2021年05月16日
四日市のクラブ
当時Oゲージのスケールモデルは人気があり、運転会では各種の模型が走っていた。この2枚の写真は1956年8月26日の四日市工業高校での催しである。橋(伊藤禮太郎氏製作・東海道本線揖斐川橋梁)もある大規模なレイアウト(稲葉氏設計)であり、C53(益田 昌氏作)が走っているのが見える。益田氏はTTゲージを広めようとされた方だ。TMS111号に記事がある。
この時期のNMRC名古屋模型鉄道クラブやYRFC四日市レールファンクラブの会報を読むと、その熱気が伝わってくる。この2つのクラブは姉妹クラブで、記事原稿のやり取りをしていた。
特に椙山氏の文章は、創作意欲を湧き立たせる、リズム感のある筆致で素晴らしい。それに答えて伊藤剛氏の軽妙な、かつ工学的な素養を含む記事が毎月発表されていた。当時のTMSを比較して読むと、4分の1近くが、この2つのクラブの会報に端を発した記事であることがわかる。
YRFCの機関紙には、慶応の鉄道研究部 文蔵正弘氏からの投稿もある。先のC53を含めてかなり長い記事だ。
1955年10月18日三田祭におけるレイアウト(図参照)で、稲葉氏のC62、EF58による特急編成、益田氏のC53による戦前の特急編成、生川氏のモハ42編成の併走の様子などが書かれている。
電流の事も書いてあり、C62は 2 A、EF58は 5 Aとある。C53はDCモータが2個付いているとも書いてあり、電流は 1〜2 Aだそうだ。セレンは中古の3Aで、パンクを恐れて1輛ずつ運転していたが、しまいには2列車走らせても壊れなかったとある。
またC53は、最初は4輛しか牽かなかったが、当たりがつくと調子が良くなって7輛牽き、騒音も小さくなった。後半には電車顔負けの猛スピードで走ったとある。精度の無い歯車しかなかった時代なのだ。
この時代の記事を読むと分かるのは、誰もがよく走る模型を目指していたことだ。外観にこだわる人は少数であった。
コメント一覧
1. Posted by YUNO 2021年05月17日 02:38
精度の低い車輪とレールに5Aも流したら、あっというまにスパークでタイヤが焼けて真っ黒になったでしょうね。
それともこの時代は集電ブラシを線路に直接押しつける方式だったでしょうか。
それともこの時代は集電ブラシを線路に直接押しつける方式だったでしょうか。
2. Posted by dda40x 2021年05月17日 09:42
稲葉氏のEF58は全車輪(左右とも)が絶縁車輪で、集電ブラシで全動輪のタイヤから集電していました。軸重が1キログラム近くあるので、集電には困らなかったようです。
集電ブラシ無しで台枠軸受からの集電ではだめだったようです。全軸タイヤ絶縁は先輪にも及び、これがショートを防ぐ唯一の方法だとのことでした。
集電ブラシ無しで台枠軸受からの集電ではだめだったようです。全軸タイヤ絶縁は先輪にも及び、これがショートを防ぐ唯一の方法だとのことでした。