鉄道会社

2018年08月13日

続 阿里山

loop line 樟脳寮という駅を過ぎると、世界で最も巻き数の多いループに突入する。2巻き半と8の字というとんでもない線形で、車窓から樟脳寮の駅が、3回見える。



 この辺りから高原に入り、窓ガラスが熱くなくなる。植生も変化する。シェイの能力はこの種の急勾配、急曲線によく適合する。3気筒のものは特に調子が良かった。ドライヴシャフトが一回転する時のトルクが均一化されているから、スリップが起きにくい。

diesel engine 今回のディーゼル機関車はかなりの大出力らしく、この急勾配を 25 km/h程度でぐんぐん進む。機関車が後ろだから、煙を吸うこともない。途中のトンネルや築堤はかなり新しかった。数年前の大事故で、あちこちを更新したのだ。時々、旧線跡が見える。

奮起湖 奮起湖という駅が、現在の終点で、標高は1400 m程である。ここにはホテルがいくつかあるし、商店街は必要以上に賑やかだ。この地名の由来は、要するに山に囲まれた地形で、霧が湖のように見える事から来ている。前の二文字は元々は別の字で、当て字である。

 バスに乗ると阿里山頂上まで行けるが、時間的余裕が少ない。何かあると帰りの汽車に乗れない惧れがある。3時間ほど、そのあたりを散策した。
 弁当屋が何軒かある。弁當という字を使う。日本語が残っているのだ。

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2018年08月11日

阿里山

高鐵 阿里山に行くには、まず嘉義(ジャーイーと発音している)という町に行かねばならない。新幹線で行くと、高鐵嘉義站(站は駅の意味)に着いて、バスに乗り換え、嘉義站に行く。このバスは、新幹線の切符を持っていれば、無料である。20分ほど広い道を走ると、嘉義の駅の西口に着く。新幹線駅はかなり郊外にあるわけだ。

嘉義駅 嘉義の駅は日本の地方都市の駅そのもので、日本統治下を偲ばせる。その阿里山鉄道切符売り場は外の壁に面していて、コンピュータで打ち出した予約表を見せると切符がもらえた。日本語の表示もあるが、音声では通じなかった。

 朝だけ3本の列車が、30分ごとに出る。うっかり早いのに乗ってしまい、席がないのでびっくりしたが、「30分後の列車である」と指摘され、慌てて下車した。車輛はリクライニング座席で、冷房付きである。冷房は個別のエンジン駆動のものである。

 出発後10分足らずで、北門駅に着く。ここはその昔、大きな製材所があったそうだ。既に台湾ヒノキの巨木は枯渇し、製材所は取り壊された。現在は車輌基地があり、シェイの復元工事もしている。ここからさらに30分くらいは、ほとんど勾配を感じない。

pin and link couplers その後60‰以上の急勾配が続く。機関車1輌で客車4両を押し上げる。すべての車輛はピン アンド リンクの連結器と安全鎖二本でつながっている。先頭の客車に監視台があって、いわゆるプッシュプルの運転方式だ。監視台は運転装置は持たない。蒸気機関車の時代は、機関車から先を見ながら運転したが、客車は2輌しか押さなかったので問題はなかった。
 古橋氏はシェイの運転室に乗って行くほどの ”顔” であった。また、機関士が名古屋に訪ねて来ることもあった。

push-pull freight train 置いてある貨物列車もプッシュプルである。安全を考えるとそれしか方法はないだろう。


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2016年06月29日

Walker氏のこと その4

covered hopper Alleghenyの発音の件は先に書いたが、この言葉の複数形はアクセントが後ろに来る

 アメリカにいた頃、この機関車の走った線路に沿ってドライブした。急峻な地形ではなく、老年期山脈である。Appalachian Mountains(アパラチア山脈) Blue RidgeとかSmoky Mountains のあたりである。そこでアレゲニィの音は頭に叩き込まれたが、テキサスの友人宅に行った時は混乱した。アレゲニィがたくさんあったのだ。彼は説明する時にアレゲィニィズと発音したのだ。

 聞き直すと、複数形はそうだと言う。理由はわからないが、いくつか例があるらしい。しかし、Alligator も最初にアクセントが来るが、複数形であっても同じ位置だ。

 

 さて、完成したアレゲニィの写真がまだ見つかっていないが、そのうち出てくるだろう。スロットルを引くと、前後が別々に回転し、スリップした。当たり前だが、妙に感動したそうだ。筆者はその話を聞いていたので、関節機にはモータとギヤを二組入れるようにした。すると祖父江氏も同じことを言っていた。

dda40xさんがさぁ、『二個モータにするといいよ。』って言ってたんだけど、大したことはねぇだろうと思ってたんだ。でもやってみたら、それがいいんだよね。ゾクゾクっとするね。」

 それから、関節機には二個モータというのが、祖父江氏のところの標準になった。 当然、井上 豊氏もそうした。もともと彼は自動車の差動装置を使うつもりだったが、こちらのほうがずっと簡単だった。

