アメリカの生活

2012年01月18日

続 cat walk, gang way & running board

 日本の鉄道では線路わきに犬走りという場所がある。幅はせいぜい60cmだ。この言葉は建築用語らしい。家を建てるときに、建築士が「犬走りはどうするか」と聞くので、思わず聞き直したことがある。

 城の石垣とか堤防には、必ずある程度の幅(2、3メートル)の「犬走り」がある。大きな仏閣にも軒下にある。明治の初頭に鉄道が敷かれた時、その部分を犬走りと名付けたのは、自然な成り行きであったろう。

 英語では何と言うか、と良く聞かれる。それは、”cess” のはずである。はずであるというのは、アメリカの鉄道関係者に聞いた言葉であって間違いないはずであるが、辞書に載っていないのである。ずいぶん調べたが見つからない。税金だとか色々な意味が書いてあるが、これも建築用語なのだろう。どなたか建築学に詳しい方がいらっしゃれば、その方面の辞書をお調べ願うことも可能であろう。

 舞台関係の言葉で "cat walk" というと、舞台の真上の天井に張り巡らせた回廊を指す。幕とか照明装置のメンテナンスやセッティングなどに使う通路だ。一応手摺があって、転落しにくい構造になっている。
 また、最近はファッション・ショウでモデルさんたちが歩く長い舞台もキャットウォークというのだそうだが、あまり認知されているとは言い難い。たぶん ”run way”(滑走路)という方が一般的だろう。

 話はやや遠ざかるが、最近、ホームセンタや高速道路のパーキング・エリアに「ドッグ・ラン」なるものがあるのを見る。公園の芝生に犬を連れていくと排除されることが多いが、ここでは遊ばせることができるらしい。当然排泄もあるだろうから、公園から締め出すのは正しいだろう。
 この「ドッグ・ラン」という言葉は、和製英語のような感じがする。アメリカで ”dog run” と言えば、それは個人住宅の敷地内にある、犬を放してあるエリアを指す。
 友人の家でその dog run を作るのを手伝った事がある。 3 m × 10 m ほどの大きさであった。敷地全体に放すと、芝生を掘り返すので、ごく狭い範囲に留めるためだ。アメリカ人は芝生をとても大切にする。

2011年09月12日

Denverの空港

 話は前後するが空港について書こう。
 デンヴァの空港に行ったのは26年ぶりである。祖父江氏を案内して出掛け、UPの機関士Tom Harvey に迎えに来てもらったのだ。その時の空港はStapleton空港であった。比較的小さな空港で、迷うことなく会えた。それ以来、車で通ったりしているのだが、空港には行ったことがなかった。郊外の農地の中に引っ越し、遠くなったがとても広い空港になった。ダウンタウンから45分も掛かる。移転前の空港は取り壊されて住宅地になった。

 この空港は標高が高いので、飛行機の離着陸の角度が小さい。また滑走路がとても長い。空気の密度が小さく、揚力が小さいからだ。特に夏は気温が上昇するので空気の密度はますます下がる。
 旅客ターミナルのいたるところに酸素ボンベが置いてある。高山病で倒れる人がいるからだ。標高が高いと言っても1600 mほどである。荷物を受け取るBaggage Claimにはスキー専用の長いものを縦に入れて回転するキャラセル(ベルトコンベア)がある。
 
2215 相変わらずTSA(運輸保安局)の検査は厳しく、筆者のように金属製品を多量に持っているとスーツケースは開けられる。検査に便利なように、全ての細かい部品をポリ袋に入れて外から見えるようにしてあるのにナイフで一つずつ底を切ってぶち撒ける。スーツケースの中には衣類にまぎれて細かい部品が散乱している。困ったものである。苦情を書いたが、紋切り型の返事しかよこさない。
 身体検査は厳重を極める。ポケットの中のものは全て出させ、ベルトを外し、靴も脱いでボディスキャンをする。六角形の大きな電話ボックスのような機械がそれである。試しに胸ポケットにデンタルフロス(歯の隙間の清掃をする糸)を入れておいたら、見事に検出され、「胸ポケットに何か隠している。」とスピーカが怒鳴った。出すと「なーんだ。」というわけだ。あんなに軽いプラスティックの箱まで検出するのだから、大した性能ではある。

 この「なーんだ」というのは勝手な訳で、現場では”No wonder”(どうってことない)と言ったのだ。この言葉は筆者には昔から「なーんだ」に聞こえる。意味も似ていて、日本語と英語が同じ音に聞こえる珍しい例である。

 機関車は機内持ち込みの小さいバッグに入れ検査を通す。ダラス・フォートワース空港では暇な時間帯だったせいか、「おい機関車だぜ、見てみろよ。」と職員が寄ってたかって見ている。縦横から透視して遊んでいるのだ。アメリカから引っ越して来るとき、同じようにみんなで見て、ちっとも通してくれず、家族で飛行機に乗り遅れたことを思い出す。あの時は家族全員の機内持ち込みバッグに機関車を一台ずつ入れたのである。時間がかかるわけだ。

 この空港のトイレは妙な構造である。入口がつぶれたS字になっていて、急いで入ろうと思っても時間がかかる。Tornade(竜巻)に襲われた時に逃げ込むシェルターの役割を果たしているからだ。と言うのは天井は合成繊維のフィルムで剛性がない。竜巻が来たときには破れるかもしれないということを予測しているのだろう。鉄筋コンクリートの建物でないと竜巻の被害は防げないのだ。もちろん、トイレはとても頑丈に作ってある。 

2011年06月13日

Chicago O scale Meet 2011 始まる

08220904 木曜日にシカゴ Oスケールミートが始まる。午前中は予定がなかった。昨年のように、イリノイ鉄道博物館へのツアがあると思っていたので手持無沙汰で模型屋を覗いてみた。右の写真の左手、手前から二番目の赤いテントがその模型屋である。何も得るものはなく、塗料と工具の消耗品を買った。以前よりOスケールの商品が減っている。
 シカゴは踏切が多く、よく止められる。貨物列車はヤードで仕立てたばかりで色々な種類の貨車がつながっていた。いたずら書きも多い。これだけ塗ろうと思うと、スプレイ缶がかなりたくさんいるだろう。

090509200913 午後3時ころから会場が開き、商品の展示が始まる。友人たちがたくさん出店しているので、もっぱらおしゃべりが多い。
 今年も講演を頼まれていたので、その話が多かった。昨年聞いた人たちが友達をつれて聞きに来てくれ、「期待している」と言われて嬉しかった。

 今年も商品が山と積まれ、その大半が売れていくのだから消費は大きい。この会場だけで日本の模型界の売り上げの何分の一かに匹敵するのではないかと思うほどだ。
 誰もが札束を持って乗り込んでくる。ほとんどが現金のやり取りである。小切手はこのような初めて会う客からは受け取らない場合が多いからだ。もちろん旧知の客からは受け取る。クレジット・カードも使えないから現金だけである。
 100ドル札がこれほどたくさんやり取りされるのを見る機会は少ない。
 

2011年06月11日

続々 シカゴのダウンタウン

08390862 駅で待っていると電車は次から次へとやってくるが、方面が異なるので注意して乗らないとあらぬ方向に行ってしまう。色で方面が指示してある。駅はこんな具合で階段を登れない人は乗ることができない。
 特定の駅にはエレベータがあるが、その数は少ない。
0874
 第三軌条であるので事故などで車外に降りるのは危険だ。注意を見ると、降りる気が失せるようになっているのだろうか。




0873 後ろを見ると旧シアーズ・タワァが見えた。現在は名前が変わって Willis Tower になっている。登ろうと思ったが、手荷物検査、身体検査が厳しく待ち時間が長かったし、入場料が高かったので取りやめた。

0880 駐車してある車を取りに行こうと歩き始めてくぐるガードにはどこかで見た鉄道会社の社紋があった。もう使っていない鉄橋である。
 シカゴのかなり西の端まで来ていたのかと少々驚いた。

2011年06月09日

続 シカゴのダウンタウン

0847 この建物は図書館である。この写真では、超広角レンズなのでその迫力が伝わりにくい。画面に目を近づけて、目玉を動かして戴くとその威容がわかるかもしれない。屋根の緑青色の飾りが素晴らしい。どのように作られているのか知りたい。この写真は地表からなので見上げるかたちになるが、高速道路からは真横に見られて、素晴らしい景観である。中は極めて普通の図書館である。

08610850 高架下はこのような感じで、映画などでよく見る。高架の柱が細くて、大型トラックがぶつかったら、高架が落ちそうである。
 開業からもう100年も経っているので、ときどき梁の落下事故がある。外部要因ではなく支柱の破断である。10年ほど前に行ったときは、それで不通になって、タクシーに乗らざるを得なかった。そろそろ全面的な更新時期が来ているように感じる。

 最近のバリア・フリィ化には適応できていない駅が多い。構造上も難しい。この高架鉄道は開通当初Fornyタイプの複式機関車(0-4-4)により運転されていた。New Yorkなどでも同様の機関車が使われた。 
 当初、従台車が左右にスライドせず、第二動輪のフランジがないタイプであった。フォーニィという機関車はそんなものだと長らく思っていたのだが、後年のフォーニィは第二動輪にフランジを付け、従台車に左右動を許している。むしろそのタイプが多数派である。
08530846 この鉄道は”L"と呼ばれる。”El"という表現もあるが前者が正しいようだ。これは”Loop"ではなく、”Elevated”、すなわち高架鉄道を意味する。曲線半径は市電並みで、タイヤをきしませて走る。道路に降り注ぐ鉄粉の量は多い。脱線しても転落しないようにガードレイルは全線の半分以上に付けてある。

2011年06月07日

シカゴのダウンタウン

0825 シカゴはRailroad Capitolという言葉で表されるように鉄道の要衝である。ほとんどの鉄道はシカゴにつながっていた。今でも市内には巨大なヤード(操車場)がいくつもある。高速道路を走るとそれらを次々とまたぐことになる。

0845 シカゴのダウンタウン(繁華街)に車で行くのは避けたい。込んでいるし、駐車場は東京並みに高い。それともう一つ、筆者のようなおのぼりさんには大変困ることがある。GPSが使えないのだ。この写真を御覧になるとお分かりかと思うが、空がほとんど見えないから、画面が黒くなって"satellites not found"(衛星が見つかりません)というサインが出る。ニューヨークより空は狭いように感じる。

0834 そうなると電車で行くしかない。郊外の”Park and Ride”の駅を探して車を置き、電車に乗る。駐車料金は1日3ドルである。運賃は片道2ドル25セントだが現金では乗れない。5ドル払ってカードを買うとそれで往復できる。「50セントが無駄になる」と言うと、「いつまでも使えるから保管しておけ。」とのこと。

