マイティ800

2016年02月23日

UP FEF3

Mighty 800 順に様々な機関車を走らせて様子を見ている。
 これはUPの4-8-4の最終型で、Tom Harveyが "flying machine"と言った高性能機関車である。16輌編成(1000 ton)の列車を単機で牽き、ディーゼルの牽く列車に勝つことができた機関車だ。5000馬力以上を連続して出すことができる機関車は、他に極めて少数しかない。しかも航続距離が長いという点では、この機関車は抜きん出ていた。

 Tom からいろいろな話を聞くうちに、この機関車が欲しくなった。祖父江氏が作ってアメリカに輸出したカツミ製の機関車を2輌、手に入れたのだが、走らせてみると出力に不足を感じた。音も大きく、電流は4 Aも喰う。
 効率計算ができた3条ウォームを取付け、モータはエスキャップの大出力コアレスモータを使うことで、どのような設定ができるか試算してみた。この機関車は性能を事前に策定した機関車であって、考えられる最高の性能を発揮するように作られた。そういう意味では、おそらく世界で唯一の模型機関車である。 効率は50%を超えている。とれいん誌の123号に詳しい記事がある。
 その他の機関車は、この成功を受け、大体この辺りでよかろうという設計である。すなわち限界までの性能は期待していないが、それで十分なのである。

 プルマンの10輌編成を牽いて1.56%の坂を駆け上がらせる。それをご覧になった方は、どなたも「おおっ」と声を出される。重い列車を軽々と牽いて、新幹線並みの加速が可能である。最高速は200 km/hは出る。効率が50%を超えると、信じられないほど動きが軽やかである。残念ながら、すでにDCC化されているので、効率計算はできにくい状況だ。
 DCの時代には、2輌を同一線路に置いて片方を押すと、発電してもう一方が走った。

 模型の機関車は、動輪径が大きいほど効率が良い。回転数が少ないからだ。回転が多いと、様々な摩擦が付随して起こり、損である。そういう意味でも、ギヤ比が大きな機関車は概して低効率である。効率を上げるには、低回転で大トルクのモータを採用することである。

 先回、PRRのQ2の効率が意外に低くて不思議だったが、その謎が解けた。おマヌケなことに、客車の車内燈や前照燈の電流を差引くのを忘れていた。補正後の計算では、ちゃんと40%台をマークしていた。

2014年12月13日

San Francisco Overland

SFO Overland Ltd この絵は30年ほど前、K君が描いてくれたものだ。当時、80坪の部屋を格安で借りていたことがあり、Oゲージの運転会をした。彼は筆者の重連を見て、描きたくなったのだ。資料として、”Sherman Hill” という本を渡し、その中の写真を元に構成してくれたものである。

 博物館建設を機会に新しい額に入れて、キャプションも更新して、飾った。照明の関係で、色再現が良くないが、実物はすばらしい。

 1946年当時、ヘヴィ・ウェイトの客車を中心に構成された特急で、重いので重連で牽いていた。すばらしい光景であったろう。Tom Harveyのお父さんが機関士をしていたはずである。
 この列車は、27列車と言う番号が振られている。1-27というのは、その第一セクションである。すなわち、続行運転をしていた。2-27とか、たまには3-27もあったらしい。列車間隔は30分程度だと聞いたが、詳しいことはわからない。
 当時は対日戦争が終了したばかりで、西海岸までの旅客需要が非常に多かったので、このような運転形態を取った。 

 キャブの側壁最後端にはスモーク・シールドが付いている。Smoke Shieldとは、煙突から飛び出す不完全燃焼の石炭ガラがキャブ内に巻き込まれるのを防ぐために取り付けられた板である。キャブの天井には三重に付けてある。
 筆者の機関車にも付いている。展開図は扇形の一部で、正確に切り出して作るのは、むずかしい。筆者は帯板を丹念に叩いて片方だけ伸ばし、屋根にぴたりと合うように円弧を作った。
 加工硬化しているので、重い機関車を天地逆に置いても、シールドが曲がることが無くて、好都合だ。もちろん、屋根の孤に合わせて、隙間なくハンダ付けしてある。

 1948年ころにはかなりの機関車から、シールドが外されている。炭鉱ストで重油焚きに改造されたからだ。重油を燃やす時にはシンダが発生しない。



2012年10月19日

続 FEF3

712_5556-2 この機関車の重さは尋常ではなかった。抜き取った鉛の錘は3.2kgもあったのだ。もともとボイラに入っていた鋳鉄の錘は半分に切ってテンダ床板にネジ留めされていた。外した錘は全てデニスに進呈した。
 デニスの説明によるとJerry White氏はLobaugh社に居た職人らしく、造形力に優れた人であった。ありとあらゆる改造を引き受け、カスタムビルドもしていた。