 のちに伊藤 剛氏にお見せすると、「やはり、これはいいね、ウォーカー氏の模型を思い出しますね。」とのことであった。



2015年05月20日

wheel counter

 鉄道会社にとって、最も設置、維持にお金がかかるのは橋梁、トンネルであろう。日本のように決まった編成の電車が相互乗り入れしているのとは異なり、アメリカの鉄道では、列車長が異なる各社の列車が乗り入れている。それらに対して、合理的な方法で通行料を請求せねばならない。
 ミシシッピ川をはじめとする大河川をまたぐ橋の数は、限られている。その橋を渡る旅客列車、貨物列車に対しての課金は車輌数に応じて決められる。

wheel Counter この写真はIllinois Railway Museumにある信号所の2階で撮ったものである。この移設された信号所にはUP本線のCTC装置の列車表示板の古くなったのがある。
 真ん中あたりはミズーリ川(ミシシッピ川の支流)を渡る鉄橋だ。Omaha−Council Bluffとあり、そこに見える文字はwheel counterである。通る車輪を検知をしている。説明してくれた人によると、axle counter とも呼ぶそうで、
「本当はそう呼ぶのが正しいんだ。車輪は1軸に2枚ずつあるからね。事実、そう呼んでいる会社の方が多い。」
とのことであった。

「機関車、貨車には4軸以外のものもありますが、どうするのですか。」
と聞くと、
「それらはすべて4軸とみなして、課金します。軸数を4で割るのです。」
と答えた。細かいことは言わないらしい。

 列車が通過すると、カウンタが数字を示すので加算し、4で割った数字をもとに各鉄道会社に請求書を送る。
 このカウンタの横のボタンを押すと、リセットされて0にするところを見せてもらった。

 下には各鉄道会社の名前が書かれたボタンがある。これを押すと加算されるのかもしれない。

2013年11月08日

Granger

Granger Green Riverの西約25マイルに分岐駅がある。グレインジャという駅である。


 もう40年も前、四日市の椙山氏が、「ここに分岐駅があって、ポートランドに行く線が分かれています。川沿いだから、比較的勾配が緩いんでしょうな。ここはOverland RouteとOregon Trailの分岐なのですよ。駅馬車の時代からの宿場です。」とおっしゃった。
 アメリカにいる時、このグレインジャの駅を見てきてくれ、と連絡があったが、行く暇がないままになっていた。
 今回、思い切って行ってみた。I-80から国道30号を北上すれば行ける。信じられないほど小さな町だ。人口は100人程度らしい。このウェブサイトに街の中の写真が掲載されている。地図上のボタンを押すと好きな場所が見られる。Signal Bridgeが見える写真があるから、線路の位置はわかる。標高は2000 mに近い。

Granger 4 筆者は駅があって、給水施設の跡でもあるかと思って行ったのだが、何も無かった。すべてCTCで遠隔操作されている。30分ほどあちこちをほっつき歩いたのだが、誰にも会わなかった。旅客営業していた頃は、ここは一応、急行停車駅でもあったので、ある程度の設備があったはずである。その痕跡を求めて行ったのだが、本当に何もない。枕木が積み上げてあっただけである。あるいは当時から、乗り換えはGreen Riverですることになっていたのかもしれない。 

 このあたりの川は水量が少ないが、いつも流れている。だから蛇行し、三日月湖が無数にできる。時々大水が出ると全部流れてしまう、ということを繰り返している。水は本当に緑色である。藻や水草の色だろう。

2013年02月22日

続 Mobile の GM&O 駅

Segregation lines 現在は2階以上が事務所として使われている。1階も貸したいらしいが、例の浸水以降、誰も借りる人が居なくて困っている。
 実のところ、筆者はこの建物が博物館であると信じていたので、入って見ると守衛が居て、「何の用か」と聞く。
「実は私は日本からこの建物が博物館だと信じて来たのですが、差し支えなければ中を少しだけでも見せてくれないか。」と頼み込んだ。
 

Wing for whitessegregation lines 2 守衛は、「日本から来たのか、そりゃ残念だったね。この建物は博物館ではない。単なるオフィス・ビルディングだけども、1階は空き家だ。構わんから、見たければ見て行け。」と言ってくれた。
 喜んで中に入れてもらい、あちこち写真を撮っていた。すると、いつの間にか守衛は背後から話しかけてきた。
「この2本の線を見てご覧よ。これが何か分かるかい。Segregation Linesだよ。」
 セグリゲイション・ラインとは人種隔離政策による境界線のことである。駅の玄関は二つあり、向かって左は白人用、右は黒人用である。中に入ると、大広間の大理石床の中央に2本の線があり、白人用と黒人用と仕切られていたのだ。柵があったわけではないそうだ。広間を中心として、右の黒人用の領域にはなかったが、左の白人用の部分にはかなり立派な食堂が併設されていた。

waiting room for blacks 列車は黒人用の車輌と白人用の車輌が連結されていた。そして特急列車には黒人は乗れなかったのである。だから最初に紹介したGM&Oの特急の航空撮影で、黒人の刑事が乗っているのを望遠レンズで捉えたのは印象的であった。一部の鉄道は黒人の特急乗車を認めていたが、荷物室に併設した座席車のみに限るなど、厳しい付帯条件を付けていたらしい。だから必要もないのに Combineをつないでいたりする。 コンバインとは荷物室と座席との合造車のことである。

