
走っていくとやがて瀧のような大雨に見舞われる。雹(ひょう)が降ってきたり、場合によっては竜巻も伴っていることがあるから注意が必要だ。
I-80(インタステート80号線)はかなりの回数通っている。ソルト・レークとサン・フランシスコ間は特に頻度が高い。
途中、ウェスタン・パシフィックと並行するが、その橋は遠くから見るだけで、近くで観察することがなかったが、今回は丹念に見て回った。
ウェスタン・パシフィックは、ユニオン・パシフィックに遅れること50年ほどで建設された。アメリカはすでに工業立国であって、大きな土木用建設機械が大量に使用できる時代であった。
橋は規格品を大量に購入したらしく、ほとんど同じ構造だ。ピン接合の橋が多い。
この橋は1912年製らしい。門構にその数字が切り抜かれている。華奢なつくりだが、重い列車が走る。この橋はRenoの少し東にあるものだ。
カリフォルニアに入り、ドナーパスを下る。ある程度行くと突然、このような光景が現れる。昔ここは山の中であった。その中の谷を越えるトレッスルがあったのだが、新しく作る高速道路の道幅分の幅を確保すると、橋脚まで壊さねはならない。そこでこの窮余の策が実現されたのだ。このトラスが大きなスパンで、いくつかの桁をまとめて支えている。
要するに、昔の線形を保ちながら、高速道路を通したわけである。
2015年06月21日
続々 Promontory Point を訪ねて
岬の先端の丘の上から東を見ている。遠くから貨物列車が走って来たのが見えた。慌てて丘の上に車を進めて写真を撮った。まったくの平坦線なので、機関車は少なく、前2輌、後1輌であった。
眼下を走り去っていく。低い位置にあるNゲージのレイアウトを、立って見ているようだった。この辺りは塩が析出して、塩砂漠となっている。
ずっと先の方に行くとS字のカーヴを描いて元に戻っているはずなのだが、よく見えない。
岬の先端部分だけ複線になってすれ違いができるようになっているが、Lucin Cutoff その物は単線である。
大変な苦労をして見に行ったのだが、さしたる成果もなく引き揚げた。
2015年06月07日
続 Promontory Point を訪ねて
昔は複線のようだったが、列車本数が少ないせいか、単線である。半島の西北の方に行ってみたかった。西側には砕石を採取した穴があるはずで、その写真を撮ろうと思ったのだ。ところが鉄条網が張り巡らされて、半島西側には行く方法がない。
25年前には何の問題もなく入ることができ、岩石の見本を持って帰ることができたが、時間の経過とともに、徐々に制限がかかってきたのだ。
東の方はcausewayという感じがしない。線路の左は陸地になり、さらに北側には塩田が広がる。
岬の突端には例の家具屋の作業場があり、材木を加工して並べてあった。広げて置けば、雨にあたって塩が抜けるという期待であろう。切れ端は山になっていたので、記念に少しもらって帰った。
なめると塩辛い。これで家具を作ると、現地ではよいだろうが、日本では塩の中に含まれるマグネシウムの影響で多少潮解性があるかもしれない。すなわち夏は、じとっと湿る可能性がある。
小一時間そこにいて、何本か列車の写真を撮り、また同じ道を通って帰った。帰り道、大きな鹿が道路を悠然と渡った。当たれば大事故であろう。途中には農家が3軒ほどあった。そこに住んでいると、町まで出るには2時間近くかかる。それでもそこから離れたくない人がいるわけだ。一応電力は電線がつながっているから供給されている。しかし、雪などで停電することはありうるだろう。大変な生活だ。
2015年06月05日
Promontory Point を訪ねて
途中、休憩所があるわけでもないので、水を持っていかねばならない。道は一応舗装されてはいるが、草が舗装を蝕んでいる。野生動物がちょろちょろ出てくる危ない道である。大きな動物もいるので、よく見ていないとぶつかりそうになる。この写真は東を見ている。
プロモントリィ半島の根元には、旧セントラルパシフィックの線路があるが、ほとんど砂漠と区別がつかないところが多い。
半島の先端には湖を渡ってきた線路がある。たまたまやって来た貨物列車を写した。平坦線なので機関車が少ない。東の方を見ている。
最先端の波止場まで行ってみる。たくさんの資材が置いてあり、数人の人が働いている。彼らはエビの箱詰めをしている。エビと言ってもshrimp(小エビ)であって、長さ5〜8 cm
ほどである。中華料理に使うらしい。すべて東南アジア方面に輸出される。
半島の方を振り返る。北東の方を見ていることになる。たくさんある杭は工事用の船着き場の址である。湖面には虫がたくさんいる。その死骸のせいか、とても臭い。
これがエビの箱である。1つが1㎥ほどもある大きな箱である。
2015年03月15日
Barstow へ
Barstowに行きたかった。バーストウは昔からの宿場町である。ルート66の拠点でもあるし、Santa Fe鉄道の大きな駅がある。
そこには、Harvey Houseが保存されていると友達が教えてくれた。大きいと言っていたのだが、どれくらい大きいか見当が付かなかった。
街の中にはあちこちに「ハーヴィ・ハウスはこちら」と云う看板が立っている。行ってみると線路に当たる。それを乗り越えて向こうに行くと、壮麗な建物がある。まさかこんなに立派なものだとは思わなかった。
入場料は取らず、今のところヴォランティアの人たちが運営しているようだ。金は市が出したらしい。建物にはスペイン語で Casa del Desierto とある。「砂漠の家」と云う意味だ。
このヴィデオにはほとんど余すことなくその魅力が現れている。エアコンがなかった時代だから、夏の昼間の暑さは凄まじかっただろうと思う。
1911年に完成し70年頃に使用をやめた。その後廃墟となっていたのだが、市の商工会議所が動いたようだ。現在はパーティ会場として結婚式の披露宴などに使われている。
ハーヴィ・ハウスは他にもいくつか残っているようだが、ここが一番立派だと言う。
2014年08月28日
Tornado Shelter
近所のSallyの家から電話があった。
「うちに遊びに来ないか。友達も呼んであるから、ハンバーガ・パーティをしよう。」
料理自慢のサリィだからきっと新しい趣向の料理何だろうと期待して出掛けた。ホームメイドのアイスクリームをお土産に持って行った。
料理などそっちのけで、亭主が新しく設置した竜巻から避難するシェルタの披露が始まった。プレキャスト・コンクリートの上下をシール材を塗って重ねるのだそうだ。
穴掘り、設置、土掛けを1日でやってくれて、費用は5000ドルくらいらしい。
乾燥地であるから、水がしみ込んでいない。日本では、おそらく中が湿ってしまうであろう。温度変化が少ないから、食料保存庫としても使用している。
この日集まったのは空軍の仲間で、15人ほどだ。サラダやケーキなどを持ち寄り、メインディッシュのハンバーガは不思議な調理法であった。
