旅客列車

2017年07月21日

荷物車5輌

 荷物車を複数用意する必要があった。UPの末期の特急旅客列車には、荷物車がたくさん繋いであった。大陸横断の郵便物を満載していたのだ。しかし、1968年あたりから突然その数が減った。すべての郵便物が航空機輸送になったからだ。
3 bags 博物館では、1950年代のUPを中心にコレクションを形成しているから、最大限の荷物車が必要であった。ケムトロンのキットには、80 ftの3軸台車の車輛がある。それを3輌入手した 。

 3輌のうち、1輌はアメリカ人が組んで、塗ったものだった。きれいに塗れているのだが、一部のハンダ付けが甘く、すべての扉が外れていたのを、安く買った。扉を作って、塗料が傷まぬよう低温ハンダで付けた。屋根とサイドの境目が外れたのも直したが、低温ハンダは好きではない。

 2輌目はアメリカ人が組んだのにしてはハンダ付けが完璧であったが、側壁の厚みの分、扉を控えて(recessedにして)つけるのを忘れて、平坦なサイドであった。とても奇妙な感じで、それを極端に安く買った。扉を外して、recessさせた。とても面倒な作業であった。すべてばらした方が、時間的には早かっただろう。

 3輌目は未組キットで、側板が抜いてなかった。糸鋸で切り抜いて、扉をrecessさせた。新品だから、それなりの価格であった。組立ては短時間で終わった。
 Kemtronの客車キットは、60年代の発売だから、今から見るとかなり甘い作りだが、塗って編成にすれば、素晴らしい。それ以上は望む必要もない。

 件の73 ftは、2輌作った。Kemtronのレヴェルに合わせた作りである。編成であるから、細かく作っても仕方がないのだ。 ただ、走行性能だけは最高にしてある。
 この種の窓のない車輛は楽である。2輌を10時間ほどで作った。梯子は祖父江氏のところから来たSANTA FEのテンダ用の足を延ばして使った。これにケチを付けるとは天に唾するようなものだ。
 床下器具は横から見えるものだけを取り付ける。連結面の造作は大切で、それらしく作る。

 例のコメント主がまた書いてきたが、脱力するような内容であった。博物館を開くと、様々な人が来るだろう。客商売ではあるが、断固とした態度で臨む決意だ。幸い、すぐ近くに警察があるので話は早い。そのお巡りさんは汽車が好きなのだそうだ。

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2017年02月09日

express

RI express boxcar 少々難し過ぎたようだ。これはRock Island鉄道の express boxcar である。椙山 満氏が、
「ロックアイランドには、蒸気暖房配管のない小荷物車があるんですよ。」
と仰って、この写真を見せてくれた。
「色はプルマングリーンです。列車の最後に付けるから、蒸気の管がないのです。」
とのことであった。その写真はMainline Modeler誌にも載っているのを見つけた。
 椙山氏はロックアイランド鉄道がお好きで、研究していらした。
「ロックアイランドには大きな兵器工場があるのですよ。シカゴから数時間で行けるところに、そういう重要な工場があるのですね。」
と解説してくださった。

”Express”という言葉は、単に「急行」と訳してしまう場合が多いが、本来の意味は手小荷物を急送するシステムのことである。日本語に置き換えると、飛脚便のようなものである。列車に急行の意味でつかわれたのは、ずっと後であるはずだ。 

 それが為替業務も行うようになり、電信の開通と共に米大陸横断の金融業になってしまったものもある。ウェルズ・ファーゴ銀行やアメリカン・エキスプレスがそれである。荷物運送会社にFedexがある。フェデラル・エクスプレスであり、これは元の意味が生きているが、創業は1970年代である。いつも思うことであるが、Federalという言葉は、南北戦争の北軍を表す言葉だ。Fedexの会社はTennesee州Menphisにある。これは南軍の地域である。

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2016年12月05日

Solarium Diner を作る

solarium dinersolarium diner 2 solariumは好きな車輛であるが、なかなかそのキットに出会わなかった。自作するつもりでいたので、10年程前、ワシントンDCで行われたコンヴェンションで見つけたときは小躍りした。同時に室内のキットもたくさん出ていて、客車の一山(30輌くらい)全部を買った。ホテルの部屋で分別し、不要なキットはすぐに転売した。All Pullmanの16輌編成の準備はその時整ったのだ。
 帰国後、ある程度形にしたが、僅かの部品不足でそのまま放置してしまった。

solarium 2solarium 3Solarium 資料はある程度集めていたので、外観を整えるくらいは簡単であった。この車両は屋根の上が賑やかである。キッチン部分の通風装置がいくつもある。ローストビーフを焼くので、ダクトが並んでいる。冷蔵庫は氷で冷やすので、天井に大きなハッチが3つもあり、そこに氷を運び入れるための手すりも多い。氷は80ポンド(40 kg弱)もあり、それを片手で引き上げて投入する。屋根には、梯子が外れないような形の手すりがある。
 ソラリウム側の手すりは、これまたにぎやかで、ガラス窓の上にもある。ソラリウム側の貫通扉はガラス製で、昔の阪神の電車のような縦長の大きなガラスである。洋白の板を切って作った。ネジ穴が目立つがその上に幌を付けて隠す。

 この種の工作の骨(コツ)は、平行なものを平行に、である。うまい人はそこに気を配っている。手すりは何に対して平行でなければならないか、を図面等でよく確認する必要がある。これらの写真を撮ってから、修正したところがある。拡大すると粗が目立つ。しかし、塗装して走らせると全く問題ない。見えるのは、車体から飛び出している造作である。それらが整然としていると、実感味が増すのだ。

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2015年11月13日

EF58の牽く列車

EF58 leads the trainEF58 これはEF58が牽く東海道本線の急行列車である。非常に神経の行き届いた構成である。当時、写真を撮ってその通りに作られたもので、まさに「そのもの」である。

 パンタグラフの枠の側面は感電防止で赤く塗られていたことがわかる。客車のレタリングは非常に細かく書かれている。これこそまさに写実であり、時代考証の一次資料として役立つ。


 I氏はたくさんの客車をスクラッチビルドされている。東京への往復で利用した機関車、客車をつぶさに観察し、スケッチと写真でそれをまとめられたのだ。 

an express train circa 1950 急行列車の荷物車、郵便車の細かい造作も、最大限再現されている。最近、いろいろな作品を見ても、あまり感動しなかった。しかし、この列車を見て、戦慄を覚えた。
  

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2015年11月11日

C62の牽く列車

 K氏のお宅で、I氏の列車を見た。I氏はお祖父さんが教科書に載るくらい有名な家に生まれた方で、椙山氏とは中学以来の友人であった。カツミの近くの学校に行っていたので、頼まれてたくさんのカツミ製品を、帰省のたびに持って帰ったそうである。数年前に亡くなった。

Mr.I's train この写真はI氏の作品である。昭和26年ころの東海道本線を走っていた、C62の牽く客車群である。素晴らしい仕上がりであるが、すでに接着剤が劣化して、下手に触るとばらばらになりそうである。
 K氏の説明によると、客車の転がりが良くなく、ほとんど惰性がなかったそうである。それを牽くために機関車はあらん限りの補重をして、摩擦力を稼いでいる。ところがその重さで機関車の軸受けが磨滅して、がたがたになったということである。ブラスの軸とブラスの軸受では持たない。せめて軸を鋼製にしておけば、磨り減ることもなかっただろう。

 良い車輪、良い軸受けがなかった時代で、致し方ないが、残念である。機関車は細かく細工が施してあり、実感的である。

 K氏は、「いずれ、これらも全てお宅の博物館に行くように手筈を整える」とおっしゃった。大変なことになった。まずこれらを収納するガラス棚を増やさねばならない。また、走るように改装もせねばならないだろう。機関車のフレームは、厚板をフライス盤で加工して加工せねばならない。軸をボールベアリングで受ければ、とても軽くなるだろう。モータは「スーパー20」と称する直捲モータである。コアレスモータに取り換えねばならない。
 最近オークションでそれを標榜するマグネット・モータが高価で出品されているが、完全な誤りである。客車もいったん分解して、接着剤の浮いているところは外し、優秀な接着剤で留め直す必要があるだろう。

 筆者が高校生の時、I氏にはよくお目に掛かり、親しく声を掛けて戴いた。尊敬すべき大先輩であった。
 

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2014年09月17日

デザイン

 日本を走るかなりの数の優等列車は、土屋氏のデザインだ。違う人の名前で発表されているのもあるようだが、それについては論じない。

 海外に同行したとき、デザインについて色々な話を聞いた。土屋氏の話をまとめると、「デザインは機能」であることに尽きる。

格好良く見せようと思うと、駄目になる。下手な工夫は陳腐化を早める。」

 土屋氏はここしばらくは鉄道のデザインから遠ざかっていらした。その間に、鉄道車輌デザインが、土屋氏の言う陳腐化を早めるものが多くなってきたように感じる。しかし、そのようなデザインを賞賛する人が居るのである。

 本当にデザインが分かっている人以外は、デザインの評価などできはしないはずだ。最近の鉄道雑誌をみると、不思議な現象がみられる。どれもこれも、その列車を褒めちぎっているのである。どれか一つくらい、「このデザインはおかしい」と書いても良いのだが、どこも書かない。
 要するに、褒めないと次の仕事をさせて貰えないのだろう。取材に行けなくなるのが怖くて、書けないのだろうと推測する。

 土屋氏はデザインの世界では超一流の専門家であった。彼のような人に取材して、はっきりと言って貰えば、全て解決することなのではないかと思う。専門家でない人がいくら褒めても、何の価値もないと思うのは筆者だけだろうか。

