Tom Harvey

2018年10月04日

機関士

Engeer Takashi Fukui 福井機関士の話を聞いて気が付いたのは、機関士は判断力が全てだということである。Big Boyの機関士Tom Harveyも同じことを言っている。

「蒸気機関車の時代は、すべてを機関士が判断した。ところが、ディーゼルの時代になると、dispatcher(列車指令)がすべてを握っている。機関士は名前だけで、単なるスイッチを入れたり切ったりする仕事に成り下がった。無線電話というものがすべてを破壊した。どうしてこの経験ある優秀な機関士が、生意気なディスパッチャの指示を聞かなければならないのだ。そんな指示よりもっとうまい手があると言っても、いうことを聞かない。」
 Tom は、よくブチ切れていた。
 
 伊勢湾台風の時は停電し、鉄道電話も不通だった。現場の判断しかないのだ。今のJRの機関士に同じことができるだろうか。もちろん停電したらすべてアウトだが、機関車は動くとしても難しかろう。ちょっとした事故の時に後ろから見ていたが、Tomの言う通りで、列車指令の言うとおりにせねばならない。あの程度の仕事で良いなら筆者でも務まる。

 しばらく前に、八田駅と蟹江駅の中間に新設された春田駅の構内で、すれ違うはずの貨物列車が線路有効長より10mほど長く、対向列車が構内に進入できないという間抜けな事故があった。手動なら簡単に解決するが、CTCで遠隔操作しているので、解決法がない。残念なことに半日も不通であった。
 どうやって解決したのか知らないが、CTCは全能ではないことを思い知ったに違いない。プログラムが更新されたかどうかは知らない。

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2011年09月12日

Denverの空港

 話は前後するが空港について書こう。
 デンヴァの空港に行ったのは26年ぶりである。祖父江氏を案内して出掛け、UPの機関士Tom Harvey に迎えに来てもらったのだ。その時の空港はStapleton空港であった。比較的小さな空港で、迷うことなく会えた。それ以来、車で通ったりしているのだが、空港には行ったことがなかった。郊外の農地の中に引っ越し、遠くなったがとても広い空港になった。ダウンタウンから45分も掛かる。移転前の空港は取り壊されて住宅地になった。

 この空港は標高が高いので、飛行機の離着陸の角度が小さい。また滑走路がとても長い。空気の密度が小さく、揚力が小さいからだ。特に夏は気温が上昇するので空気の密度はますます下がる。
 旅客ターミナルのいたるところに酸素ボンベが置いてある。高山病で倒れる人がいるからだ。標高が高いと言っても1600 mほどである。荷物を受け取るBaggage Claimにはスキー専用の長いものを縦に入れて回転するキャラセル(ベルトコンベア)がある。
 
2215 相変わらずTSA(運輸保安局)の検査は厳しく、筆者のように金属製品を多量に持っているとスーツケースは開けられる。検査に便利なように、全ての細かい部品をポリ袋に入れて外から見えるようにしてあるのにナイフで一つずつ底を切ってぶち撒ける。スーツケースの中には衣類にまぎれて細かい部品が散乱している。困ったものである。苦情を書いたが、紋切り型の返事しかよこさない。
 身体検査は厳重を極める。ポケットの中のものは全て出させ、ベルトを外し、靴も脱いでボディスキャンをする。六角形の大きな電話ボックスのような機械がそれである。試しに胸ポケットにデンタルフロス(歯の隙間の清掃をする糸)を入れておいたら、見事に検出され、「胸ポケットに何か隠している。」とスピーカが怒鳴った。出すと「なーんだ。」というわけだ。あんなに軽いプラスティックの箱まで検出するのだから、大した性能ではある。

 この「なーんだ」というのは勝手な訳で、現場では”No wonder”(どうってことない)と言ったのだ。この言葉は筆者には昔から「なーんだ」に聞こえる。意味も似ていて、日本語と英語が同じ音に聞こえる珍しい例である。

 機関車は機内持ち込みの小さいバッグに入れ検査を通す。ダラス・フォートワース空港では暇な時間帯だったせいか、「おい機関車だぜ、見てみろよ。」と職員が寄ってたかって見ている。縦横から透視して遊んでいるのだ。アメリカから引っ越して来るとき、同じようにみんなで見て、ちっとも通してくれず、家族で飛行機に乗り遅れたことを思い出す。あの時は家族全員の機内持ち込みバッグに機関車を一台ずつ入れたのである。時間がかかるわけだ。

 この空港のトイレは妙な構造である。入口がつぶれたS字になっていて、急いで入ろうと思っても時間がかかる。Tornade(竜巻)に襲われた時に逃げ込むシェルターの役割を果たしているからだ。と言うのは天井は合成繊維のフィルムで剛性がない。竜巻が来たときには破れるかもしれないということを予測しているのだろう。鉄筋コンクリートの建物でないと竜巻の被害は防げないのだ。もちろん、トイレはとても頑丈に作ってある。 

2007年07月25日

続々々 UPHILL DOWNHILL

 下りの速度は、機関士が一人で決める。罐焚きが「速すぎる」とか「遅すぎる」と言ったためしはない。

 Creston峠からの「高飛び込み」について、もう少し書いておきたい。ブレーキ弁には一切手を触れず、ただ重力に任せて下っていく。Cherokeeという場所にカーヴがある。そこで転覆するのではないかと考えるだろう。

 どの機関士もここでは同じようにぶっ飛ばす。でも誰も脱線したものはいない。旅客列車は120マイル(192km/時)以上出る。

 下りの運転は機関士にとっても罐焚きにとっても楽しい。しかし機関士の方がもっと楽しいはずだ。速度を決めているのは機関士だからだ。当然なことに現場の指揮者は機関士だ。

 機関士になるには長い経験が要る。もしあなたが"Right Stuff"(機関士になるための資質)を持っているなら、その一瞬一瞬をちゃんと見ておくが良い。勝つか負けるか。ゾクゾクするだろう。経験の無いものには話しても分からない。

 あえぎながら峠を越えるのは、エヴェレスト山に登るようなものだ。多分、ヒラリー卿は登頂の瞬間に「やったぜ!」と叫んだに違いない。俺たちもそうする。

 機関士が下りでつぶやく言葉は特にない。Creston からRawlinsに向かって滑り降りる時の表情を見よ。彼らは特別に楽しそうな顔をしているはずだ。 


 筆者註 "Right Stuff"という言葉は映画の題名にもなった。宇宙飛行士になるための資質という意味であった。ここでも、機関士になるのは難しいという意味で使っている。