0843 市内はLoopと呼ばれている。高架鉄道が周回する区域をそう呼ぶ。外側三線式の電車がゴロゴロと走る。有名な交差点に来た。ここで電車が方面別に切り替えられる。ただし、錆び具合から判断すると、全部の線路を使っているわけでもなさそうだ。
  

2011年06月03日

Iowaのガソリン

0786 アイオワ州のガソリン価格は奇妙である。何度通っても同じなので何か特別な理由があるに違いない。
 アメリカのガソリンは日本とは異なり3種類である。Regular, Plus と Premiumである。オクタン価の公称値は 87、91、100となっている。この数値と実際の性能は日本の数値と多少違うが、それはこの際あまり関係がない。
 問題は価格である。レギュラが高いのである。プラスの価格はプリミアムとほとんど違わない。どうしてであろう。店によってプリミアムのほうが安いところがある。Unleaded というのは無鉛ガソリンであり、もはや当然の言葉となった。70年代初期は、Regular, Regular Unleaded, Premium の3種だったと思う。この Unleaded の発音が難しくて、何度も練習したことを思い出す。1 ガロン(3.8 L)が29セントの時代である。 

 この地方産出の石油が、偶然にも高オクタン価のガソリンを作りやすい組成になっているのか、あるいは非常に優秀なアンチノック剤がここで安く手に入るのか、色々考えたがわからない。

 プレミアムガソリンは、高圧縮のエンジン(高出力であろう)の中で、異常燃焼(点火しなくても勝手に燃えて、その衝撃波でシリンダ・ヘッドが壊れたり、ピストンが抜けたりする)を防ぐように調合されている。燃料の密度も多少大きい。
 ガソリンのようなある程度の長さの分子の炭化水素の燃焼熱は、質量に比例すると考えてよいので、同じ価格なら重いガソリンのほうが発熱量が多くて得なのである。この時プリミアムの性能などは考える必要がない。その意味でもプリミアム・ガソリンは数%高くても買う価値がある。ガソリンを買うということは、発熱量を買うことなのである。その点、アルコールが入っていると発熱量が減って出力は低下するわけである。
 最近のようにガソリン価格が高騰した時、レギュラとの価格差が10円で一定であると、200円台になればプリミアムが相対的に安くなると試算する。

Rochelle アイオワは確かに田舎である。それを抜けてイリノイ州に入っても田舎であることには変わりがないが、高速道路が立派になる。Rest Area(沿道の無料休憩所、日本のパーキングエリアに相当)に入り、Coupon Book(ホテルの割引券を綴じたもの)を入手してシカゴ方面を探した。一番安いホテルはRochelleにあった。

 ロシェ−ルの町には有名な複線の平面クロスがある。昨年も行ったのだが、チャンスがあればもう一度行きたいと思っていた。そのチャンスが偶然にもめぐってきたのである。

2011年03月12日

シカゴにて日本の大地震を知る

 先週よりアメリカ中西部に居る。今日の朝、ホテルでTVを見て飛び上がった。
 すぐにインターネットを使って日本の状況を調べたところ、史上最大の地震であることが分かった。こんなに離れていても、津波の襲来をヘリコプタから撮った動画を見ることができた。
 自然の力に比べれば、人間の力など無力なものだと思い知らされる。東北地方にも知人が多く居るので、彼らの無事を祈るばかりだ。
 こちらの知人から、家族の安否を聞かれた。日本に帰ることができるかと問われたのには驚いた。空港に津波が押し寄せる動画を見ているからだろう。


 当地は先週より天候不順で、大雪、暴風、大雨に見舞われ、思わぬことで雪山に突っ込んだりという多少の事故もあった。車も損傷せず、我が身も無事であった。暴風雪の中、除雪車の働きを頼もしげに見ていた。マイナス20度以下になったが、高速道路はいつも開通しているところが日本と異なる。
 除雪車が除雪しながら、塩と砂を撒く。これが効果絶大で、ほとんど滑らないので、普通タイヤでほとんどの車は時速50マイル(80キロ)ほどで走ることができる。車は塩まみれ、泥まみれで色が分からなくなるほどだ。

 今回はミネソタ州に行ったついでに、足を伸ばして、南北ダコタ州にも行ってみた。つまらぬ理由であるが、その二州は筆者にとって未踏の州であったからだ。これで全州踏破したことになったが、雪の中で景色がよく分からなかった。どちらもまったくの大平原で、取り立てて景色というものも少ない。途中で「大草原の小さな家」のあった町を通過した。本当にまったく平らで、すごいところであった。

2010年12月12日

続 Pantera氏の工房を訪ねて

Dan's Workshop 地下の工作室に入る。せいぜい12畳くらいの大きさだ。O scaleの工作室としては小規模だ。しかも客車を100輌単位で仕上げるのだから、仕掛品の保管場所としても狭すぎる様に思う。



Dan's Workshop2Dan's Workshop3 今回は平積みであるが、先回は沢山の車輌が一山24輌の井桁積みになっていた。6輌ずつ直角に積むのである。地震のない国ならではの保管法である。


Dan's Workshop4 プライマは自動車用のものである。1ガロン(約4L)の缶がたくさんあった。




Dan's Paintshop2Dan's Paintshop これは塗装ブースである。宅地が広いので庭に排気を吹き出しても、どこからも文句が来ない。おそらく隣家はここが塗装工場であることすら知らないはずだ。



2010年11月02日

続々々々 Feather River Route を走る

Ponderosa pineRoad to SacramentoFreeway ダム湖を抜け、起伏の少ない地域に出た。この写真の松の木はポンデローサ・パインであり、筆者のレイアウトにも何本かあるので写真を撮った。より実感的な生え方の参考にするためである。

 先を急ぐのでやや速度を上げて走っていた。ところどころにハイウェイ・パトロールのポリス・カーが待ち伏せしているから、周りの車と同じ速度で走った。これがコツで、制限速度から10マイル程度なら、まずお咎めはない。

Highway Patrolspeeding ticket しばらく走ったのち、前に3台くらいノロい車が居たので抜こうと思った。後ろにはポリス・カーが居ないのを確認して、グィーンと抜いた瞬間、後ろに赤色灯が点滅し、”Pullover, Pullover(脇に寄せろ)" と怒鳴る声が聞こえた。いつの間に忍び寄ったのか分からなかった。グラマン・ヘルキャットに追撃されたゼロ・ファイターのような感じであった。

 警官曰く、「ずっとつけていた。お前が一番速かったからな。最後に抜く瞬間、後ろを見たろう?それも見ていた。1台しか抜かないと思ったら、3台ごぼう抜きしたから、時間が掛かった。その隙に後ろに付いたのさ。」と手の内を明かした。「お前は運転はなかなかうまい。なかなか隙が見つからなかったので、かなりの距離を付けてきた。」という。

 楽しく話をしたので、無罪放免してくれると思ったが、「24マイル超過のところを10マイルにしてやるから、サインせよ。」と言ってきた。よくある話だ。本当なら、証拠を捏造したわけだから裁判にすれば無罪になるところだが、また飛行機代を使って裁判所に出頭するのは無駄である。「すべて認める」とサインした。「そのうち請求書が来るから、小切手を送れ。」という。別れ際に、「運が悪かったな。気を付けて帰れよ。」と言う。なかなか好感の持てる警官であった。それも彼らの手口なのかもしれない。

 その後、カリフォルニア州政府に211ドルほどの寄付をすることとなった。
以前テキサスだったかで捕まった時は、「小切手かクレジットカードかどちらにするか?」と聞かれた。その場で集金するシステムで驚いたことがある。

 カリフォルニア州は歳入が不足し、道路維持のために罰金を取るという話を聞いた。確かに他の州に比べて、取り締まりは厳しい。

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2010年09月13日

続 Mike Wilson 氏を訪ねて

IMG_2210 Mikeはライオネルのコレクタでもある。この部屋の中央部にはライオネルのレイアウトがあり、楽しく遊ぶことが出来る。  




IMG_2213 スケールモデルを楽しんでいても、ライオネルにはまた別の楽しさがあるのだ。子供のころの楽しさを何時までも忘れないようにスケールのレイアウトの下段に10坪ほどのレイアウトを作った。



IMG_2220IMG_2221 この制御盤の中を見ると想像を絶する量の配線であった。最近はライオネルもDCC化されるようになったので、もしDCC化すればこれらの配線はほとんど要らなくなるはずである。


 筆者はスケールモデルしか楽しんでいないが、余裕があればライオネルも欲しかった。何回かライオネルの購入チャンスはあったのであるが、そのチャンスを逃し続けている。子供の時代に出会っていたらきっと今でも持ち続けているであろう。その点、日本の三線式Oゲージはただ走るだけのもので、材質の点でも合格点が与えられない。逆転機さえ無かったのだ。後で付けたが、作動は不完全であった。
 持っていた車輌、線路等は全て処分したが、今思い出してもあまり面白くないと思える。
 



2010年09月05日

Mike Ross 氏を訪ねて

Mike Ross MikeはいわゆるGated Community に住んでいる。アメリカなどの国では、富裕層はより高い安全性を求めて、高い塀で囲まれた街の中に住む。道は公道ではなく、全て私道となる。どの家も塀を持たず、遠く離れた家と家の間は全て芝生でつながっていて、あたかもゴルフ場の中に住んでいるかのような感じである。実際にゴルフ場、テニスコートも併設されている。不思議なことにプールが見えない。聞けば、どの家もインドア・プールなのだそうだ。
 どの家も大きい。中にはディズニィの動画に出てくるお城のような家もある。床面積は、各戸、最低4000平方フートというから130坪ほどであろうか。
 訪問するときには、事前に警備本部に訪問者の人数と全てのフルネームを申告する必要がある。ゲートでは、車のトランクまで確認する。

 マイクは大きなレイアウトを建設中である。広さは60坪くらいだろうか。設定は1950年の Blue Ridge Mountains である。ブルー・リッジとは米国東部のアパラチアン山脈の一帯を指す。石炭の宝庫であり、Virginian2-6-6-6が長大な石炭列車を牽き山を越える。その時代の再現を狙っている。死ぬまでには完成できないだろうと本人が言うほどであるが、彼は精力的に製作している。
 人を雇うべきなのだろうが、それはしない。友人に助けを求めることはあるようだが、全部人には任せたくないらしい。彼は、筆者のレイアウトの動画、写真は詳細にチェックしていて、進歩の度合を探っている。「飛行機代を払ってやるから、しばらく遊びに来ないか。」ぐらいのことは言うのだが、プロには任せたくないのだ。その理由は、「彼らの作品は、皆同じに見える。」と言うのだ。