大きな手製のバーべキュウ・セットに炭とMesquite(香木の一種)を入れ、火を付ける。待てども待てども、火が広がらない。待ちきれなくて肉を載せ始めるのだが、これではいくら待っても焼けない。
薄い合板で煽ぐと、多少は燃える。サリィに、
「扇風機は無いか?」と聞くと、小さな扇風機を持ってきた。延長コードをつないで焚口から送風すると、たちまち燃えさかり、よく焼けるようになった。」
「ベストアイデアだわ。」と褒められたが、もう少し早く思い付いて欲しかった。
焼けたハンバーガをそのままパンに挟むのかと思っていたら、今日の新しいレシピだそうで、スープに漬け込んだ。スープの味見をしたが、ビーフのスープに多少の薬味を入れたものである。
3分ほど漬けてパンに挟んで食べた。もちろんトマトとレタスその他もろもろの香辛料をたっぷり入れて喰らいつく。いつものジャミジャミした感じはなく、妙におとなしいハンバーガであった。
この家は売りに出ていた農家を買ったのだそうで、10エーカ(4万坪)もある。全ての野菜は自家製である。庭にはrattle snake (ガラガラヘビ) までいるそうで、「気をつけなさいよ」と言われた。
2013年12月22日
Bear Lake
そこに到達するまでにLoganという街を通る。Loganはユタ州の中で一番寒い町である。いつも最低気温が−40 °C以下である。天気予報で「あすはローガンでは −40 °Fになるでしょう。」という言い回しをよく聞いた。
日本人には華氏温度は縁がないが、これだけは覚えていた。−40 °F は−40 °Cである。
華氏というのは英語でファーレンハイトというから、その最初のファを中国語の華(ホァ)で置き換えたのだ。
しかしそんな温度になるはずがないと思っていたら、この地ではよくあるのだ。高地で盆地であるから、よく冷えるのだ。筆者がソルトレークで経験した最低気温は、−37 °Cである。大して違わないが、ローガンはとにかく信じられないほど寒いところだ。
ちなみに筆者が体験した最も低い温度は−57 °Cである。スキー場の山のてっぺんで標高3800mである。新雪の中を滑りながら、ここで転ぶと、春先まで見つからないのだろうなと、ヒヤヒヤした。
オグデンから北に伸びる支線は、峡谷を登り、ローガンの近くをかすめてポカテッロの方に行く。ローガンには支線は通っていない。分岐した枝線が街を一巡りしているが、果たして現在も使っているかどうかは怪しい。おそらく、収穫期にカヴァード・ホッパをつないで、短い貨物列車が通る程度であろう。踏切は警報器も設置してある。
支線の開通当初は街の中を通る線ができたのだろうが、そのうち短絡線ができて、そちらを列車が通過するようになったのだと思う。
久しぶりのユタ州訪問で、あちこち友人を訪ねて走り回った。その書き溜めてあった訪問記もこれで終わりである。年末は、しばらく休刊とさせて戴く。
2013年12月20日
Bear River
Bear Riverの河口には、淡水域を設けて、野鳥の楽園が作られている。渡り鳥の休息のための池である。かなり広い。数十平方キロぐらいある。渡り鳥が、塩湖に間違えてたどり着いても、ここまで来れば安心だ。
友人が勧めてくれたので見に行った。のどかな風景である。博物館もあり、楽しめる。川の水は細かく枝分かれし、ゆっくり流れている。それに沿って、道路がある。自転車で走っている人も多い。
河口付近の町にBrigham Cityがある。Promontoryを通る旧線の跡を探してここに来たのだが、既に宅地化していて分からなかった。もう一度詳しく下調べしてから来たいと思った。
ユニオンパシフィック鉄道の支線は、ここから北上してPocatelloを経て、Portland方面に行く。Snake Riverに沿っていく風光明媚な路線だ。ただ、勾配がかなり急なので、あまり長い編成ではない。
1989年にFEF3(4-8-4)が走ったときに、ここに来て写真を撮った。自動車があまり高性能ではなかったので、振り切られた場所だ。90マイル/時(144km/時)以上出ていた。友人たちはポカテッロまで追い掛けていった。
日本では蒸気機関車は遅いものの代表であったが、アメリカでは速い物の代表である。轟音を発して筆者の車を抜き去って行った。
2013年12月18日
続々々々々々 Lucin Cutoff
店も郵便局も警察もなかった。食料品、新聞、郵便はOgdenからの汽車で届けられた。職員の子供の学校や病院もOgdenまで行かなければならなかった。
Midlakeは1945年まで45年間機能し続けたが、腕木信号機を廃止し、CTC方式を採用してその歴史を終えた。当時の電信係は3人で、全て女性であった。戦争中であったからそれは当然であったろう。
建物は全て取り外されて、プロモントリィ半島の先端のキャンプに移され、保線作業の宿泊所になった。
Midlakeは遠足の場としても人気があった。「汽車に乗って海に行く」と銘打って、遊びに行ける場所であった。そこで降りて、1、2時間を過ごし、帰りの汽車を待つわけである。どこにも行けないので、すぐ飽きてしまっただろうが、この企画は、随分人気があったようだ。筆者が世話になった人(1927年生まれ)の話によれば、デートをする場所としては良い場所であったそうだ。
ここまでの話は、筆者自身が多くの人に聞いたことをもとにしている。その主たる部分はDon Strack氏の談話である。 図面や写真はアメリカの国会図書館からお借りしている。
追記 Youtubeに、参考になる記録映画がUPされた。(2017.10.2記)
上記のリンクは新しいものが公表されたので更新した。(2019.12.21記)
2013年12月16日
続々々々々 Lucin Cutoff
一番大きな流入河川は北東部からのBear Riverである。北東部の湾は土砂で埋まり、とても浅いので塩田が発達している。深さ1mほどの見渡す限りの塩田に湖水を導き入れ、太陽光をよく吸収するように青い染料を溶かす。放置しておけば塩が析出するので、それをブルドーザでかき集めて出来上がりである。ブルドーザのキャタピラ(クローラ)は塩水に浸かり、エンジン部分と人間だけが水面から出ている。仕事が終わって陸地に上がってくると、キャタピラは全く錆びていない。飽和食塩水中には酸素が溶けにくいので、錆が発生しないのだ。使用しない時にしばらく外に置いてあると、多少錆びる。
水面の上下は、降雨量によって決まる。80年代の水面上昇により、Causeway(築堤)は大幅に積み増しを余儀なくされた。防波堤になった貨車は、もう見ることができない。完全に埋められてしまったのだ。
南北の水面差が大きくなると、築堤に掛かる力も大きくなって、不安だ。製塩業者は湖水の塩分が減少して、商売が上がったりだと訴訟になった。結局のところ、築堤を一部破り、橋を架けて南北の水が通じるようにした。