2007年07月24日

続々 UPHILL DOWNHILL

 煙の逆流だけは勘弁して欲しい。機関士がスロットルに左手を掛けて戻す瞬間にブロワが効いていなければならない。それからもう一つ、右のインジェクタをONにする。こうしないと安全弁が吹く。インジェクタは蒸気を消費し、冷たい水を温めながら入れる。すなわち圧力が下がり、水位が上がる。

 安全弁は左の2つが吹く。安全弁が開くのは別に構わないのだが、乗務員はそれを吹かさないように訓練されていた。罐焚きはストーカを止め、椅子に深く腰掛けて機関車の様子を見る。機関士はその様子を眺める。自分の習った通り、訓練通りの動作をしているかを見るのだ。

 下り坂では頭を使う必要はない。眼を働かせるのだ。次の閉塞区間の信号を見落としてはならない。夜間なら、赤い発炎筒がないかも見なければならない。

 機関士はいつも前を見ていられるわけではないのだ。煙と湯気が右に来れば、機関士の席からは全く見えなくなる。次の信号機が左カーヴにあれば、罐焚きのほうが早く見られる。

 黄色信号を見つければ、それを知らせる。しかし、どこで止めるか、どうやって止めるかは全て機関士の判断だ。制動弁に手を置いているのは機関士である。列車を止める手順を一人で考えねばならない。

 

2007年07月23日

続 UPHILL DOWNHILL

 考えていることは違う。罐焚きの頭の中は、圧力、水位、火床のことで一杯である。ストーカがが調子よく動くか、潤滑油送出機の目盛りにも注意を払わねばならない。そうなのだ。この自動注油機の監視も罐焚きの仕事のうちだ。それを怠れば、ストーカも空気圧縮機も直ちに止まってしまう。

 登り坂でストーカが30秒止まったら、それは大変なことだ。夜間であるとなおさらだ。原因がどこにあるか突き止めねばならない。

 夜間の運転では、時々煙突から飛んでいく火の粉の様子を見る。ストーカが止まればすぐ分かる。昼間の運転では、煙の様子をよほど注意していなければ、ストーカの停止には気が付きにくい。同乗の制動手と無駄口をきいていると分からない。

 機関士の頭の中は別のことで一杯だ。時間のこと、制限速度、退避のことを考えている。後ろから迫ってくる優等列車を、どこで退避するか。Rawlinsまで行けるか、手前で退避するか。

 谷の底でも峠の上でも、頭の中ではそのことが巡っている。時計を見て考える。あの坂を登るのに何分掛かったから、次の坂を何分で登れるかということを考える。

 下り坂では罐焚きは遊んでいる。機関士の腕だけである。峠ではスロットルを閉める。罐焚きはしばらく遊んでいられる。煙突の下にあるブロワ(煙を外に放り出すための噴出口)を開ける。排気がなくなるから、この操作をしないと火室の中の煙が吸い出されないのだ。これを忘れると運転室の中は煙でいぶされることになる。



 

 



2007年07月22日

UPHILL DOWNHILL

The Seventh District 前にも書いたように、機関士と罐焚きのチームワークは大切だ、特に登り坂ではその一体感がなければ仕事が出来ない。

 その前に、機関車の調子が良いこと、列車もそれほど重くないとしよう。機関士は余裕がある。椅子に深く掛け、パイプをふかしながら景色を眺め、帰ったら行く予定の釣のことを考えている。

 もちろん、罐焚きが何をしているかは見ていなければならない。逆転機を多少前に倒して、蒸気の消費量を増やしてやると機関車をより多く働かせることになる。罐焚きがそれについて来られるかだ。

 登り坂では少し前に倒す。坂が緩くなると少し戻す。Crestonの手前のLathamというところがそれだ。

 Crestonは大陸分水嶺である。その西に降った雨水は太平洋に行く。東の雨は大西洋と言いたいところだがそうでもない。行き先はない。このあたりは盆地で、本来ならば湖があるはずなのだが、雨が降らないので砂漠である。要するに、Hadsellにももう一つの大陸分水嶺があり、Crestonとの間はやや低いというだけの事だ。

 機関車の調子が良く、列車が重くなければ、逆転機に手を触れることもない。スリップするようなら砂を撒く。踏み切りの前では汽笛を鳴らす。夜間の運転で、すれ違う列車の方にヘッドライトが向くようなら、減光スウィッチを切り替える。単調な仕事である。


2007年07月18日

City of San Francisco

 City of San Francisco という特別な列車があった。私の子供のころから走っている大陸横断特急だ。機関車も客車も全て特別に素晴らしい列車であった。

 Union Pacificは、当時3つのStreamliners(流線型特急列車)を走らせていた。それらは、City of Los Angels, City of San Francisco および City of Portland であった。これらの列車は大恐慌の初期にRawlinsを走り始めた。私の記憶が正しければそれは1934年だ。

 これらの列車は会社にとって、その暗い時代では大きな賭けであった。誰もがその超近代的で静かな列車に乗ってみたいとは心の中で思ったに違いない。しかしそれはほとんどの人には叶わなかった。私も乗ったことは無かったし、知り合いにも乗った経験がある人は居なかった。今で言えば超音速のConcordに乗りたいと思うようなものだろう。現代でもConcordなど見たことのある人は少ない。しかしそのうち乗ってみたいと思う。夢はなかなか叶わないものであることは知っている。

 UPの職員の家族は普通の旅客列車なら無料で利用できた。しかしこの列車に限っては、半額を払わなければ乗ることは出来なかった。車内は豪華なホテルの様であり、たくさんの乗務員が乗っていた。

 この列車は大金持ちのための列車であると思った。

 最初にこの機関車に乗り込んだときのことを覚えている。それは1942年の春だった。私は当時18で、それからもう40年もこの鉄道で働いている。(この手記の執筆は1982年)。

2007年07月17日

西向き列車

Big Boy 4006 西向き列車は罐焚きにとって楽な乗務だ。小さい峠を3回越えると740マイル地点のTipton峠だ。そのあとBitter Creekまでは下る一方で、そこで石炭と水を足し、Green Riverに到着する。