 マイクは彼の少年期を過ごしたブルーリッジの山々を頭の中に描いている。全て、それを再現するつもりだ。その、他人には見えない山の中を線路だけが完成しているというのが現在の状態である。
 
曲線の中心を決める。 線路は全て計算通りに敷かれる。適当に路盤を作ってぺたぺたというのとは違い、座標通りに路盤を建設する。カントは全て路盤に付ける。
 床はポリ塩化ビニルのタイルである。それは1フート角であるから、それを碁盤の目として活用する。曲線の中心はこのような道具で位置決めをする。
 1インチごとに目盛を付けてあるから、所定の場所において重りを置く。上から出ているボルトに、長いアームを取り付けて、曲線を描く。

2009年12月15日

鉱山都市

 国内外の鉱山都市は、その周辺の集落とは明らかに異なる文化を持つ。

 まず、流れ者が多く、言語が異なる。昔住んでいたソルトレーク市の西のはずれにBinghamという銅鉱山がある。足尾とは異なり、完全な露天掘りである。人間が堀った世界最大の穴という表現がある。穴は、長さ4キロ、幅2キロ、深さ1キロほどである。
 掘り出した土砂は周りに積み上げたので、穴が相対的にますます深くなった。線路は、すり鉢の内部に螺旋を描いて下っていく。底まで500キロもの距離があり、貨車は2日かけて下りて3日掛けて登ってきた。しかし穴を深くするために時々線路を敷き替えていた。
 あまりにも非効率で、20年ほど前、底から、水平導坑を掘り、ベルトコンベアで運び出すようにした。 
 このビンガムの街の人たちの英語は、かなり異なるアクセントをもつ。町にはいろいろな娯楽施設があり、稼ぎのよい鉱夫たちがそこでお金を落とすように出来ていた。

 日本の鉱山も、根本的には同じ構造を持つ。相対的に町全体が裕福であった。足尾には映画館が四軒もあったそうである。
 博物館には古いカメラがたくさん陳列してあった。そのような高級品を買う余裕があったわけである。
 鉱山の設備も貴重な外貨を投資して購入したものばかりである。鉱山が外貨を稼ぐのであるから、いろいろなものを直接買い付けている。

 小さな町であるが、市内の交通は鉄道に依っていた。かなり贅沢であると言える。

2009年08月19日

ASTRAC

ASTRACという多重制御方式があった。これはGE General Electric が発売した装置で、Automatic Simultaneous Train Control 自動同時列車制御という意味である。
 1963年から66年あたりまで発売されていたようだ。現物は70年代に1度しか見たことがない。Web上では写真も見つかるが、もうほとんど存在していないのであろう。
 FM変調で5台の動力車を動かすものであった。車上素子はそれほど大きくはない。

 この技術はGEの内部では別のところに使われていたもので、製品化してみたもののあまりにも売れなくて、販売停止になったようだ。

 電灯線経由の多重制御もこれと同じところに根ざすものであろうと推測する。この当時の特許を見ると様々な方式が見つかる。アナログ方式はどれも比較的似ている。

 デジタル方式のクロックに相当する部分を同期用の電動機で機械的に作り出し、受信側では所定のパルスを拾い出す工夫など涙ぐましい工夫の跡がある。ソリッドステート化以前は大変だったようだ。

 日本では、たくさんの列車を同時に走らせられる人の数が少なかったので、このような工夫は
ほとんど興味をもたれなかったし、その存在にも興味がなかったように見受けられる。

 さすがに伊藤剛氏は興味があった。氏は昭和23年ころ、2台の自動車を個別に制御する自動車レース場のアイデアを出されている。これは路面からの集電装置の工夫で自動車が左右に動いても、常に独立した集電をするようにしたものであった。

2009年08月17日

続々 多重制御

 アメリカでは35年ほど前から家庭電化製品の中に多重制御の工夫が入り込み始めた。正面きっての多重制御ではなく、各電球や、扇風機の中に組み込んだモヂュールにより見掛け上の多重制御ができるようになった。

 一番良く売れたと思われるものは、電球のソケットの中に埋め込んだ切り替え装置で、壁のスウィッチを手早くOn、Offすると、明るさが三段階に変化するものであった。これは筆者もたくさん買った。ありがたいのは電球が極端に長持ちすることであった。タングステンフィラメントが冷たいときには、その抵抗が小さく1/12くらいしかない。そこに規定電圧を掛ければ、電流は12倍流れてフィラメントは急激に膨張して切れる。
 この素子はその突入電流 rush current を抑制するように設計されているので、ほとんど切れない。ざっと10倍くらいは持つ。点灯すると、ボワッと明るくなるのがわかる。パッと付くのではない。

 時間が来ると自動消灯する電球もあった。賢いことに30分経つと、点滅して警告を発してから、やがて消灯する。これは我が家のトイレの電球に使っている。これもソフト点灯するので、築18年で一度も切れていない。

 天井の扇風機と電灯は2本しか電線が来てない家庭が多かった。電灯だけしかなかったところに扇風機をつけたのだから当然である。ぶら下がっている紐を引いてファンとライトを切り替え、回転速度は手を伸ばしてロータリー・スウィッチで切り替えていた。これを壁スウィッチのOn、Offで、全てコントロールできる。手早くOn、Offするとモードが順次切り替っていく。このモジュールはとても小さくまとまっていて、天井扇のベースに収まる。我が家の天井扇にもつけてある。大変具合が良い。

 ややぜいたくなタイプは、壁スウィッチのパネルに3つのモードの切り替えと明暗、回転の無段階調整がついている。扇風機中のモジュールとの通信は、最初からある2線で行うので、配線を触る必要はない。

2009年06月14日

続 Route 66

Barringer Crater 筆者はRoute 66を何度も走っているが、一か所だけ行きそびれたところがあったので、昨年思い切って行ってみた。

 それは Barringer Crater であった。小学校の頃から「子供の科学」等でよく見た隕石孔である。バリンジャ・クレイタがRoute 66沿いにあることを知らなかった。

 Santa Fe 鉄道の拠点であるFlagstaffからそれほど遠くなかった。
 同行の栗生氏には無理を言っておつきあい戴いた。感謝している。

 この種のMeteor Crater(発音はメテオでなく、ミーティアに近い)はネバダ州の砂漠の中にたくさん残っている。バリンジャ隕石孔が最大である。しかしこれほど大きいとは思わなかった。"Meteor"は特急列車の名前にもある

 これは何万年か前に落ちたものだが、これが現在の地球に落ちると大災害になるだろう。陸上はもちろんのこと、海に落ちても大津波が発生するだろう。

 雨が降らない地域ではこのような形で残るが、日本のような気候ではたちまち崩れてしまう。この近くを走るSanta Feの本線の築堤も実に簡単に作ってあるが、崩れることはない。  

 

2009年06月12日

Route 66

Route 66 カホン峠はRoute 66の一部である。
 この峠の歴史については、この銘板をご覧戴くとよくわかる。サン・バーナディーノは、最初はモルモン教の人たちの居留地であったそうだ。

 アメリカのいくつかの峠を越えると、よくぞこの場所を見つけたものだと感心する。あの広い原野を馬で調査し、鞍部を探し当てるのは大変な仕事である。

 このカホン峠は、鞍部を越えるとかなり平坦である。峠の上の部分はHesperia という町で、ここには友人がいてよく訪ねた。
 カホン峠を線路沿いに登っていくとトンネルもなく突然鞍部に出る。少し手前からトンネルを掘ればかなり楽ではないかと思ったが、実際の標高を調べると頂上が平坦だから、トンネルを掘っても標高差は残る。すなわち現在のルートが最適解である。

 最近ルート66は脚光を浴びている。筆者の世代はこの歌をよく知っている。テレビでドラマもやっていた。シカゴからLA(ロスアンジェルスとは言わない)への最重要路線であった。普通の道は東西、南北に走っているが、この道は斜めに走っているのが珍しい。

 実際に走ってみると、ひどい道が多く、ブレーキ故障でたくさんの人が亡くなっている場所がある。


2009年06月10日

Cajon Pass のお立ち台

Elevation 4000Ft at I-15overview from I-15 カホン峠にはいくつかの有名な撮影場所がある。

 筆者は1973年以来、約25回程度ここを訪れている。最近はBNSFになって警備が厳しくなった。鉄道用地への立ち入りが厳しく制限されていて、Railroad Police まで巡回している。思えば昔はどこにでも簡単に入り込めた。

 昨日のコメントのSullivan's Curveあたりへは、そう簡単には行けない。車では無理で、歩いて行かねばならないが、夏は蛇がたくさんいるので危ない。いわゆるサイドワインダである。尻尾の先の輪をカラカラ鳴らしながら脅しをかけている。近寄ると襲われる。
 冬なら比較的安心であるが寒くて立っていられない。

 全体を見渡す場所で、最も簡単に行ける場所は高速道路の外の空き地である。この写真の標高 4000Ft の地点で右に出られる。そこには大パノラマが広がっている。高速道路が開通してからは、ここが目玉になった。ここは、鉄道の峠とほとんど同じ高さである。この場所から高速道路に出るには気をつけないとぶつけられるかもしれない。十分な車間距離があるのを確かめて車線に出るが、トレーラがたくさんつながって走っているので、それをやり過ごす必要がある。

 鞍部は向こうの方の送電鉄塔が2本立っているところの根元である。左の方のやや高い線路はUP(旧SP線)である。
  

2009年06月08日

続 Cajon Pass の守り人

Cajon Pass 以前、トールズ氏が植えた植物について興味深いことを話してくれた。
 10年ほど前、せっかく植えて根付いた植物を、公権力によって引き抜かれたことがあるそうだ。砂漠の過酷な環境でも根付く植物はまれである。線路沿いに生えていた日よけになりそうな木を植えたのに、National Forest内で無許可で木を植えたと実力行使されたのだそうだ。

 アメリカでは国立公園やNational Forest内ではRangerと呼ばれる人たちが強権を帯びて活動している。警察権まで持っているので、下手に逆らうとブタ箱に入れられる可能性がある。

 その後当局との交渉の結果、許可されたようだが、トールズ氏は憤慨していた。その経緯もこのサイトに書いてあった。

 このHill582には連結器が置いてあったが、最近の写真を見ると壊したトンネルの破片まで持ち込んだようだ。1913年に完成したらしい。95年間使用して廃棄したことになる。