 公民権運動の高まりと、鉄道の斜陽が同時代であったため、その種の差別は急速に姿を消してしまった。しかし、この駅の線だけは消されることなく、差別の歴史を訴え続けている。

2013年02月20日

Mobile の GM&O 駅

GulfMobileOhioRR もうずいぶん古い映画になってしまった。Sidney Poitier シドニィ・ポワティエ 主演の「夜の大捜査線」"In the Heat of the Night"を1968年に見た。黒人差別のひどい南部にフィラデルフィアから黒人の敏腕警部がやって来るが、たちまちよそ者の黒人は逮捕されてしまう。しかしその能力に驚く南部の警察署長は捜査に協力せざるを得ず、難事件を解決していく。そして最後はGulf, Mobile & Ohio の赤い特急列車に乗って去って行く、という話なのだが、このGM&Oの赤い特急が走る場面を空撮している。その場面が目に焼き付いて、ビデオを借りて何度も見た。

 GM&Oは1972年には Illinois Central Railroad に吸収され、現在ではCanadian National Railwayになってしまったらしい。 筆者とは全く縁のない地域の鉄道であったが、この映画を見たために、かなり深く印象が残った。それで、一度その場所に行ってみたいと思っていたのだ。
 しかし、Alabamaは遠く、25年前に北のはずれをかすめた程度で、深南部には行ったことがなかった。今回フロリダに行ったので、少し足を延ばしてMobileの町に行ってみた。 
 ここには1907年建設のGM&O駅がある。北の方から真っ直ぐ南に向けての終着駅である。Mobile湾に面していて、昔はここが実質的にアメリカの最南端であった。

Slave Market 3Slave Market 2Slave Market Mobileの町にはアメリカで最後の奴隷市場があった。1859年に最後のセリが行われたらしい。その場所がそのまま残っている。この町ではたびたび浸水騒ぎが起きている。数年前の台風の時は、この駅のあたりで1m半程度の浸水があったという。

GM&O TermnalGM&O Termnal 2GM&O Termnal 3 GM&O Terminal はすでに博物館でも何でもない建物であるので、GPSのリストにも載っていなかった。仕方なく、線路がたくさん表示されている方向に車を走らせて、見つけ出した。壮麗な石造りの建物である。

2012年04月13日

続々 シカゴのダウンタウン

Millenium Park これはMillenium Parkである。ミレニアムというのであるから2000年に出来たものだろう。70年代はここは鉄道用地だったと思う。イリノイ・セントラル鉄道の留置線であった。二階建ての電車がたくさん置いてあった。また、貨物列車が通過して行ったのを覚えている。今でも多少は線路が残っているが、以前の規模の 1/3 程度である。
 現在はスケート・リンクになっている。やりたかったが、旅先でけがをすると収拾が付かないので諦めた。

Millenium Park 2Millenium Park 3 その後ろにはこのステンレスの大きなオブジェがある。このような巨大なものは、一体どこで作ってどうやって持ってきたのだろうか。現場で作るのは難しそうだ。子供たちには絶大な人気がある。
 
Sky Scrapersスケートリンクの向かいの建物を撮った。煉瓦を使った建物はやや傾いて隣の建物に寄り掛かっている。基礎が狂ったのだろう。古い建物は往々にしてこのような状態になる。
 10年ほど前に訪れた時はもっと巨大な建物から煉瓦が落ちて来るようになり、その建物のある一角の全ての道路が鉄骨のシェルタで覆われた。それに厚さ2インチの木の板を張り、落下に備えた。この種の目的には木材は緩衝性があって適する。鉄板ではよほど厚くしないと突き抜けるだろう。その建物は20世紀初頭に建てられたものであった。それらはすでにほとんど取り壊されている。

Under the ElSky Scrapers 2 市街地を歩くとこんな感じである。昼でも日が差さないので暗い。El(高架鉄道)は100年以上の歴史があり、ときどき沈下して運休している。


sign for blindsSign for blinds 2 先日問題点を指摘された盲人用ブロックである。色は黄色ではない。 

追記 この公園は2005年に完成ということだ。

2012年03月24日

続 San Jose の電車

OSW_3656 sOSW_3665 sOSW_3663 s これらの写真は屋根の高さの作業通路から撮っている。架線には通電中(Hot)であるから、身を乗り出すことは禁止だ。全て手摺の内側からの撮影を申し渡された。連接部の中間車輌にはパンタグラフが載っている。そのわきにあるロッドは、中間車輌が曲線上で接線方向を向くように誘導するためのものだ。
 この部分には、走行中間断なく、かなり強い力が掛かる。そのため、屋根板に亀裂が入り、切りとって厚い板を張り付けたと言っていた。よく見ると補修跡が見える。