 RawlinsよりGreen Riverの方が標高が低いのだから、楽なのは当たり前だ。スロットルは半分までしか開かないし、ボイラがHotでなくても運転できる。ここの運転は楽だった。

 Big Boyは、調子の良い機関車であったが、冬の運転には難しいことがある。関節式であり、蒸気管が可動式である。その関節部分からはかなりの蒸気漏れがありうる。工場から出てきたばかりはよいのだが、しばらくすると、磨り減って蒸気が漏れる。

 発車時は圧力が高いので、凄まじい蒸気漏れが発生する。視界ゼロの霧の中を発進するわけだ。しかし、ある程度走れば、蒸気は吹き飛んでしまう。

 白い霧の中をBig Boyが頭だけ出して発進する姿は、今となってはとても懐かしい。

 Big Boyは動輪が大きいので、貨物用としては素晴らしくスピードの出る機関車であった。80マイルくらい訳はない。100マイルを出したこともある。Challengerはもっと速い。110マイルは出る。高速で走ると、煙と蒸気がボイラの周りにまつわりつく。信号機が見えない。

 そういうときにはスロットルを一瞬開いて、排気で煙を吹き飛ばす。そのとき、あまり開くと、列車に響く。連結器に衝撃を与えないように最小限で行うのがコツだ。

2007年07月16日

続 Fireman の能力

 私はかなり若くして機関士になった。30歳のときだ。ほとんどの罐焚きは私よりも年上であった時期が続いた。それは戦争中に雇われた連中だった。この罐焚き連中は機関車の理屈を理解しているようには見えなかったし、どうやって焚くかということも分かっていないようだった。

 夜中にCreston峠を旅客列車を牽いて登っているときのことである。力が出ない。圧力計を見ると、50ポンドほど圧力が足らない。300ポンドの圧力が必要なのだ。煙突から出る火の粉を見ていると、この罐焚きの石炭のくべ方は全く足らないことが分かった。だから、「もっと焚け。」と合図を送った。

 彼は何もしない。圧力はどんどん下がった。私は立ち上がって焚口戸を開け、中を見た。 思ったとおりだ。こんなことはしたくなかったが、罐焚きの前にあるストーカの駆動ヴァルヴを全開にした。煙突から煙が出はじめた。そして、彼の側のインジェクタを止めて罐がHotになるまで待った。

 たちまち罐がHotになり、Gun(インジェクタのこと)をOnにした。この大馬鹿者は、火力が弱いと言っているのにそれが分からなかったのだ。同乗の制動手の前で赤恥をかいたのだ。

 このようなわけで、私はしばらくこの戦争の遺物と戦うことになった。勝ったり負けたりであったが、負けの場合も私はするべきことをしてなんとか切り抜けた。

 優秀な罐焚きもいた。駄目なのよりは多かった。大体予想通りの仕事をしてくれたが、もうちょっと頑張って欲しかった。

2007年07月15日

Fireman の能力

Rock Springs Rock Springsは罐焚きにとっては大切な場所だ。ここで態勢を立て直せなければ破滅に向かうことになる。駅の外れにYard Limitという札がある。ここから駅の構内である。

 機関士が駅のかなり手前でスロットルを閉じて惰力で走れば、水面計はまだ半分くらいを指している。大抵の機関士はスロットルを最大限に開き、勢いよく走ってきて駅の手前でエア・ブレーキを効かせて無理やり止める。このような走らせ方をすると罐焚きはかわいそうだ。火床を整える暇がない。ヤードリミットの手前でスロットルを閉じてやるべきだ。

 ロックスプリングズでしくじると、そのあと何をしても手遅れだ。この先ずっとBitter Creekまで登り坂なのだから、火床を直す暇がない。どんどんくべるが、火床が持たない。次の駅までてんてこ舞いをするのだが、出力は低下してくる。

 Cab(運転室)の中には見えない線が引いてある。機関士はその線を越えて行かないし、「こう燃やせ、ああしろ。」とは言わない。機関車の中では、その種の話は全く出ない。するべきことは決まっている。

 罐焚きの側から見れば、自分がどれくらい焚けるかということは機関士には見透かされている。父はそれをよく教えてくれた。しかし私が機関士になっても、自分と組んだ罐焚きの腕は分からないこともあった。ほとんどの場合、罐焚きは何も分かってない。また、自分が分かっていないことすら、わかっていない場合が多かった。そういう連中が多かった。

2007年07月14日

続 出発時の注意

 罐焚きに水面を高く保てと指示を出すと機関車を最大限に働かせることは出来ない。中の水が泡立ち、シリンダーの中に入る可能性があるからである。そういうときはすぐにインジェクタを停め、石炭の供給量をやや少なくする。そしてストーカのジェットを調整し、石炭が均一に撒かれていることを確認する。火室扉を閉めると、火室温度は見る見る上がる。インジェクタは止まっているので水面はすぐ下がる。

 この状態が最高である。水面は低く、石炭は均一に、インジェクタは水面を見ながら動かすのだ。この状態を"Red-Hot"と言う。罐焚きは「もう2インチ(5cm)水を足させてくれ」と言うだろう。それでは戦いに勝てない。我慢させるのだ。

 すぐ我々のチームワークは報われる。よし、今だ。インジェクタを働かせて、注水すると同時に、スロットルをやや開く。罐焚きは石炭の供給量を増す。機関士はまたスロットルを開き、罐焚きは石炭をより沢山くべる。あとは水面計を見ていればよい。

 これを機関車の能力の限界まで行う。そしてその状態を維持できれば最高だ。この戦いは我々の勝ちだ。罐焚きは煙突から吹き出る煙の色を見る。どんな色が最高に調子のいい状態を作り出せるかを憶えるのだ。ストーカのスティーム・ジェットを調節し、どうすればその色が出せるのかを頭に叩き込む。

 こうしているうちにKandaの坂を越える。峠の頂上では水面計は下から1インチまで下がっている。それでよい。あとはRock Spring までほとんど平坦である。 

 

2007年07月13日

出発時の注意

 機関士が列車を出発させるとき、逆転機を前進側に最大限傾ける。すると蒸気の消費量は最大となり、牽引力が最大となる。当然、排気量が増え、通風が凄まじく良くなる。火床を通過する空気量が増えるから、石炭が持ち上がろうとする。石炭は厚く撒いておかなければならない。しかしあまり長くこの状態を続けると、罐焚きが火床を維持することが出来ない。