 このHill582は道路から見えているが、実際に行くのは少々難しい。歩いて行けば簡単だが、車で行くには1キロほど西に行って線路を越えて戻らねばならない。乗用車でも行けるが、わだちが深いので、4輪駆動車なら楽である。ここから撮った動画がNortherns484氏のブログにある。ちなみに、その動画にちらりと映る人は筆者ではない。

2009年06月06日

Cajon Pass の守り人

Mr.Don E Toles カホン峠には、いくつかの「お立ち台」がある。絶景を眺める最高の場所が10か所くらいあるのだ。
 その中のHill 582という地点には手作りのモニュメントがあり、きれいに整備されている。写真のように植物もたくさん植えてあり、頂上も平にしてある。
 
 その場所を守っているのがこのToles氏である。地元と言ってもサンバーナディーノだから片道60キロくらいある。そこから毎日通って清掃したり、遠くからやってくるファンにアドヴァイスを与えている。
 
 もの好きと言えばおしまいだが、いつ行ってもお会いする。向こうもよく覚えていて、当方をカリフォルニア住民だと思っている。「日本から来ている」と言うととても驚くが、「来る価値があるところだ。」と言う。

 貴重な写真をたくさん撮り、それを公表している。このウェブサイトの写真の大半は彼が撮ったものである。

 今回は、トンネルその他の情報を詳しく聞いたので、その場所に写真を撮りに行くことができた。そのために進入する道路が鉄道用地であると、鉄道側にとがめられた場合、不利である。どの道が公道かという情報は彼に頼るしかない。面白いことに本線に沿った砂利道が公道であることがわかったので、その道を走った。西部開拓時代の馬車が通った道らしい。

2009年02月26日

続々々 雑誌の存在価値

 今年もO Scale Westに参加した。詳しくはNortherns4-8-4氏の報告をご覧戴くとしよう。この未曾有(みぞう)の不況下では趣味界も影響を受けていると思ったが、意外にもほとんど影響が見られなかった。

 要するに、皆さん余裕があるのだ。余裕の中からしか良いものは生まれない。出版社も余裕がある。同業他社を押しのけてなどという雰囲気は微塵もない。
 だからこそ、その記事には余裕が感じられる。瑣末なことはあまり書いてない。これは昔から感じていることだ。大きな方針を力強く推し進めていく編集方針は敬服に値する。

 日本の雑誌にそのようなところがあるだろうか。DCCにしても、これ以上の制御方式は存在しないことが、何年も前から明白になっているにもかかわらず、DCCを強く薦めるという記事などない。
 散発的には載るが、やや偏向した記事であったと思う。世の中には多数の機種があるのだから、せめて主な数機種を比較検討した記事があってもおかしくない。
 発煙装置にしても、DCCであれば電力はいくらでも使える。大昔の発煙装置の回顧など全く意味がないが、編集者がそれを書きたがるというのは問題だと思う。そんなことを書くくらいなら、現代の発煙装置について1行でも書くべきだろう。

 イコライズについても全く同様で、こうやりましたという記事はあるが、イコライズするとはどういうことなのかについては、ほとんど例がない。僅かに内野日出男氏の記事にさわりがある程度である。しかしバネとの関連の記事は全くない。

2008年11月06日

続 三相交流

3-phase power line 日本ではほとんどの電線路は三相交流で配電されている。その三本の電線の配置は、たいてい直線上にある。
 郊外の大きな送電用の鉄塔を見てもほとんど6本、12本くらいをそれぞれ直線上に配置している。
 米国の郊外にあるさほど電圧の高くなさそうな電柱を見ると、このような三角配置が大半である。この写真では、正三角形には見えないが、それは施工上の問題であろう。設計者は正三角形を考えていたはずである。
 
high voltage 3-phase power line この写真は、もう少し電圧が高い場合の送電線である。見事に正三角形になっている。この碍子は引っ張りに耐えるだけでなく、剛性のある構造である。どのような構成になっているか、知りたいものだ。三相交流で送電するとき、3本の導体を正三角形に配置すると、効率がよいはずである。最近話題の電磁波輻射による健康被害も低減されると思う。

3-phase power line3 これも正三角形である。これは簡単に作れる構造であるが、避雷の点で難しいところがあるかもしれない。


2008年08月28日

Jimのライオネルレイアウト

Jim's layout Jimは空軍を退役して人生を楽しんでいる。Dennisと教会で知り合うまで、互いに、空軍にいた事も鉄道趣味のことも知らなかったという。
 Dennisの家から車で5分のところに住んでいる。木彫りが大変上手で、面白い表情の人形をたくさん作っている。

 遊びに行くと、庭の8坪ほどの小屋を見せてくれた。入り口はカブースのデッキを模した作りで、中を見るとライオネルのコレクションが一杯であった。
 どれも良く走り、楽しい。特にギミックつきの車輌を集めている。


冷蔵車に氷を積み込む。

ミルク缶を冷蔵車から降ろす。
 
製材所で板を積み込む。
 
フォークリフトでドラム缶を積み込む。

 他に、牛が貨車に入ったり出たりする。階段を登って照明塔の修理をするなどどれもとても楽しい動きだ。

 Dennisに「スケールモデルの世界に入れ。」と永年誘われているが、腰が重い。

2008年08月16日

騎兵隊フリーク

Fort Chadbourne Garlandは砦を持っている。騎兵隊の時代の本物の砦である。500m四方くらいの広さで、城壁と将校用の住宅、兵舎、厩などが残っている。長い間放置されていたので、完全に崩れ落ちたのを修復したのだ。

 土地を碁盤の目に仕切り、機械で土を丁寧に掘り、それを篩(ふるい)にかける。すると当時のボタンとか襟章、銃弾、薬莢などが出てくる。それらを丁寧に分け、座標別に展示してある。

 建物はある程度までは現状を保存し、壊れたところは崩れた石を使って修復している。建物内部も当時の工法を用いて再現しているが、部分的に、断熱してエアコンを入れている。

 Gunと刀のコレクションは秀逸で、各種のものが集められている。実際に撃つことが出来る。銃剣をつけるとかなり重い。

 騎兵用の刀の使い方などを実際に教えてもらった。切るのではなく、突くためのものであることが分かった。彼は日本刀にも興味がある。

 この砦はすでにインディアンとの攻防が終わったあとのものらしく、籠城戦の備えはなかった。約20マイルおきに置かれて、伝令が走るための基地として用いられたようだ。

 軍の伝令のみならず、Pony Expressに類するものも走っていたようだ。これは初期の郵便システムであり、馬を全速で走らせて手紙を配達するために、後には駅間をやや縮めている。騎手は極めて危険な仕事であり、独身の若者が採用されたとある。体重制限もあったようだ。給料はかなり高く、当時の花形の職業であったが、電信の開通により廃止された。

2008年08月14日

バッファロを育てる

バッファロがやってきた Dennisの友人Garlandはバッファロを飼っている。

 バッファロ(アメリカバイソン)は、北米大陸に何千万頭もいたのだろうが、白人がインディアン対策としてそれを大量に殺し、事実上絶滅した。インディアンがバッファロを追って、やってくるのを防ぐには、バッファロがいなくなればよいと思ったからだ。

 その後僅かに生き残った群れが発見され、Yellow Stone National Parkで保護されてきた。そのうちの数頭を借りてきて繁殖させたのが彼である。これを見せたくて呼んでくれた。牧場の中に入ってもそのような群れはいなかった。持って行った餌をあたりにばら撒き、自動車の警笛を鳴らすと、どこからとも無く大群がやってきて、車の周りを埋め尽くした。ぶつかってくるので、車が左右に揺れる。

バッファロの群れ 「出るなよ。」と言われた。もちろん、怖くて窓を閉め切っていた。餌を食べてからは落ち着いたので外に出た。とても大きい。体重は2000ポンド(900kg)あるそうだから、何かあると命にかかわる。一週間に1回くらいは、このような餌付けをしているのだそうだ。意外とおとなしく、触っても動かなかった。生まれたときから人間と接触しているので、飼いならされているのだ。

 西部開拓時代にはバッファロの大群が暴走し、町が消えてしまった話を聞いた。線路上を数マイルに亘って埋め尽くして、汽車が走らなかったことも多々あったらしい。

 牧場を出て、彼の倉庫を見せてもらった。彼は南北戦争時代の骨董品を集めている。それをレストアして実際に走らせている。また、当時の大砲も持っていて、本当にぶっ放すのだ。

Stage Coach その最新作のレストア品はStage Coach (駅馬車)である。金属のばねと革で出来サスペンションは、かなりよい乗り心地を作り出す。このConcord CoachはOx-Bow Routeを通るの駅馬車会社Butterfield Stage Coachの車輌である。

2008年08月12日

続 Carlsbad の鍾乳洞

Bat Feight 世界遺産に指定された頃から、遊歩道が整備されて歩けるところが増えた。例のコウモリの穴から下って地下200mまで行けるようになったのには驚いた。この地図の青い線がその通路を示している。コウモリはその通路上を飛び出していくのだ。実際のコウモリの飛ぶ様子はこの図の100倍位である。本物は真っ黒の雲である。


ranger's talk in front of cave この写真はコウモリが飛び出す直前の様子。レインジャが説明のあと、背後の黒い穴から飛び出すのだ。

 この入り口から入ることにした。かなりの急勾配ではあるが、完全に舗装されている。下りはひざにこたえるが、1時間半ほど歩くと地底の大空間に到着する。

 その広さはサッカー場8個分と言われ、天井高は120mもある。秋吉台の秋芳洞などの比ではない。規模が2桁以上違う。

 以前はところどころに金網で出来たケイジ Cage があり、1時間ごとに子供たちをそこに押し込んで5分間全体の電気を消し、暗闇の世界を体験させていたが、それはもうやっていなかった。オリの中に入れられたのは12歳以下の子供で、安全確保のためである。"Jail"と言う人も居て、子供たちには人気の場所であったから、無くなったのは残念であった。

 レインジャの人にどうしてなくなったのかと問うても、皆若い人たちばかりで誰もその当時のことを知らなかった。逆に、「そのオリのアイデアは面白い。」会議で提案するから、詳しく教えてくれとせがまれたのには参った。

すれ違いで写したUP貨物列車 Abileneへの復路は往きと異なる道を通った。意外にもUPの線路の近くであった。すれ違いざまに片手で撮ったのがこの写真。



2008年08月10日

Carlsbad の鍾乳洞

側線上のUP Abileneから近い(と言っても300マイル以上)ところにCarlsbad Caverns がある。これは世界最大と思われる鍾乳洞で、洞窟好きの筆者にとっては行かざるを得ない場所である。20年前にも行ったことがあるが、その後かなりの進歩を遂げて、歩ける範囲がかなり伸びていると聞いたからだ。ニューメキシコ州に入ったすぐのところである。