OSW_3694 sOSW_3667 sOSW_3669 sOSW_3670 s




 台車を外して、車輪切削盤に廻すための通路である。小さなターンテイブルがあって、手で押していく。直角フログ部分のレイルは45度に切断して溶接してある。このような部分は速度が小さいので、そこまで拘る必要が無いのであるが、細かい細工がしてあって驚いた。

2011年11月21日

続 Canstock Car

 栗生氏の御許可を得て、引用させて戴く。

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 我々が思い及ばない点はたぶん、バルクヘッド、仕切り壁の強度の問題だろうと思います。このモデルメーカーの別の写真に、ドア面に「4DF-B」の表示がありますから、 これはエバンズ社のDF-Bを、4つ使っているはずです。
 この「4つ」という点が重要で、ボックスカーの真ん中には、コイルを積まないのですね。

 フォークリフトは、ドアのところで向きを変える必要があります。そのために、ドアの開口寸法を12フィート6インチ( 381 cm )と大きくとりました。そして、積み下ろしのときは、両側のドアを共に開けます。
フォークリフトのターンのために、このスペースが必要です。一部の写真で、"OPEN BOTH DOORS BEFORE LOADING"との表示が読み取れますね。

 そして、最後の7つ目と、8つ目のコイルは、ドアの位置に置きます。フォークリフトで、サイドから積み下ろしするのです。 これらのためのバルクヘッドは、たぶん、ドア開口部の位置に来ます。そのツッパリ部(固定部)は、両側のドア自体ではなくて、床と天井、あるいは鴨居だと思います。

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GOW_3050 明快なご解説で、これを読んで非常にすっきりした。DFは荷崩れ防止用のディヴァイスで、天井というよりも、この解説にあるように鴨居にあるレイルと床に固定されるはずだ。これはレイルにぶら下って滑って行き、所定の場所でロックする。(この写真はCar and Locomotive Cyclopedia 1974年版である。)
 それにしてもこの貨車の積載量は70トン超であるから、そのコイル一つはかなり重いものであろうと思われる。軟鋼板であれば、この説明図から割り出した大きさで、幅2 ft(61 cm)のコイルなら、1つ7トンくらいになる。それが移動するのを防ぐDFの強度はさぞかし大きいのではないかと思う。また、それを積み込むフォークリフトもかなり大きなものだろう。(このコイルは4.3トンであることが後日判明した。)

 この貨車の連結器には、油圧ダンパが付いていて連結時の衝撃を吸収するようになっている。それでもかなりのショックがあるだろうから、DFの強度はかなりのものだ。

2011年11月19日

Canstock Car

Canstock CarGOW_3040 先日栗生弘太郎氏から戴いたコメントで、Canstock Carの模型が発売されたことを知った。

 キャンストックとはブリキ板、薄いアルミ板で、缶詰製造業者が使う材料を納品するときに使う貨車である。食品に触れるものであるから、有蓋車で運ぶ。
 一般的には、ごく普通の有蓋車で運んでいたのだが、B&O(バルティモア・アンド・オハイオ)という鉄道会社が導入したこの貨車は、単位長さあたりのキャンストック・コイル(巻物で運ぶ)の数が多いという特長を持っている。

 この貨車の模型はQuality Craft(現在のWeaver)が出していた、木製のキットである。このキットを開けて図面を見て、どうやって作ったものか、思案投げ首であった。というのは、ドアの位置がどうなるのか、図面を見ても説明を見ても分からない。一般的にはこのようなオフセットした(片方に寄った)ドアは反対側が点対称になっているものだ。

 当初、そうしようと思ったのだが、どう考えても荷役上の都合を考えると、もう少しドアが大きくないと都合が悪いことが分かった。しかし、両側面の同じ位置にドアがある理由が分からない。というわけで組み掛けてしばらく放置してあった。

 1985年に祖父江氏と訪米した際、デトロイトのディックのところに寄った。彼はこのキットを完成させていた。見ると、やはり、両側面の同じ位置にドアがある。
 理由を聞くと、「よく分からぬが、メリットがあるんだそうな。」ということであった。それ以上の情報が入らぬまま、仕方なくディックと同じように仕上げた。それから25年、意外な形でその理屈が明かされた。

Car%20Objectives 今回発売の模型はHOである。実物の資料を手に入れて細かくできている。それによるとドアの位置が真ん中にあると、積めるコイルの数が少ないというのだ。この説明はなんとなく説得力のない文章で、何度も読んだが、よく判らない。
 例えば、パレットに載せたコイルを床に留めることができればもう少し積むことができそうだ、と思った。
 
 多分、条件としては、―顛完銘屬鮹羆に持っていきたい。 ▲侫ークリフトのみを使って荷役したい。 Damage Free(衝撃で荷物がずれないようにする補助具。以下DFと略す)を取り付けられる場所(数も)が限られる。 ということなのだろう。