 出発直後は、まだボイラーが完全には熱くなっていない。石炭もまだ完全に燃えている状態ではない。これを"Green Coal”と言う。(このGreenという語は、若葉という意味に近い。訳者註)、火室、レンガアーチ、クラウン・シートいずれもまだ十分には熱くなっていない。出発直後のレンガアーチはまだ淡い黄色をしている。2,3マイルも走ると耐熱レンガは灼熱する。融ける寸前の色だ。 

 このレンガアーチが十分に熱くならないと十分な蒸気を発生させることができない。それには多少時間が掛かるのだ。鍛冶屋が鉄を焼く温度よりもっと熱くなるまで待つ。

 機関士はスロットルを大きく開く必要はない。逆転機が前進最大になっているときスロットルが全開であると、機関車は動けなくなる。火床が吹飛ぶからだ。罐焚きの事を考えれば、スロットル開度は2/3までだ。それでも、あまり長くそれを続けてはいけない。逆転機を中立の方に少しずつ戻すのだ。圧力計が300ポンド(約21気圧)を指し続けていなければ、どうやったってどこへも行けはしないのだ。他機種ではこの数字は多少低い。

2007年07月12日

続々 東行き貨物列車の運転

 10分前の退避はなかなか難しい。機関士の判断ミスで旅客列車を遅らせることはありうる。もし機関士がオーヴァーランしたら、本線を塞がないように機関車を下げなければならない。その間に旅客列車が後ろにくっついてしまう。そのような失敗をした機関士は、今度は手前で止めようとする。すると最後尾のカブースは本線上に残ってしまう。

 狙ったところにぴたりと停めるのは名人芸である。そうすると旅客列車は定刻どおりにやってきて、機関士と罐焚きは「いい仕事をした」と思うのだ。

 話を最初に戻そう。Green RiverからKandaの坂で罐焚きが失敗すると、あとは泥沼である。全てが失敗である。時間通りにはRawlinsには到着できない。途中の側線で何本かの列車を見送る羽目になる。だから、最初の坂が勝負なのである。

 前にも書いたと思うが、機関士と罐焚きは、意思の疎通が一番大切なのだ。最初の数マイルで勝たなければならない。他のどの職場でさえも、機関士と罐焚きほど息が合っていないとできない仕事はない。それぞれが、なさねばならない仕事を持ち、そのベストを尽くす。そして、互いに相手の仕事の内容を知り尽くして助けあう。運転室の両側に座っているのだけれども、相手の挙動を見てその仕事を理解する。

 もし、線路脇に立っていて機関車が通過して行くのを見ていれば、機関士が一人で運転していて、罐焚きはただ黙って石炭を放り込んでいるだけに見えるだろう。運転室の中では、機関士と罐焚きは本当の意味のチームであるが、それは外からは見えにくい。

 運転室の中に立って、我々の仕事を見よ。機関士はスロットルを開ける瞬間にも罐焚きがそれに追いついて来られるかを観察している。もし、スロットルを大きく開けたままにすると、火床が持ち上がる。燃えている石炭が全部吹き飛んでしまう。あるいは、逆転機を一番前に倒したときも一緒だ。排気が強く通風が良過ぎて火床が無くなる。

2007年07月11日

続 東行き貨物列車の運転

 私はここで逆転機を中立に近く戻す。2ノッチほど前進側にあるだけである。このままTiptonから下っていく。速度は60マイル(時速96Km)くらいのものだ。
 
 Wamsutterまでは下りで、そこからこの線区最大の難所であるCreston峠を越えねばならない。12マイル(約20km)の急坂だ。どんどん焚き続けるのだ。水面を低めに保つのだぞ。

 ビッグボーイのボイラは大したもので、必要な蒸気を十分に発生してくれる。水面が高いと反応が遅くなるので水面を低めに保っていればうまく行くのだ。

 ようやく峠を越えた。もう一つ峠があるが、ここは惰力で乗り切ろう。Creston峠からの高飛込みである。速度はどんどん増し、70マイルを越える。ここでブレーキを掛けるようではいけない。後ろを振り返って、Hot Boxがないことを確かめる。

 そのまま次の登りに差し掛かる。この登りは楽である。罐焚きの仕事はこれで終わりだ。ご苦労さん。

 私はまだ仕事が終わらない。所定の位置に停めねばならない。長い貨物列車を後続列車の邪魔をしないように側線に入れねばならない。カブースが本線に残っていてはいけない。前を見て、後ろも見るのだ。そしてカブースに乗っている制動手がポイントを切り替え、本線を開通させる。

 これをローリンズに進入してくる旅客列車が到着する10分前に完了させねばならない。本線の信号がGreenになるのを確認するまでは仕事は終わらないのだ。

2007年07月10日

東行き貨物列車の運転

 機関士と罐焚きの気持ちが一つにならないと機関車は走らない。登り坂で石炭のくべ方を間違えれば、大失敗だ。レイルの1インチごとに彼らの努力の跡が刻まれる。

 さて、今あなたは1946年に罐焚きとしてUPで働いている。私の罐焚きを務めるのだ。グリーン・リヴァからローリンズに向けて長い貨物列車を牽いている。機関車はBig Boyである。列車は重く、ローリンズで後ろから来る旅客列車を通すために退避する予定である。うまく走らなければ、途中で退避しなければならない。また、そうすると"Hot-Shot"(長距離を無解結で走る急行貨物列車)を何本か見送らねばならないことになる。何とかして調子よくローリンズまで走りたい。しかも、真夜中の乗務である。疲れていて、帰って早く寝たい。そのためにも頑張ってもらいたいものだ。

 グリ-ン・リヴァの側線から本線に出る。機関士はスロットルを開ける。ここから6マイルは登りだ。あなたは最初の上り坂での戦いを始めるのだ。火床の調子が良く、水が水面計に一杯であリ、さらに石炭が良ければ最初の坂は楽勝だ。インジェクタを止めて置け。蒸気の上がりもすこぶる良い。Kandaを通過して、Bitter Creekまでの緩い登り坂だ。今のうちにボイラーの調子を最高まで持っていかねばならない。

 東向きの貨物列車は全てBitter Creekで停車し、石炭と水を入れる。ここからは、急な登りとなる。これからの16マイルは煙突が破れるくらいの運転をすることになる。