その後2003年には異常渇水に見舞われ、湖面は大幅に下がった。この衛星写真を見ると、北東部の湾は事実上干上がり、Antelope島は完全に地続きになっている。莫大な投資で持ち上げた線路も、意味がなくなった。現在は史上最低位に近くなっている。
この湖は大きさが九州程度で、深さが7、8m程度らしい。もちろん水位が高くなると、10m以上の深さになる。流入と蒸発のバランスが取れていれば良いのだが、たまにそれがずれると、人間はあたふたするのだ。流出河川のない湖は、往々にしてこのようなことになる。
2013年12月12日
続々々 Lucin Cutoff
しかし、橋の信頼性が確立された1933年には、放棄された。そこにあった駅、補給設備、保線のための設備は全て撤去され、砂漠に戻った。ただ、沿線の牧畜業者のために、水を運ぶ列車が月に2回程度運行されたのだそうだ。そこでは羊を飼っていた。保線されていない線路だから、かなりの悪路であったことが想像される。
勾配は急で、貨車を6輌しか牽けなかったという。
鉄道会社は完全に廃線にしたかったのだが、建設当時に国との契約で得た沿線の権利を失う可能性があって、なかなかそれもできなかったが、1942年に戦争が激しくなり、鉄を供出する必要もあって、完全に線路がめくり取られた。大陸横断鉄道敷設時には、建設促進のため、敷いた線路の両側10マイル(16 km)が鉄道会社のものになるという、今では信じられないような条件が提示されていた。
戦後、橋はメンテナンス費用がかさみ、それでも橋の安定性が失われつつあった。より安全なcauseway(築堤)方式、またはコンクリート橋への移行が望まれた。
湖の底には泥が10mほど堆積しているので、ただ岩石を投げ込んだだけでは意味がない。浚渫作業が必要であって、それを請け負ったのがMorrison-Knudsenであった。この会社は現在では機関車を作っているが、創業からしばらくはアイダホ州を中心に土木建築を請け負っていた。モリソン氏はコンクリートの専門家だったらしい。
築堤が建設され始めた頃、木橋が火事になって、180mほど焼失した。その復旧工事をしたのもこの会社である。水面下の燃え残った部分に継ぎ足して、仮の鉄橋を掛けて復旧した。それを短期間にやってのけたので、名を挙げた。Pentrexから、その時の動画が発売されている。
火事の原因はhot box(軸箱の過熱)であった。油切れで焼けたぼろきれが軸箱から落下したのだ。
2013年12月08日
続 Lucin Cutoff
いわゆるオウヴァーランド・トレイルは南側の山の中を通るが、、湖岸の平坦な近道はタイヤの細い馬車にはなかなか大変な道だったらしい。だからほとんどの人は、地盤がしっかりしていて、勾配の緩いオレゴン・トレイルを通りたがったのだ。
湖岸は現在はI-80やWestern Pacificのルートになっている。土木技術の進歩で、そのぬかるみを排除して堅い岩で基礎を作ったのだ。
さて、木橋は徐々に傷んで、永久的な構築物に作り変える必要が出てきた。causewayで出来ている部分はそれを補強し、橋は放棄して新たなcausewayを築く必要があった。その莫大な量の岩石を調達したのは、Promontory半島の西側である。80年代にそこに行ってみた。山を崩して岩を取った跡がありありと見える。岩石は、薄く割ることができる頁岩shaleである。それを運んで埋め立てたのだ。幅は20mもある。一体何台のダンプでやったのかは知らないが、世紀の大工事の一つである。 この写真はこのサイトからお借りしている。
石は1988年に筆者が採取したもの。
もともとのcausewayから、橋に切り替わる部分で、500mほど北に離れて並行する線路を作った。地図で見ると急に見えるが、ゆるやかな曲線である。廃止された橋はそのまま橋脚が残っていた。友人とその利用法について話したことがある。
「昔は無尽蔵にあると思っていたレッドウッドも最近は国立公園に指定された森林が増えて手に入りにくくなってきた。どうだろう、あの木橋を払い下げて貰って、それを製材すればきっと売れるよ。」
「そりゃそうだけど、そんなことに銀行が金を貸してくれるだろうか。」
その場ではそれ以上話が進まなかったが、その後同じアイデアを実行した人達がいる。この写真はここからお借りしている。
2013年12月06日
Lucin Cutoff
最近は、辺り一帯はNational Historical Siteになっていて、犬釘一本拾っても検挙されるそうだ。70年代は犬釘がゴロゴロ落ちていて、来た人たちは、拾って帰った。友人の家にはそのコレクションがあったほどだ。筆者も何本か貰い受け、椙山満氏に差し上げた。椙山氏は立派な額を作ってそれらを飾られた。
この線路が放棄されたのはもっと短く平坦な線路が開通したからだ。それが Lucin Cutoff である。Cutoffというのは短絡路のことである。塩砂漠の中を何10キロも線路を敷き、その先に広がる塩湖にこれまた何10キロも伸びる橋を架け始めたのだ。それが1902年のことである。ちょうど土木機械が発達し始めた頃の話である。Licinはその西の分岐点の地名で、今はゴーストタウンになっている。ルシンは女性の名前である。
工事は休みなく行われ、1905年1月1日を以て、すべての列車が湖面を見ながら走ることになった。
橋はTimber Trestleでパイル・ドライヴァで湖底に打ち込まれた。その杭はモミの木で、それを何万本も運んで来て打ち込んだ。デッキ部分のほとんどがレッドウッドという木で、今でこそ高級品であるが、当時はカリフォルニアの山のどこにでも生えていた木である。橋が廃止されたのは1959年である。60年近い使用で、ガタが来ていたのだ。列車を高速で走らせられなかった。場所によっては、制限速度が15マイル/時 24 km/時にまで制限されたそうだ。
上記のリンクで 写真を見ると、ロケットの噴射実験の場面がたくさんある。近くに、ロケット・エンジンの工場があるからである。その名前はThiokol社で、スペースシャトルの爆発のときによく出てきた。
2013年12月04日
続 Antelope Island へ
当時は湖面が比較的高く、島までは馬で30cmの水の中を歩いて行ったという。島には十分な湧水があり、入殖が始まった。その後、20世紀になってから、バッファロを放し飼いにした。今では数が増えて、アメリカでも有数の繁殖地である。ただ、元になった個体が少ないと近親交配で弱くなるので、定期的に他の血筋を入れているということである。
上の3枚目の写真は、牧場から望遠レンズで撮ったものをさらにトリミングしたものである。左のブッシュのすぐ脇の奥に、バッファロらしきものが見える。小さすぎてよくわからない。
たくさんいるらしいが、実際には見るのはなかなか難しく、ようやくこの一頭を見つけた。黙々と歩き続けていた。
湖岸には海水浴(湖水浴)ができるビーチがあり、そこまでの道はこのように足場を確保してある。