 土屋氏のデザイン論はとても面白い。
「車のデザインには1年しか持たないデザインと、2年持つデザイン、順に4年、8年持つデザインという具合になっている。」
「えっ、1年しか持たないデザインなんてあるのですか。」
「モーターショウに出てくる突飛な形の車があるだろう。あれなんて、次の年に見ると、もううんざりだね。」
「なるほど。しかしその次の2年というのは、車のデザインとしては短いと思うのですが。」
「いや普通の車は2年しか持たないように作られるのだよ。」
「それじゃあ、3年目には売れなくなりませんか。」
「だから、マイナーチェンジというのを施すんだ。それであと2年売って、もう駄目というところで次の型が出てくるんだ。」
なるほど、と合点が行った。すごい話だ。

話はさらに続いた。
「それでは、8年というのは何でしょう。」

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2013年06月11日

サンビーム號

8mm train 伊藤剛氏の著名な作品ではあるが、現物どころか写真を見たことがある人も少ない。それがこの8mmゲージ列車である。モータ、車輪全て自作である。この造形は剛氏の二十歳前後の作品である。
 就職して、下宿生活を始めたので工作もままならぬ、とこれを作り始めたのだそうだ。というと御自宅ではどんな工作をしていらしたかが、知りたい。

8mm train (3)8mm train (2) この図面は御覧になった方も多いだろう。さらさらと描いてあるが、プロのテクニックである。こんな上手な図面はそう簡単には描けない。
 2軸台車の動きを単軸台車の操舵に利用している。筆者は中学生の時にこの方法に夢中になった。色々な実験をしている。

8mm train (10) 8mm train (9)この列車の裏側の写真は、おそらく本邦初公開のはずである。この模型は70年前に作られ、そして今も走る。中央三線式であることが分かる。レイルの中央に細い銅線が張ってあり、スプーン状のコレクタで集電する。
モータの鉄心はトタン板を使ったそうだ。軟鋼鈑ではあるが、ヒステリシスが大きく、損失が無視できない。しかしよく走る。

8mm train (6)8mm train (5)8mm train (7)8mm train (8) TMSの特集号にも掲載されている。図解が詳しく、しかも明解な絵で、年少者の理解を助けている。
 誰にも描ける絵ではない。筆者も少し練習してみたが難しい。今回も描き方の手ほどきをして戴いたが、一言で言えば、円と直線の接し方がコツなのである。レイルに車輪が載っているのを、斜め前から見た図を描くコツがつかめれば良いということである。お試しを。

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2012年12月16日

Rosaliaへ

812_6458-2 鉄道公園の前にはUPの駅があり、木材を満載した列車が停まっていた。バルクヘッド・フラットカーである。それをしばらく観察して、ロザリアのコンクリート・アーチ橋の見学に出発した。スポケーンの南約50kmにある橋で、BNSF線(元はNP線)を跨いでいる。Milwaukee Roadの橋である。

 この鉄道は正式名称をChicago, Milwaukee, St. Paul and Pacific Railroad (CMStP&P RR) と言い、アメリカで最後に完成された大陸横断鉄道であった。シカゴからミネアポリスへ、ハイアワッサという高速列車を運行していたことで有名である。さらにシアトルに向けてオリンピアンという大陸横断列車を走らせていた。
 豊富な電力を用いて、西部の線は電化されていた。また、シカゴ近辺はUPの大陸横断列車が使用していた。
 需要以上の拡大方針をとったため、1925年には最初の倒産をし、1960年代、70年代にも倒産を繰り返している。電化設備の老朽化に伴い、更新が不可能になって、せっかくの電化された路線から架線を外しディーゼル化に移行したが、結局1980年に太平洋に出る路線を完全に廃止した。路盤は何百キロも続く遊歩道、自転車道になった。もったいない話であるが、どうしようもなかった。

The_Milwaukee_Road-Rosalia812_6467-2 この橋はその遺構である。橋には誇らしげにMilwaukee Roadと描いてある。この場所に行くのが遅れて、到着時は日没後40分以上経過していた。
 もう写真は撮れないと思ったが、カメラのISOを
12500に上げて撮ってみた。手持ちであったが
1/15程度のシャッタ速度が可能であった。
 最近のカメラの性能は予想以上で、何の問題も無く鮮明な写真が撮れた。 

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2012年10月29日

Dallasへ

712_5862-2712_5887-2  しばらく待つうちにやって来た客車は、プッシュプルのいわゆるダブルデッカーであった。座席は転換できないタイプで、テーブル付きのところに座った。

712_5879-2  列車は旧MKT路線を走ってダラスに向かった。二階建てでも日本の新幹線とは違って、かなり背が高い。窓からみると、あたかも学校の二階の窓から下を見ているような高さである。プラットフォームのない分を見込んでも、まだ高い。

712_5964-2712_5871-2 途中で車両基地を見ることができた。もう今では珍しくなったRDCがかなり居る。その次の駅が医療センタで、デニスはここに通っていたこともあるらしい。


712_5890-2712_5891-2 ダラスの駅は大きく、昔はかなり大規模なものであったろうと思われる。現在は発着本数が少ないので、プラットフォームが少なくなっている。


712_5892-2 駅の前には刑事裁判所があり、威容を誇っている。そのすぐ北側に、我々の目的の場所があった。
 1963年にケネディ大統領が射殺された場所である。通称、教科書ビルである。事件当日、史上初の衛星中継を見るために、筆者は早起きしてテレビを見ていた。大統領の自動車が写ったと思う間もなく撃たれたので、びっくりしてしまった。
 それ以来、この事件には興味があったのだが、事件の現場には来たことがなかった。その話をデニスにすると、「実は俺も行ったことがない。」と言ったのだ。それで、皆でダラスまでやって来たというわけだ。

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2011年10月16日

続 Golden Gate Depot の客車 

 遊間の少ない連結器を丈夫な鉄板の床板に堅固に取りつけると、長編成も滑らかに発車する。Monarchは素晴らしい連結器である。先頃ある雑誌に、連結器を紹介する記事が載ったが、肝心のモナークの紹介が無かった。画龍点睛を欠く記事である。

 台車はダイキャスト製の怪しいつくりである。3軸のイコライザがバネで支えられているのは良いが、イコライザは1本である。理屈が分かっていない。しかし、そのイコライザは細く、撓むので、なんとか走るようである。問題はその荷重中心である。センタピンをねじ込むために3軸の中心にはそれは無い。中心から12mmほど離れたところに荷重が掛かるので、軸重は不等である。ライオネルの3軸台車はセンタピンから一番遠い軸はフランジレスとなっていて、荷重はほとんどない。それをまねしたような構成で、走行性能はすこぶる良くない。軸重が少ないと、スケールの車輪はフランジが低いので脱線してしまう。

GDDの3軸台車 これを防ぐには、回転中心はそのままとして、新たにセンタ・ベアラを作り、それに荷重を掛ける必要がある。たまたま持っていた発泡ポリ塩化ビニルのシートを切って作り、貼り付けた。この材料は適度の弾力があり、衝撃を吸収する。滑り子には1mmのブラス板の小片を付けた。モリブデン・グリスによる潤滑を施す。
 センタピンのコイルバネは、短く切って台車の傾きにも対応できるようにした。こうしないと縦曲線に追随できない。付属の車輪を捨て、Low-D車輪に取り換える。もちろん少量のモリブデン・グリスを軸端に塗る。ピヴォットであるが、集電は十分良い。

 照明は、最近のものはLEDであるが、2年ほど前に手に入れたものは、麦球であった。一輌で0.2アンペアも食う。10台つなげば2アンペアである。機関車が0.3アンペアしか食わないので、これは大問題である。レイアウトの本線は1.3アンペアで遮断されるようになっているので、走らせられない。LED方式は1輌あたり40ミリアンペアで済み、問題なく走らせられる。

26212623 LEDを購入して取り替え法を試行錯誤している。材料はこの店で購入した。昔に比べ余りにも安くなっていて、また明るいので驚いた。この写真は電球との明るさ比較をしているところである。電球色とは言え、電球の光より白いことが分かる。

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2011年08月08日

続々々 35mmゲージレイアウト

1423 この列車は、特急「富士」であった。一等車の車内には扇風機があり、走行中に入る風によりくるくると回る。
 この列車は全て博物館模型のレベルにあり、それが走るのだから素晴らしい。

 1420 台車を見せて戴こうとお願いしたら、「その箱の中にある。」と仰るので拝見した。台車が載っているたくさんのブラスの板は何であろうか。

 はじめは気が付かなかったが、全て完成した側板であった。あと20輌分はありそうだ。台車も半製品がゴロゴロと出てきて驚いた。どれもコイルバネ、重ね板バネ、揺れ枕、サイドべアラが実物どおりに作動する。

141914181416 ブレーキテコが付いていて引っ張ると締まるようになっている。床下に付いているブレーキテコは平面上にあるものが大半だが、台車の中にあるものは全て斜めになっていて、その造形は面白い。台車内のブレーキテコが装備された模型は、ここ以外ではまず見ることができない。
 これらの台車が全て板から作られているというのは、驚嘆すべきことである。鋳物はブレーキ関係の一部だけである。

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2010年12月12日

続 Pantera氏の工房を訪ねて

Dan's Workshop 地下の工作室に入る。せいぜい12畳くらいの大きさだ。O scaleの工作室としては小規模だ。しかも客車を100輌単位で仕上げるのだから、仕掛品の保管場所としても狭すぎる様に思う。



Dan's Workshop2Dan's Workshop3 今回は平積みであるが、先回は沢山の車輌が一山24輌の井桁積みになっていた。6輌ずつ直角に積むのである。地震のない国ならではの保管法である。


Dan's Workshop4 プライマは自動車用のものである。1ガロン(約4L)の缶がたくさんあった。




Dan's Paintshop2Dan's Paintshop これは塗装ブースである。宅地が広いので庭に排気を吹き出しても、どこからも文句が来ない。おそらく隣家はここが塗装工場であることすら知らないはずだ。