 さほど心配することはない。もう火床は十分に厚く、機関士がスロットルを開けても火床が全部吹っ飛ぶという事はない。どんどん石炭をくべればよい。蒸発によって水面が下がり始める。水面計を見るのだ。下から2インチのところまで下げなければならない。こうすると火力の調節によってボイラの温度がすぐに制御できる。

2007年07月09日

山岳路線の運転

The Seventh District Rawlinsから西に向かい、Green Riverに達する132マイルの線区(第7線区)の運転方法を書きたい。途中にはいくつかの峠がある。



 東向列車について書こう。

1. Green Riverを出てKandaまで6マイルの上り坂
2. Bitter Creekまで緩い登りが53マイル続く
3. Tiptonまで16マイルの急な登り坂16マイル
4. Wamsutterまで16マイルの下り
5. Crestonまで12マイルの急な登り坂
6. Daleys Ranchまで16マイルの下り
7. Hadsellまで6マイルの登り坂
8. あとはRawlinsまで5マイルの下り

という訳である。   

 この坂道を貨車80輌を牽いて行くのだ。  

2007年07月08日

続 Block Signal

 どの信号を見落としたかが判っていれば、危険が差し迫っているという訳ではない。見落とした信号を黄色信号と看做せばよいのだ。機関士は全ての信号機の位置を正確に記憶しているからだ。

 減速し、次の信号機が見えるまで徐行すればよいだけのことである。つまり、一つは見落としても大丈夫であるが、二つ続けて見落とすとそれは致命的である。

 高速で走る旅客機関車は、煙が邪魔でこのような見落としがよく起こった。だからMighty800や一部のChallengerにはウィングが付けられた。これは、日本を占領した軍人からの情報で付け始めたという説があるが、真偽のほどは分からない。ドイツからかも知れない。彼の地ではSmoke Deflectorと言っていたらしいが、我々はただWingsとしか言わない。これはなかなか効果がある。

 機関士を長く続けていると、昔の機関士がいかに優秀であったかという事がよく分かる。彼らは仕事に全精力を傾けていた。特別に優秀な人たちの選りすぐりであった。自分の父親がその一員であったことは誇らしく思う。

 鉄道の全てを知り、いかなる状況下でも絶対に事故を起こさないように努力していた。この人たちのことを忘れてはならない。車内信号がない時代でも、事故を起こさなかったのだ。いや、事故を起こさない人間しか機関士になれなかったのだ。

 

 ワイオミングは山岳路線である。平坦線とは違う。蒸気機関車の運転は、山岳路線では特に難しい。急な坂を重い列車を牽いて登れば、奈落の底に落ちるような下り坂をブレーキなしで下らなければならないこともある。

 そのような運転の話をしたい。


2007年07月07日

Block Signal

 昔は大変だった。車内信号どころかAdvance-approach Signalすらなかった。Advance-approach Signalとは、点滅する黄色の信号である。最近の規則書にはその名前がなくなったが、昔はそう呼んでいたからここではそう書く。現在の信号表示は、黄色点滅黄色赤色の順である。

 規則書には、「黄色点滅が表示されている時は時速40マイル(時速64km)を越えない速度で次の信号機まで進むべし。」とある。黄色が表示されている信号まで来たら、「直ちに時速30マイル(時速48km)以下に減速し、次の閉塞区間の前で停止すべし。」である。当然、赤色信号のときは「信号機の前で停車すべし。」ということになる。

 たいていの場合、機関士は黄色点滅信号から0.5マイル(0.8km)で停止しなければならない。誰が強制している訳でもないが、黄色点滅を見つけたら1マイル以上前から減速するのが普通だ。

 蒸気機関車の時代の機関士は、石炭を満載した重い列車を牽いて山を越えているときに、黄色信号を見落とすとそれが追突事故に直結するということを知っていた。それは別の列車が次の区間に止まっているわけだから、当然である。当時はこういう曲芸とでも言うべき運転方法をとっていたのだ。

 煙や蒸気はボイラに沿って流れ、視界をさえぎる。信号を見落とすのはよくある事だった。また、機関車の調子が悪いときはそちらに気を取られてしまい、Block Signalを見落とすのだった。  

2007年07月06日

Cab-Signal

 昨日の記事は読者にとってはどうでも良い事であったと思う。読んで下さる方がいることに驚きを感じる。(原文通り。訳者註)

 今日の機関車の運転は昔のことを思えば、極端に簡単になった。どこがどのように簡単になって、どのように安全になったかということを、くどくどと書くのは勘弁してもらいたい。現代の安全装置の中で最大の発明はCab-signalである。要するにCTCの車内信号のことである。

 車内信号は機関車の中に積まれている物の中でもっとも価値がある。車内信号は「進行」以外の信号を全て表示する。車内信号は、視認性を良くしたというだけではない。制限信号を現示するだけではなく、閉塞区間に進入したときの指示を「進行」以外なら機関士に教える警報装置である。

 視界ゼロであっても、閉塞信号は表示される。車内信号は機関車のエアブレーキに接続されているから、制限信号地点を超えた瞬間、機関士が"Acknowledge" (確認)のボタンを押さない限り、ブレーキが掛かる。

 要するに、「進行」以外の信号区間に進入したときは、機関士が速やかに何らかの正しい動作をしないと機関士の存在を無視して停車するということだ。勝手に止まるのを防ぐためには、直ちに確認ボタンを押さねばならない。

 この装置が導入されたとき、もうこれで追突事故は永久に無くなると思った。しかしながら、この一年半の間に2回の追突事故があり、どちらも機関士たちが死んでいる。

 国の事故調査委員会の報告によると「居眠りをしていた」のだろうというのだが、納得できるはずがない。どんな素晴らしい安全装置でも、事故を防ぎ切ることは出来ない。もう何回も起きている。

2007年07月05日

続 第7線区

 Tomはローリンズで機関士の組合長をしていた。第44分会である。会社側が乗務距離の延長を申し入れてきた。何回かの話し合いの後、現在の乗務距離の二倍を越えないというところで妥結した。調停委員会の指示でもあった。その程度の距離なら良いだろうということになったのだ。

 しかし、組合側の主張としては、距離だけでなく、勤務体系や乗務時間についての条件をつけていた。そして、線区をまたいでの乗務が始まることになっていたのだ。

 ところが、機関士組合側の付帯条件が勝り、鉄道会社はなかなか線区をまたいでの乗務をせよとは言ってこなかった。多分より高い調停委員会に掛けなければならないことになるだろう。列車の乗務員はソルトレークからローリンズまで、6時間半の乗務をこなしている。