車で5時間半掛かる。TP(T&P) と平行して走ると、貨物列車と抜きつ抜かれつの状態になった。少し先回りして待っていたが、ちっとも来ない。戻ってみると退避線に入っていた。

 筆者の興味は夕方7時30分のBat Flightにあった。そもそもこの洞窟が見つかったのは、夕方コウモリの大群が飛び出す穴があったことによる。大群といってもあまり実感は湧かなかった。

 そのコウモリの穴の周りには観客席が設けられ数百人を収容できる。レインジャ(Ranger)と呼ばれるガイド兼監視人の説明の後、コウモリが飛び出した。

 その数や数百万から2千万と言われる。黒い旋風が直径50mくらいの真っ黒の竜巻になり、30分以上もかかって出る。夕暮れの空に黒い雲が出来る。1秒当たり数千から1万くらいの割合であるから、向こうが透けて見えなくなる程の量である。

 正直なところ非常に驚いた。これほどまでに大規模とは思わなかった。コウモリの飛ぶ音が超低周波で腹に響き、独特の臭いがあたりを埋め尽くす。観客は、最初の一瞬は歓声を上げるが、そのあとは圧倒されて声も出ない。残念ながら、撮影禁止になっている。フラッシュを焚かなければよいはずなのだが、完全に禁止されている。

 コウモリは飛び出す時に直径100mくらいの垂直の穴を50mくらい昇らねばならないので、そこで反時計周りの螺旋を描く。整然とした動きで魅了される。その様子は、しばらく前の映画の"Green Mile”に出てくる死刑囚の口から出る黒い虫の大群を思い出した。その日は興奮のあまり、寝付けなかった。

2008年08月08日

続々 Texasの旅

Abilene T&P StationDowntown AbileneこれがT&P駅である。きれいにレストアされている。さすがに旅客駅であった当時の繁栄を彷彿とさせる。駅前にはホテルや新聞社、映画館が立ち並び、昔の栄光の日々を偲ばせてくれる。それらの建物は全て空き家になり、町並み保存会が管理している。映画館だけは、一月に3回くらいなつかしい映画を上映するそうである。


Abilene Burlington StationBurlington Station West SideこれがCB&Q駅である。薄汚い倉庫街の中にあり、うっかりすると通り過ぎそうである。この写真を撮っていたら、「買うつもりなのか。やめておけよ。こんな物騒なところなんか。」と声を掛けられた。「いや、鉄道ファンで写真を撮るだけだ。」と言うと、「えっ、これが駅なのか?!」と逆に驚かれる始末であった。

Corner Stones 建物の角は石がはめ込まれ、格調高いつくりではあるが、放置されて薄汚い。しかし、いまだに"Burlington Route"の文字が見える。ワークスK様あたりはきっとご興味がおありだろう。

2008年08月06日

続 Texasの旅

T&P Texas and Pacific鉄道は1976年にMissouri Pacific鉄道に併合され、その2年後にさらにUnion Pacific鉄道に併合された。しかし町の人は今でもT&P鉄道という名前に愛着を持ち、いまだに「TP Stationの方に行く」と言う。



UP Train Passing AbileneTo Trains 駅はかなり豪華なつくりで、当時の繁栄をしのばせる。現在は博物館になっている。荒れ地の中に突然出来た駅であろうから、周りの土地とは同一平面である。後に駅の辺りだけは地下の人道を作るために少し持ち上げてはいるが、それでも交差する道路は下を掘ってかなり深くもぐっている。駅から500mほど離れると一部の道路とは平面交差していて、列車が接近すると猛烈なホーンを鳴らす。その音が町中に響き渡り、列車が通過していくのが分かる。そういう意味では、鉄道に対するノスタルジィをいつまでも市民に感じさせ続ける町である。駅の近くの橋は大半がいまだに木製であるが、全く傷んでいない。乾燥した地域だからだろうが、たいしたものである。

Connecting lines Abilene Burlington Station T&P駅から数ブロック離れたところにCB&Qの駅がある。これはかなり見劣りがする。しかし、Chicago,Burlington and Quincy Railroad と書いてあり、Colorado Southern Railroadとも乗り入れしているとも書いてあった。
 現在は完全な廃屋であるが、当時はシカゴに直結する重要路線の一部であったのだ。

 その周りは倉庫街で、引込み線が網の目のように張り巡らされている。しかし、現在では半分埋もれてしまっている。以前はT&Pに対して立体交差で直交する線路があったが廃止されている。


2008年08月04日

Texasの旅

Old Abilene Texasの友人、Dennisとは長い付合いである。彼とは歳が近い。奥さんのKathyも気さくな人で、かねてより遊びに来ないかという誘いがあったのだ。
 この夏に2週間の休暇が取れることが分かったので、思い切って行ってみたという次第である。 

 Texasは過去二度行ったことがある。しかし2週間も同じところに居たのは初めてで、様子がよく分かった。Texasは広く、場所によって気候が全く違う。
 
 DFW(ダラス・フォートワース空港)からレンタカーに乗ってひたすら西に向かい、時差ぼけで眠りそうになるのをこらえながら3時間でAbileneに着いた。アバリーンと発音する(太字を強く発音する)。昔は南部から追い上げてきた牛の群れをここで貨車に載せ、シカゴに向けて送り出したのだ。全てがその目的の町で、家畜業者以外、誰も住んでいなかったという。
 1881年のTexas and Pacific鉄道の開通以前は、カウボーイたちがカンザス・シティまでさらに1000キロ近く牛の群れを追っていたのである。
 
 ここはWest Texasと呼ばれる高地で乾いた地域ではある。しかし、多少の降水があるらしく潅木に覆われた地域である。水道は池の水を使っているから、季節により多少臭いことがあると言う。飲用水は特殊なフィルタで漉して使うようにしていた。  
 
 現在は人口12万位の小都市である。郊外には広大な空軍基地があり、デニスはそこでB-1に乗務していた将校である。壁には"Captain”と大書された現役時代の写真が貼ってある。健康上の理由で退役したのだそうだ。小型飛行機も持っていたがそれも売却し、今は2002年型マスタング・コブラだけに乗っている。 いつも車庫に入れているので、新車のようにぴかぴかである。

2008年05月27日

Rod の貢献

Orange County Model Railroad Club 3 この写真は会場全体を見渡せる位置から写したものである。会場がいかに広いか、このモヂュラ・レイアウトがいかに大きいかがわかる。

 このような会合が、アマチュアだけで運営されているところが日本のJAMとの大きな違いである。当初はカリフォルニアのコンヴェンションはそれほど大規模ではなかった。Rod Miller氏が元締めになってからの進歩は大きい。彼のいないOSWは考えられない。

 ロッドはIBMの技師であった。退職後は鉄道模型の道に邁進している。彼の自宅には何度も行っているが、すばらしい工作機械をたくさん持つ、一風変わった模型人である。

Rod's Rivetting Machine この機械は、ロッドの工夫した手回しミシンを使ったリヴェット打ち機である。凄まじく速く打てる。なおかつ、間隔を無段階制御出来る。ミシンだから当然である。

 筆者は1988年にコネティカット州ハートフォードのコンヴェンションに行った。前出のBill Wolfer氏が呼んだからだ。その他シカゴの会合にもよく行くが、ここほど開放的でもなく、会場が広くもなかった。ワシントンDCであったときも、それほどすばらしいとは思わなかった。

 しかし、テキサスで行われた時は、かのJoiner氏がホストであったので、すばらしい演出であった。これは別格である。

 このOSW では売り場を少しずつ減らし、モヂュラ・レイアウトを増やしているように思う。全く無関係と思われたSゲージと組んだのも大きな進歩である。  


2008年04月13日

続々 Jerry Porter氏の模型哲学

 財産があって、時間があり、能力が溢れるほどあれば、伯楽という遊び方は楽しいに違いない。
 目をつけた人が、自分の導く方向に進み、どこにもない素晴らしいレイアウトを作るのだ。このArdenの場合はSゲージというあまり例のないサイズの鉄道であり、車輌は、すでにJerryの手の中で育てられている。彼はSゲージのメーカを仕切っているのだ。だから、車輪の規格の変更は直ちに出来た。
 
 なぜ彼がSゲージの道に入ったかは興味深い。N,HO,Oの世界はあまりにも大きく、一人の活動で大きな変化を与えられるかというと、Jerryほどの力をもってしても難しい。しかしSゲージでなら可能であったのだ。ほとんどの機関車、貨車はJerryの力によって生み出されていると言う。元は取れるのかと聞くと、「趣味だからいいのだ」と言うだけで、あまり頓着していないようだ。これも伯楽の仕事のひとつらしい。

 Sゲージとは何かという質問を戴いている。  
 Sゲージは22.5mmゲージ、1/64サイズである。日本ではこれを楽しんでいる人はほとんどいないだろう。Sのナローはたまに見る。
 Seven Eighth インチゲージ, One Sixtyfourth 1/64, Three Sixteenth inch Scale の三つのSからその名がつけられたそうである。  

 戦後すぐに、Sゲージの線路上を1/48の国鉄車輌が走るようにした人が居た。すばらしい着想であったが、どういうわけか、その試みには賛同者がほとんどいなかった。1/45,32mmゲージの0番という不可思議な方向に向かった結果、現在の日本の鉄道模型がある。その時の指導者のミスリードがすべてを複雑にしてしまった。これについては、いずれ項を改めて書きたい。
  
 

2008年04月11日

続 Jerry Porter氏の模型哲学

 模型を買い集める、そして作る。自慢する。そのレベルの人が大半だ。人はいつかは死ぬ。死んでも持っていけない。残しても迷惑になる。
 一番良い方法は、確実な後継者を作ることだ。子供がそれを受け継ぐかどうかは、不確定要素が大きい。信頼できる第3者にそれを委ねるのも、かなり難しい話だ。

 Jerryの話を書こう。結論を言うと、Jerryは伯楽になることにしたのだ。
 名馬は常にあれど伯楽は常にはあらず、という韓非子の言葉で有名であるように、名馬を見抜き、それを育てることが出来る人は極めてまれである。

 JerryはO Scale Westのみならず、あちこちのコンヴェンションを精力的に歩き、これはと思う人に話しかけ、自分の考えを話す。筆者も何度も話しかけられ、押して動くギヤLow-D車輪など高い評価を受けた。レイアウトを持っていると言うと、少し残念そうな顔をした。設計してやるのに、と言う。