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2010年12月10日

Pantera氏の工房を訪ねて

Dan Pantera聖地 3月にシカゴのO Scale Meetがあった。その時に旧知のPantera氏を訪ねた。現在のアメリカで最も実力あるカスタムビルダである。静かな住宅街にあり、誰もここがO Scaleの聖地だとは気が付かない。

 氏は歓迎してくれ、地下室の工房を見せてくれた。Back Orderが5年分くらいあって、もう注文の受け付けは出来ないと言う。Custom buildingをやめて、Easy Orderにするという方針転換をしたのだそうだ。
「この客車列車を12編成作るから、希望者は申し込んでくれ。」という形にしたという。「そうでなくては生きているうちに終われないよ。」とまで言う。
 超人気のカスタムビルダであるが、決して驕らず、淡々と仕事をこなす職人である。こちらのつまらぬ質問にも誠心誠意をもって答えてくれる。
 筆者がWalthersのキットを沢山持っているのを知り、いろいろなアドヴァイスをくれた。おかげで10台を同時進行で作っている。もう7割近く進行した。
 
Pantera Cars 彼の仕事ぶりを見ていると、手際が良いということに尽きる。長い時間かけてひねくり廻して作るのは素人で、プロは短時間にベストの形に持っていく。そのために部品を標準化して、一回の塗装で仕上がるような方法を採っている。
 それにしても仕上がりは美しい。思わずため息が出るような仕上がりである。このレベルに到達できる人は少ない。細かく見れば、あちこち省略してあったりするが、全体を見ると素晴らしい実感である。

 倉庫にはいろいろな製品のキットや完成品、ジャンクが山のようにあり、一つずつの箱を開けて見せてもらった。「希望すれば分けてあげる」と言ってくれたが、手持ちのキットの状況を考えると怖くて言いだせない。

Before and After Swap Meetでジャンクを買って来て仕上げるとこうなるという実例を、いくつか見せてくれた。この写真では$65とあるが20ドル足らずで入手したという話である。
 



Library 資料が無くては出来ない仕事である。資料室には図面集、写真集が山のようにある。この写真は半分も写っていない。 

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2010年12月08日

Walthers の Diaphragm

Walthers' Working Diaphragm O scaleを始めた頃、Walthersの幌を見て感動した。実物のように折ってあり、伸縮する。しかし、Striker Plateが時々噛みあうので、その部分に透明なプラスティック板を貼って誤摩化さねばならない。MHPのような爪をつけて何とかならないかと思ったが、絶対にうまくいかない。

Striker Plate  この材質はなんというのか分からないが、横ずれに抵抗するのはゴムのように撓むことはないからだ。左のStriker Plateは横ずれしやすいように丸みをつけている。


HINODE MODEL Diaphragms このような材質の場合に横ずれを容認するような方法は襞の数を極端に多くする以外ない。
 HINODE MODELの和紙製の幌は、その点優れている。以前、サンプルを戴いたがもったいなくてまだ使用していない。これをアメリカで見せたら、みな仰天していた。

 HO以下の車輌で幌が密着して作動するのはまず見ない。車輌の重さが不足して脱線の原因になる惧れが大きいからだろう。せっかく精密に作っても幌に隙間があるのは残念だ。MHPの方式でしなやかな幌が出来ないものだろうか。

 いろいろな方からゴムの情報を戴いているが、残念ながらMHP方式に適するものがない。フィルムを貼り合わせる方法ではその部分の厚みが出るのでうまくいかない。やはりチューブ状でシームレスのものがよいのだ。

 半透明のものでは実感が無く、それに塗装すると剛性が出てうまくいかない。厚みが0.2mm程度、直径が25乃至30mmのネオプレンのチューブか風船があればよい。

 ネオプレンは紫外線、オゾンに対して抵抗力があり、劣化しない。普通のゴムは光が当たるとひび割れてボロボロになるが、ネオプレンはいつまでもしなやかだ。宍戸氏は化学者であったから、特にそこを強調したのである。

 MHPを使えば、多少突張っているので、Kadee連結器を使っても、遊間が無くなり、多少はスムーズな運転が出来るであろう。

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2010年12月06日

続 Vestibule Diaphragms

MHP on #8 switch この写真は8番ポイントでの食い違い状況である。この程度のずれなら支障なく通過する。8番渡り線では単純に計算してこの倍である。やや苦しいが通過できるだろう。
 連結器はMonarchである。Kadeeに比べて左右のガタは許されないが、腕が長いので、ずれは吸収できる。

 幌が適度の弾力で押しあっていて、列車が一本の棒のような感じになる。貨物列車とは異なり、旅客列車は連結器のガタが許されないのでとても好都合である。

 Walthersの客車は妻板部分から屋根を留めているのでこのゴム幌の上の部分は指で捲れるようにしておく。普段は隠れていて都合がよい。
 Walthersの幌はやや腰が強く、また底が抜けているので、形が崩れやすい。要するに連結器と干渉する部分を無くしてしまったのだ。

 他にもいくつかの会社から、極端に軟らかいゴム製品が出ているが、MHPには到底かなわない。

 このゴムは一体どこで手に入るのか、随分探したが良いものが無い。一番近いものはアート・バルーン(子供のおもちゃの長い風船)の黒である。残念ながら天然ゴムのようで一月程度しか持たない。どなたかが、クロロプレンゴムの風船を探し出せれば、商品化も可能である。特許はすでに切れているから販売は自由だ。
 

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2010年12月04日

Vestibule Diaphragms

 その昔のTMSに「宍戸博士の旅行カバン」という記事があった。氏は軟らかい連結幌を見つけて、興奮した文調でそれは伝えられた。「くねくねとよく曲がる。」とあったのだ。ネオプレン製と強調してあったことを覚えている。
 ヴェスティビュールとはデッキ付近(昇降口)のことである。ダイアフラムは横隔膜のことであるが、ここでは幌のことである。
MHP DiaphragmsMHP Diaphragms squeezed 長年その現物を探し求めていた。数年前の O Scale West でついに見つけた。たくさん入っている箱ごと、ごっそり買うことに成功した。
 これがその箱である。1組入っている。「MHPの幌」とあり、Patent2568684と誇らしげに書いてある。ネオプレン製と表記されている。ネオプレンゴムはデュポンの耐候性ゴムで、雨ざらしにしても割れたりしない。
 調べてみると1947年出願で、1951年に特許が降りている。ちょうど宍戸氏が渡米された頃である。20年ほど前宍戸氏にお会いした際、このことを聞いてみた。「あれはよろしいですな。しなやかでよく曲がりましたわ。」と嬉しそうに語られた。それから50年以上、この幌は素晴らしい弾力を保持している。

 極めて薄いネオプレンゴムのチューブを拡げて、枠を押しこんだものである。このゴムは直射日光にも耐え、長もちする。端面には薄いアルミ枠が付いていて、相手にはまって弾力で押しつけられ、抜けない。ポイントを通すと、本当にくねくねと曲がって気分がよい。ゴムはかなり長持ちするが、物理的に破れてしまうこともある。枠の角にはかなりのストレスが掛かっているから、そこが擦れると破れてしまう。すると破れは全周に拡がり、幌はちぎれてしまう。

 この方法はゴムの弾力を最大限に活用しているので、圧縮にもバネとして機能する。かなり軟らかく実に具合がよいが、HOには弾力が強すぎて難しいかもしれない。金属製で重い客車ならよいが、昨今のプラスティック製客車には適合しない惧れがある。
 当時の資料を見せてもらったことがあるが、一応 HO,OO用というサイズもあった。もちろんSゲージ用もある。

 この黒いネオプレン・チューブさえあれば、再生産は可能だ。組立て済新品を売っているところを探すのだが見つからない。 

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2010年12月02日

続々々 Walthers の客車キット

Interior Layout 室内の様子を見るために椅子などを並べてみた。図面で見るのとは随分違い、楽しい作業である。
 椅子の色は深紅、紺、深緑などがあるので、それぞれに調色して塗装する。
いわゆるプルマン型開放寝台では、上部からも寝台が降りて来るので、その保持のために壁が必要である。上部寝台を作った例はさすがに見ない。

 室内は彩度を高くするというのがコツなのだそうだ。窓を通して見るので見える範囲が狭く、彩度を上げないと薄汚く見えるという。

 食堂車は厨房の内部を再現するのが難しい。当時は石炭を燃料としていた。Broilerと呼ばれる一種のオヴンとホット・プレートが主な加熱機器で、輻射熱で内部はさぞかし暑かっただろう。屋根には大きな煙突が付く。いわゆるコンロはない。鍋は鋳鉄のホットプレートに上に置いて加熱する。
 床はスノコ張りで、天井からは清水タンクがぶら下がる。食器戸棚が巨大だ。食器を洗うのは蒸気のジェットを使う。流し台は小さい。洗い終った食器は熱いからすぐ乾いて再使用できる。

 Coffee Pot は背の高いものが作り付けである。この燃料だけはガスのようだ。
 1930年代から、厨房の内装にはステンレス板が使われている。冷蔵庫は氷冷却で、天井から氷を投入する。その氷は1つ40キロもあり、力自慢の連中が一人で持ち上げて入れていたそうだ。その写真を見たことがあるが、大きな塊を氷挟みでぶら下げて、梯子を登っている。4つ入れるのだそうだから大変だ。

grab iron for ladder 屋根についている手摺は両端が曲がっている。それはこの人たちが梯子を掛けるためのものであることも教えてもらった。戦後になっても手摺は曲がっているが、それは点検用に梯子を掛けるためである。機関車の運転室前のフッドにも曲がったのが付いている。