砂が細かいのでうっかりすると、めり込んで歩きにくい。この砂は長年の間に角が削り取られて、山にしても自然に流れてしまう。サンドブラストに適する砂である。
最近サンドブラストが安く入手できるので、筆者も持っているが、砂の確保には困る。砂ならなんでも良いわけではないのだ。ここに示すような角の無い砂を探さねばならない。窯業の材料を扱っている友人に頼んで、ベトナム産の海砂を手に入れてもらった。20kg入りの袋であったが、袋に穴があくと、そこから全て流れ出してしまう。それほど流れやすいのである。
穀物などは細かい凹凸があって、ひっかかりやすい。すなわち流れにくい。小麦粉もそうである。ホッパ車で運ぶ時は、下から出すときに、振動を与えたり、空気を吹き込んだりする必要がある。
2013年12月02日
Antelope Island へ
入口のToll Gateで10ドル取られた。湖面に伸びた道を行く。これをCausewayという。大陸横断鉄道も、同じような構造の堤防を走っている。昔は木の杭を打って作った橋であったが、1940年頃作り替えている。砂をかき寄せて盛り上げただけの道であるから、また湖面が上昇すると水没するだろう。島の北のはずれに行く道である。南の方の道は閉鎖されている。
この湖はとても浅い。九州ほどの面積があるが、最深部で7mほどである。だから雨が多いと水位が上がる。日照りが多いと下がるわけである。
素晴らしい晴天でカモメがたくさん飛んでいた。ソルトレイクの街とカモメは非常に深い関係がある。中学校の英語の教科書にその話が載っていた。
この島には牧場があり、長らく自給自足の生活をしていたらしい。牧場の備え付けの工作所には昔ながらの機械が据え付けられている。これはドリルプレスである。手回しの増速歯車が見える。上のクランクで刃物を下げるのだ。かなり疲れそうだが、面白い。
2013年11月26日
続々々 Echo へ
写真の矢印のところの丘がそれである。
丘の上からレストエリアを俯瞰する。30mくらいの標高差だ。ここからの景色は素晴らしく良く、いつまでも居たかったほどだ。
色々な人が来て様々なポーズで写真を撮る。この勇ましいお嬢さんは、高校のチアリーダをしているのだそうだ。嬉しそうに最大限に脚を挙げて何枚も写真を撮っていた。
真向かいの崖である。このグラデーションのある色が素晴らしい。うまく塗れるか、心配している。今、様子を見るためにレンガ色の単色を塗ってある。
スプレィで調色すればよいと思っていたが、かなり複雑な色である。
植生はかなり研究した。どうすればこのブッシュが再現できるかも見当をつけてある。
東(シャイアン方面)を見る。この谷は本当に隘路である。この谷以外に通るべきルートは見つからない。
列車を待っているうちに雲行きが怪しくなって来て、遠くの方で雷鳴も聞こえる。この丘の上は危険だ。避けるところはひとつもない。列車の写真は一枚も撮れずに退散することにした。
車に乗ってソルトレーク方面に逃げ帰った。途中、バケツをひっくり返したような大雨が降り、雷が頭の上で光った。
2013年11月24日
続々 Echo へ
砂利は厚く、よく保線が行き届いている。レイルは高い。High Ironという言葉の意味を噛み締める。
線路脇には石炭の細かくなったものが堆積している。厚さは10cm以上ある。ここを通った蒸気機関車から吐き出されたものだ。Big BoyやChallenger、Mighty 800の煙管を通過したシンダが堆積したのだ。その量たるや凄まじいもので、ここに来て掘り返せば、家庭で石炭ストーブがタダで焚ける。
以前ペンシルヴェィニア州のホース・シュウ・カーヴでもこれと同じものを見た。ストーカをつけているので不完全燃焼して放り出される石炭の量はかなりのものだ。
坂を下ってくる列車はほとんど無音で、とても危険である。線路内には入らない方が良い。またこの区間は左右が逆の区間で、進行方向を勘違いしやすく、余計危ない。
過去にここには20回くらい来ている。岩の様子を見、植物採集もしている。この区間をレイアウトに再現するためである。あまりにも雄大でとても収まりきらないが、縮小し、デフォルメしてある。岩壁は天井まであり、発泡ポリスチレンのブロックを用いて、電熱線で彫刻した。しばらく工事をしていないので、再度取り組む予定だ。
こんな勇ましい格好のお姉さんがいた。列車の写真を撮っている間に通り過ぎて行った。
2013年11月22日
続 Echo へ
オグデン方面から東に向かう。のどかな景色を見ながらやってくると、突然峡谷の中に入る。
高速道路もI-80からI-84が分岐する。I-84はオグデンを通って、北の方に行く道だ。この分かれ道では、UPの線路も分岐していた。現在は廃線になっているが、昔はCoalvilleという町を通って、Park Cityに行く線路があった。このあたりにも炭鉱があったのだ。
平地から谷間に入ると、右側(南側)にDevil's Slide悪魔の滑り台という奇岩が見える。大陸横断鉄道開通時からの名勝で、ここで当時の旅客列車は徐行したという。高速道路にもRest Areaがあって、そこで止まって写真を撮った。
この岩を回るとEcho Canyonである。Echoの町は本当に小さい。間口3mほどの小さな郵便局がある。横にアメリカで一番小さい郵便局といういたずら書きがあった。Echoには側線があり、積雪時には除雪基地になる。
線路沿いは昔の国道である。1960年代にI-80ができる前は、こんな道が西部と東部を結んでいたのだ。
2013年11月20日
Echo へ
この写真を撮ったのは1977年だ。撮った場所を探してウロウロしていた。多分この辺という写真がこれである。
このCastle Rockのインタチェンジの近くである。このあたりはトンネルで上下線が交差し、左右入れ替わっているので、写真を撮るとき注意しないと、後ろから列車が来る。
何回もここに来ていながら、こんな良い場所があることに気が付かなかった。西向きの高速道路のRest Areaである。30mほどの丘のてっぺんまで歩いて行ける。そこからエコォ・キャニヨンのほぼ7割が俯瞰できる。
左の写真は東を見ている。シャイアン方面である。向こうの標高が高い。右の写真はオグデン方面である。
いつもは下の道を行ったり来たりしていて、崖を仰ぎ見る写真しか撮っていなかった。
この場所は鉄道マニアにとって、有名なお立ち台のようだ。ここから撮った写真がたくさん見つかる。
2013年11月18日
Wahsatch
Ogdenを出発した列車は川沿いに登り、ここで一息つく。要するにオグデンから最初の給水場である。ワサッチ山脈の中にある珍しい平地であって、鉄道施設以外何もないところであった。側線と給水タンクだけである。周りには人家は全くない。
Big Boyの試運転の時にも、貨車を引っ張ってオグデンからここまでの通し運転をしている。