 無線による通信さえなければ、6時間半の乗務など簡単だ。Tomにとって、無線ほど腹の立つものはないと言う。無線が機関車に付くまでは、乗務はとても楽しかった。この意味は読者の皆さんにはなかなか分かるまい。

 無線さえなければ余分なことは考えなくてもよい。無線でうるさいことを言われたくはないのだ。昔は気楽だった。無線のように精神的負担の大きいものは要らない。まあ、これはTomの頭の中だけの問題かも知れないが…。

 ともかく、長距離の運転は出来るだろう。いま、組合員に無記名の投票をさせれば
線区をまたいだ乗務に反対する奴は少ないと思われる。


 
 


2007年07月04日

第7線区

 Rawlins から Green Riverまでの線区は、1913年に父が最初に雇われた線区である。また、私が1941年にこの鉄道で働き始めた線区でもある。そして、ローリンズ以西の線区は今でもそう呼ばれている。 

 それはUnion Pacific鉄道が、1869年にこの地に線路を敷いた時のままであろう。しかし、純粋な歴史家は、ユタ州で東西の線路が結ばれたのが1869年だから、ワイオミングを通過したのは1868年だろうと言うかも知れない。
 
 そんな昔のことはどうでも良いが、考えてみれば当時の人たちがグリーンリヴァーのような西部の果てにまで行こうと思ったとはとても考えがたい。

 私の父の時代は、手で石炭を投げ込んでいた。しかも勤務時間は平均12時間である。現在(1987年当時)私の平均乗務時間は3時間くらいのものだ。2時間で終わるものもある。

 客車の乗務員はグリーンリヴァーを越えて、ソルトレーク市やオグデンまで行った。また、アイダホ州のポカテロまでという乗務もあった。これらの乗務距離は350マイル以上もある。ローリンズの機関士は、グリーンリヴァーまでの132マイルであった。

 多分これはそのうち変わるであろうと思われる。しかし鉄道の中の取決めというものは、変わる速度が遅い。UPは、乗務時間を長くしようとしていたが、最近はその気持ちが弱くなってきたようだ。

 鉄道ファンは皆良く知っているように、機関士と乗務員の最長勤務時間は12時間である。これは、国の法律の規定による。1907年には16時間だったが、10年以上前に12時間になった。 

2007年06月27日

1941

久しぶりにTom Harveyの手記に戻りたい。

 1940年代はHarvey家にとって激動の日々であった。1941年、兄のRichard2世は、ワイオミング大学に行き、弟のTomは高校生であった。 父はいくつかの団体に属し、忙しい日々を送っていた。労働組合の仕事や退役軍人会の仕事があった。

 父は糖尿病と診断されていた。これは、当時、機関士の職業病と言われていた。罐焚きの重労働で、代謝量が増え、機関士になっても食べる量が減らせないのと、勤務が不規則で食事の時間帯が一定しないことに原因があると思う。
  
 その点を除けば、まずまずの健康状態であり、Rawlinsの近くの川によく釣りに行った。アメリカは大恐慌から逃れてようやく立ち直ったところである。1941年はアメリカにとって最もよい時代であったろう。その年にTom HarveyはUnion Pacific鉄道の罐焚きになったのだ。

 Tomが罐焚きになる決心をしたとき、彼はまだ高校に行っていた。週末にはStudent Tripを始めた。鉄道の乗務規則試験に通り、1941年6月21日に最初の乗務をしたのである。
 
 午後1蒔10分に点呼を受け、Soren Kolsen機関士と共にチャレンジャ3914に乗り込んだ。そのとき私はまだ17歳であった。そんな若い罐焚きは居なかった。それから何年も機関士をしているが、17歳などという罐焚きなど会ったことがない。

 何が私を鉄道に就職する決心させたか。私はその仕事をしたいと、小さい時から思っていたことは事実だ。 

2007年03月27日

続 Green River

UP Green River グリーン・リヴァーの周辺はホッパーカーが大量に走っている。積荷はソーダ灰である。

 高校の化学の授業で「ソルベー法」なるものを覚えさせられた記憶がある方も多いだろう。その目的はガラスの製造である。現在のガラスはソーダガラスが主体でそれにいろいろなものを融かして作っている。
 
 その元になるソーダ灰(soda ash)は、ベルギー人Solveyが発明した方法により、食塩水にアンモニア、二酸化炭素を順次溶かして作る。決して安価ではない方法であるが、他に方法が無いので、100年以上も続いてきた。

 ところが、グリ−ンリヴァー周辺で、それが大量に堆積しているところが見つかったのである。人類があと1万年も使い続けることができるほど…。それ以降、世界中のソルベー法による生産量はかなり減ったはずである。大陸横断鉄道の沿線で見つかったので、東部にもカリフォルニアにも送りやすく、海を越えて日本にも大量に輸出されている。

 この鉱石はトロナ鉱と言い、厳密には炭酸ナトリウム、炭酸水素ナトリウムおよび水の化合物であるが、加熱すると簡単にソーダ灰(炭酸ナトリウム)になる。

 1980年当時、これを積んだ列車は世界で一番重い列車と言われていた。200両の貨物列車である。長さは2マイル以上、2万5千トンあったらしい。それをDDA40Xの3両プラス途中にさらに2両の合計33000馬力で牽いていた。週2便のその列車をTomは運転していた。

DDA40X's operated by Tom Harvey 最近はそんな長い列車はもう無い。せいぜい125両である。


 この写真をご覧になると、駅と周りの地形がよくおわかリ戴ける。

2007年03月22日

Tomの家を再訪

Loraine Tomの家は昔と同様きれいにしてあった。今は娘さんたちは結婚して遠くに住み、未亡人のLoraineが一人で住んでいた。ロレインと会うのは19年ぶりで、Tomの死後初めての訪問であった。話さなければならないことが、いくらでもあった。

 Tomは1992年の5月に亡くなったそうだ。もう15年になる。彼の死の直前、死を覚悟した手紙とテープが届いた。それには、彼の手記を日本とアメリカで出版してくれるようにという依頼がしたためてあった。

 今回の訪問はその確認であったが、意外なことにアメリカ国内での出版はできないということが判明した。ある大学の歴史学の研究室に、研究目的以外の出版を禁ずる旨記した契約で、手記の原本が寄贈されていることが分かった。これでは完全に埋もれてしまうことになる。