 食堂車は美しい。食卓には花が飾られ、テーブルクロスは純白だ。銀器、陶器の皿、料理が並び、客はもちろんのことウェイタが立ち働く様子が再現される。

 名古屋鉄道模型クラブの会長であった荒井友光氏は、1950年ごろOゲージの食堂車を作り、床下にハンダコテのヒ―タを巻き直したものを付け、そこにベーコンを載せて走らせた。会場にその香りが広がり、観客は「進駐軍の食堂車だ!」と叫んだそうだ。時代を物語るエピソードである。

 この話をアメリカで紹介したら、「こちらでもそれをやった人がいる。」と言う。ポタージュ・スープに入れるベーコン風味の小さな塊を加熱するのだそうだ。「インスタント・コーヒーを温めると良く匂う。」と言う人もいる。考えることは皆同じだと思った。

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2010年11月30日

続々 Walthers の客車キット

 ウォルサーズの客車キットの基本はHeavy Weight客車である。Pullmanの寝台車はほとんどの形式が作られている。一部の特殊な配置を持つ車輌も、NYCなどの有名会社の車輌は製品化されている。
Passenger Car EndEnd fastenedpassenger car construction 40年代から10年以上に亘って作られた方式は、この写真のような妻板の鋳物を使用する方式である。天井板に2本のネジで留めて、床板はその後である。ということは、室内装置の付いた床板を、水平方向からはめ込むことになる。この妻板を用いると側板は後から釘止めということになってしまい、細い釘を20本ほど抜かぬ限り、電球の交換は無理である。実際にこの車輌はそうなっていて、すでに電球は切れていた。
 自由に室内を点検しようと思えば、側板は屋根に付けて、床板を妻板に依らない方法で保持することが必要である。連結器の上の内側に出ている部分を切り落とし、側板にL金具を貼り付け、それに床下からタッピング・ネジを締めることにした。側板が反るとあまり良い格好ではないから、暴れ防止に側板の最下部に細い骨をハンダ付けする。
[追記] この中古車輌の側板には釘穴がたくさんあいていたのが問題であったが、最近新品の側板が手に入ったので取り換えた。 Nov.25, 2012


Newer End fastened with screws 60年代に入るとこの写真の方式に代わった。床板に妻板をネジ留めし、側板を床に貼り付ける。
当初は側板を貼り付けるのにゴム系接着剤を使用していたが、エポキシ接着剤を使用するようになり、現在はSuper Xである。長年に亘って蒐集してきたキットを組まなかったのは、この側板を床板に付けるのがかなり面倒であったからである。床下に1.6mmほどはみ出させて付けるには、全長に亘るジグが必要である。それを作らなければと思いつつ、20年経った。
 Super X はこの用途に最も適する。塗布して押しつけ、離して5分ほど待つ。位置をよく見ながら指で押しつけて仮止めし、万力で順に締め付ければそのまま固着する。こんな楽なことはない。
 屋根は、連結幌の部分から水平に木ネジで留めるように指示されている。改良案として、床下から長いネジで留め、それで通電する手も推奨されている。トイレの中などを通せばよい。長ネジは旋盤で簡単に作れる。

Pullman SeatsPullman wash bowls and toilet 室内は戦前から部品が売られていた。どれも目の細かい木をRouter(型削り盤)で削り落してそれを金太郎飴のように切ったものである。

 
 便器や洗面台もホワイトメタル製のを売っていた。これらは肉厚でとても重い。

 壁は厚紙で作り、毛羽立たぬよう塗料を滲み込ませる。

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2010年11月28日

続 Walthers の客車キット

Walthers floor 床板は不思議な構成であった。台車を取り付ける部分が左右にスウィングする。急カーヴでは台車が内側に振れるのか、外に振れるのかは分からない。何か根拠があってやっているのか、単なる思い付きでやっているのかも不明だ。連結器に掛かる力で作動するわけでもなく、復元装置があるわけでもない。どなたか、この仕組みについての知識をお持ちの方はお教え願いたい。ライオネルにこのような工夫があるのだろうか。
Walthers Streamliner roof and floor これは屋根板と床板の結合状態である。スペーサを設け、申し訳程度に黒く塗ってある。これでは展望車なのに展望は出来ない。柱を2本設ければ済む話である。しかも窓を避けて壁にうまく添わせれば、幅が広い板でも構わない訳だ。金属の柱ならさらに細くできるだろう。

 側板が再利用不能なので、思い切って全く異なる窓配置にして、City of San Francisco の継ぎ接ぎ編成にしようということになった。0.5mmステンレス板をレーザ加工で抜けばあっという間にできる。丸い部分は3本ローラでゴロゴロと曲げれば滑らかに曲がる。床板も作り替えることになる。どう考えても幅が狭い。

Rounded Observation Roof 何のことはない。天井板を9.95ドルで買ったことになってしまった。後端を丸く削り、何度もサーフェサを塗って研ぎ上げた。最近、Oゲージ用の天井板はかなり高価である。新品を買えば14、5ドルもするから、安物買いの銭失いにはならなかった。また、当時の設計手法の検証もできた。もう一台のコーチは再生可能な範囲にあり、デッキ部分を別の部品に取り替えて再建中である。
 Walthersの客車キットは1940年あたりから出ているが、妻板の設計の工夫により、工法が変化していることも分かった。この客車は50年代の製品であることも分かった。
 当時のプラクティスを知る意味でも投資は無駄になったわけではない。

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2010年11月22日

Coal Steam Turbine by MTH

C&O M-1 C&O鉄道はアメリカで最大の石炭運搬量を誇っていた。その石炭を燃やして走る蒸気タービン電気機関車M-1 を作ろうとしたのは、当然であろう。

 M-1 の車軸配置は例がないものであった。4-8-0+4-8-4という構成で前部に28トンの石炭、後部にボイラと発電機を搭載した。水はテンダに100トン積む。 1946年、この機関車はオハイオ州シンシナティ市から、ワシントンDCまでの1000キロを12時間で結ぶ特急列車のために計画された。この道は曲線と勾配が多く、蒸気機関車では困難な経路であった。ディーゼル機関車には石油を購入しなければならないが、蒸気タービンは石炭を燃やす。彼らはどうしてもこれを実現したかったようだ。

M-1 Coal bunkerM-1 roof 1947年に納車されたが、残念ながら、結果は思わしいものではなかった。石炭クズは動力台車のモータをショートさせることがあったし、ボイラが後ろ向きなので運転中に常に後を見る必要があった。コンピュータのない時代なので、それは大変なことであったと思われる。
 結局のところ採算が全く合わず、C&Oは1年でこの計画を放棄する羽目になる。1949年には解体されてしまった。  

M-1 rearM-1 front まさかその機関車が商品化されるとは思わなかった。MTHは2008年にこれを売り出した。先日千葉の川島教昭氏のお宅に伺った時に、写真を撮らせて戴いた。
 氏の方針で、全ての軸箱は可動式に作り替えられている。動力は全て新製である。三線式の模型を手に入れて改装されたそうで、改造には大変な手間を掛けられたようである。
 後テンダの高さを調整すれば出来上がりというところまで出来ている。テンダは肉厚のダイカストで、重くて仕方が無いので内側をフライスで肉抜きしたとおっしゃっていた。
 このような機関車を作って完売するMTHのマーケティングには感心する。ちなみに価格は1000ドルを少し切る。
 

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2010年11月14日

Leaf Springs

Leaf Springs その通りで、これはリーフ・スプリングである。スペーサをはさんで1mmの針金を通し、軽くはさんでハンダ付けする。ここで軽くはさむというところがミソである。ステンレスの裏面には、材料が燃えて飛んで行った時のカエリが出ている。これを削ってはいけない。
 ハンダ付けするには隙間が必要である。またフラックスを洗うにも隙間が必要である。カエリの高さががちょうどその隙間に相当する。バネの先端にはブラスの挽き物をハンダ付けする予定だが、その寸法はまだ決めていない。ハンダ付けがすべて終わってから、それに合う寸法のものを作って取り付ける。

Leasf Springs2 この内側のところを見て戴きたい。今までに見た模型の中でこの部分が表現できていたものをまず見たことが無い。見る角度によっては丸見えであるから、作ってみた。図面の上で指示すれば出来てしまい、さほど費用も掛からない。工賃は作業時間で決まる。1秒いくらという単価がある。ステンレスの場合は切断速度が非常に大きいから、内部を作っても安上がりなのである。

 本当のところはこのリーフ・スプリングを薄板積層で作りたいところであるが、以前にも書いたようにヤング率は材料に固有で、小さくなるとモーメントが小さくなり、相対的に硬くなる。すなわちバネは効かなくなる。仕方が無いから形態だけはしっかりと図面通りにした。図面には撓んだ状態の形態が載っているから容易だ。

Daylight 台車 吊リンクはステンレスの0.8mm板で作った。残る問題はウィングバネの製作である。この台車はデイライト用で、ナポレオン・ハットと呼ばれる形をしている。この部分はロストワックスで作る以外ないと思っている。他の部分が完成してから製作することにしている。全部で100以上も必要である。

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2009年10月10日

Pullman interior

Walthers' interior Walthersの客車の室内を、仮に並べてみた。部屋の壁はまだ取り付けていないし、洗面台は壁に付くものなのに、床に置いてあるのはご容赦願いたい。

 客車作りの名人に聞くコツは、「室内はなるべく鮮やかに」である。ウェザリングしてある車両でも中の彩度を高くせよということである。また、照明を均一にせよということである。
 これは現在の車両ではLEDがたくさん使えるので容易なことであろう。昔は電球であったので、個数が限られ、照度のむらがあった。

「カーペットは明るい色を使え」と言うのも面白い。暗いと、光を吸収して汚く見えるそうである。壁の色も同様で、「実物のように暗い色を使うのなら、人を座らせて窓際にランプを置け。」と言うのである。