 1960年代はOゲージの全盛期で、牽引力コンテストというのがあったそうだ。要するに、重い機関車を作り、大きなモーターを積む。それだけの話である。そこには効率という概念は入っていない。
 Oゲージ車輌は重い。HOでは補重することを念頭に動力車を作るが、筆者のOゲージの場合は、どうすれば軽くなるかをいつも考えている。被牽引車の摩擦が少ないので、粘着力を稼ぐ必要が無いからである。筆者の4-8-4は4kg以下である。これは8kg以上あった。こんなに軸重があると、フログがすぐに潰れてしまう。
 さて、重くするにはボイラ全体に鉛を詰め込むに限る。融けた鉛を入れる場合もあるが、彼のようにボイラにきっちり入る錘を作る方法もある。シリンダの中にも入れることがある。
 慣性質量が大きいと、事故時の被害は甚大である。今回の機関車のようにパイロットは壊れ、線路も壊れる。ストラクチュアに突っ込めば、それは全損である。

ktm844_17 キャブの損傷は屋根だけである。曲がっている部分を伸ばして、シンダ巻きこみ防止のフィンを付ければ、ごまかせる範囲にあるかもしれない。新しいキャブと取り換えても、労力は知れているが。



ktm844_11 ナンバ・ボードが一つ無くなっているが、新製するとしたら、点灯する行燈式にする。ボイラ頂部に何も付いていないのはさびしいので、ラッギング・クランプを付ける積もりだ。せっかく塗装がしてあるので、それをはがさずに加工しようと思う。塗装はやや荒っぽいが、自動車用のプライマを塗ってあり、はがれにくい優秀な塗装だ。

2012年10月17日

FEF3

712_5555-2 またまたFEFを入手した。これで7輌目だ。昔は、同型機を番号違いで複数輌そろえるなどということは、全く考えもしなかった。色々な機種を揃えたいという願望の方が強かったからだ。
 レイアウトを持つようになると、ある時代のある地域に走っていた機関車以外、興味が薄れて行く。レイアウトの設定から縁遠い車輌は段々と出番が少なくなり、陳列ケースの中に入ったまま出て来ない。
 4-6-6-4チャレンジャも好きで5輌持っている。Big Boyは2輌しかない。あと同時代のマウンテン、パシフィックやミカドなどを何輌かずつ持っている。

 思えば安くなったものだ。筆者の最初の4-8-4は800ドルほどもした。308円/$の時代だからかなり高価なものだ。収入の少ない時代に、生活費を節約して購入した。それを完全にばらして何度も作り替えた。その後祖父江氏と知り合って、その機関車は彼の工場へ何往復かしている。アメリカにも数往復したように思う。
 その後、この機種を見かけるたびに、適価だと思えば、迷わず購入した。

FEF pilot brokenFEF pilot fastning screws その後、相場は1200ドルほどであったが、段々価格が下がってきて、先回は700ドル程度だった。85円/$だったから知れている。ところが今回は驚いた。多少の損傷のある事故車であったからかもしれないが500ドルを切っていた。78円/$だから4万円を割る価格だ。
 キャブの屋根の曲がり、ショックで分解したパイロット、そして多少凹んだ砂箱の所為で、こんな価格でも誰も応札しなかった。最低価格での落札である。
 もうすでにアメリカ人は、ハンダ付けをしなければならない修理品には手を出さなくなったのだ。パイロットを留めていたネジは、剪断力を受けて切れる寸前だった。

 筆者はパイロットの予備を持っていたし、キャブのスペアもある。砂箱も多分持っているが、うまく下から叩き出せば、やすって直せる範囲にある。こういうときは板が厚いと削り代があって助かる。祖父江製作所製だから、板が厚い。

 テキサスに滞在中、この機関車が届いた。デニスは、「妥当な値段だ。」と言う。「値切ればもう少し負けたかも知れないな。日本製の機関車の真価を知るものが減ってきたからね。」

 この機関車は異常に重かった。そのせいでパイロットが壊れたのかもしれない。錘を鉛で鋳造して、ボイラの中にきっちり詰まるように旋盤で挽いてある。それを取り出している時に、デニスは「オッ、これは当たりだぜ。Jerry Whiteのドライヴが入っている。」と言った。この件については、いずれ項を改めて紹介する予定だ。

FEF with new pilot パイロットを取り換えただけで十分な見栄えだ。 

2011年11月13日

続々々々 FEF1

GOW_2918 テンダの連結器も上回りに付いている。本来は外して下回りに付け替えたいのだが、かなり面倒な工作になるので、思い切って、メタルタッチ方式にして、床板を補強することにした。

 衝突時の力は床板に取り付けた角材に伝わる。しかし床板が弱いと、それが曲がって、上回りの変形を許してしまうことになる。
 要するに、堅い床板を作り、衝突したら全てを床板が受け持ち、上回りには影響が及ばないようにしなければならないのだ。現在のままでは、衝突するとテンダの上回りにめり込み、修復に多大の時間が掛かる。
 あるいは、それを見越して14輪テンダに取り換えるという手もある。実物もかなりの数がセンティピード・テンダに振り替えられている。

 これはChallenger、Big Boy用テンダと同じ軸配置でそっくりだが、肩の形が違うものだ。ときどき中古市場で見かける。FEFはChallengerと比べると、運転台床高さが低いので、屋根の深さが大きい。後者の屋根の曲率は小さいのだ。それがテンダの肩の形に影響を及ぼしている。HOのFEFテンダには一部正確でないものがある。Big Boy用のを流用したのだ。これは意外と気が付いている人が少ない。前から見ると、キャブとテンダの外形が連続していなければならないから、間違っていればすぐ判る。

 動輪はバランスウェイトが飛び出していて、なかなか良い。ということはロッドは薄いということだ。クランクピンは弱いので捨て、新製した。動力機構は新製である。出力8Wのコアレスモータを取りつけたので、かなり重い列車を高速で牽ける。