足は意外に細い。地震のない国だから、自重と風くらいしか考えなくても良いのだろう。ポンプ小屋もなく、保温装置も見つからなかった。ドアを開けてもがらんどうであった。
鉄骨は実に簡単に組んであるが、底が抜けないようにはなっている。一部は四角の穴があいていて、そこから出入りできるようになっている。組立時の逃げ道だろうか。最終的には熔接してしまったのであろう。
30輌ほどの貨車が放置してあった。側線をこのように塞いでいても支障がないということは最近の機関車、貨車の信頼性は高いということだ。
以前は、側線には故障した車輌を押し込めるようにいつもクリアにしていた。
ワサッチの東にはこのような丘陵地が広がっている。
2013年11月14日
Rock Springsへ
通り過ぎていった貨物列車に追い付いた。下りなのでのんびりしている。この機関車の塗装は変わっている。
信号で減速していた列車である。自動車を運転しながら、片手で左の窓から撮ったので、多少のブレなどはお許し願いたい。
最近のカメラはほとんど自動なので、こんな無茶な撮り方もできる。後でトリミングしてやれば、10枚に1枚くらいはなんとかなる。
行けども行けどもなかなか着かない。このあたりは緩やかではあるが山岳地帯で、大陸横断鉄道の線路はかなり南に迂回している。長いトンネルもある。
そこが聖地なのである。ほとんど誰も行ったことがなく、写真も少ない。
Aspen Tunnelというのだが、椙山氏も写真を見たことがないとおっしゃった。もともとは単線で開通し、1947年ころ複線用のトンネルが完成した。
そのトンネルの大半が私有地内だそうで、行けないのだ。Tom Harveyにその話をしたら、「俺が機関車に乗っけて連れてってやる。」と言ってくれたが、約束は果たされなかった。
数少ない動画がこれである。これは並行する新トンネルでAltamont Tunnelである。4分30秒あたりからトンネルが映る。まともなアスペントンネルの写真、動画はほとんど見つからない。
2013年11月12日
Wamsutter
朝起きてみれば快晴で、水タンクがあった。自治体が使っているのかどうかはわからない。
大きなタンクである。Big Boyに給水していたのだ。ここから東は、Rawlinsの手前の峠まではひたすら登りだ。
Big Boyのテンダは小さいので水が足らない。もちろん石炭も足らない。途中の炭鉱で掘ったものを本線上で給炭している。
汽笛の響きで振り返ると、もうそこに貨物列車が来ていた。下りだから音がしない。スピードがかなり出ているから危ない。
最後尾には補機がついていた。
2013年11月06日
続 FMC
水はGreen Riverの支流から、燃料は近所で採れた天然ガスと石油を使う。国土の広い国は羨ましい。
この写真は立坑に向かう道である。典型的なアメリカの田舎道である。土地の表面に沿って舗装を敷いただけである。少しの凸凹を削って埋めれば平らになるのに、と思うのは日本人だけなのかもしれない。
カリフォルニアの砂漠の中に、もっとひどいところがある。交通量が多いのに、昔囚人を使って作っただけのやっつけ仕事の道がたくさんある。100 mごとに3 mくらいの高低差があり、寝ている人が起きてしまうほどのピッチングが起きる。トラックの荷物が傷むだろう。
最近は見ないが、70年代には本当に囚人を使ってこの種の工事をしていた。大きな看板が出ていて、”No Hitchhiking"とあった。なんだろうと思ったら、足首に大きな錘を付けられた囚人が例の縞模様の服を着て補修工事に従事していたのだ。そして大きなライフルを持った看守が小高い丘のテントの下で監視していた。
帰り道、UP本線をたくさんのカヴァードホッパを繋いだ列車が走っていた。向こうで石油精製所のフレアスタック(一時的に処理しきれないガスを排出して燃やす煙突)から巨大な炎が上がった。
2013年11月04日
FMC
駅の構内は線が曲がっていて見通しは利かない。ヤードでの仕立て作業は、難しそうだ。貨車の7割がカヴァードホッパである。その大半にはFMCというロゴが大きく書いてある。
GPSと衛星写真で大体の見当をつけて、出掛けた。Green Riverから西に15マイルほどのランプを降りると、そこはまさにワイオミングである。何もない。しばらく北に走ると煙突が見えてきて、工場があることが分かる。
UPの本線は北に曲がっているから、本線沿いである。
何もないところに突然このような施設が現れる。これは世界最大のソーダ灰の鉱山である。高校の化学でソルベー法なるものを習った人も多いだろう。昔はガラスの原料である炭酸ナトリウムは、かなり苦労して作っていたが、現在は天然品を用いる。
この地域は石油が出る場所が多いので、石油掘りをしていたところ、地下に分厚いトロナ鉱(炭酸ナトリウムと炭酸水素ナトリウムの1:1の化合物)の鉱床があることがわかった。一説によると現在の需要量で5万年分だそうだ。大陸横断鉄道の本線の脇に見つかったので、輸送は簡単である。
水はコロラド川から取り、燃料は近くの天然ガスを使っている。いくらでもとれるのだから、気楽なものである。FMCはFood Machine Corporation だったかの頭文字である。本業がこちらになってしまい、元の会社名の意味が無くなった。
2013年09月13日
Jim を訪ねて
ユタ州の南のはずれの州境にセント・ジョージという町がある。40年前にそこに行って泊まったことがある。
街道の北に赤い崖があって、そこが街の中心でレストランが4軒とモーテルが3軒あった。それだけしかなかった。当時の人口は7000人ほどであった。もともと住んでいた人たちは牧畜業を営み、あとから来た人たちはほとんどがリタイアした人たちであった。
夏は暑いが冬は冷え込まないので、年寄りには良い場所だ。エアコンが出来て急に人が住み始めた町だ。それまでは、だれも引っ越そうとは思わないところだったのだ。
この20年でセント・ジョージは急速に大きくなり、当時の10倍以上になった。高速道路のインターチェンジは3つもある。そう言えば、昔はここには高速道路が無かった区間だ。I-15が工事中で制限速度が55マイル/時の2車線の街道しか無かった。
50年代にはここで甲状腺ガンが多発したと言われている。すぐ西に原爆の射爆場があり、時々西の空が明るくなったそうだ。夏でも雪のようなものが降ることもあったと言う。それがいわゆるfallout(放射性降下物)で、大きな問題となった。しかし、ユタ州は西部の砂漠の中であって、当時のアメリカではほとんどだれも知らない場所であったから、当時の政府は知らぬ顔をして蓋をしてしまったようだ。そのような放射性物質は半減期が短いので、現在はほとんど影響がない。
カリフォルニアに住んでいた人が、リタイアした後、家を売ってその金でこちらに引越すのがはやりだ。3倍の広さの家に住めるそうだ。ここからラスベガスに車で1時間で行けるのも、大きな魅力なのだ。