 要するに、走っているとき、内部が作られているのがよくわかるようにしなければ、何の意味もないということである。

 その昔、TMSの2桁の号に、伊藤剛氏が「室内は外部である」と言う名言を残されている。本当にその通りで、外から見える部分は作っておくべきなのである。
 トイレの中を作るのは単なる自己満足であろう。

 製作中のプルマン列車は、外から見えるところ以外は作らないという方針である。そうすると、トイレットの中は作らないので便器がかなり余る。この車両では3個余ることになる。Compartmentの便器も、実際にはその上に座席になるカヴァを置くのでほとんど見えない。

2009年10月08日

続 Pullman の冷房装置

 発電用の動力採取はベルトに依った。エアコンは数馬力から10馬力程度の入力が必要なので、べベルギヤとユニバーサル・ジョイントによってシャフトを回転させ、その軸にいくつかのプーリをつけてコンプレッサの駆動をした。確か、その末端に補助発電機を設置していたように思う。これは高速走行時に発電して、停車時に備えるためである。
 当時は交流発電機ではないので、回転数の増加により端子電圧が増大したので電圧調整器が必要であった。

 エヴァポレータ(蒸発器)は車端近くの天井に設けられ、そこで作られた冷風はダクトに押し込まれ、天井から各室に分配される。

Pullman's air-cond. 各部屋の天井はダブルルーフであるから段付きになっている。その垂直面から冷風が噴き出るのである。当然、出口にはレジスタ(通風制御器)があって、冷房の効き具合を個別に調整できる。

 部屋から排出される空気は、廊下に面したガラリを通って戻る。すなわち廊下はあまり涼しくはない。

 エヴァポレータが吸い込む空気は、ヴェスティビュール(乗降口)の天井から吸い込まれる外気と廊下からの内気の混合気である。

 洗面所の排気はファンによる強制排気である。エアコンにより、臭気が各部屋に廻ってしまうのを防ぐためである。
 

2009年10月06日

Pullman の冷房装置

 このEjectorによる冷水製造は、蒸気の供給源に近くなければ効率が悪い。展望車は最後尾なので、そこまで蒸気が届く間に温度が下がってしまいそうだ。
 しかし、目的の場所は展望車なので、そのあたりの工夫はどうしたのだろうか。
 冷水タンクが大きいので熱容量が大きく温度変化が少なかったであろう。

 しばらくするとRefrigeration(冷凍装置)による冷房が始まる。当初はアンモニアのような蒸発潜熱が大きなものを用いていたが、漏れると有毒なので、他の蒸発しやすい液体(塩化メチルなど)を使い始めた。もちろん塩化メチルも有毒である。
 動力源が車輪の回転なので、停車中は効かない。高速走行中は効き過ぎて寒いということが起こったらしい。ある程度の自動制御もあったが、乗務員は細かく冷房装置を調節する必要があった。
 
 1928年にはフロン(フレオン)が発明され、これは無毒なので冷房装置の設計が楽になった。補助発電機を併設して、走行時は車輪から駆動し、停車時は蓄電池から電気モータによる駆動も始まったが、蓄電池の容量が足らないので長時間停車中の運転は短時間に限られた。出発時、停車中の駆動は外部からの動力提供を受けた。
 
 冷風はMonitor Roof(ダブル・ルーフ)の部分で外側のダクトから送り込まれる。吸気は連結部付近から外気を取り、室内の空気と混合している。

 

 



2009年10月02日

続 エアコンダクト

Walthers' catalogWalthers' air-conditioner









 Walthersの屋根は木製である。Bass Woodをルータで削ったもので、反りもなく高品質である。モニタールーフに合わせて削り出した部品があって、それを貼り付けることによってダクトを増設したように作ることができる。継ぎ目は多少の加工が必要であるが、なかなかうまくできる。

air-conditioner's duct これはその断面である。荒い鋸で切ったものらしく、ささくれているがどんなものかはお分かり戴けるであろう。向こう側は、サーフェサを塗ってある。すなわち必要分を切った残りを反対側から撮ったものである。




 1920年代前半には、アメリカの最先端の優等客車にはエアコンが付いていたそうである。手元に資料がないので、記憶に残っているものを再現する。Refrigerator(冷凍装置)ではない冷水循環法で、Steam Ejector Chiller(蒸気噴射による減圧冷水製造装置)と言ったと思う。
 断熱した冷水タンクの上方に蒸気の噴射による擬似真空を作り、水を蒸発させてその潜熱で5℃くらいの冷水を作る方法である。冷水はポンプで循環させて室内の熱交換器で冷風を作るという凝った物であった。

2009年09月30日

エアコンダクト

air-conditioned Pullman アメリカでは1930年代からエアコンの装備が大々的に始まった。プルマン寝台車、食堂車、展望車はすべてエアコン付きになった。



air-conditioner duct ダブルルーフ(monitor roofという)の車両には屋根上に枠を作って断熱ダクトを這わせた。
冷気は各室に送られ、ガラリから廊下に漏れる。廊下の隅にリターン・ダクトがあって、吸気を再冷却して送られる。

air-conditioner duct2 個室寝台の場合はダクトは片方だけだが、開放寝台では両側にダクトがあるので、事実上丸屋根になる。

 冷房装置は床下につりさげられる。かなりの大きさである。このような列車を牽くのはかなりの抵抗があったに違いない。
 その後、ディーゼル発電機を積む機種も出てきたが、当初は車輪からの動力採取であった。

 1輌60トン以上の重い列車を牽いて走る機関車は、かなりの出力がなければならない。30年代の最先端の旅客用機関車は3000馬力級であった。冬は蒸気暖房をまかない、夏はエアコン駆動をしなければならないのだから、ボイラ能力にはかなりの余裕がなければならなかった。

2009年09月26日

続々 Walthers の客車キット

Walthers' castings for passenger cars ウォルサーズはこんなものまで製品化していた。これはプルマンの車内に掛ける背広や帽子である。鞄もある。
 右はコーチの鉛合金製の椅子である。あまりにも重くて不評であった。のちにやや薄い鋳物を他社が売り出したのでそれも使う。やはり車内装置は木製かプラスティックに限る。

 他にシャワー・ルームから顔を出す美女?とかあまり感心しないものもあった。シャワー・ルームのある車輌は限られていて、business car, private car位のものである。NYCにはあったように思うが、UPには無かったように思う。


Roof End Casting 屋根の端の丸みを付けるのは製作者の仕事であるが、その上端の縁取りを付けるのは難しい。この鉛合金のひげを付けると簡単に完成する。削るときのガイドにもなる。30年ほど前から、模型人はこのような細工をすることを面倒がって、このキットは売れなくなった。HOの方は先端部だけプラスティックの一体モールドにしたが、それでも面倒な人が多く、結局屋根はプラスティックの完成品になった。

 この鉛合金のひげは中古市場で大変高価である。糸ハンダを曲げれば済むことなのに、これを買わねば出来ないと思っている人が多いということなのだろう。




2009年09月24日

続 Walthers の客車キット

Pullman interior Walthersのキットは1940年頃からあるそうだ。戦争中も売っていたという。室内装置も同時に発売されていた。見つけると、これまた中身も見ずに全部買う。時々、椅子以外のお宝も入っていることがある。






 
Pullman seats プルマンの車内は木製の椅子(左の写真)が大半であるが、コーチ(座席車)は重いホワイトメタル製である。1輌分で300gもある。床板に強固に接着しないと、ばらばらとはがれて気分が悪い。
 概して客車は貨車より重く、平均1300gほどもあるが、コーチはさらに重い。6軸で割ると軸重が200g以上であるから、ボール・ベアリングが必要である。

chair moulding そのコーチ用の椅子で極端に軽いものを作った人がいた。作者の名前は不明だが、これはあちこちで見るので、かなり大量に作ったものだろう。
 ルータで形を作ったもので、それを輪切りにするとリクライニング・シートになる。丸鋸で切ると刃の厚みの分がもったいないので、マイタ・ボックス中でアサリの無い胴付き鋸で切る。
 木材はシーダである。鉛筆の木の部分と言えばお分かり戴けるだろう。



筆者註 ルータはrouterのことであり、回転する工具で木材に型刃物の形に彫り込む道具である。不思議なのは、発音が"ラウタ"であることだ。末尾のrを抜いたrouteはルートと発音するのだからルータでもよさそうなものである。
 西部の方に行くとrouteもラウトと発音する人に出会う。聞いてみると、「ルートというのはフランス語だ。ラウトがアメリカンな発音である。」と言う。真偽のほどはわからない。


2009年05月21日

タミヤのオープンハウス

Tamiya Collecion1Tamiya Collecion5Tamiya Collection4





 静岡グランシップで行われたトレインフェスタに参加した。所属するJORCが参加しているからだ。天候はいま一つで、日曜日は大雨となったが、かなりの人出があった。

 この週末は静岡市内ではホビィ・ショウがあり、タミヤの本社が公開され、社内見学ツアなどがある。以前何回か行ったことがあるが、何度行っても面白い。
 2階に博物館があり、昔の木製キットの時代のコレクションがある。子供のころ、近所の工場に勤める青年が田宮の戦艦大和を作っているのを見てあこがれた。それを見た近所の木型職人がもっとすごいのを作ってしまい、その青年はいやになってその大和を筆者にくれた。

 その時代には、木製の鉄道模型キットがいくつかあった。一番欲しかったのは「こだま号」のキットだった。これも、その近所の青年が一生懸命作っていた。たしか3両位作って見せてくれた。運転台がソリッドのブロックで、窓は黒く塗ってごまかすのだ。
 客室の窓は抜けているのに、どうして運転台も本当の窓にしないのだろうと不思議であった。今考えれば、金属製にしなければ窓枠が持たないことはすぐわかるが、当時は理解できなかった。当初Oゲージのみであったが、HOも発売された。近鉄の旧ビスタカーもあったのだ。