 上廻りは比較的よく特徴を捉えている。塗り替えれば十分使える。いつものように、機関車の下廻りをほとんど全交換してしまったことになる。

2011年11月11日

続々々 FEF1

GOW_2921GOW_2922 テンダのドロー・バァのピンが、非常に薄くて弱いロストワックス部品に付き、それがテンダの妻板にハンダ付けしてあるという信じがたい構成である。すでに力が掛かってハンダが外れ、かろうじて端を留めているネジで引っ掛かっていた。本来なら、端梁は床板の一部である。鋳鋼で一体に成形されているからだ。この模型では端梁が上回りについている。押されたときにハンダがはがれるのは当然である。力が床板に伝わる前に端梁のハンダが外れる方向に力が掛かるという間抜けな設計であった。

 4mm厚板から削り出して床板を延長して強度を出す。この部分と、薄いロストワックス鋳物の内側が接触(メタル・タッチ)するようにヤスって調整する。そうしないと衝突時にバッファが押されて凹む可能性があるからだ。ピンを挽き出してネジ込んだので、これで大丈夫だ。力は床板に伝わり、上回りは無関係になった。
 床板は0.8mm厚しかないが、折ってチャンネルにしているので、かなり丈夫である。軽衝突時にこの厚板の周りがひずんでしまうのを防ぐために、床板の裏側には1mmの板を大きく切って貼った。力を分散させるためだ。

 衝突は色々な場面で起こりうる。たとえば、列車を連結しようと後退している時、速度が速いとうっかり衝突することはある。相手の質量が大きいので、Static Barrier(固定された障壁)とぶつかるのと同じだ。
 対策としては、連結器の取り付けネジを弱い材料にするのと、ドロー・バァ・ピンをあまり強い材料で作らないことぐらいしかない。筆者の鉄道では全て自分で挽き出したブラスのピンである。適当な強度があり、なおかつ非常時には曲がり、最終的には破断する。
 要するに連結部分が壊れて、テンダ本体、機関車に被害を及ぼさないことが必要であるということだ。 

2011年11月09日

続々 FEF1

DSC_2896DSC_2894DSC_2895 パイロットは、全くどうしようもない。捨てるか作り直す必要がある。へろへろの薄い板で取りつけられているので、すぐ曲がってしまい、話にならない。(塗装をブレーキフルードではがしたばかりで、完全には細かいところの塗料のクズを取っていない状態で写真を撮った。多少の剥がれ残りは爪楊枝でつっ突くと取れる。)
 これは、Commonwealth Drop Couplerというタイプだ。手持ちの部品があったはずなのだが見つからないので、とりあえず補修する。多少の衝突に耐えるようにムクの角材から補強部材を削り出し、カプラは上下にスウィングするようにする。この模型はパイロットの表面しか作っていず、カプラは見かけだけのものを取りつけている。
 メインフレイムもシリンダ前が薄すぎるので、切り離して新しいものを付けるべきである。パイロットの取りつけ穴はあるのだが、その取り付けの土台がないからである。また、カプラは上下にスウィングするはずなのに、変な所に横梁があって、そこにカプラが付けてあった。構造を考えることができない人が作ったのだ。 

DSC_2899DSC_2903 エアポンプ(空気圧縮機)の取り付け部も、へろへろの薄い板で出来ていた。本物は丈夫な鋳鋼一体構造である。エアポンプの鋳物は何度もゴム型をとって鋳縮みしているらしく、妙に小さく、気分が悪い。新しい鋳物に取り換えることにする。機関車の魅力はその顔にあるはずだ。パイロット、スモークボックス・フロント(煙室扉)、エプロン(パイロット後部のエアポンプ周辺)あたりの構成が大事である。このエアポンプのサポートは太い角材で斜めに支えるようにすれば、造形上はぐっと良くなるはずだ。現在はあまりにも情けない。
 先台車はショートしたらしく、前の持ち主がプラスティックの車輪に替えたようだ。また、先台車のセンタの位置もおかしく、シリンダ中心より前にあった。先台車枠の中には鉛の塊が嵌め込んである。これは工場で鋳込んだのだ。バネ下質量が大きく、追随性が悪くなる。先台車こそ、最も軽く左右に動かねばならないものだ。
 結局、全部捨てた。復元力を強くすれば、ショートなど起こるはずもない。

GOW_2920 これは機種が違うが、祖父江氏が50年も前に作っていたCommonwealth Horizontal Swing Couplerである。実物と同様に骨があり、後部は裏打ちしてある。多少の衝突に十分耐える。このような模型を作れる人はもう現れないのだろうか。

2011年11月07日

続 FEF1

GOW_2916GOW_2918 祖父江氏は20年ほど前、韓国製機関車の攻勢に対して次のように述べた。
「韓国で機関車をどんどん作ってやがるが、まだ俺の敵じゃあねえよ。当分大丈夫だね。ほら、このフレイムを見てご覧よ。角棒から作っていい気なもんだが、全部同じ幅だよ。こんな機関車があるもんか。
「何も分かっちゃいねえよ。こんな機関車を買う奴が居るから、図に乗ってるんだ。」
 
 当時、アジンをはじめとする韓国勢は大型の工作機械を導入し、ブラスの太い角棒からフレイム全体を削り出した。それ以前の、プレスで抜いた物をハンダ付けした怪しいフレイムから脱却したつもりだったのである。プレスで抜いたフレイムは抜型が材料を圧迫するたびに伸び、軸距離に誤差が生じているのだ。