  ドアが片方に寄っているので、車内の奥の方は暗い。そこで天井を一部グラスファイバにして明り取りにしている機種もある。

 専門家の栗生氏に解釈して戴いた。 

2011年10月12日

BNSF の石炭列車 

228226231 特に考えて行ったわけでもない、通りがかりの写真である。場所はデンヴァの空港から東北東に80キロほど行ったところのSnyderである。I-76を降りて北に向かったところにスナイダの町がある。BNSFとUPが走っている。これはBNSFである。ここも、頻度高く列車が走っている。近在の火力発電所への石炭輸送であろう。120輌編成のバスタブ・ホッパで前2輌、後1輌で運行している。比較的平坦な地域なので楽な運行である。

 この町を北に上るとUPの本線にぶつかる。その街の名前はKimballである。UPの本線の列車密度は高い。もちろん複線であるが、いずれ線増が必要になるであろう。到着したのが夜中で写真は撮っていないが、ホテルに汽車の響きが間断なく聞こえてきた。

 70年代にパナマ運河を拡幅するという計画があった。その費用が余りにも大きく、実現は困難であった。その代替案として、日本の企業がユニオン・パシフィック鉄道の近代化を提案した。当時の列車運行は無駄が大きく、より効率的な方法で貨物を運べば、パナマ運河の拡幅コストの1/10以下で出来ることを示したのだ。
 その案には日本の自動車会社も参入し、到着時間の正確な貨物列車の運行を始めたのであった。3日も掛かる距離を15分以内の誤差で到着させるというのは、当時は神業と言われた。
 のちにUPの機関士Tom Harveyは、「俺たちは、日本の自動車会社の下請けになった。」とぼやいた。 

2011年05月22日

Omaha の鉄道公園

Fargo NC DM&IRを堪能して北西に向かい、North Dakota州に向かった。どうしてもこの北辺の地を踏みしめてみたかったからだ。大雪で前も見えない状態であったが、除雪車の後を付いて真夜中に着いた。

 朝起きたら気温は−25℃であった。雪だらけで何も写真を撮れなかったが、貨物列車が頻繁に行き来していた。
この小さな町には駅が二つある。NP駅とGN駅である。後者は今でもAmtrakの駅として機能している。

 この町の東にNPとGNが交差するところがある。写真を撮りたいものだと思ったが、寒さと雪で不可能であった。
筆者のNorth Dakotaの体験はそれだけである。シカゴの友達に、「ノースダコタに行ったのだ。あそこに行ったことがなかったから、行って良かった。」と言うと、「アメリカ人でノースダコタに行った奴などほとんどいないよ。」 ということであった。

 そのあと雪晴れのサウスダコタを抜けて、一路ネブラスカ州オマハに向かった。この町には何度も行っているが、新しい鉄道公園が出来たという情報を得て、どうしても行ってみたくなったのだ。そこにはBig Boy と DDA40Xが置いてある。

 近くのモーテルに泊まり、朝一番にその場所を探り当てた。GPSの威力には感服する。新しい場所なので、内蔵の地図には載っていないし、道も表示されない。しかし住所を入れるとその場所が表示される。行ってみると新しい道ができて真っ直ぐ行けることが分かった。

2011年04月08日

続々々々 またまたFeather River Route

 Western Pacific鉄道は、Reno の町にも連絡路を持っていた。
道筋は栗生氏の御紹介のこの地図を御覧になればよくお分かりであろう。

 ウェスタンパシフィックの本線は、リノの街の北方約30kmほどのところを通過しているので、何とかしてリノへの道筋をつける必要があった。距離は近いが標高差がかなりあり、それをつなぐのは結構難しいことであった。というのはリノから約10kmほどのところに峠があり、その標高差は250mほどである単純に考えて2.5%であるから、そのままでは困る。Google Earthでリノを探し出して北に向かう線路を探し出されると良い。半径160m位の急カーヴで右に左にとうねる線路が見つかるだろう。180度カーヴどころではなく210度を超えるものもある。このようにしてかなりの距離を稼ぎ、峠を越える。
 途中の工場まではリノから貨物列車が走っている。

 こうしてReno Junctionまでつながっている。この線は現在は使われていないようだ。枕木の間に背の高い雑草がたくさん生えていた。このジャンクションはデルタ線になっているが現在は東西方向の本線だけしか機能していない。この写真はグーグルアースの中にあるのをリンクしている。東を向いて撮っている。

 Reno Junctionの西にはPortolaの町がある。この町はWestern Pacific鉄道とともに生まれた町で、西部によくあるMagic Cityと呼ばれるもののひとつである。もとはゴールド・ラッシュの時の宿場とは言えない程度の集落であったが、水があったので鉄道開通により機関区ができ、町を形成した。雨後の筍のように急速に形成された町をこのように呼ぶ。 

