2018年09月26日

伊勢湾台風

 今年も9月26日がやって来た。あれから59年経つ。その日は土曜日であった。行きたくない学校に着いたら、教師が「今日はもう帰りなさい。」と言う。校門を出たところで、木琴を置いてあったことを思い出し、取りに戻った。既に風は強く、それは生ぬるい風であった。
 木琴を持って帰ったのは正解で、学校は1か月ほど水没した。市内は完全に床上浸水し、潮の干満が家の中でもわかった。3日目の昼過ぎ、自衛隊が助けに来てくれた。なんと上陸用舟艇で海から上がってきたのである。中学校は自衛隊の基地になって、ヘリコプタの発着場になった。水が引いても、市内は泥の中であった。学校のピアノは海水に浸かり、全ての板が反りくり返って、バラバラになっていた。

 鉄道は2か月運行できなかった。その間に近鉄は”広軌化”し、国鉄に差を付けた。そのあたりのことは、井上 靖の小説「傾ける海」に詳しい。
 国鉄の蟹江駅を出てしばらく西に行ったところの本線上に、列車が2か月ほど止まっていた。駅に止まっていたら浸水が始まり、客車の床まで水が来たのである。機関士は、このままでは危ないと判断し、西進して鉄橋に這い上がったのだ。客車は6輌つないでいたが、切り離して3輌だけで駆け上がった。

 そのまま汽車は止まり、家を失った人はそこに住み着いていた。機関車は潮風で赤さびが出て、見るも無残であった。客車には10家族くらいが居た。

 その機関士が、10年ほど前新聞に紹介されたので名前が分かり、今回川端氏の紹介で健在であることを知った。一次情報蒐集家としては、どうしても会っておきたかった。新聞の記事は、どうも腑に落ちないところがあった。鉄道のことを知らない記者が書いているから、仕方がないのだ。

Engineer Takashi Fukui 3 その機関士は福井孝之氏である。89歳の今も、お元気で車を運転されている。駅まで迎えに来られて、乗せてもらった。信号で止まる時、一般人は減速率を変化させるのが通例である。福井氏は一定の減速率で、目的の場所にきちんと止まった。それは職業柄の癖であろうが、見事であった。


コメント一覧

1. Posted by 喜多村陽一   2018年10月06日 11:37
5 その当時、私は桑名市内に居りました。夜になって雨風が強まってきたこと、父が出張でおらず、母と生まれて半年あまりの乳飲み子の妹と三人で、心細い夜を過ごしたのを覚えております。
翌朝、母と家の周りを歩いてみましたが、自宅の塀が多少ゆがんでいたくらいで、水に浸かった痕跡などはありませんでした。城に近い地域だったので、他の地区より土地が高くなっていたのかもしれません。
当時、母に情報がどうやって届いていたかは、幼なかった私には見当がつきませんが、父が出張中にもかかわらず、割に落ち着いていた印象があります、まあラジオと人伝てであったろうとは思います。父の無事と、親戚の健在と国道筋の店の水没は、早くから承知していたようでした。
親戚の一軒が寺町通りで商売をしてましたので、母と歩いて出かけたのを覚えています。魚重の前までは行けましたが、そこから先は水没していて、母はそこからスカートをたくし上げて膝まで水につかりながら、私を一人そこに残して、親戚の店舗にどうにかたどり着いたのでした。
「上陸用舟艇」!これは鮮明に画像の記憶として、覚えています。見慣れない奇妙な形の舟が着々と住吉浦にのし上げてきて、平たい舳先が下がって、カーキ色のヘルメット姿の軍人が河岸に降り立つ忘れようのない印象的な姿でした。
以上が私の断片的な記憶であります。

2. Posted by dda40x   2018年10月10日 22:23
喜多村陽一様
詳しい情報をありがとうございます。桑名は昔からの東海道沿いだけは水害に遭わず、その他は全滅でしたね。
上陸用舟艇がどこに上陸したかは、諸説あって判然としませんでしたが、これで解決です。考えてみれば、七里の渡しの船着き場が最も適当な場所でした。

コメントする

名前:
URL:
  情報を記憶: 評価:  顔   星
 
 
 
Recent Comments
Archives
Categories
  • ライブドアブログ