「フレイムの後ろは平行じゃねえよ、ちゃんと絞られてんだ。ここんところが細く絞られた機関車が出てきたら、いよいよ俺も飯の食い上げってこったよ」。

 その10年後には、彼はこう言った。
「ちっとも出て来ねえじゃねえか。ま、大丈夫だな。」
というわけで、結局のところ、祖父江氏は最後まで逃げ切ったことになる。

 この機関車もフレイム後半を鋸で切断し、火室を避けた形に祖父江氏の削り出したフレイムと交換した。火室後端を二か所支えるようにし、キャブはボイラにぶら下がる。インジェクタもフレイムに取り付け、キャブとは縁を切る。ボイラ支えは写真の白い2本のネジで留められている。
 従台車はバネを深くし、台車枠をフレイム下の平面内を首振りするようにする。要するに従台車はフレイムと平行な面内でしか動かない。走らせると安定して素晴らしい実感だ。フレイムと直角の丸棒は、意味がよく判らぬ復元装置風のものである。

 バネ式で、筒の中に入っている。それが従台車フレイムの内側に当たっていて、復元するはずなのだが、設計が間違っていて、単に両側に押し開く力が大半で復元力はバネの力の1割もない。これも捨てることになる。バネ式では中心付近の復元力が無いに等しいので、工夫したらしいが、やはり間違った設計だ。従台車は例の方法で復元することにした。中心ピンから一番遠いところで復元力を発生させなければ、「テコの原理」で損をすることぐらい分からないのだろうか。

2011年11月05日

FEF1

DSC_2847FEF engineer side



FEF fireman side




 FEFとはUPの4-8-4であり、Four-Eight-Fourの略である。初期のタイプで1937年に作られた。動輪径はやや小振りで77インチ(1956mm)である。この模型は韓国製であり、筆者のコレクション中、最も近年に購入されたものである。筆者のところには韓国製機関車はほとんどない。これ以外にはUP9000が2輌とパシフィックが1輌だけである。 それらはすでに改装済みである。
 
 実は、筆者としては珍しく、この機関車をスクラッチビルドしようと準備をしていた。図面を手に入れ、部品集めを始めたのだが、多忙で始めるところまでは行かなかった。
 メインフレイムの作図も済み、full equalized, sprung modelとなるはずであった。フレイムはCNCで彫り出す一体型である。ボイラもある程度の作図が済んで、板を丸める3本ローラも用意した。

 3年前、O Scale West で、筆者の向かいのブースにこの機関車が置いてあった。「売れ残ったら買うよ」と言っていたら本当に売れ残ってしまい、格安で手に入れた。ひどい塗装がしてある。
 しかし、買って後悔した。余りにも出来が悪い。正直なところ、滅茶苦茶である。どんな人が設計したのか知らないが、工学的素養が全く感じられない。これは単なるお飾り模型であって、まともに走らせるとばらばらになってしまう。インポータも工学的素養がないことは明白だ。上廻りは実物の写真を何枚か見たようで、まずまずである。

cab supprot 例によって下回りを作り直すことにした。祖父江氏に見せると、「俺にやらせろ」と仰る。「こういうのを見ると、許しちゃあ置けないんだよね。」というわけで、預けた。その途上で氏は亡くなり、残りは自分でやることになった。

 何がおかしいかというとフレイムのシルエットが完全に間違っているのだ。主台枠が真っ直ぐな棒で、火室を貫いている。そんなバカなはずはない。また、この機関車はキャブがボイラにぶら下がっているタイプである。すなわちフレイムとキャブは何の関係もない。それなのに、模型の設計者はキャブをフレームから生やした足で支えたのである。
 国鉄のC59はこの機関車を参考にして作られた。島氏はこの機関車の図面を見ている。筆者は詳しくないが、C59のキャブは下を支え、ボルトでボイラ後端上部から吊ってあるはずである。また、燃焼室の作りも似ている。

 模型のメインフレイムの幅は、最先端からドロー・バァ取り付け部まで同じ幅でできていた。これこそが祖父江氏の「けしからん」と言いたいところであった。

2011年06月17日

続 Layout Tour in Chicago

09400949 Leider氏は若いころアイダホ州に居た。このレイアウトはその当時の田舎の雰囲気を出している。したがって、機関車はUPが好きだ。
 乾いたほこりっぽい感じがよく出ている。この機関車はスクラッチ・ビルトである。

0944 機関庫の中は思い切って明るい色にしている。こうすることによって内部がよく見える。「実物どおり」にこだわると、中に入っている機関車のディーテイルが見えなくなるからだ。このあたりの思い切りの良さは見習うべきだと感じた。

09460989 ヤードのはずれの信号所はプラスティック製の既製品だが、塗装されているのですぐには気づかなかった。ライダ氏は観客の前でDCCのデモンストレイションをしている。

 線路の表示板はとても大きい。これは以前の非DCCの時代の遺物であるが、壊すのがもったいないほどよくできている。 

2011年06月15日

Layout Tour in Chicago

 今年もレイアウトを見に行こうと思ってリストをもらったところ、内容は昨年とほとんど同じであった。どうしようかと迷っていたところ、友人が声を掛けてきた。
「そんなリストは捨ててしまえ。良いレイアウトはリストに載っていないんだ。紹介者が要るレイアウトに連れて行ってやるから、しばらく待て。」と言う。