 台車は木製で、極めて粗雑であった。動力セットもあったのだろうが、塗って飾っただけでおしまいであった。塗装は刷毛塗りであまり良くなかった。このキットは当時180円位であったと記憶する。先頭車は250円位であった。当時の子供の小遣いでは買えない値段であった。いつか買いたいと思っているうちに、木製模型は消滅した。

 これが今でもYahooオークションに時々出るが、価格は1万円以上もする。誰も買わなくなった。最初のうちの数台は田宮が買ったのではないかと推測する。以前は無かったが、今年は何台か並んでいたからそう思ったのである。 

2009年03月30日

Southern Pacufic RR Train 98-99

Daylight TRAIN 98-99  この本を購入して30年経つ。78年に購入している。650ページの大部で、とにかく高い本であった。1ドル200円の時代に60ドルで、物価が今の1/3だとしても、信じられない程の価格だ。
 当時はよく調べてある本だな、としか思わなかったが、最近は読む方の知識が増えたため、そこにある図表などの意味がよくわかって、益々面白味が増してきた。
 最近この本がe-bayで250ドルで落札されていた。相対的には安いと思う。

 Ralph Brownは、この本を参考にしてキットを作ったので、キットを売りつけるときに、「これを買え。」と指定してきた。「持っている。」と答えると、「それなら、きっと素晴らしいものができる。期待しているぞ。」と連絡があった。

 それから20年、埃が積もった状態で倉庫からひき出された。接着の失敗でくねくねと曲った車輌が2台と、未組みの状態で9両出てきた。ブラス製とブリキ製を急いで組んで並べてみると、全体像が浮かび上がる。リモネンを使えば間違いなく組めるし、過去の失敗作も修復可能であると思った。

 台車さえあれば、即完成できるという自信が湧いてきた。全ブラス製に比べてはるかに軽く、14輌でざっと20kg以内という試算も出た。収納して運搬する容器も作らねばならない。すでに、「運転会に持ってこい」というリクエストも戴いている。DCC運転には、DCC装置も必要だ。

 デカールを注文した。値段を知ってびっくりだが、仕方がない。問題は室内である。すべて手作りすることになる。材質を検討中であるが、以前アメリカで買い求めた木製キットを参考に作ることになるだろう。室内橙を点けなければならないので、その回路も必要だ。客車は軽いので、集電が悪い。電源車を作ってそこから給電する必要があるだろう。ジャンパ回路をどうするかが問題だ。

2009年03月28日

Daylight Consist

Daylight Consist デイライトの編成は当初の12輌編成から徐々に長くなり、最盛期には23輌編成まであった。蒸気機関車が曳くもっとも長い編成は、1952年から54年にかけての22輌であった。途中で補機をつけなければ越えられない坂もあった。

 この編成は14輌で、コンビネイション3と呼ばれた組合わせである。これにAC(連接客車)を足していくと長い編成が可能である。模型としての当鉄道での編成はこれが限度で、これ以上長いと収拾がつかない。これだけでも長さが6mある。筆者のレイアウトの一番長い側線に何とか入る。

 この表を見て気が付くことはデッキ部分の集約化である。色をつけたところがデッキ部である。客車の連接化の効果で、Porterの数を減らすことができる。連接ではない普通のコーチが1輌あるのは、デッキを片方に寄せるためである。したがって、これは編成中、特定の位置にしか来ない。模型を走らせているのを時々見るが、このあたりのことに無頓着な人は多い。すべて合理的に考えられているのに。

 全行程を乗務するポータは二等車3人、一等車2人である。ほかにSwing Porterというのが2人必要であるが、これは駅に居ればよい。デッキ部は階段があるので、荷物の出し入れにポータが必要である。日本のような高いプラットフォームがないので、手間がかかる。

 食堂車にはコック4人とWaiterが6人乗務し、Tavernには2人、さらに責任者1人という具合である。タヴァーンは"Money Making Car"と呼ばれるほど大きな収益を上げていたようだ。
 車掌は3人、機関士、罐焚きというわけで、かなりの人数が乗務していた。

 朝8時15分にサンフランシスコを出発し、夕方6時にロスアンジェルスに到着する。

2007年08月25日

Alco PA

Erie-Built & Alco PA Alco PAはV型16気筒2000馬力のプライム・ムーヴァを搭載している。これは4サイクルエンジンである。とても重い。

 発電機、駆動モータはGE製である。その点でもFM Erie-Builtと共通点がある。台車も、かなりの部分が共通である。
 
 Alco PAは、Erie-Builtに似ていると言われている。写真の左がErie-Built、右がAlco PAである。発表当初から、盗作だと非難されたらしい。並べてみると長さを少し延ばし、鼻をより長くして、よりスピード感を強調している。

 要するに、GEのErie工場に生産委託された製品を、受注者側がそれに似た物を作って売ったということである。

 商売の結果は、どちらもあまりうまく行かなかった。GE製の発電機の性能がよくなく、故障が続出したのである。これが元で、FMの機関車の商売は傾いたらしい。Alco PAも、EMDに比べて売れ行きは全く良くなかった。エンジンの性能も今ひとつであった。

 UPは、旅客機関車を全てEMD製に統一した。手持ちのFMPAはほとんどが売却された。売却先ではギヤ比を変更して貨物用にしたものが多い。

 EMDの2サイクルエンジンの優秀さは折り紙つきで、設計者の総合的能力の高さがそれに現れている。なんと、一部の顧客は、PAのプライム・ムーヴァをEMDの567エンジンに積み替えている。

PAの改良型のPA2PA3も出現したが、EMDの首位は揺るがなかった。

2007年08月22日

EMD Eシリーズ

 UPにはEシリーズがある。Cityシリーズの旅客列車の先頭に立つ機関車は1956年以降、全てEMDのEシリーズになった。

 E-8E-9が混在するらしいが、筆者には詳しいことは分からない。色々な書物を見ると、異なることが書いてある。

 E-8E-9の外見上の区別も、ほとんど分からない。ロットによって違うので、ヘッドライトが違うとか、砂箱蓋の形が違うという意見は、正しくもあり間違ってもいるだろう。

 中身は明らかに違っている。どちらもV12 567エンジンを積んでいるが、出力が違う。前者は1125HP×2、後者は1200HP×2である。

 567エンジンは一気筒の排気量が567Cubic-Inchから来ている。この体積は9299ccである。ということは総排気量は、111Litreである。 

 567エンジンは1938年ころから作られた60度V型エンジンである。ボアは8インチ半、ストロークは10インチの2サイクル・エンジンである。このころの吸気方式はルーツ式の送風機であったが、後にはターボ・チャージャを付けている。

 現在UPに生き残っている保存機の3台のE9は、オリジナルとは別のエンジンを付けている。保守上の問題で、V16 5671台に換装しているらしい。このエンジンはUPで広く使われているPrime Moverである。


2007年08月15日

FM Erie-built

Fairbanks-Morse Erie-built A+B このFMは珍しく日本製である。MGの時代にKTMが輸出したもので、製造所はInamiである。稲見製作所は現在も営業中であるが、先代の時代の作品である。なかなかシルエットの捉え方がよく、多少短いが鑑賞に堪える。どういう訳か、現在の評価は、さほど高くない。なんと、プラスティック製の機関車と同程度である。タマ数が少ない。A、BともにPoweredであり、とても重い。

 細かさの点ではプラスティック製には敵わないが、手直しして特定番号に改造しようとすると、ブラス製が一番である。しかも台車がこの形のものは、プラスティック製のものには無い。

 ラジエータ部は透けて見えるように作ってあり、興味深い、実物も多少は透けて見えるはずである。

 対向ピストンのディーゼルエンジンは、潜水艦用にも使われたものである。効率がよくコンパクトである。

 FMの初期の何台かは、前面窓が狭い。後期の製品は窓が大きく、曲線を描いている。

 ヘッドライトを増設し、キャブの屋根を低くする必要がある。屋根上のディーテイルを修正すれば良い。
  

2007年08月14日

旅客機関車群

Streamliners’ Diesel Engines  古きよき時代のUPの旅客列車の機関車群である。

 UPには3つの製造所の機関車があった。手前から、Fairbanks-Morse Erie-BuiltEMD E8, Alco PAである。

 それぞれ特徴ある形をしている。このFMは標準的な形のキャブを持っている。UPFMの大部分は天井が低く、ガラス窓が狭いタイプのものである。これもいずれ改造してみようと思っている。FMは水平対向ピストンの2000馬力エンジンを付け、レイモンド・ロウウィのデザインである。

 EMDは一番多く購入された。1輌のA-unitに、2輌から4輌のB-unitをつなぎ、16輌編成の列車を牽いている写真が有名である。

 Alcoは一番輌数が少ないはずだ。A-B-A編成で運用された。すなわち6千馬力であったから、余裕が少なかった。 もともと、PAは貨物用に適するらしく、格下げされたあと、他社の貨物用に売却された。

 筆者の旅客列車は一本しかないのに、機関車だけは3通りある。少々贅沢だが、これも趣味である。

 FMは今のところAB編成しかない。友人のブローカに頼んで、Bをもう1輌探してもらっている。いずれ手に入るだろう。この機関車の台車は少々変わっている。イコライザが台枠をはさんでいる。砂鋳物だがよく出来ている。

2007年07月29日

ゴム型による絞り

round die + rubber mallet プレス工房を見学したことがある。金型だけでやっているのかと思いきや、そうでもないことが分かった。オス型は鋼で作るが、メス型は作らない場合もあるという。

 メス型は、復元力の強いウレタン・ゴムの厚い板そのものであり、焼きなました板をその上に置き、ゆっくりとオス型を押し付ける。すると見事にメス型が変形しオス型に合う形になる。押し付けたオス型を持ち上げればその通りに成形されている。材料がある程度薄く、軟らかいものであれば、この方法は実にうまく機能する。