縮小IMG_3624 ポ−トラの街には鉄道博物館があり、それを見たかったが、冬季は閉鎖中であった。金網にへばりついて内部の写真を撮っていたら、たまたま通りかかったポリスカーにつかまって、「ここは鉄道用地だ、ただちに退去せよ。」と警告を受けた。
「日本からこの博物館を見に来たのだ。中に入れないからここから写真を撮っている。」と言い訳をしたが、「直ちに出ないと逮捕する。」と脅されて渋々その場を去ることにした。
 
 

2011年04月02日

続 またまた Feather River Route

縮小IMG_3636 この鉄橋は、餘部の鉄橋よりかなり太い材料を使っている。通過する列車の規模が数倍だからだ。




 遠くのほうから列車の響きが聞こえてくる。勾配はSPのDonner Pass よりも緩く、1%台である。鉄橋の直下にいるとその響きは凄まじく、雷鳴のようだ。しかも貨車の車輪が真円でないものがかなりの確率で含まれているらしく、ダンダンダンと大きな音をたてる。

 いわゆるフラットである。車輪の研削などほとんどしていないのだろう。ときどき、線路端にフランジの一部(角度にして)20度分くらいが落ちていることがある。それでは脱線してしまう。もちろんこういう不良車輪を見つけ出す装置は本線上にある。フランジの当たる部分に小さなセンサを3mくらいの長さにぎっしり並べ、すべてのセンサがフランジを検出していればOKだが、部分的に欠けると異常として通報する。
 アメリカの貨物列車と比べると日本の鉄道は本当に静かである。

縮小IMG_3635縮小IMG_3639 谷底部分には廃品回収業なのか趣味で集めているのかはわからないが、ガラクタを敷地内に並べている人がいる。



縮小IMG_3645 この場所に行きたい方は、この道路を探し出すことだ。 州道70号でこの交差点を見つけ出せれば、それを下って行くとこのTrestleに到達できる。  
 

2011年03月31日

またまた Feather River Route

Clio Trestle 先回場所がよくわからなくて行けなかった Clio の Trestle(鉄橋) を見るのが目的のひとつであった。また、前回ループを見る場所がないと思ったが、いくつかの衛星写真を見ると、なんとか行けそうな気がした。

 いつも出かける前に準備はあまりしない。行けば現地で情報は集まるし、インターネットさえつながればより的確な情報も集まる。しかもGPS(カーナビ)があるので、余計に準備をさぼりがちであった。
 しかし前回の収穫はあまりにも少なく、残念であった。

 今回は毎日衛星写真と地図を見比べ、どの方向から入れるかを念入りに多角的に調べた。ある古い地図には旧国道がループ横の線路を踏切で渡るように出ていた。この道を行けば線路に出られるはずだと確信した。

 というわけで、いつになく周到に調べたうえで出かけた。それでもClio の鉄橋はどこにあるのかわかりにくい。横の国道からは標高差があり、100mほど下なので見通しは利かない。
 国道わきのリゾート地(別荘地)に入り込み、GPSでは後 100 m位のところまでたどり着いたが、雪のためその先には進めなかった。

 1時間ほど探したが線路に近づく道は見つからず、GPSでその下の州道を探して出た。その道からは見上げるはずなのにやはり山の中でわからない。
 散々探して先の国道に出るための道を登りかけたら、はるかかなたにそのトレッスルの雄大な姿が見えた。目を凝らせば、その向こう側に別荘地の屋根も見える。

 GPS を細かく見るとClioの集落を東に横切り、さらに北上するとそこに行けそうだ。
 現在地を中心に、Trestleの見える方向で線路の位置を調べ、その地点を打ち込み、そこに行く方法を探させた。直線距離では1マイルほどであったが、道路は8マイルもあった。これでは見付からないわけだ。今回はGPSの機能を最大限に利用した。  

2010年10月31日

続々々 Feather River Route を走る

IMG_2439IMG_2446IMG_2456 Feather Riverに沿って下る。線路は左岸に沿って走る。崖にへばりつくような路線だ。あたかも中央西線のような感じである。ところどころ、短い素掘りトンネルもあり、勾配は2%弱であろうか。

IMG_2450 崖の途中に少しでも広いところがあると、それは信号場になっている。100輌ほどの列車がすれ違う。この辺りの景色はすばらしい。川の流れから判断すると、勾配は緩い。
 汽笛が警告に響き渡り、素晴らしい鉄道風景がそこにある。ハイヴィジョンで動画も撮ったが、自動車の音が気になる失敗作であった。

IMG_2458 途中にダムがある。そこで線路は新線に切り替えられ、やや高いところを走って、長いトンネルに入る。おそらく昔の線路の方がはるかに景色は良いだろう。


2010年10月25日

Feather River Route を走る

 シアトルでのChooch訪問の後はレンタカーで南に向かった。

Western Pacific RR circa 1930 Western Pacific鉄道という会社があった。大陸横断鉄道としてCentral Pacific(のちのSouthern Pacific)鉄道とUnion Pacific鉄道が機能していたが、サクラメントとリノの間のDonner Passの急勾配は大きな障碍であった。1910年代、ソルトレークから西に湿地帯を抜け、Southern Pacificと並行しつつ、より低い峠を越える別線の建設が始まった。
 当時、太平洋側に抜けるルートは、事実上Union Pacific と Central Pacificの独占であり、Western Pacific鉄道が完成すれば、競合路線としての価値は高い。