 やがて彼はにこにこしてやってきて、「話がついた。今晩行こう。」と言う。「もう一人連れて行くが、乗せてくれるか?」と聞く。「もちろんだとも。」ということで、私の車に乗って出かけた。GPSが付いているからだ。
 車中、彼は色々と説明してくれた。「誰でも良いから見に来てくれというレイアウトは大したことはない。知らない人を家に入れたくない人も多いからね。君は去年も来ていたし、講演もしてくれている。十分貢献しているから、我々の仲間に入れてあげたいのだ。」と言う。 アメリカでもその仲間(society)に入るにはある程度の資格がいるらしい。「来年はもっとたくさんの人に紹介してあげるよ。」と言う。

0995 高速道路を20分ほど走って目的地に着いた。地下に入るとレイアウトが広がっている。驚いたことに、そこには30人くらいの先客がいた。みなよく知っている連中だ。「おや、君も来たのか。ここはシカゴで一番素晴らしいレイアウトだから、来ないのはもったいない。しかも君は一番遠くから来ているのだから来なければならない。明日は君に会ったら紹介しようと思っていたところだ。」と言う。

09470957 オーナはBill Leider氏で、彼はドイツ系3世である。 このレイアウトを見たことがあるような気がしたのは、Model Railroader で紹介されたからである。
 Billは器用な人である。機関車の大半は自作である。制御はDCCであるが、無線で操作したいので、電話を使っている。この件は後記する。

0942 ストラクチュアは彩度を押さえた仕上げで極めて、実感的である。


 

2007年10月22日

続 Scratch Building

 先日、関西合運に出かけた際、何人かにこういう質問を受けた。

 「dda40xさん、たまには素晴らしいフル・スクラッチの作品を見せてくださいな。」
…………「あまり時間がなくて、気楽な工作の方に時間を振り向けているのですよ。」

 「どうしてスクラッチ工作を手がけないのですか。あなたの腕と知識を以ってすれば、いくらでも素晴らしいものが出来るでしょう。」…………「私なりのスクラッチ・ビルディングは、しているのですけどね。」

 どうやら、皆さんはフル・スクラッチ工作をする人をモデラと定義しているらしい。筆者は、完成品の大改造品しか持っていかないので、やや不審の念を抱かせているようだ。

 筆者は工作を目的として鉄道模型を楽しんでいるわけではない。レイアウトの上を、スケールスピードでスケールの長さの列車が、つまづかずに走り、慣性力ある動きをするのを見たいのだ。そのための工作なら労力を注ぎ込むのをいとわない。全体を作るほどの時間はない。

 筆者の欲しい車両は、すでにほとんど製品化されている。その製品の中では、十分な正確さを持っている部分が、多分、90%以上を占めている。不十分な部分は直すことが出来る。下回りや動力機構は100%不十分なので自社規格に取り替える。そうすれば、それは世界中どこにもないオリジナル作品となる。

 時間は節約でき、模型界に多少のお金が流れ、業界は活性化する。もっとも、日本の模型屋のショウ・ウィンドウに並んでいる高価な商品は一度も買ったことがない。アメリカのブローカカスタムビルダから、経済的に購入している。

 故植松宏嘉氏も同じようなことを仰っていた。「下手なスクラッチより、完成品」 
 この言葉の解釈にはいろいろな方法があるが、彼なりの、スクラッチ偏重主義への苦言であった。

2007年07月02日

旅客列車の乗務

 1949年、復員した私はワイオミング大学法学部を卒業した。しかし、馬鹿なことにまた鉄道に就職した。すると父の病気は奇跡的な回復を遂げ、旅客列車の機関士になった。

 父は長く待ち望んだ旅客列車に乗務することが出来、運転したかった素晴らしい800クラスに毎日乗れるようになった。父のみならず、私もその800に父の罐焚きとして乗務することが出来たのだ。

 私たちは幸せであった。私はいつもボイラーをHOTな状態にした。目は常に線路に注がれ、速いペースで走る父の運転を邪魔するものが線路上にないことを確認していた。この時期は父にとって最高の日々であった。そして私とのペアは、50年代に入ってからも続いた。

 この時期、私は機関士に昇進するための準備に入った。父は大きな助けであった。父は800を運転させてくれたのである。もちろんそれは、ルール違反であった。旅客機関車は、機関士が罐焚きに運転を代わるということは許されていなかった。

 そんなことはお構いなしで、私はよく運転した。父は旅客列車の運転の仕方を教えてくれた。当然,貨物列車の運転もだ。

 「Tom、連結器を伸ばした状態で運転するのだぞ。」とよく言われた。その通りだ。そうしなくてはいけない。私は旅客列車を運転するときも、貨物列車を運転するときもそうする。

 1953年から57年の父の死まで、私は冬の間の数ヶ月は父の罐焚きをし、残りの期間は貨物列車の機関士をした。

2007年04月02日

続 FEF-3を追いかけて

UP8444 at Salt Lake City Depot 多分速く走ることはできないだろうと思っていたのはとんでもない間違いで、どんどん加速して80マイル以上も出ているではないか。筆者のポンティアック84年型V8エンジンのステーションワゴンはあっという間に取り残されてしまった。

 ようやくオグデンで追いつき、写真を撮った。発車の瞬間、数十台の車が同時に発進した。高速道路上で猛烈な追い駆けっこ(これをtrain chasingという)を始めた。