 それを上下逆にしてみたらどうなるであろうかと考えた。鋼製のオス型を上向きに置き、材料をセットして、ゴム型で押す代わりにゴムハンマで叩く。

 鋼のシャフトに材料をテープで動かないように留め、1ポンド(450g)のゴムハンマで叩いてみた。実に見事にシャフトの丸みが材料に転写された。焼きなまさなくても、完璧に出来る。

 種々の実験で分かったことは材料が0.5mmくらいまでは非常に容易に成形出来る。エッチングや押し出しリヴェット表現があっても、それがゴムハンマでつぶれることはない。もし、強く丸みが付いてしまったときは、より大きな半径の型を使って更に叩くと簡単に戻る。

 屋根のように長いものも、順に端から叩いていけば歪むことなく全面的に曲げることが可能である。平らな板でも全体を屋根の形にすることは容易に出来る。

 丸棒は焼きが入っている必要はなく、極く普通の鉄筋程度の硬さで十分である。 


2007年07月28日

続々 Streamlinerを作る

roof forming dies この図は屋根曲げ用の型である。アメリカではどういうわけかこれが標準的な方法らしい。ブラスのバーを削って作る。

 手順としては、まず屋根板をガス火で赤熱させて冷やし、完全に焼きなます。それをこの型にはさんで少しずつ送る。型の幅(屋根の長手方向の長さ)は1インチ(2.5cm)である。

 全体をある程度曲げてから、センター線をよく見極めてグッと押すと一応の形が出来る。エッチングのリヴェットがあっても、キズが付かない程度に押すだけで出来るわけである。

inside of the roof 写真はその加工後の裏側。波紋状に、押した型の痕が分かる。意外にも、表面にはその模様はほとんど出ていない。

 この方法で曲げてもらったのがあるが、どうも形が気に入らない。曲線ゲージを作ってあわせてみると、似て非なるカーヴであった。修正するのは可能であるが失敗したくない。

 焼きなます方法では、完成したときに屋根が軟らかすぎて、取り扱いに困る。何かが当たっただけでも凹んでしまう。現実に工具を落としただけで凹んだ箇所がある(このような凹みのことを英語でDentという)。

 この型を使う方法では焼きなましてないと曲げることは難しい。というわけで新しい方法を開拓する必要があった。

2007年07月21日

続 Bates機関士

 私はいつかこのBates機関士の代わりを務める日が来るのだろうかと考えた。自分が特急列車の運転が出来るようになるまで無事故で務められるであろうか。

 まさかStreamlinersが消えてしまうなどという事は考えても見なかった。Streamlinersが無くなってしまった今でさえも、Bates機関士の持っていたPrestage(威光)というものは消え去りはしない。

 StreamlinerのFireman(機関助士)の仕事は、30日で終わった。素晴らしい体験であった。

 いつか父がそのStreamlinerを運転できる日が来ると良いと思った。しかし、この素晴らしいディーゼル電気機関車の運転ができるようになるまで、あと7年の勤続が必要であった。

 結局のところ、父はStreamlinerの運転をせずに退職した。生涯、蒸気機関車の運転だけに携った。

 私はガス・タービン電気機関車、ディーゼル電気機関車の運転をしたが、Streamlinerの運転をすることはなかった。消滅してしまったのである。UPはその運転を1971年に取り止めた。航空機路線の拡充により、長距離の特急列車の採算が取れなくなったからである。

その後、旅客列車というものはUPから消えてしまったので、以後貨物列車の運転しかしたことがない。

2007年07月20日

Bates機関士

 その機関士の名前はCharley Batesであった。当時の機関士の中で飛びぬけて優秀な機関士である。まず服装が違う。

 当時、普通の機関士はブルー・ジーンズのオーバーオールを着ていたが、彼は違った。青と白の縞のCoverall(つなぎの上下)を着ていた。しかもそれがきれいに洗濯してあった。そして白いドレスシャツを着て、ネクタイをしていた。

 彼は全ての点で傑出していた。このベイツ氏は1901年に罐焚きとして雇われた。そして1942年当時、既に61歳だった。とても年寄りに見えた。多分18歳のFiremanから見れば、今の私も年寄りに見えるだろうが。その年寄りの機関士が機関車の運転室へとハシゴを登るのを見て驚いた。

 この人は、ユタ州のPromontoryで始めての大陸横断鉄道が完成した当時の事を憶えている人たちが居た頃に、このUPに入ったのだ。1942年当時、41年勤続であり、それはベイツ氏が始めて乗務したとき、完成後32年しか経っていなかったのだから、それより長いのだ。

 1901年の手焚きの小さな機関車の時代から、1930年代後半にStreamlinerを走らせるようになるまで、彼は仕事を続けてきたのだ。この優秀な機関士が時速90マイル(時速144km)で列車を走らせるのを称えざるを得ない。彼には自信が漲り、何か普通の人とは違うものを感じた。

 私はこの機関士と同列に並べられる機関士を2,3人しか知らない。

2007年07月19日

続 City of San Francisco

 私はこの列車のFiremanとして乗務したことがある。それは私の人生の中で特記すべきことであった。運転室に登って中を見たとき、息が止まりそうであった。後に、アメリカ空軍少尉としてBoeing B-17の爆撃手になったときと同じような緊張であった。

 蒸気機関車とは異なり、前方にはボイラがない。運転室から前が見える。大した違いだ。乗り込んだ瞬間、私は何か場違いなところにいると思った。何か犯罪を犯しているように感じたほどだ。

 蒸気機関車であれば罐焚きであるが、ディーゼル電気機関車なので、特に何もすることがない。機関士と並んで座り、前を見ているだけの仕事である。時々機関室を見に行かねばならない。ディーゼル・エンジンと発電機の後ろにはちゃんとボイラがあった。冬の間、列車全体を温めるためのものだ。私は多少安心した。ボイラの無い列車はないことが分かったからだ。

 機関車の運転室の床は油滲み一つ無く、輝いていた。現代の機関車とは大きな違いだ。

 走行は滑らかで快適であった。このような滑らかさは、それまで経験したことが無かった。最高速は90マイルであり、当時としてはとても速いと感じた。

 すばらしい列車だった。また運転してみたいものだと思う。いつかこのような、あるいはもっと素晴らしい列車が、この鉄道を走る日が来ると信じたい。

 

2007年06月05日

Pennsylvania Railroad

Broadway Limited On PRR Mainline ディックがこの写真をくれてからもう20年以上経つ。私は東部の鉄道にはあまり興味がないので、そのまま放置してしまった。

 友人に見せたら、その写真は大変価値があるという。その旨知らせたところ、その前後の写真を合わせて大量の写真をCDにして送ってくれた。名前を出してくれれば転載してよいとのことで、その一部をここに紹介している。

 PRR(ペンシルバニア鉄道)は東部の巨大鉄道会社であった。機関車のみならず貨車、客車まで、自社設計のものが多かった。いかにもPRRですという車両群は見るものを圧倒する。

 PRRのスタンダード(自社の設備、車両などの技術的統一を図るための規格)は旧国鉄に導入されたらしい。明らかにコピーしたと思われる信号機関係の設備がある。
 
 斜陽期に入ってからは蒸気機関車を全て廃棄し、ディーゼル機関車に統一した。そして、商売敵のNYCと合併し、"アメリカ最大の鉄道会社”Penn Centralとなったが、すぐに倒産した。

 その直前、スイスのいくつかの銀行に、そのアメリカ最大の鉄道会社の株を売り込んで倒産したので、スイスの銀行はかなり倒産した。これはスイスの金融史上最悪の詐欺被害ということになっているそうだ。スイスの銀行はアメリカ最大という一言で見事にひっかかったのだ。 

2007年06月02日

続 Bill Wolfer

GG1 by Dick Bregler Bill Wolferは東洋から来た一青年を大切に扱ってくれた。遊びに行けばあちこちを案内してくれたり、自分の持っているノウハウを公開してくれた。

 押して動くウォームギヤの開発に際しては、彼の二条ウォーム・ギヤの動きも参考になった。完成したギヤを装備した機関車を見せると、ずいぶん感心して、「素晴らしい。次はディーゼルだな。」と言った。

 蒸気機関車の動輪は大きく、逆駆動が容易だ。ディーゼル、電気機関車では動輪が小さいので難しい。しかし、動輪の数が多いのでその分容易である。

 彼の自宅近くのディズニー・ランド・ホテルのロビーで、そのあたりの議論をした。彼が引っ越したばかりで、家を訪ね当てるのが難しかろうと、そのホテルを指定したのである。観光客が沢山居るホテルのロビーで、機関車を並べて議論している様子は、今思い出しても奇妙な光景だ。

 その後、押して動くディーゼル電気機関車用ギヤボックスは完成し、それを持って出かけたコンヴェンションでは、自分のブースに私を引き込んで、自分のことのように皆に紹介してくれた。確か1988年のことである。

 「東洋のマジック」と称して、押して動くこと、押すと発電してもう一輌が動くこと、単三電池一本でも起動することを紹介してくれた。

 それもあって、そのギヤはアメリカの顧客にある程度売れていった。



2007年06月01日

Bill Wolfer

Bill Wolfer's display 珍しく人相の良い写真があった。会うたびに、ペンシルバニア鉄道の素晴らしさを語り、自分たちの作っている模型がいかに正しい資料に基づいて作られているかを力説した。東部からカリフォルニアに移住したので、その気候の良さも彼の精神的内面に大きく影響しただろう。

 ロングビーチに停泊しているクイーン・メアリの中のレストランでよく食事を御馳走になった。映画に出てくる刑事そのままの、早口でスラングが沢山入った英語をまくし立てる。