 現在の彼の目標はArdenのレイアウトを作ることである。名馬は見つかったようだ。片道180キロを走って、Ardenの家に週3日手伝いに来ている。必要があれば、人手も世話しているそうだ。経済的にも援助しているようである。

 人生の中で模型を楽しむ方法はいろいろあるだろう。最終的にはJerryの生き方になるのかも知れない。「伯楽という楽しみ方があるとは知らなかった。」と同行の栗生氏も驚かれた。

 Jerryの生き方は、まさに最終解脱の域に到達しているのだ。筆者も残る人生をどう生きるべきか、大きなヒントを得た。

2008年04月09日

Jerry Porter氏の模型哲学

Jerry watching my Low-D wheel sets Jerry Porter氏は隠居の身である。この方も溢れ出る才能の持ち主で、何をしても成功するタイプの人間のようである。もともとは、精密機械加工の会社を持っていたらしい。
Intermountainブランドで、超細密キットを売り出し、模型界で名を挙げた。


 彼はその事業を売却し、悠々自適の生活である。インターマウンテンの製品は筆者も何台か持っている。常識では考えられないほど細かく出来ている。例えばタンク車のリヴェットが、丸いものと円錐形のものとを作り分けている。しかも、タンクの全周に亘って円錐リヴェットが正しい形に着いている。この型を起こすのに、どれほどの工夫があったかを考えれば、彼の非凡さが分かろう。しかし、製品群は、どちらかと言うと失敗だろうと彼は述懐する。

 あまりにも細かくて、組み立てられない人が多かったそうである。だから売り上げはそれほどは多くないとのこと。仕方なく、彼はその型をアトラスに売却し、アトラスはその組み立てを中国の職工にさせている。もちろん、一部の型はやや簡略化し、細い部品は針金で作って壊れ難くしている。下回りもダイキャストで作り、強度を持たせている。塗装済完成品で輸入し、膨大な量が売れた。


 また、レイアウトの設計手腕にかけては全米で3本の指に入ると言われている。数多くの有名レイアウトは彼の手になる。

 先日は、彼の哲学について話を聞いてきた。 

写真は、筆者のLow-D車輪を見るPorter氏  

2007年03月12日

続 運転免許

Vanishing Point ともかくも試験は合格で、その場で写真を撮り、指紋をとられて免許が交付された。確か10ドル払ったような気がする。「事故死したとき、臓器の摘出に同意するか?」ということも聞かれた。

 ワイオミングの友人の所に遊びに行って、「ほら、免許を取ったんだよ。」と見せると、彼は不思議そうな顔をして「ワイオミングには運転免許制度が無い。」と言う。12歳以上なら誰でも車を運転できると言う。そうでないと、子供が学校に行けないという。中学生になると、弟妹を乗せて学校に行くのだそうだ。

 その後ワイオミングにも運転免許制度ができた。かなりの反対運動があったそうだ。子供の通学権を奪うものだとデモがあった。当時ワイオミングには高速道路がなかった。国道があって時速55マイルでは走れたが、遠くまで行くにはかなりの腕と勇気が必要であった。1980年頃にI-80(全米を網羅する主幹高速道路網の一つ)が全通した。ワイオミングの住人が他州に出掛けて、事故を起こしたりするようになった。そのため、国家の法律との整合性が問題になり、運転免許制度ができたのだそうだ。

 ワイオミング州の田舎を走ると(どこも田舎ではあるが)、時々赤い三角帽子を付けた車に行き会う。"STUDENT DRIVER"と書いてある。これは通学用に学校が認めた車で、通学路線を日の出から日没までしか運転できないらしい。

 ワイオミングは本当に田舎である。時間と言うものが無いような気がする。朝と昼と夜は確実に存在するが、何時何分という感覚がなくなってしまう。
 たまには、そんな経験も良いものだ。

 

 当時、ネバダ州には速度制限がなかった。"at Appropriate speed”(適当な速度で)としか書いてなかった。だからスピード狂はネバダの砂漠の中で合法的にぶっ飛ばしていた。


2007年03月11日

運転免許

 よく考えて答えた。答案を試験官の所に持っていくと、ちらりと見て、「この答はこれでよいのか?」と聞く。
「はい、いいと思います。」と答えた瞬間に、「残念だったね。また受けに来なさい。」とやられてしまった。

 ガックリきて帰ろうと思ったら、「どうだい、もう一回受けてみるかい?」と聞く。「ええ、お願いします。」と受け取った問題を見ると、さっきとは全く違う問題であった。何通りかの問題があるようであった。今度は難なく解け、提出すると、"You are a lucky guy.”(運が良かったね)と、笑顔で合格証書をくれた。

 次は路上試験だ。自分の車を取って来いと言うので、試験官室の前に停めた。試験官が乗り込んできて、「運転できるか?」と聞く。「できます。」と答えると「それでは適当にその辺を走れ。」と言う。

「ほう、うまいじゃないか。それなら、そこでUターンしてみろ。バックできるか。」と次から次に指示を出した。まっすぐ走ってきたので、バックはハンドルを押さえてそのままバックギヤにしてアクセルを踏んだ。当然まっすぐ走る。試験官は「うまいっ」と叫んだ。「今までの中で、一番バックがうまい受験者だ。」と褒めてくれた。

「ところで、お前、英語は読めるか。」と聞く。「はい、なんとか」と答えると、スクールゾーンの標識を読めと言う。読むと、解説せよという。「この近くには学校がある。子供を見かけたら速度を落とさねばならない。黄色ライトが点滅しているときは停止せねばならない。」と答えると、「とてもよく読めるな。たいしたもんだ。外国人でそこまで答えられた奴は今までいない。」と言う。「英語は今までどれくらいの期間勉強したのか。」と聞かれたので「8年間」と答えると、「それにしては下手だな」と言った。

2007年03月10日

長らく休載しましたが本日より再開します。

driver license 筆者の個人的な用件も含めて、しばらくアメリカに行って居た。時差調整がなかなかできず、やや体調不良だが本日より再開させていただく。

 個人的な用事とは運転免許の更新である。昔とった免許を中断せず保持し続けているのにはいくつかの理由がある。

 まず、アメリカ国内での「信用」である。レンタカーを借りるにせよ、ホテルに泊まるにせよ、いくつかの場面で要求される。パスポート、国際免許でも用は足りるが、信用度が全く異なる。自動車保険でも、アメリカの免許と国際免許では料率が異なるはずである。

 五年ごとに更新だが、一回だけは郵便で可能で、十年に一回は必ず本人出頭が求められる。

 更新のたびに条件が厳しくなり、今年は場合によっては無理かと思ったが無事通過した。10年前には外国人であってもSocial Security Number国民総背番号が必要とされ、わざわざその申請をして、大変な時間が掛かった。今回は9.11テロ以降初めてのことであり、外国人には大変面倒なことになると思っていたが、意外にすんなり通った。写真は新しい免許証だが、偽造の助けにならないよう色を換え、解像度を極端に落としてある。


 一番最初に運転免許を撮ったときのことを思い出す。どうしたらよいかわからなかったので、とりあえず試験場に電話してみた。すると、
「自分の車に乗ってきてください。」と言う。「免許が無いのですが、」と言うと、「運転できるでしょ。」と言う。
「それはできますが、運転していいのですか。」と聞くと、「もちろんOKだ。もし警察に捕まったとしても、『今から運転免許試験場に行くところだ』と言えばよい。」

「そんなバカな。事故を起こしたら困る。」と言うと「「それなら今から保険屋に行きなさい。車を買ったから保険に入りたい。免許はない。今から取りに行くと言えば良い。」 

 保険屋でその通り話すと、「はい結構です。」と言う。半信半疑で試験場に赴いた。法規の問題を渡された。解かねばならない。当時の私には難解な法律用語がいくつかあって意味がとりかねた。

 試験官に「私は外国人で英語の難しい言葉が分からない。辞書を使っては駄目か?」と聞くと、"That's a very good idea"(それはいい方法だ)と言う。

                       <この項続く>


2007年01月12日

機関士と罐焚き

Ford Model T clubの画像より 決断を下してやってみて、駄目なら次の手を考えなければならない。全ての責任が機関士の方に掛かっている。残っている有効時間を考慮し、次善の策を練る。
 
 Richardが機関士になりたての頃はまだ若かったので、機関士の席から飛び降りて罐焚きを助けて投炭し、罐焚きを多少休ませることができる。どんな坂も2人で焚けばなんとかなる。当時は給炭機がなかったので急な坂では罐焚きがへばってしまうのである。罐焚きの能力不足で列車が遅れても、それは当然機関士の責任である。

 当時の機関士の給料はかなり多かった。資格の必要な電気工事技師、経験を積んだ大工、配管工よりもはるかに高かった。罐焚きより少なくとも40%多かった。

 父Richardは、1920年代に最初の車を新車で買った。それはT型フォードであった。
 それに乗って帰宅するRichardはどれほど誇らしかっただろう。現代の人たちには想像もできないであろう。馬車の時代にイギリスの田舎で育ち、アメリカに移民し、努力して収入の良い仕事に付き、ついに新車のオーナーになることができたのだ。当時、この車はかなり安くなってはいたが、決して誰もが買えるという時代ではなかった。

 最初、彼はこの国に来て自分の足と汽車に乗ってここまでやって来た。しかし、彼は馬なし馬車に乗ってどこにでも行ける。こうしてT型フォードは人々の生活を変えた。Richard Harveyの場合も例外ではなかった。

 最初、彼は車に乗ってRawlinsの西の外れにある池に釣に行った。道はでこぼこでよくパンクした。ちょっとした遠足でもそれは大冒険であった。彼はそれが大好きであった。彼はRawlinsの東の方に15マイルほど行ったPlatte川にもよく釣に行った。

 もう一つの楽しみとして、ウサギ狩りがあった。家族全員で行って、ウサギを追廻し、食事をして帰った。とても楽しい思い出である。 
  

2006年12月15日

続 地下室

 Bobのレイアウトではその後何回も保線には付き合ったが、とうとう、屋根裏のレイアウトはやめると言い始めた。不都合が多すぎて手間をかけるのがいやになったのだ。裏庭の地下を掘ると言う。

 「なあ、お前も日本に帰ったらレイアウトを作るだろ。絶対地下室にするべきだよ。多少金が掛かっても楽だぜ。」と言う。

 Bobの忠告を守って半地下のレイアウトを作った。確かに1年を通じて温度差は4度くらいのもので、保線などしたことがない。天井がやや低い(185cm)のは残念であったが、10cm深くするたびに乗用車一台分くらい余分に掛かるのであきらめた。背の高いアメリカ人が来るとかがんで入ってもらう。
アメリカの地下室はバスケットボールができるような深さにする家が多い。