 機関車は、最初こそは多少写真を撮る暇を与えたが、そのうち猛烈な加速をして、ほとんど全ての車を抜き去った。筆者も90マイルまでは出したが、ハイウェイパトロールに捕まりそうであったのと、車の能力の限界を感じ、あきらめた。

 それでも筆者の友人は最後までくっついて行った。最高100マイル/時は出ていたと言う。蒸気機関車の威力、恐るべしと実感した瞬間である。

 日本では蒸気機関車というものは、遅い物の代名詞であるが、アメリカでは速い物の代表である。このマイティ800が現役で走っていたときのフィルムを見るたびにその能力には驚かされる。5000馬力以上を連続して出すことができた機関車は極めて少ないのだ。しかもその大動輪で100マイル/時以上を継続させることができた。日本のC62やC59の能力とは比較する方が間違いではあるが、すごいものである。

 TomがFlying Machineと呼んでいた理由がよく分かる。

2007年04月01日

FEF-3を追いかけて

DDA40Xの模型を持つ筆者  この博物館は1989年に開設された。その開館の日にも行っている。そのときはタービンとDDA40Xしか目玉がなくて少々寂しい出発であった。

 写真はその当日に持参したDDA40Xの模型を掲げて写したもの。周りの連中は「どうかしている」と言う眼で見ていた。当時は筆者もまだ若かった。

 開館の景気付けにマイティ800の8444(当時の番号)がファン・トリップでこのあたりを走り回った。

 この8444は、もともとFEF-3シリーズの最終機番であったが、ディーゼル電気機関車にその番号を割り当てる必要が生じ、末尾に4を付けて4桁とした。現在は844あたりの番号を欠番にして、3桁に戻している。

 最近はボイラーの損傷により工場入りしてしまい、しばらくそのニュースを聞くことができない。


 その日、ソルトレーク駅を出発し、オグデン経由でポカテロまで行くファン・トリップ列車は、8444一両だけの運行で、のちに見られたような後ろにディーゼルの補機をつけたものではなかった。



2007年03月31日

Ogdenの鉄道博物館

Ogden Union StationTime Table circa 1955 この時刻表は1955年当時のオグデン駅から出る旅客列車の数を示している。鉄道が斜陽化していた当時でもこの数の列車が走っていた。しかも大半が蒸気機関車で!当時、Big BoyChallengerマイティ800は現役で、オグデンにはBig Boyを転向させる巨大なターンテイブルがあった。現在は埋められてしまっている。

UP833 Mighty800というのはこの機関車の愛称である。高速で強力な旅客機関車であったが、後には貨物用としても活躍した。
 長らくソルトレークのUP駅の正面に置いてあったが、冬季オリンピックの開催により都市計画の一環でオグデンに移転させられた。例のアスベスト問題でボイラが裸にされ、惨めな姿を晒している。






Cab Signal 近くまで行けるチャンスはめったにないので、CTCの受信機のコンテナを撮ってきた。当時UPはCTC化を推進していた。東部の鉄道は40年代にCTC化に着手していたが、UPは50年代に開始した。シャイアンの駅にCTC装置を置くつもりであったが、当時のCTCは真空管およびリレィ式であまりにも重く、床が持たないことが分かった。仕方なく駅の隣に、鉄筋コンクリートのビルを建てて収容した。

CTCとはCentralized Traffic Control列車集中制御装置の略語である。全ての列車の位置を一元的に掌握し管理する装置である。日本では新幹線の開通時にその名が知られた。現在の鉄道はよほどの閑散線区以外はCTC化されているはずである。

2007年03月30日

Ogden Union Station

Ogden Union Station これも70年代の写真である。オグデンはソルトレークの北約60キロにあり、SP,UPの接続駅であった。70年代にはもう旅客列車は少なかったが、どうしても乗りたくなって、ネバダ州Rinoまで行くことになった。 
  
 切符を買って所定の時間に駅に行ったが、汽車(AMTRAK)は来ない。駅員は「今日は貨物列車が脱線したから、カンザスシティー経由でしか来られない。8時間遅れだ。」と言う。仕方が無いから、市内の友達の家で泊めてもらい、早朝に駅に行った。

 駅員は「お前は日本人か?日本にはシンカンセンという列車があるそうだな。どれくらい速いか。」と聞く。「最高速は140マイル位かな。」と答えると、「な−んだ、その程度か。この国でもそれくらいの最高速を出せる機関車はある。」と言う。

 「でも、それが15分おきに走っている」というと、目を丸くして驚いた。「本当か?列車の間隔がそんなに狭くて追突はしないのか。」と聞く。「旅客列車にそんなに人が乗るのかね。こちらの旅客列車は週2便だけどな。」

 これは30年前の話だが、今でも旅客列車はとても少ない。新幹線が5分おきに走っていることをアメリカの人たちは理解できないだろう。

UP822 FEF2 at Ogden さて、今回は久しぶりにオグデンの博物館を訪ねた。Union Stationが博物館になっている。中にはソルトレークを 渡っていた木橋の実物も展示してあった。屋外にはFEF2の833号機、DDA40X、3-unitタービン電気機関車などが展示してある。以前は柵の中には立ち入り禁止であったのに、どういうわけか中に入れた。

UP26 at Ogden RR Museum 展示物の下にもぐりこむ事も可能であったので、タービン機関車の床下の写真をたくさん撮ってきた。
 

2007年02月12日

Injector

Nathern 4000 Injector Injectorは注水器である。ボイラの発生する蒸気の圧力で、ボイラの圧力に打ち克って水を入れるという、一見矛盾のある装置である。