 日本国内でのことは触れられていず、自由に出版できるので、いずれまともな出版社から出版したいとロレインに伝えた。

 ロレインは前回の出版時には大変に喜び、5冊ほど差し上げた。日本語が読めないのでそのなかに多数あるミスプリントの件は気がついていなかった。実はこのようなわけでひどいミスプリントがあるのに、校正なしで出されてしまったと言うと、知らなければ良かったと言う顔をした。

 近い将来、私の聞き書きと言う形でなら、アメリカで出版することができるかも知れない。最近、機関士の人生を描いた本がいくつか出版されるようになった。機関士以外の職種に光を当てたオムニバス形式の本も出ている。

2007年03月21日

Rawlinsへ

Blizzard ララミーからローリンズに向かう途中、ちょっとした山地がある。そこで天候が急変し、猛烈なブリザードとなった。降雪量はかなりありそうだが、風が強くみな吹き飛んでしまう。ということは、しかるべきところには大量の吹き溜まりができるという事だ。UPの沿線にはいたるところに防雪柵が設けてある。
その効果のほどはしっかりとは確認できなかったが写真をお見せする。
 
防雪柵 かなり年季の入った柵である。風が運んでくる雪を上に押し上げる働きをするように見える。





Rawlins 雪がやむと、車はローリンズに近づいていた。
電話するとTomの未亡人のLoraineが出た。突然の訪問であったが昔のように歓迎してくれた。 
 

2007年03月13日

ワイオミングの旅 

Colorado Southern Overpass コロラド州に行ったついでに北に向かい、ワイオミング州を走ってきた。高地はやはり寒い。途中猛吹雪に見舞われ、−10℃くらいになった。しかし、高速道路ならばノーマルタイヤで走れるところが、アメリカ的である。

 除雪車が30分ごとに廻って来てくれるので、そのあとをついていけば安全だ。あっという間に30cmくらい積もっても、平気である。冬季はガソリンタンクをいつも満して置きさえすれば、死ぬことは無い。

 アメリカの除雪車は雪をどかすだけではない。岩塩と砂(といっても直径8ミリくらいはある砂礫)をばら撒いていく。これが効果を発揮して、全くといっても良いくらい滑らなくなる。

 シャイアンで安宿を探し、眠りに着く。明け方、すさまじい地響きと汽笛で目が覚める。そのモーテルは、UPの本線をまたぐCorolado and Southern鉄道の陸橋の真下にあった。現在はBNSF路線の一部ではないだろうか。写真の右手、青い看板の裏がそのモーテルの所在地。左手、トラス橋の下のかなたにUPの機関車が見える。

Original painting in Cheyenne Station シャイアンの駅の周りを一巡りし、陸橋を何度も往復してUPの機関区を俯瞰する。駅に行けば、既に旅客扱いをしていないが内部を見学できる。天井のインディアンの模様は塗り直されていたが、一区画だけオリジナルの模様がしみだらけではあるが残されていた。

 昔の二車線の陸橋は、片側三車線で二本掛け替えられていた。聞いてみると、機関車が暴走して、橋脚にぶつかったのだそうだ。即ち、橋は崩落したのだ。
「その機関士はクビになったか?」と聞くと、「当然!」ということであったが、しばらくして復職したそうだ。

2007年01月10日

水と石炭

600-ton Coal Dock in Cheyenne 機関士は列車の運行に注意を払うばかりでなく、自分の機関車に積んである石炭と水の量に気をつけなければならないのは当然である。

 砂漠の中では給水地点は限られている。しかも水の悪いところでは給水したくない。Big Boyの時代には随分と改善されたが、昔は水の処理は完全ではなかった。予期していない事態で側線であまりにも長く待たされていると、水が足らなくなることもある。給水をためらったがために、本当に水が足らなくなる。冗談ではなく、一種のギャンブルである。この水量で次の峠が越えられるか、どうか。救援機関車を呼べば、それで成績簿に一生消えない汚点が残る。ここが思案のしどころだ。

 駄目だと思えば"Cut-and-Run"しかない。列車を切り離し、身軽になって給水に行く。それでトンボ返りして、列車をつなぐ。その間に何も起こらなければ、ギャンブルに勝ったことになる。その間に優等列車が後ろに"Stick"していれば査問の対象になる。言い訳はできない。ギャンブルは負けだ。

 勤務評定表には、終生消えない記録が残る。どんなにすばらしい勤務歴がその前にあろうがなかろうが、同じことだ。鉄道会社は機関士の失敗の記録しか残さない。

 機関士は、この先起こることを全て予測せねばならない。いくつかの変数を入れて、結果をはじき出さねばならないのだ。天候、線路の状態、機関車の調子、ボイラの具合、列車の重量、石炭の質、それと一番大事なのは機関助士の腕である。Richard Harveyと同じだけの技量を持っているかどうかである。できの悪い罐焚きは全ての災難の元である。優秀な罐焚きは、常に先を読む。

訳者註 Stickとは文字通りくっつくことであり、背後に優等列車が停車してしまうことを指す。

2007年01月09日

機関士の仕事

Fireman Ed 機関士は列車の全てに責任がある。貨車の連結器が切れてもそれは機関士の責任だ。長い貨物列車の連結器が切れないような運転をせねばならなかった。

 一言で言えば、"keeping stretched"(常に連結器に一定の張力が掛かるよう)にするのだ。これに気を遣わないと、下り坂から上り坂に差し掛かったとき連結器が急にぴんと張り、そのショックで連結器が切れる。連結器が切れれば、列車には非常ブレーキが掛かる。機関士はスペアの連結器ナックルを持って行き、取り替えて再連結する。

 このような時間浪費で列車は遅れを生じる。対向列車が優等列車のときは、退避予定時間までに駅に着けないと、正面衝突事故の原因を作ることになる。

 一つの区間に一つの列車しか入れないようになっているのだから、そんなことは起こりえないはずだが、人間のやることにはミスもありうる。予定時間までに到着すればそのようなことは起こらない。だから列車を遅らせる要因はすべて排除しなければならない。

 機関士の胸ポケットには時刻表が入っている。優等列車、次優等列車の時刻は正確に決まっている。自分の運転している列車の退避時間に余裕がないと、大変あせることになる。特に困るのは優等列車が自分の後ろについているときである。これを"Sticking"(くっつく)と言う。言い訳は許されない。