 地下室を作るのは寒冷地では当然のようになっている。もともとは『凍上』と言う現象を防ぐためのものである。土が凍って家が持ち上げられないようにするのが目的であった。しかし、地下を機械室にして残りのスペースを子供部屋や娯楽室にしている例が多い。そこにレイアウトを作る人が多いわけだ。

 日本ではまず聞かないことだが、大陸では岩盤が固いので、地下に閉じ込められているラドンという気体が湧き出して来ることがある。ラドンは放射性の不活性元素で、地下のラジウムがα壊変してヘリウムとラドンになる。ヘリウムは分子が小さいのでさっさと逃げ出し、ラドンは残る。これがわき出してくるのだ。これを吸い込むと被爆する。日本は地盤が軟らかいので、脱け出したあとだから安心だ。

 余談だがこのヘリウムが抜けずに溜まっているところがある。そこを堀り抜けば、天然ガスに7%も含まれているヘリウムが取り出せる。それはオクラホマ州にある。そこでは、『世界一軽い貨物列車』が走っている。ヘリウム・タンカーだ。

 ちょうど我々がアメリカにいた頃、ラドンの湧出による被爆で肺ガンが急増したというニュースが流れた。借りていた我が家もラドン検出フィルムを買って一週間地下に置き、現像所に送った。結果は「痕跡なし」だったが、場合によっては「直ちに退去すべし」というのもあるだろう。

 日本ではラドン温泉というわけの分からないものもあるが、彼らは極端にラドンを忌避する。ちょうどその頃、ナショナル・ジオグラフィックという雑誌に、『日本人は放射性物質が好き』という記事が載った。友達がそれを見せに来て、冷やかした。
 
 その記事にはラドン温泉に浸かって嬉しそうな表情の老人が写っていた。これは国辱ものだ。そろそろこんな馬鹿なことはやめてもらいたい。ほとんど人間に害がない程度のものしか出ていないのだから、ラドンを標榜することはおかしなことだ。


2006年12月14日

地下室

 アメリカではレイアウトを数多く訪ねた。経済的に余裕のある人は庭に平屋の別棟を立て、そこで楽しんでいる。

住宅内にあるものは、大抵地下室にある。そうでないものは屋根裏にある。屋根裏といっても、仕上げてない居室という感じである。車庫の屋根を持ち上げて二階を作り,そこに作る場合もある。

 親しかった友人のBobは腕のよいタイル職人で、小さなといっても15畳くらいの屋根裏レイアウトを持っていた。このレイアウトの保線作業にはよく付き合った。季節の変わり目には電話が掛かってきて、手伝ってくれないかと言って来る。レイルの伸縮で不都合が起きるからだ。こんな保線はサーキット・テスタを使って二人一組でやればすぐ終わる。
 
 彼は住宅地に住むのがいやで、峠の高いところに住んでいた。峠といっても大陸分水嶺に近く、標高が2200mくらいはあるところだ。冬はマイナス50度になる。夏はやはり35度くらいにはなる。寒暖の差が80度を越すといろいろな点で不都合が起こる。

 厳寒期に遊びに行った。雪もマイナス30度以下では砂利と同様になり、全く滑らない。普通タイヤでも坂を登って行ける。帰りは遅くなるので、冷え込む夜半にもエンジンが掛かるかと心配したら、「なーに、このヒーターをつければ大丈夫だ。」と貸してくれたのは電灯線で働くオイルヒータとバッテリ・ヒータだった。エンジンのオイルパンの下に磁石で貼りつけるのだ。バッテリには小さい電気毛布みたいなものをクリップで巻きつける。確かによく効いた。こういう商品は日本では見ない。

 一番困るのは潤滑油である。そのレイアウトは居室ではないので、断熱はしてあるのだが暖房を切ると十数時間後には外気と同温になってしまう。グリースは石のように硬くなり、用を為さない。液体であるはずの油もシャーベット状になっている。Mobil1を使うべきだ。事前に部屋を2時間ほど暖めておかねばならない。すると、ブラスモデルはチリチリと音を立てる。伸縮により、ハンダ付けがはがれる音だ。韓国製のハンダ付けが怪しい車両は壊れていく。走らせて見ると突然大きな部品が落下することがある。どうするのかと思ったら、エポキシ・セメントでつけると言う。これが一番確実だそうだ。

2006年12月11日

コレクションの行方

Gary Herberger 縁起でもない話で申し訳ないが、お付き合い願いたい。

 近年友達を亡くした。そのGaryとは長い付き合いだったが、メラノーマ(視神経のガン)であっという間に逝ってしまった。ちょうど訪米の予定があり、一週間後に彼の家を訪問しようとしていたとき、病院に行くと連絡が入った。彼の妻Deniseは、「Garyは私の腕の中で死んだ。一人で死んだのではない。」とメールしてきて、それを読んだ私の家族は皆泣いた。
 それから一度弔問したが彼のコレクションについては忘れていた。彼の娘達には男の子がいたので、その子が趣味を継ぐのだろうと思っていた。

 その後e-bayで何となく気になる機関車2台があり、適当な値段をつけておいたところ、なんと意外な安値で、二つとも勝ってしまい、送金の通知を送った。
 たったの2人しか入札者がいないという不思議な状況で、相場の7割にも達しない価格であった。
 すると、よく知っている友人がその売り手で、返事には「あれは亡くなったGaryのコレクションだよ。オレが仲介を買って出た。」とあった。
 「それならもっと高くても買っていたのに。」と書くと、「Garyがお前のところに行かせたかったのだ。彼の意思が働いたのさ。ありがたく買い受けておけ。」と返事を寄越した。早速Deniseにメールすると、「あなたが買ってくれて嬉しい。私がそちらに行けば、また会えることになる。」と書いてきた。

 さて本題に入る。あなたの死後、あなたのコレクションはどうなるのか。ちゃんと趣味を受け継いでくれる方がいらっしゃればよいのだが、そうでなければクズ屋に二束三文で、ということにもなりかねない。

 アメリカのコンヴェンションに行くと、奥様方が甲斐甲斐しく受付その他の運営を手伝っている。日本ではあまり考えられない。
 中古の市場も成熟し、有能なブローカもたくさんいる。奥様達もここで売ればいくらになるということを知って、亭主の道楽を大目に見ているのかも知れない。
 あるときかなりの年配夫婦がかなり手の込んだ細工を施したBig Boyを自分のブースで3000ドルで売り、「35年前に500ドルで買って、35年遊んで3000ドルになれば安い趣味だよ」と喜んでいた。
「どんな収集品も持って死ぬことは出来ない。」これは確かである。

 我々の死後、友人が公正な方法で適正価格で処分するというのはなかなか難しいが、e-Bayを使うというのには驚くともに、そのしがらみのなさを活用する思い切りのよさには感心した。
 というのは以前ある方のコレクションを処分するのに、仕切った人の意向で妙なしこりが残り、気分が悪かったという話を聞いたことがあるからだ。 
  
 欧米のコレクションでは、オーナの存命中に管財人の弁護士を選任してあるのが普通だそうで、日本でも近々そのような時代が来るのかもしれない。我々のコレクションはとてもそんな大それたものではないが、適正価格で処分できればそれに越したことはない。
 そういう意味でのリセール・ヴァリュ評価システムをある程度確立させておくべきではないかと考えている。ブラウン・ブックに相当する各ゲージ別のものがあってもよいのではないか。

 いや、ちゃんとした後継者の育成が一番大切かも知れない。それともBig Boyの老夫婦のように、ある程度のところで見切りをつけて全部売ってしまうというのも手なのだろうか。

 日本の場合、コレクションの評価(リセール・ヴァリュ)ということにTMSのヤマ氏が否定的だったので、この模型趣味の社会的評価が高くなり損ねたという気がしてならない。趣味も経済と連動しているはずなのだから。


2006年12月10日

金曜日の夜

金曜日の夜 中学生の時、英語の教科書に「ウィークエンドは金曜の夕方から始まる。」と書いてあって、土曜のミスプリントではないかと思ったことがある。教師に聞いても、「そうだよな。」としか言わなかった。
 
 当時は週休二日などありえないことであったので、ほとんど誰もその違いについて分かる人がいなかったのである。

 その後、アメリカで暮らした時に、上記の表現はあまり正しくはないことが分かった。正確には「金曜日の昼から始まる」である。昼休みになると、皆うきうきとして、週末の予定を話す。早退するものもいる。
 

 アメリカのUP沿線の田舎町に住んでいたことがある。生活レベルは中の下くらいだろうか。
 物価が安いのでまずまずの暮らしであった。模型屋の店先で知り合った仲間に誘われ、HOレイアウト所有の家庭を訪問した。彼は鉄道員で小さな家に住んでいた。地下のユーティリティ(ボイラ、洗濯機などのある機械室)に狭い階段を通って入った。洗濯機などのすき間を有効利用した6畳程度の大きさのレイアウトであった。決して立派なものではなかったが、あちこちに工夫がちりばめられ面白い走行が楽しめるものであった。乾燥機の脇には小さな椅子が5個ありそこで交わされる会話は本当に楽しいものであった。毎月第三金曜日の夜はそこで集まり夜中の2時まで楽しんだ。気がついたら外は大吹雪で、車が埋もれてしまい、友人のジープで家に送ってもらったこともある。

 ここまで読めば、「なんだ、やっぱりレイアウトがないと面白くないのか」という感じを持たれるかも知れない。

 実は毎月そこで行われていることは、技能の交換なのである。旋盤を持っている人は誰かの仕事を引き受け、ロウ付けの腕がある配管工はそれを引き受ける。塗装の得意な人は…というわけで、集まるとそのやりとりが始まる。面白いのは仕事に対して対価があるが、それは$10とか$20という少額の現金である。しかしやりとりが終わると全員がほとんど±ゼロで帰っていくのだ。私は何もできることがなかったので日本からいくつか商品を取り寄せてさしあげた。
 この現金を介在させる方法はあとくされがなく、今思い出してもほほえましい光景である。

 アメリカでレイアウトを持っている人は確かに日本のそれより多いが、ほとんどが持っている、というのはとんでもない勘違いである。鉄道模型は作る楽しみ、集める楽しみ、走らせる楽しみ…がある。いくらでもやり方があるのだ。あの集まりの面々でレイアウトを持っていたのは一人だけだった。他のメンバーの家にも行ったことがあったが、戸棚一つと工作机だけという人も何人かいた。しかもその集まりには、ポテトチップスかコーラを1本持っていくだけである。それで一月楽しく過ごせるのだから本当に安いものだ。
 