そこにJimが引っ越したと聞いて、訪ねて行かねばなるまいと思った。ソルトレークから車で5時間だ。日本から到着したばかりで、時差ボケがひどい中、気合いを入れて出掛けた。安いホテルを探すサイトで調べて予約した。到着してわかったことは、昔泊まったホテルの隣のホテルだった。昔通りの最低限のサーヴィスのホテルだ。しかし、エアコンさえまともに効いていれば、文句は無い。
2013年05月24日
続 コロンビア川に沿って
かなり有名な場所なのだが、あまり写真を見ることがないのは、撮影が難しいからだろう。飛行機からなら、完璧な写真が撮れるに違いない。
Wishram には Great Northern の4-8-2がある。行ってみてがっかりであった。この屋根の低さには恐れ入る。保護していることに違いはないが、写真も撮れない。設計者は鉄道趣味を全く理解していないことは間違いない。
何枚か写したが、非常に不満足な写真ばかりだ。
排気インジェクタが付いている。全体が写せれば、かなり立派な機関車であろうことが分かるのに、これでは興冷めだ。
2013年03月08日
続々々 Key West へ
わざわざ、「起点」という看板を出しているところを見ると、これを見に来る人が多いということだろう。ヘミングウェイの家は、この国道に沿って、すぐ近くにある。
帰り道は腹が減ったので、通りがかった屋台風のシーフード・レストランに入った。冬だというのに日差しは強く、気温は28℃くらいだろう。そよ風 (light breeze)に吹かれながら、生ガキと Pulled Beef を食べた。生ビールがうまい。
この州ではアルコールは多少なら飲んでも良いらしい。
”You can drive drinking, but you can't drive drunk." 「飲んで運転しても良いが、酔っ払って運転してはいけない。」ということである。当方は自信があったのでそのまま運転した。道はあくまでも真っ直ぐだ。
カキは殻が厚い。厚さ7 mm位はある。とても重い。世界中のカキは気仙沼の種を使っているらしいが、育つ環境によってこんなにも違いが出るものだろうか。レモンを絞って、タバスコを掛けて食う。ケチャップにはホースラディッシュ(ワサビに似たもの)を混ぜてある。これを付けてもうまい。
バーベキュービーフを骨から外したものをPulled(引っ張って外した)という。筆者の好物である。この屋台の柱や梁には、たくさんの1ドル紙幣が張ってある。さまざまな人がサインしている。有名人のもあるのだろう。
岸辺では冬だというのに水遊びしている人たちもいる。スノーケルを付けて潜っている。
2013年03月04日
続 Key West へ
走りながら写した写真であるから、多少のことは我慢して戴く。この橋はもともとあった橋の上に桁を載せたものと思われる。
今走っている橋が完成したので、旧橋は取り壊しになるはずであった。全部壊すのが面倒なので一部だけ壊したようだ。
この赤いブイ状のものがアメリカ本土最南端を表す表記である。キューバまで90マイルとある。泳ぐわけにはいかないが、密航者が多いのも当然だ。Key Westは昔からの避寒地で、ヘミングウェイの家があったことでも有名である。
この家はアメリカ最南端の家であると書いてある。二度もSouthernmostと書いてあるのが笑わせる。
地図を見るともう少し南にも何かあるが、民家としてはこれが最南端なのであろう。
帰りに客車が居るので写真を撮った。プルマンのSolarium Carである。この車の発音は難しい。ソウレイリアムに近い音である。何かの売店になり下がっている。
2013年03月02日
Key West へ
大きな地図で見る
マイアミの南にあるHomesteadという町が、事実上のフロリダの最南の町である。そこから、島伝いに国道が延々と続き、最南端のKey Westまで約160 kmである。この区間は最高速度がせいぜい55マイル/時であるから、片道3時間以上かかる。思い切って行ってみようと思った。というのは昔、友人が飛行機の Stand-by Ticket を買って、アメリカ中を旅した。のどかな時代である。空港に行って、空いている飛行機を見つけて乗ってしまう。機内持ち込みだけでだと簡単に乗れる。2週間乗り放題だ。確か、450ドルだった。
それで彼はKey Westに行ったのだ。3時間滞在して帰って来たのだそうだが、「街並みが面白かった」と言ったのがとても気になった。いつかは行ってみたかったが、鉄道があるわけでもないし、チャンスは来ないと思っていた。
ところがNew OrleansからHomesteadまでは1400kmで1日で行けない距離ではない。行ってしまえば、次の日1日を使ってKey Westを見られそうだ。というわけで、朝の6時に出発して16時間で到着した。途中2回昼寝をして、サンドイッチを齧りながらの強行軍である。持って行った音楽CDを、順次大音量で掛けながらのドライヴである。6枚を4回ずつ聞いた気がする。
過去の最高記録は1100kmであるから、もうこれを破ることはできないであろう。
次の日は疲れて起きられなかった。10時ころ出発し、海沿いを走ったり、長い橋を渡ったりしてひたすら走る。
2012年12月22日
Palouse Falls へ
パルースの太字を強く発音し、パはかなり崩れた音になる。これはこのあたり一帯を指す地名で、緩やかな起伏をもつ丘陵地である。小麦や大豆の畑が見渡す限り続く大農産地であって、その中をUP線が貫いている。鉄道が出来るまでは、いくら農産物が採れても運び出す術がなかった。パルースへのUP線の開通は1890年である。この滝の脇を通るPortland方面への短絡線が出来たのは 1911年であり、大きな橋も近くに架かっている。この橋は撮り損ねた。
滝の真横には、このように岩を掘って作った切り通しがある。かなり堅そうな岩だ。この橋は、滝を見に行きやすいように戦後作られたようだ。このすぐ後ろにあるトンネルは素掘りのままで岩が出ている。ポータルだけはコンクリートで崩れないように固めてある。
2012年12月02日
Columbia River を上る
列車密度は高く、うかうかしていられない。下り列車は突然やってきた。対岸にはBNSF線がある。ダムもたまにはあるが、落差が小さい。水量で発電するタイプのタービンを使っているはずだ。
はるかかなたの対岸にはBNSFの機関車2輌に牽かれた貨物列車が見える。下りであるから排気も少ない。対岸の山頂には発電風車が見えている。今回は超望遠レンズを持って行かなかったので、苦しい撮影であった。UPの貨物列車が下ってきた。二段に積んであるコンテナは、いわゆる開放型コンテナで、製材していない原木を積んでいるはずだ。昔はいかだで流してポートランドで引き上げていた。
この橋を渡るとワシントン州に入る。Spokaneに行くのである。見渡す限りの小麦畑になった。