 対向列車しかも優等列車を待たせることは、決して許されない。中でも特別優等列車に対しては15分前に退避させなければならないのだ。

 機関士はいつも正確な時計を持っている。その時計はオーバーオールの胸ポケットに入れてある。鎖を持って時計を引き出し、時計を見つめる。それはまさに機関士である。貴方の頭の中の機関士像はそれと一致するだろうか。

2007年01月08日

昇進試験

Richard and Tom Harvey 試験に通れば機関士になれる。Dickは自分の能力には自信があったが、勉強をしたことがない。どうすれば勉強できるのかも分からない、という状態だった。

 当時、fireman(罐焚き)の仕事は大変な重労働で、Green Riverまで行ってRawlinsに帰り、寝てまた出かけるということを繰り返していた。 
 機関車の構造、列車取扱規則の本を読むのだが、試験では見事に落第する。2回目も落第である。3回目の試験は最後の試験である。これに落ちれば、再度の挑戦は認められない。即ち、もう永久に機関士にはなれないことを意味する。
 
 Ormaは、初めてDickの受験の手伝いをした。彼女は教師であったのだ。生徒に勉強させるのと同じ手法を用いた。問題と答を別の紙に書き、それらを結びつける説明をさせた。毎晩父母は死にものぐるいの勉強をし、最後の試験に備えた。

 Ormaのお陰で、Dickは優秀な成績で試験に通った。Tomはその母が書いた試験問題の紙の束をまだ持っていて、見せてくれた。その紙がなかったら、Dickは決して機関士にはなれなかったのだ。

 ともかく、Dickは機関士になった。この時代、ワイオミングでUPの機関士であるということは、すばらしいことであった。シャベルで石炭を投げ込む仕事からは解放されるばかりではなく、誰からも尊敬された。しかし機関車を走らせるためには、機関士の免状だけではなく、知っていなければならないことが沢山あった。

 1920年当時、UPの本線といえども単線であり、優等列車をかわすために待避線に列車を入れるのは、Dispatcher(列車指令)の名人芸であった。列車指令から電信で送られてくるTrainorder(指令書)に従い、機関士は通過時間の10分前には待避を完了しなければならなかった。そして、Switchman(転轍手)はポイントを切り替え、列車指令に退避完了を打電する。当時の鉄道は全て人の手で動かされていたのだ。

2007年01月07日

続 Tomの父母 

Richard Harvey on Mighty 800 西部では若い女性が不足していた。国策もあったのだろうか、鉄道会社は大量の教育を受けた女性を採用した。しかもかなりの高給で。この結果、西部に女性が送り込まれたことになる。他の鉄道とのサービス競争の結果でもあった。



 Ormaはオクラホマの小さな町で小学校の教師をしていたが、西部に行きたくなった。Green River駅の食堂のウェイトレスは単なるウェイトレスではない。大陸横断列車の大切な客の世話をする役目を持つ。教養が必要とされたのだ。今で言う国際線スチュワーデスのようなものだ。外国語の能力も要求されたのにはそういう意味もあった。
 そこでDick(Richardの短縮形)との出会いがあった。乗務員は汚い服を着ていたので、旅客の入る食堂には入れなかったが、ウェイトレスは共通であった。

 時は第一次世界大戦中で、Dickは応召しフランスでドイツ兵と戦った。その間に手紙をやりとりし、愛を育んでいた。この時代はアメリカの歴史でもっとも輝いていた時代だ。戦争は勝ちいくさで、兵隊はただ行っただけで凱旋し、故郷の愛する娘に手柄話をするわけだ。

 というわけで、DickはOrmaを口説き落とし、オクラホマの教会で結婚した。この頃の写真を見ると母は細く、魅力的な人であった。父は165僂半柄だったが、母は背が高かった。父は教育を受けていない自分に、教養のある妻を迎えたことをとても誇りに思っていた。母はピアノが弾けた。子供たちを育てるのに忙しく、学校で教えるということは、もうなかった。

 1920年、Harvey一家に大きな転機がやってきた。経験を積み、昇進試験を受ける資格がDickに与えられたのだ。
 

2007年01月06日

Tomの父母

Dick Harvey and 2-8-2 Tomの父Richard Harveyは、1892年生まれである。イギリスのCornwallというところからやってきた。故郷に何度も手紙を書いているが、一度も返事が来たことがないという。多分、家族の誰も字が書けなかったのだろう。

 アメリカに来て最初の仕事はワイオミングの鉄山の鉱夫であった。そのうち、その鉱山の鉄道の運転を任された。次にもっと収入の良い炭鉱に移った。始めは鉱夫をしていたがそこでも機関士になった。次にCorolado Southern鉄道の機関車の火夫(罐焚き)の仕事をして、Union Pacific鉄道に移った。やはり火夫であった。

 そんな時、Green Riverの駅で働いていたOrma Robinsonと知り合った。OrmaはBeanery-Queenをしていた。ビーナリ・クイーンとは、旅客駅の食堂のウェイトレスである。当時、旅客列車は一日に上下で十数本であった。停車時間に食事を提供する必要があった。各鉄道ごとにいろいろな名前で呼ばれるこのような食堂施設があった。旅客用にはテーブルが、乗務員用にはカウンタがあった。beaneryという言葉は西部開拓時代のスラングで「豆しか食わせない安食堂」という意味である。実際のところは、かなり立派なレストランであったが、わざとそういう言い回しをしていた。

 Santa Fe鉄道ではHarvey Girlsと呼ばれた。列車到着後、注文をとると時間が掛かるので、車内で注文をとり、汽車が駅に近づくと汽笛で連絡して準備をさせるということまでしたらしい。

 ビ−ナリ・クイーンの3人に2人は鉄道員と結婚した。その中で機関士は一番もてた。収入が一番良かったからだ。1916年の暖かい春の日、このあたりではかなり大きな駅Green Riverに降り立ったOrmaは、まだ自分の運命に気付いてはいない。
 
 西部では若い女性は貴重である。たくさんの男たちとの競争を勝ち抜き、RichardはOrmaと結婚した。Ormaはオクラホマ州Enidの出身であった。父は小学校しか出ていなかったが、母は高卒であった。1910年頃の高卒は今の大卒よりはるかに価値があった。外国語を4年も勉強した人は少なかった。高校を出て、短大のコースをいくつか取り、ワイオミングに来る前は小学校の教師をしていた。

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