 まず、通常のインジェクタについて書く。機関士席の床下にはNathern4000型というNon-Liftingタイプのインジェクタがある。これが低いところにあるのは炭水車の最低水位以下に取り付けてないと作動しないからである。高いところに取付けてあるのはLifting Typeである。

 蒸気が噴射されると水が吸い込まれて、蒸気と混じる。すると蒸気は凝縮し熱水となる。高速で噴射された水蒸気が、高速で移動する熱水になったわけである。そして細いノズルが太くなると断面積が大きくなるから速度が小さくなる。するとそこにかなりの高圧が生じる。この圧力がボイラの圧力より高ければ、ボイラに注水されることになる。

 ここでよくある疑問だが、蒸気の代わりに高圧の空気では駄目だろうかということである。これは全く駄目である。空気は凝縮しない。水は激しく吹き飛ばされて排水口から逃げるだけである。蒸気なればこそ可能なのである。

 生の蒸気は300ポンド/平方インチ(約21気圧)であり、これを使うのは蒸気の浪費である。機関車はdouble-gun(二丁拳銃)である。右と左にインジェクタを持っている。

 普段は左手のGunで勝負だ。これはExhoust Injector(排気インジェクタ)という。煙突から逃げていく蒸気の一部を導き入れて、給水する。排気の圧力は極めて低く、7から10ポンド(0.5気圧程度)である。これでも給水できるインジェクタを作った人が居るからたいしたものだ。このインジェクタの基本構造は高圧型と一緒であるが、多段式になっていて、水の移動距離が数倍ある。この間に加速して急減速するのだ。

 これがうまく作動するので、走行中はこれだけを作動させる。急速に注水する必要があったり、停車中だけ、機関士側のインジェクタを作動させる。この図のハンドルは機関士が左手で操作する。

筆者註 インジェクタについては、日本機械学会誌2007年2月号p.43に図解が載っている。多段式の絵もあり、排気インジェクタの理屈がよくわかる。大型のものは超音速になるようだ。

2007年01月29日

City of Los Angeles

City of Los Angeles form Richard Kurtz Collection 40年前、"City of Los Angeles"という列車があった。COLAと略されたが、飲み物ではない。シカゴからロサンジェルスに行く列車だ。すばらしい列車だった。ディーゼル電気機関車が3両で引く12両編成の列車だ。3日間走り続けた。夢のようなすばらしい設備を持っていた。食堂車、展望車そしてバーもあったし、ピアノもあった。

 その後、鉄道はもっとすばらしくなるはずであった。それがそうはならなかった。速度は低下し、サービスはひどくなった。40年前、旅客列車は時速90マイル(144キロ)で走っていた。Amtrakは時速79マイル(124キロ)しか出せないことになってしまった。
これが最高速度とは信じられようか。もっと速く走れる。フランスやドイツ、日本にはすばらしい高速列車がある。この国は月に人間を送ったではないか。できないはずはないのに。

蒸気機関車の時代の方がもっと速かった。以前も書いたが、下り坂で徐々に加速し、平坦線になった途端にフル・スロットルにし、さらに加速する。こうすれば125マイルは訳なく出せる。それ以上出せる機関車は限られている。Mighty 800の中でも822、835、837、844くらいのものだ。中でも130マイルが出るのは822と837だけだった。この2台は特別の機関車だ。
 
 現代の鉄道の話に戻ろう。何が旅客列車を衰退させたか。バスではない。それは自動車だ。自家用車を持つことは、アメリカン・ドリームの一つの具体例である。アメリカ人は誰でも車を買え、それに乗ってどこにでも行ける。ガソリンの価格は安い。事実上、タダのようなものだ。安すぎる。そのうちに2倍くらいになるだろうが、それでも安い。

 町は広がり、あまりにも人口密度が小さい。この国には公共交通機関というものがない。もう遅すぎる。時計の針は戻らない。

この手記は、1987年に書かれた。当時のガソリンの価格は、1ガロン(3.8L)当たり、40セントくらいであったと、筆者は記憶している

2007年01月21日

Bill と Jeff

 オマハにはUPの本社がある。BillはUP本社に社長を訪ねて行ったのだ。2人は互いにニックネームで呼び合い、社長室で歓談した。社長を"Jeff”と呼ぶことができる人は、当時ほとんどいなかったのだ。BillはRawlinsでの顛末をJeffer社長に話した。

 Jeffer社長は直ちにRawlinsに電話を掛け、機関区の管理部を呼び出して次のような指令を伝えた。

 「Bill Winstonを復職させ、これまでの停職中の給与を全額払え。」

 この事件は、UPの歴史の中で機関士が直接社長室に行って、決定を覆した唯一の例である。もうこんなことは二度と起こらない。もうこのようなPrestigeを持つ機関士はいないのだ。そのような日々は、遠く過ぎ去ってしまった。

 
 アメリカの大多数の鉄道では、このBill Winstonのような長老機関士を大切にしていた。というのは、経済的な理由で機関士の数を減らさねばならない時には、経験年数の少ない若い機関士をクビにする。経験年数が長く、勤務実績が優秀であるような機関士は残される。