Feather River Route シエラネバダ山脈を越える峠の数は少ない。Donner Passは標高2200mであるが、その北側約70kmにあるFeather Riverを分け入った峠はそれよりも610m低い。また、必要なトンネルの総延長も少ないことが分かった。しかし、川沿いのルートで、谷の向こうとこちらを縫うように線路を敷かねばならないから、高度の技術を駆使した橋梁建設が必要であった。

 多額の資金を費やしてWestern Pacific RRは完成したが、その財政基盤は脆弱であり、第二次世界大戦が始まるまでは、借金の返済に苦しまねばならなかった。
 戦中は膨大な貨物列車の需要が生じ、それを満たすために大急ぎでCTCを完備した。
 後には、大きな車輌限界が必要なダブルスタックのコンテナ運搬貨車を通すことができて、SPより有利であったが、1983年にUPに吸収合併されてしまった。そして1996年にはWPの長年のライヴァルであったSPもまたUPに買収されてしまい、シエラネバダ越えはUPの独占となった。

2010年05月24日

Illinois Railway Museum その9

NP F7Stainless Steel CarsUP 3-unit Turbine Electric Engine 









 外に出ると、リストアが完成した車輌が並んでいる。NP塗装のF9とその客車一編成があった。塗装も美しく塗ってから間がないようだ。ステンレスの客車は実際に走らせている。大きな収入源の一つである。
 UPの3-unit turbine は片面だけ塗立てである。
 

UP Steam Rotary Snow PlowFlangerInstruction




 

Steam Rotary's Tender 







 UP DDA40Xの横には、1979年に退役した蒸気駆動のロータリィ車がある。テンダはC&Oから引っ越してきた2-8-8-2のテンダを再活用している。
 昔はミカド用の4軸テンダを付けていたように思う。さすがに小さすぎたのだろう。 

2010年05月18日

Illinois Railway Museum その6

UP Dispatchaer board これはUPのディスパッチャ・ボードである。コンピュータ方式に切り替わったので古いのをそのまま頂戴したと言っていた。見覚えのある地名が見つかる。信号所の二階に置いてあり、将来はここから全てのポイントを動かすと言っていた。信号所は一階と二階部分とを切り離して運んできたそうだ。


SP Dispatcher bordwheel counter これはSPのものであるそうだ。地名はあまりよくわからなかったが、面白い説明があった。
 




 橋を渡るときに車軸の数を数えるのだそうだ。
 アメリカの鉄道は線路を敷いた後で、いろいろな鉄道会社からその路線上の運行権を求められる。契約して他社に乗り入れさせるわけだが、その区間を列車が走ると、その量に応じて通行料をもらう必要がある。
 特に橋の場合は、その保守費用が莫大であって、他社に応分の負担を求める必要がある。右の写真のディスパッチャ・ボードの中央下に "Wheel Counter" という装置の出力がある。会社別のボタンを押して橋を渡る車軸の数を数えるのだ。貨車は1台4軸が標準なので4で割った数が表示されるのだそうだ。他社の列車が通過するたびに、数字を控えて記録する。



2009年12月09日

続 SP5000

 以前、ある日本の書籍にSP5000は「最も成功した三気筒機関車」と紹介してあったが、それは正しくない。最も成功した三気筒機関車は、UP9000 4-12-2である。輌数で約2倍であるし、走行距離はけた違いに大きい。また動輪径も大きい。
 
 UP9000は原型を保って使用されたのは少ないが、SP5000は最後まで原型通りで使用された。SP5000はUP8000とほとんど同様である。実はそのUP8000はある程度出来ている。いずれお目にかける日が来るだろう。

 UP8000は10台しかなかった。しかも、面倒なメンテナンスを嫌って二気筒に改造され、5090という番号になった。それもなかなかよい恰好であるが、UP8000の無骨な形が好きである。三気筒の期間は短い。
 三気筒機関車は、動輪一回転の内のトルク変動が小さく、牽き出し時のスリップが少ない。すなわち勾配線区で好んで使われた機種である。

 グレズリ・ヴァルヴというリンク機構で中央シリンダのヴァルヴが駆動される。極めてうまい着想であるが、現実にはこのリンクの軸受はよくすり減り、ヴァルヴ・イヴェント(日本語ではタイミング)がずれて事故のもとになった。
 国鉄のC53はこの駆動レヴァに軽め穴を空けたので、剛性不足で余計にダメになったという説もある。この部分は剛性が最も必要とされる部分であるらしい。

 4-10-2と言う軸配置はSouthern Pacificと呼ばれている。UPではOverlandと呼んで対抗していた。
 4-10-2の改良型として4-12-2が作られ、Union Pacificと呼ばれるようになった。