2012年05月07日
Mammoth Cave Railroad
以前行ったカールズバッドに比べれば小さく、中は水が垂れている部分もあった。見学ツアに参加して一巡りした。
帰り途に面白いものを見つけた。この鍾乳洞の観光用に敷かれた軽便鉄道があったのだ。普通のボイラがむき出しの普通の機関車ではなく、客車型である。これを、Steam Dummyと呼ぶ。日本ではTram Engineという人が多いが、それはヨーロッパ系の言語で使われる言葉からきている。
何枚か写真を撮ったので、ご興味のある方は模型化されると良い。既存の模型の一部を切り取って、箱をかぶせるだけでもできそうな形である。軌間は3 ftである。客車も好ましい形をしている。
軌道敷を自転車で走る動画もある。
2011年10月02日
Sherman Hill へ
GPSの指示通りに車を走らせるのだが、あちこちで、”No Trespassing", ”Private Property”という札に遭遇して、Uターンせざるを得ない。冬はまだしも、夏は人が居る可能性があり、必ずライフルを持っているので、撃たれる可能性がある。法律上、撃たれても何も文句を言えないので引き下がった。
仕方なく、Harriman新線の方に行き、そこで待ち構えようと思ったが、思わぬ伏兵に出会った。
こめかみが刺すように痛む。高山病の症状である。下手をすると失神することもありうるので、深呼吸を数十回繰り返し、酸素を脳に送り込んだ。
しばらくすると、痛みが和らいだので、GPSを頼りに最短距離でふもとまで逃げ帰った。標高2000mほどになると何も問題ない。シャイアンの町は1900m弱である。
シャーマン・ヒルは2400m程度であるが、途中ではもう少し高い2700m近くのところも通った。しかし、この程度の高度で症状が出るとは、自らの心肺能力の低下には驚かざるを得ない。
若い時はスキーで3900mほどの地点までよく行ったものだ。同行者が気分が悪くなったので、助けながら降りたこともある。歩いて登った最高地点は4100mであったが、遠い過去のことになった。
ともかく、今回わかったことは、もうシャーマン・ヒルには一人では行けないということである。そういうわけで、今回はろくな写真がない。
この写真がどこで撮られたのかが分かったのは唯一の収穫であった。
2010年11月02日
続々々々 Feather River Route を走る
先を急ぐのでやや速度を上げて走っていた。ところどころにハイウェイ・パトロールのポリス・カーが待ち伏せしているから、周りの車と同じ速度で走った。これがコツで、制限速度から10マイル程度なら、まずお咎めはない。
しばらく走ったのち、前に3台くらいノロい車が居たので抜こうと思った。後ろにはポリス・カーが居ないのを確認して、グィーンと抜いた瞬間、後ろに赤色灯が点滅し、”Pullover, Pullover(脇に寄せろ)" と怒鳴る声が聞こえた。いつの間に忍び寄ったのか分からなかった。グラマン・ヘルキャットに追撃されたゼロ・ファイターのような感じであった。
警官曰く、「ずっとつけていた。お前が一番速かったからな。最後に抜く瞬間、後ろを見たろう?それも見ていた。1台しか抜かないと思ったら、3台ごぼう抜きしたから、時間が掛かった。その隙に後ろに付いたのさ。」と手の内を明かした。「お前は運転はなかなかうまい。なかなか隙が見つからなかったので、かなりの距離を付けてきた。」という。
楽しく話をしたので、無罪放免してくれると思ったが、「24マイル超過のところを10マイルにしてやるから、サインせよ。」と言ってきた。よくある話だ。本当なら、証拠を捏造したわけだから裁判にすれば無罪になるところだが、また飛行機代を使って裁判所に出頭するのは無駄である。「すべて認める」とサインした。「そのうち請求書が来るから、小切手を送れ。」という。別れ際に、「運が悪かったな。気を付けて帰れよ。」と言う。なかなか好感の持てる警官であった。それも彼らの手口なのかもしれない。
その後、カリフォルニア州政府に211ドルほどの寄付をすることとなった。
以前テキサスだったかで捕まった時は、「小切手かクレジットカードかどちらにするか?」と聞かれた。その場で集金するシステムで驚いたことがある。
カリフォルニア州は歳入が不足し、道路維持のために罰金を取るという話を聞いた。確かに他の州に比べて、取り締まりは厳しい。
2010年10月31日
続々々 Feather River Route を走る
崖の途中に少しでも広いところがあると、それは信号場になっている。100輌ほどの列車がすれ違う。この辺りの景色はすばらしい。川の流れから判断すると、勾配は緩い。
汽笛が警告に響き渡り、素晴らしい鉄道風景がそこにある。ハイヴィジョンで動画も撮ったが、自動車の音が気になる失敗作であった。
途中にダムがある。そこで線路は新線に切り替えられ、やや高いところを走って、長いトンネルに入る。おそらく昔の線路の方がはるかに景色は良いだろう。
2010年10月27日
続 Feather River Route を走る
有名なCaliforinia Zepherはこの路線を通った。非常に風光明媚な路線で車窓からの眺めは抜群であったらしい。このFeather River Routeには「七不思議」という名所があり、その中にWilliams Loop や Keddie Wye がある。
Williams Loop は名前しか知らなかった。Tehachapi Loop に比べると有名ではない。その理由は現地に行ってみて、はじめて分かった。全くと言ってよいほど、見えないのである。衛星写真では明らかに丸く写っているのであるが、現地ではそれを見下ろす地点などない。全体が森の中にあって、全貌がよくわからないのである。木々の中に列車が見え隠れしていて、登っているのは感じられる。これと比べるとテハチャピ・ループは一目瞭然である。
アメリカ合衆国にはループ線が少ない。そのほとんどがナローゲージで、標準軌の本線には2,3しかないはずだ。その2番目を見ようと思って、あちこち動いてみたが、結局のところ、うまくいかなかった。歩けば何とかなりそうだったが、熊に出会うのは怖い。撮れた写真はこの程度である。
ネット上を探せば、いくつかの写真が見つかる。どの写真も、よく見なければループ線だとは思えない。
2010年10月25日
Feather River Route を走る
Western Pacific鉄道という会社があった。大陸横断鉄道としてCentral Pacific(のちのSouthern Pacific)鉄道とUnion Pacific鉄道が機能していたが、サクラメントとリノの間のDonner Passの急勾配は大きな障碍であった。1910年代、ソルトレークから西に湿地帯を抜け、Southern Pacificと並行しつつ、より低い峠を越える別線の建設が始まった。