 あの集まりがレイアウト無しで行われたとしてもそれはまた楽しいものだ。たまにはそういうこともあった。写真や本を持って集まり知識の交換会となる。大人の趣味とはこういうものではないだろうか。

 日本の趣味界で最も欠けているのは、ここで紹介したような助け合いの気持ちであろう。地域の仲間が特技を生かして助け合えば、実に楽しい交流が生まれる。そこに小額の現金を介在させることにより、貸し借りがなくなり、実にすっきりしたお付き合いができる。このようなシステムが機能すると面白いと思う。

2006年10月10日

塩が錆を作るが・・・

b8fd30ca.jpg 塩は錆のもとである。塩水を浴びると鉄は錆びやすい。しかしそうでもない場合がありうる。塩化マグネシウム(にがり)を含まない塩水では鉄はかなり錆びにくい。すなわち、塩化ナトリウムだけの岩塩を使う分には錆が少ないことが立証されている。要するに海塩を使うと具合の悪いことが起こるというわけである。
ドイツでは岩塩が取れるのでそれを撒いても鉄が錆びにくいそうだ。日本でよく用いられる塩化カルシウム(冬になると高架橋や交差点に置いてある)は、最近純度が上がったので問題がないが、以前はマグネシウムを含んでいていろんな問題を引き起こしていた。

 塩分濃度が高いとどうなるかという実験結果も出ている。興味深いことに、海水程度の3.5%くらいの塩水中の腐蝕が、一番激しい。どんどん濃くしていくと、錆びにくくなる。酸化剤としての酸素の溶解量が減るからであろう。

 住んでいた町の近くの塩湖に塩田があり、そこに遊びに行くと、ブルドーザがエンジンルームだけ水面から出して塩を押しているのに出くわした。キャタピラが完全に水没する深さで飽和食塩水に浸かっているわけだ。ここの塩田は太陽光の吸収がよくなるように、塩水の中に青緑色の染料を溶かしていた。意外なことに、キャタピラ、スプロケットいずれも錆の痕跡もない。白く塩が析出しているが銀色の鉄の地肌が出ている。

 近くに塩水に浸かったレイルもあったがこれもほとんど錆びていない。しかし少し離れたところにある鉄の杭は錆びていた。
 つまり、塩の濃度が高いと錆は抑えられる。しかし、マグネシウムイオンが多少は入っているので、ある程度薄まると錆が進むというわけである。

 この塩湖の塩分は、当時海水の8倍で、死海ほどではないがかなり濃い塩分を持っていた。
湖岸に簡単なリゾートがあり、泳げた。これは戦前の絵で、竜巻と火災で壊れる前の隆盛を示している。市の中心部から特別列車が出て、一日遊んで帰るということが行われていたそうだ。駅の跡地には客車の残骸もあった。

 1970年代はただ泳ぐだけの場所があった。機械で掘って深くしてある。そうでないと遠浅で、1キロ歩いてもヒザの深さしかないからだ。貸しレンガ屋というのがおもしろかった。1人50セントでヒモの付いたレンガを貸してくれる。それを足首にくくりつけて水に入ると、ちょうど首だけ出る程度に沈む。それを付けないと、バランスが悪く、腹が浮いて頭が沈む。シャワァ用には巨大なタンク車が真水を運んできていた。確か25セントで使い放題だった。

 その後、気候の変動で湖水の水量が増し、せっかく作られた新しいリゾートは水没した。お化け屋敷みたいになった様子が今日の写真である。
 湖水の塩分もかなり減って、塩田は殆どが廃業した。 

2006年10月09日

錆が少ないわけ

8d936467.jpg アメリカで生活し始めた頃、日本と違う点を一番感じたのは錆が少ないということだ。 それにはいくつかのファクタがある。順に挙げてみよう。
 .撻鵐の使用量と質が違うこと。
 ⊆承い少ないこと。
 K瓢処理が当然のように行われていること。
 こご澆ら遠いこと。


 .撻鵐はとにかく安く、塗り方も工夫されている。当時ロ−ラ刷毛というものは日本では見たことがなかった。家庭用の吹付け機(しかもエアレス方式)が安く売られていた。水性エマルションペイントが当然のように安く売られ、しかも隠蔽力がよい顔料と耐久性のあるバインダ(要するに固まる油のこと)が組合わされている。私自身ペンキ塗りは好きで実家の手すりや塀などを塗ったことが多々あるが、耐久性が全くなかった。それに比べてアメリカのペンキの塗りやすく、長持ちすることは驚異であった。よく友達の家のペンキ塗りを手伝った。

 確かに湿気は少ない。しかし屋外のものは、ペンキを塗らなければならない。室内のものは全く錆びない。手を触れると、掌の汗の塩分が付き、そこだけ錆びる。模型のレイルも鉄製のものが多いが全く錆びない。

 0 ̄瑤瓩辰の使用量が極端に多い。当時日本から輸出された自動車は床が錆びるというクレームが多かった。高速道路に塩をまくことが当時の日本の限られた高速道路ではほとんどなかったので、経験できなかったからだ。米国北東部では、冬季の塩の消費量はすさまじい量だ。塩化物イオンは鉄の表面の酸化膜に穴を開け、そこからの腐蝕を容易にする。鉄はもともと酸化されやすく、ほんのわずかではあるが不働態化している。塩がそれを破るのだ。
 日本の自動車産業は鋼板に片方だけ亜鉛めっきすることを始めた。しかもめっきしてから加熱し、表面だけではなくある程度まで亜鉛を浸透させるという離れ業をやってのけたのである。あたかも冷たいパンにバタを塗り、トースタで焼いて滲みこませる如く。これが大成功を収め、問題の多かったガソリンタンク内側にも採用された。その結果、日本製の車の燃料系統のつまりは、ほとんどなくなった。

 また、亜鉛微粒子を含む防錆下塗りペイントが、どこでも入手可能なことが大きな要因の一つであろう。屋外で使うものは必ずこれを塗ってから上塗り塗装するのが常識となっている。

 い海譴楼娚阿斑里蕕譴討い覆い海箸任△襦3ご澆ら約100kmまでは、海水のしぶきに含まれる塩が風に乗って飛んでいく。日本で海岸線から100km以上のところは長野県の一部だけである。すなわち、日本ではどこにいても鉄は錆びることになる。
 この塩の微粒子はどこにでも入り込み付着する。それは水蒸気を集め、水溶液となって鉄の腐蝕に参加する。したがってアメリカの内陸部、すなわち大半の地域では、室内の鉄は錆びない。
 私はレイアウトを作るに当たって、風が入らないように気密な部屋を作り、エアコンで湿度を40%台に保っている。おかげで鉄レイルは全く錆びない。
 
 写真は工事中のレイアウトの一部である。鉄レイルで出来たポイントの様子をご覧いただきたい。ガードレイルは、しばらく屋外に放置し、少し錆びさせて取り付けてある。

2006年09月04日

おみやげ

0f57dbaf.jpg Billの父親も鉄砲鍛冶であったそうだ。この種の職業は往々にして世襲である。
 日本には鉄砲鍛冶という職業は殆どない。銃砲店でさえも、顧客の猟銃の手入れをする程度で、一から作るところなどまずない。
  
 時々、試射をするから付き合わないかと言う誘いがあった。初めの内は興味津々でついて行ったが、だんだん事情がわかってきた。試射とは危険なものらしい。その銃が破裂するかも知れないのだ。肉を薄く作った試作品は、Bill自身も怖いらしくて、銃を固定し引き金に紐をつけて発射する。何発も撃って、変形していないかマイクロメータで寸法を測定する。「特殊鋼を手に入れたから次はもっと軽いものを作る。」と嬉しそうに語っていても、試してみるまでは何が起こるかわからないから怖いものらしい。


 ライフルとは実に良く当たるもので、100 m先の空き缶のど真ん中を撃ち抜くことができる。ピストルでは10 mくらいまでしか当たらない。
 照準用のスコープの調整をするのは試射をしながら行う。

 帰国する時、Billが小さい箱を持ってきて差し出した。
「これ、記念に持っていけ。」
 開けてみるとぴかぴかの35口径のリボルヴァ6連発であった。
「これを持って帰ると刑務所に3年くらい入ることになる。」と言うと、
「日本は正当防衛でも刑務所に行くのか。」と聞く。
「いや持っているだけでも犯罪で、警察官などの特殊公務員以外所持は禁止されている。」と説明すると、
「日本ではオレは失業だ。」とため息をついた。
「まあ、いいや。またこちらに住むようになったら取りに来い。」と言ってくれた。残念ながらBillはその4年後にガンで亡くなった。
ガンと言うのは悪性腫瘍のことである。念のため。


 ところでこれは何であろうか。
 ヒント: 宝石屋にあるかもしれない。

2006年08月29日

アウト・ハウスとは

248b8663.jpg 先日のクイズお分かりになりましたかな。

 正解はこれ、"out house"だ。要するにポットン便所である。60年代に絶大な人気を博した商品で、古いレイアウトを訪問すると必ず見かける定番商品であった。

 実はアウトハウスの意味がわからなかった時期があり、現物を見るまでかなり悩んだ。
 どういうわけか、三日月の窓が付く。便座はちゃんと取り外し式で掛ける所もある。いっぱいになったらどうするのだろうと悩んでしまうが、小屋を倒して中身を始末するようだ。単なる穴のときは平行移動するようである。

 このまま組むとかなり立派になるので、焼きなまして裏からたたいて、よれよれにするのがコツらしい。いかによれよれにするかで、競争していた人たちもいた。

 裏庭に実物を建てて、レイアウトに「実物大はこちら」という立て札を立てるのもはやった。奥さん方はさぞかし怒るだろうなーと思った。最近とんと見なくなったのは残念である。

 実はこれをお見せしたのには訳がある。これをハンダ付けで組むのが不得意な人が多かったのだ。たしかにコテ先が入りにくいところもある。Billはアルミでジグをつくりフラックスを塗って板をアルミ線で縛り付けた。バーナで炙り、所々に糸ハンダを接触させた。あっという間に出来上がりだ。そのまま冷えるのを待ち、次のを縛る。

 この技法は最近の客車の製法に使われている由。ジグに妻板と側板、屋根をはめ込みフラックスで練った粉ハンダを塗りつけてトンネル炉を通すだけらしい。最近の客車の内側でハンダが全くはみ出ていないものは、その方法で作っているとある事情通が言っていた。

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