 1970年代にカリフォルニア州パモウナの競馬場でSP5000とUP9000を同時に見た。SP5000は軽快であった。UP9000は、ただただ大きく感じた。
 いつの日かこのUP9000をスクラッチで作ってやろうと思っていたら、韓国製が出てしまった。2台持っている。片方は改造してBold Faceの、のっぺりした物を作ろうと思う。UP8000はさすがにどこも出していないはずだ。

 筆者の個人的な意見としては、祖父江欣平氏が存命のうちに、特製品でUP9000を作って欲しかった。そのつもりでかなりの量の資料を確保していた。吉岡精一氏にお願いして、半径1800个竜泪ーヴを回す時の計算まで準備していたのだが。

2008年08月16日

騎兵隊フリーク

Fort Chadbourne Garlandは砦を持っている。騎兵隊の時代の本物の砦である。500m四方くらいの広さで、城壁と将校用の住宅、兵舎、厩などが残っている。長い間放置されていたので、完全に崩れ落ちたのを修復したのだ。

 土地を碁盤の目に仕切り、機械で土を丁寧に掘り、それを篩(ふるい)にかける。すると当時のボタンとか襟章、銃弾、薬莢などが出てくる。それらを丁寧に分け、座標別に展示してある。

 建物はある程度までは現状を保存し、壊れたところは崩れた石を使って修復している。建物内部も当時の工法を用いて再現しているが、部分的に、断熱してエアコンを入れている。

 Gunと刀のコレクションは秀逸で、各種のものが集められている。実際に撃つことが出来る。銃剣をつけるとかなり重い。

 騎兵用の刀の使い方などを実際に教えてもらった。切るのではなく、突くためのものであることが分かった。彼は日本刀にも興味がある。

 この砦はすでにインディアンとの攻防が終わったあとのものらしく、籠城戦の備えはなかった。約20マイルおきに置かれて、伝令が走るための基地として用いられたようだ。

 軍の伝令のみならず、Pony Expressに類するものも走っていたようだ。これは初期の郵便システムであり、馬を全速で走らせて手紙を配達するために、後には駅間をやや縮めている。騎手は極めて危険な仕事であり、独身の若者が採用されたとある。体重制限もあったようだ。給料はかなり高く、当時の花形の職業であったが、電信の開通により廃止された。

2008年08月08日

続々 Texasの旅

Abilene T&P StationDowntown AbileneこれがT&P駅である。きれいにレストアされている。さすがに旅客駅であった当時の繁栄を彷彿とさせる。駅前にはホテルや新聞社、映画館が立ち並び、昔の栄光の日々を偲ばせてくれる。それらの建物は全て空き家になり、町並み保存会が管理している。映画館だけは、一月に3回くらいなつかしい映画を上映するそうである。


Abilene Burlington StationBurlington Station West SideこれがCB&Q駅である。薄汚い倉庫街の中にあり、うっかりすると通り過ぎそうである。この写真を撮っていたら、「買うつもりなのか。やめておけよ。こんな物騒なところなんか。」と声を掛けられた。「いや、鉄道ファンで写真を撮るだけだ。」と言うと、「えっ、これが駅なのか?!」と逆に驚かれる始末であった。

Corner Stones 建物の角は石がはめ込まれ、格調高いつくりではあるが、放置されて薄汚い。しかし、いまだに"Burlington Route"の文字が見える。ワークスK様あたりはきっとご興味がおありだろう。

2008年08月06日

続 Texasの旅

T&P Texas and Pacific鉄道は1976年にMissouri Pacific鉄道に併合され、その2年後にさらにUnion Pacific鉄道に併合された。しかし町の人は今でもT&P鉄道という名前に愛着を持ち、いまだに「TP Stationの方に行く」と言う。



UP Train Passing AbileneTo Trains 駅はかなり豪華なつくりで、当時の繁栄をしのばせる。現在は博物館になっている。荒れ地の中に突然出来た駅であろうから、周りの土地とは同一平面である。後に駅の辺りだけは地下の人道を作るために少し持ち上げてはいるが、それでも交差する道路は下を掘ってかなり深くもぐっている。駅から500mほど離れると一部の道路とは平面交差していて、列車が接近すると猛烈なホーンを鳴らす。その音が町中に響き渡り、列車が通過していくのが分かる。そういう意味では、鉄道に対するノスタルジィをいつまでも市民に感じさせ続ける町である。駅の近くの橋は大半がいまだに木製であるが、全く傷んでいない。乾燥した地域だからだろうが、たいしたものである。

Connecting lines Abilene Burlington Station T&P駅から数ブロック離れたところにCB&Qの駅がある。これはかなり見劣りがする。しかし、Chicago,Burlington and Quincy Railroad と書いてあり、Colorado Southern Railroadとも乗り入れしているとも書いてあった。
 現在は完全な廃屋であるが、当時はシカゴに直結する重要路線の一部であったのだ。

 その周りは倉庫街で、引込み線が網の目のように張り巡らされている。しかし、現在では半分埋もれてしまっている。以前はT&Pに対して立体交差で直交する線路があったが廃止されている。


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