当時、太平洋側に抜けるルートは、事実上Union Pacific と Central Pacificの独占であり、Western Pacific鉄道が完成すれば、競合路線としての価値は高い。
シエラネバダ山脈を越える峠の数は少ない。Donner Passは標高2200mであるが、その北側約70kmにあるFeather Riverを分け入った峠はそれよりも610m低い。また、必要なトンネルの総延長も少ないことが分かった。しかし、川沿いのルートで、谷の向こうとこちらを縫うように線路を敷かねばならないから、高度の技術を駆使した橋梁建設が必要であった。
多額の資金を費やしてWestern Pacific RRは完成したが、その財政基盤は脆弱であり、第二次世界大戦が始まるまでは、借金の返済に苦しまねばならなかった。
戦中は膨大な貨物列車の需要が生じ、それを満たすために大急ぎでCTCを完備した。
後には、大きな車輌限界が必要なダブルスタックのコンテナ運搬貨車を通すことができて、SPより有利であったが、1983年にUPに吸収合併されてしまった。そして1996年にはWPの長年のライヴァルであったSPもまたUPに買収されてしまい、シエラネバダ越えはUPの独占となった。
2009年12月27日
岩塩鉱山
巨大な穴を掘り、そこから横に縦5m横10mくらいの坑道を数百メートル掘って大型ダンプカーに積み込んでいる。その塩は無色透明でガラスのようである。
一般的な岩塩は着色している。黄色であったり、赤色であったりするのが普通だ。
面白いことに、これらの着色した岩塩を水に溶かすと塩化ナトリウム以外何も検出されない。再結晶すると、無色の結晶が析出する。
この理由は少々ややこしい。岩塩が地面に埋もれている間に、放射線を浴びたためである。放射線のエネルギにより、中のイオンの相対位置がずれたのである。すると、特定の波長の光を吸収しやすいので色がつくが、溶ければ全く普通の食塩である。
岩塩は近くの牧場で消費されるので、その鉱山には鉄道が敷いてなかった。大型のトレーラで出荷される。
家畜には塩が必要である。牧場の片隅には30cm角くらいの岩塩が1トンくらいずつ山にしてある。牛たちはそこに来て、舐めている。
雨が少ないので溶けてしまう心配はないそうだ。馬の牧場にも塩が盛ってある。
この岩塩鉱山の成分は海水に似ている。マグネシウムが入っていて、動物たちにも都合のよいものと言っていたが、よくわからぬ。海水を飲むとマグネシウムイオンを摂取するので下痢をすることがあると、昔習ったように記憶しているのだが。
2009年12月21日
続々 Bingham
現在は底の方に縦坑を掘り、そこに鉱石その他を落とし込み、ベルトコンベアで水平に外に運び出している。すなわちダンプカーが、上まで土砂を積んで登っているわけではなさそうだ。
右の写真は鉱山から選鉱した鉱石を運び出す鉄道である。20キロほど離れた精錬所に運ぶ。
この鉱山は低品位鉱であるので、一時は閉山の可能性も取りざたされた。隣のネヴァダ州のElyという町にもKennecottが経営する銅鉱山があったがそれは90年代に閉山された。
イリィの市街の西にこれまた巨大な穴があり、ここと同じ手法で鉄道を敷いていた。現在は精錬所も壊され、穴だけが残っている。
操業中に中を見せてもらったことがある。穴の深さは300mくらいであった。
自分で撮った写真をお見せできるとよいのだが、どこかに紛れ込んでしまって出てこない。いずれ機会を改めてお見せしたいと思う。
2009年12月19日
続 Bingham
新しい画像が公表されているのでそれをご覧戴くことにする。これは2003年撮影とある。
こちらの方は2009年撮影とある。これらの写真を見ると、昔の鉄道は痕跡すらない。ユタ州南部のモエーブには別会社のカリウム鉱山やウラン鉱山があり、そのあたりにかなりの車輌が移動したらしい。鉱石の比重が違うので、ホッパ車の容積を変更しなければならないだろう。
300トン以上積める大きなダンプトラックとか、120トンをひとすくいするシャヴェルが沢山ある。タイヤのモニュメントは昔から変わっていない。
砂漠の中に精錬所があり、煙を出していたが、最近はその煙の色がほとんど見えなくなった。公害防止設備が強化されたのであろう。硫酸製造設備があって93%と98%の濃硫酸を出荷している。
銅鉱の中の金、銀、モリブデンを分離するとこれが大きな収入源になる。最近は特に儲かっていることであろう。
2009年12月17日
Bingham
1940年頃までは蒸気機関車によって鉱石列車を牽引していた。巨大な2-8-8-2の関節型蒸気機関車が走っている写真を見たことがある。穴の中では煙が出て行かなかったらしく、穴が深くなると電化を決意せざるを得なかった。
天候によっては、穴の中に雲がある。不思議な丸い雲で動かない。
穴を深くするためには全ての斜面を広げなければならないので、線路を年二回横にずらすと言っていた。その労力たるやすさまじいもので、その土砂を捨てるために新たな鉄道を敷き、それを捨てに行った。
時を置いて見に行くと、明らかに鉱山の形は変化している。しばらく前に、鉄道を撤去すると言っていた。新しい写真を見るとトラックの通る斜面が作られて、鉄道のあったところは壊されている。どうやら本当に鉄道は無くなったようだ。
この鉱山は山頂付近での露頭(鉱石が顔を出している状態)が見つかったことに始まる。鉱脈はほとんど垂直に数千メートルあるらしく、現在では2000mほど掘ったことになる。昔の山は完全になくなり、付近の平地よりも1000mほど低くなった。ズリ(鉱石以外の土砂)は周りに積み上げたので、差し引き2000mほどの高低差がある。
人工のグランドキャニヨンと言われるのも、うなづける。
2009年06月12日
Route 66
この峠の歴史については、この銘板をご覧戴くとよくわかる。サン・バーナディーノは、最初はモルモン教の人たちの居留地であったそうだ。
アメリカのいくつかの峠を越えると、よくぞこの場所を見つけたものだと感心する。あの広い原野を馬で調査し、鞍部を探し当てるのは大変な仕事である。
このカホン峠は、鞍部を越えるとかなり平坦である。峠の上の部分はHesperia という町で、ここには友人がいてよく訪ねた。
カホン峠を線路沿いに登っていくとトンネルもなく突然鞍部に出る。少し手前からトンネルを掘ればかなり楽ではないかと思ったが、実際の標高を調べると頂上が平坦だから、トンネルを掘っても標高差は残る。すなわち現在のルートが最適解である。
最近ルート66は脚光を浴びている。筆者の世代はこの歌をよく知っている。テレビでドラマもやっていた。シカゴからLA(ロスアンジェルスとは言わない)への最重要路線であった。普通の道は東西、南北に走っているが、この道は斜めに走っているのが珍しい。
実際に走ってみると、ひどい道が多く、ブレーキ故障でたくさんの人が亡くなっている場所がある。