 先の見える人であった。今後の模型界はどうなるかを展望した。今思えばほとんど当たっている。「韓国製模型が台頭して、日本製は生き残れない。そのあとは中国だ。そしてインドが出てくるだろう。」と言っていた。「ロシアは駄目だ。あの国には余裕がない。趣味というものがない。」などとも言っていた。

Wolfer GG1 GG1をこよなく愛し、沢山のGG1を作った。当初はアメリカ製のアルミニウム鋳物のボディシェルを採用していたが、日本のKMTの社長とニューヨークで会い、ブラス板金製のGG1のボディ・シェルを輸入することができた。その下回りは彼の特製であり、二条ウォームとチェーン・ドライヴ"Wolfer Drive"で良く走った。このGG1は今でもWolfer's GG1としてコレクターの間で人気がある。

2007年05月30日

Dick Bregler

Robert Bregler Dickは、有能なカスタムビルダであった。この写真は知り合った頃の写真で、シアトル近辺で撮ったものらしい。彼は、岩国ベースの海兵隊に居た。その頃の話は良く聞いた。山陽線のC62,C59が好きだったようだ。

その頃の彼の友人のRonは、日本の機関車が大好きで、Ronにビデオをたくさん買って送って差し上げたことがあった。彼ははD52が好きだったと言う。D51は力のない機関車であったと言っていた。戦後の燃料事情の良くない頃であったので、火室の狭いD51では牽き切れないこともあったのだろう。

 さて、DickはNASAの職人を辞めてからカスタムビルダとして身を立てた。Bill Wolfer、Bob Janzenと組んで注文を受けていた。

Bill Wolfer Bill Wolferは元フィラデルフィア警察の殺人課の刑事で、人を見る眼が鋭い人であった。刑事をやっていると、人生の中のいやな部分ばっかり見て来たから、早く退職して好きな趣味で身を立てることにしたのだそうだ。Billとは70年代に会っている。当時は、フィラデルフィアに住んでいて、電話で会う日を予約することになっていた。刑事の仕事をしていたので、非番の日にしか客には会わないわけだ。

NYC Diner 「ロスアンジェルスに引っ越したからまた会おう」という手紙が来たので。訪ねてみた。確か80年くらいのことだ。そのとき、Dickと引き会わせてくれた。Dickは、組みかけの客車をたくさん見せてくれた。そのうちの一編成が関西にある。


2007年05月20日

Dome Car, Pullman Car 

Kemtron Dome Car ドームの屋根は、室内側に板を張り重ねて厚みをつけた。こうすると実感味が増す。床板がないので台車に乗らないから、仮の支えで写真を撮った。この写真の左手が前進方向である。ドームの後ろには排気管があり、エアコン駆動エンジンの排気が吹き出す。この写真では向こう側の屋根にある。

 床下機器は写真を見て適当に作るつもりだ。走行性能重視で、ディーテイルにはあまりこだわりたくない。 

Pullman 11 Bedroom Car この車両は11-BedroomのPullmanである。

 このプルマン寝台車は、片側が通路になっているので、左右で窓配置が全く異なる。本物には一度しか乗ったことがない。懐かしい思い出である。窓ガラスが緑色でとても静かであった。

 連結器はケイディを使わないつもりだ。ほとんど固定編成であり、レイアウトにのせたら、外すことがないだろうと思われるからである。専用の留置線も作ってある。客車が出発時に連結器遊間のガチャガチャ音をさせるのは、気に喰わない。

 City of Los Angelesの発音だが、年配の人はロス・アンジェリースという人が多い。思い切ってそのように発音したら、にっと笑って「地元の人はそう言うんだ。」と教えてくれた。つづりを考えると英語の"Angel"ではない。スペイン語を英語風に発音するわけである。


2007年05月19日

続々 Kemtronの客車キット

UPの絵葉書より Observation Car City of Los Angelesという列車はUPの看板列車であった。シカゴ−ロスアンジェルス間を2日半で走る。1930年代から特別な機関車で運行されていた。最初は蒸気タービン電気機関車、次はディーゼル電気機関車、軽量なディーゼル電気列車、1956年の豪華なドーム付き列車などなど、興味は尽きない。

 この写真は1956年撮影らしい。UPの絵葉書の写真だ。最後尾の文字はネオンサインである。もう少し良いデザインもあったのではないかと思われる最後尾である。この時期の他社のデザインに比べておとなし過ぎる。

 このドーム・オブザヴェイションもキットに含まれているが、「お好きなように作ってください」と買った人にお任せである。

UP Dome cars 3台のうち、一番後ろがObservationである。妻板は一枚しか入っていなかった。寸法は割り出してあるのですぐ作れる。問題は屋根の最後尾の丸みである。友人の勧めの通り、大きなブラスのブロックを削り出して作っている最中である。

 ドームの部分は一階が低くなっているので側板を下に延長する。やや丸みをつけなければならない。ブラスの地肌のままなのでみすぼらしいが、塗れば立派になる。

2007年03月26日

Green River

Green River Station Green Riverは、Rawlinsの次の補給地である。ここにはコロラド川の支流が流れ、良い水が豊富にあった。

 Tom Harveyの母、Ohmaはこの駅のBeanery Queenとして働き始めた。

 この機関区は、Big Boyを転向させる巨大なターンテーブルを持っていた。いろいろな角度でその写真が紹介されているが、その後ろには巨大な岩が写っているものが大半だ。

 その岩はこの駅の北側にある。駅の正面が昔の国道US30でその道をはさんでこの巨大な岩がある。

Castle Rock この岩はCastle Rockと言う。あまりにも近い。直線距離で600mくらいだろうか。そのふもとには住宅もある。

 UP沿線を紹介する昔の絵葉書などにはこの岩と駅を写したものが多い。30年前にはこの地域には高速道路がなかった。大陸横断のトラックなどは全てこの岩の前を通った。市内は時速25マイル(40キロ)でのろのろと走らねばならなかった。

View from Green River Station この写真は、筆者が1978年に駅から撮ったものである。自動車の形からも時代が分かる。

その後高速道路ができた。それは、なんとこの岩の中をくりぬいて作られた。中心をわずかに外しているので、町の中からはそれは見えない。地形を考えるとそこしかないのだが、ずいぶん思い切ったことをしたものだ。

Green River Stationの歩道橋 この駅の裏手にはUPの職員が沢山住んでいたので、このような跨線橋(歩道)が作られた。これは1930年頃に作られたものらしい。







 


2007年03月20日

Laramie駅

Laramie Station Laramieはそれほど大きい町ではなく、乗降客も少なかったと思われる。ただ、機関車にとっては給炭、給水、乗務員の交代、保線の拠点として重要な位置にあった。したがって、駅自体はそれ程大きくはないが、ヤードはかなり広い。駅の裏手には、鉄道職員のために建てられたと思しき、こじんまりとした住宅がたくさん並んでいる。

 ララミー駅は木造の梁を室内に露出させた山小屋風の駅である。いや、山岳地にあるリゾートホテル風であろうか。旅客待合室は広くなく、駅の事務室が1/3くらいを占める。

1/12 チャレンジャ 興味を引いたのは、地元の人が作ったと思われる1/12くらいのチャレンジャのレプリカがガラスの箱のなかに入れてあったことだ。あまり正確にできているわけではなかったが、その大きさが迫力を持っていた。



ガラス製碍子 それとそのガラスケースには、鉄道開通時に使われていたと思しき、青いガラス製の碍子が展示してあった。横にはモールス電信器もあった。

 Tom Harveyの父親の時代には全てがこの電信によって伝達されていた。機関車には電信器が積まれ、非常時には電信柱に登り電線にクリップでつないで交信したらしい。

電信器 電線には情報が行き交っているので、接続してしばらくは様子を見て、途切れた瞬間に割り込むのだ。「きょうは空いている」と思うと、それは電信線が切れているのだという。当時は必要なときには電信線が切れていることが多かったらしい。

2007年01月29日

City of Los Angeles

City of Los Angeles form Richard Kurtz Collection 40年前、"City of Los Angeles"という列車があった。COLAと略されたが、飲み物ではない。シカゴからロサンジェルスに行く列車だ。すばらしい列車だった。ディーゼル電気機関車が3両で引く12両編成の列車だ。3日間走り続けた。夢のようなすばらしい設備を持っていた。食堂車、展望車そしてバーもあったし、ピアノもあった。

 その後、鉄道はもっとすばらしくなるはずであった。それがそうはならなかった。速度は低下し、サービスはひどくなった。40年前、旅客列車は時速90マイル(144キロ)で走っていた。Amtrakは時速79マイル(124キロ)しか出せないことになってしまった。
これが最高速度とは信じられようか。もっと速く走れる。フランスやドイツ、日本にはすばらしい高速列車がある。この国は月に人間を送ったではないか。できないはずはないのに。

蒸気機関車の時代の方がもっと速かった。以前も書いたが、下り坂で徐々に加速し、平坦線になった途端にフル・スロットルにし、さらに加速する。こうすれば125マイルは訳なく出せる。それ以上出せる機関車は限られている。Mighty 800の中でも822、835、837、844くらいのものだ。中でも130マイルが出るのは822と837だけだった。この2台は特別の機関車だ。
 
 現代の鉄道の話に戻ろう。何が旅客列車を衰退させたか。バスではない。それは自動車だ。自家用車を持つことは、アメリカン・ドリームの一つの具体例である。アメリカ人は誰でも車を買え、それに乗ってどこにでも行ける。ガソリンの価格は安い。事実上、タダのようなものだ。安すぎる。そのうちに2倍くらいになるだろうが、それでも安い。

 町は広がり、あまりにも人口密度が小さい。この国には公共交通機関というものがない。もう遅すぎる。時計の針は戻らない。

この手記は、1987年に書かれた。当時のガソリンの価格は、1ガロン(3.8L)当たり、40セントくらいであったと、筆者は記憶している

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