 機関士の仕事は経験がものを言うからである。鉄道会社が悪い記録しか残さないというのにも理由がある。経験年数が長くてもミスが多い機関士は排除せねばならないからだ。経験年数というものは、鉄道内で大きな意味を持つものだった。

 「給与を高くし、その地位を不安定にする」という方式は、この種の仕事の質を高く保つには一番良い方法であることは認めざるを得ない。多分、現在の飛行機のパイロットの雇用形態も同じような方式であろうと思う。

2007年01月20日

Bill Winstonの事故

Mighty 800 in Rawlins 50年に亘る彼の機関士人生の中で、一つだけ事故があった。1947年Rawlinsに差し掛かる少し手前で、彼が乗務する東行き列車のMighty800のタイヤが外れるということがあった。

 Rawlinsの管理部はBillがブレーキを掛けすぎて、過熱したタイヤの熱膨張により、その事故が起きたと断定し、Billを停職にした。Rawlinsの機関車乗務員たちは、そんなことはありえないと思った。Billは機関車のブレーキを全く使わない機関士として有名であったからだ。

 Billは出発すると、機関車のブレーキ弁(単独弁)を閉め切ってしまうのだ。これは機関士の膝の横にある小さなコック2つを閉めるだけのことだ。Billにはその習慣が深くしみついていた。30年以上に亘って、動輪のタイヤが緩まぬようそういう運転法をとってきたのだ。

 ワイオミングを走る山岳路線では、機関車のブレーキの掛けすぎで動輪のタイヤが外れる惧れがあった。列車全体のブレーキにより速度を抑えるのが正しいやり方だ。

 停職になったBill Winstonは、Rawlins線区の最高支配人に対しては何も言わなかった。言っても無駄だ。物を知らない奴だったからだ。次の日、Billは旅客列車に乗って東に向かった。ネブラスカ州オマハに行ったのだ。
 
 さて、Bill Winstonの力を紹介するとしよう。
 UPの社長のWilliam JefferはBillの古くからの親友だ。この社長はUPの歴史の中でも最も有名な社長だ。14歳からUPでCall-boy(機関士を呼びに行き、サインを貰う仕事)を始め、社長まで登り詰めた伝説の社長である。

訳者註: 蒸気機関車の動輪のタイヤは、焼き嵌めといって、ガスの炎で熱膨張させたタイヤを輪心に嵌めてある。すなわち、あまりブレーキを掛けすぎてタイヤが熱くなると、タイヤが緩んでこの事故のように外れてしまう。このような時は、タイヤをガスで焼き切って取り除き、軸箱をジャッキでもち上げてスペーサを挟み、浮かして回送する。

2007年01月03日

Tomの家

DDA40X w/circus train and Amtrak Tomの家はワイオミング州Rawlinsにあった。彼はここで生まれ育った。彼の父Dickはイギリスからの移民で、客船の罐焚きの仕事をする契約でアメリカまでただでやってきたという。

 肉体労働をしながら勉強して、機関士になったそうだ。努力の人であった。

 Rawlinsはローリンズと発音し、UPの重要な補給点であった。東の方から言えば、標高1850mのCheyenneを出るとSherman Hillという2440m位の峠を越えて、57マイルでLaramie、さらに120マイルでRawlins、そしてもう一つの峠を越えて140マイル離れたGreen Riverに達する。

 Sherman Hillはこの鉄道の最高地点であると同時に、この鉄道建設当時、鉄道の世界最高地点であった。地名はアメリカ陸軍の中で最も背の高いシャーマン将軍の名をとって付けられた。峠といっても単なる丘陵地で、ほとんど木も生えていない砂漠であるが、平均15パーミルの勾配が続く。Cheyenneから西に下るとその峠がある。Laramieは標高は2200mくらいである。Rawlinsは標高2000mほどでそこから西へは単調な坂道で約10パーミルであるが30マイル以上続いている。最後はやや急になって11.4パーミルになる。

 Big Boyという機関車は、この峠を単機で3300トンを引っ張り、時速32キロ程度で登れたというから凄いものだ。この数字だけから計算される出力は5750馬力である。実際はその20%増しの出力が必要とされた。すなわち6900馬力で巡航する実力を持っていたということである。

 Tomは、父親とこのSherman Hill越えの機関車の運転をしていたのだ。父子で乗務することも多々あったという。騒音の激しい運転室での意思疎通は目くばせ一つで行うものだったそうだ。親子なればこそ可能なもので、鉄道随一の高速運転を可能にしていたという。

 蒸気機関車の世界最高速は、公式にはイギリスのマラード号という3気筒グレスリー弁の機関車による202キロ/時ということになっている。それを言うと、Tomは鼻で笑って、「俺たちは毎日130マイル出してたぞ。」という。「しかも16両牽いて。」

 これは時速208キロに相当する。もっとも機関車の速度計は120マイルまでしかないから、マイルポスト間を走る秒数で算出するのだそうだ。1マイルを30秒で走れば120マイル/時、27秒なら133マイル/時である。いつも28秒を切っていたそうだ。

 この速度を出せるのは"Mighty 800"という4-8-4の急行用機関車だけであった。動輪は80インチ(2032ミリ)であった。その中でも822号機が最高でその次が837号機であったそうだ。844号機は保存機で健在である。これもなかなかよい機関車であったという。

 Tomは"Flying Machine"という言葉をよく使った。「とにかく凄いんだ。駅を出て加速するとき、このまま飛び上がるのではないかと思うほどいい加速だった。」という。

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