2014年09月05日

続 土屋 巖氏の死去 

 当時、祖父江氏は元請からの注文を切られて廃業を考えていたのだが、土屋氏からの改造注文を受け、息を吹き返した。動力の改造は蒸気機関車以外に、ディーゼル、電気機関車等があり、その滑らかな走行に、土屋氏は大満足であった。
  しばらくして、筆者がアメリカに引っ越すと、土屋氏からはよく電話を戴いた。市場から良い製品を選んで購入し、日本に送った。その後、吉岡精一氏設計の線路も共同で製作し、経営されている会社の3階に大きな線路を敷いて遊んでいらした。 その後、ご自宅の3階に25坪程度のレイアウトを作られ、DCC運転を楽しまれた。

 土屋氏は東京藝術大学の出身で、二度も首席で入学したという特異な経歴の持ち主である。高校では一番だったそうで、東大に行くつもりだったのだが、不本意な結果に終わり、冗談半分で出願した藝大の入試を受けることになった。試験会場では黒板に題が書かれ、試験時間は5時間であったそうだ。氏は5分で描き終わり、周りを見ると誰も絵を描き始めていなかった。さらに30分待っても、誰も身動き一つしなかったそうだ。氏はバカバカしくなって席を立ち、作品を受付に出して帰宅したという。

 翌日電報が来て、首席合格だという。そして入学者総代として、宣誓文を読んだ。入学したものの、冗談で受けた自分が首席ならば、こんな学校は行く価値がないと退学届を出し、当時開校したばかりの代々木ゼミナールに通い始めた。ところが、東大クラスには優秀なのがたくさん居て、たとえ合格してもビリかもしれないと、心配になったそうだ。しかし藝大に行けば1番だ。よし、もう一度入ってみようと再受験すると、またもや首席合格だったという。

 土屋氏が絵を描くのは、信じられないほど速い。「見て描くのではない。頭の中にあるものを描くのだ。」とのこと。要するに、土屋氏の目には、紙の上にあるべき絵が見えているのだ。他の人には見えない。それを見えるようにする操作が、彼にとって絵を描くことなのである。天才という言葉が、ここでは適当だろう。
 それにしても、土屋氏を二度首席に選んだ藝大の先生方の眼力には、恐れ入る。ただし、二年目は音楽科と交代でその首席入学者が宣誓文を読んだので、宣誓文を二度読むということはなかった。学生時代は優れた先生や良き友人に恵まれ、楽しい日々だったそうだ。

  学生時代はアルバイトで絵を描いていた。ホンダのオートバイのカタログの絵や、初期のタミヤのプラスティック・モデルの箱絵は、ほとんど土屋氏の作品だという。このころから、ゴーストライターをしていたのだ。
 卒業後は非常に優秀な先輩の居た日産自動車に入社したが、その先輩が病気で辞めてしまい、やる気をなくしてしまった。退社後はフリーのデザイナーとして本領を発揮し、世界中から殺到する注文をこなされた。

 その世界では、誰が何をデザインしたかということは、誰でも知っていたのだそうだ。だから指名で注文が来るのだ。

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コメント一覧

1. Posted by たづ   2014年09月06日 00:54
試験では大抵の人が、「何か書いとけ」的な強迫観念にとらわれるのでしょう。だから本当は書き上がっていたと言っていい状態になっていても、立とうとしない。
芸大の試験で何を問われるのかは全く知りませんが、書き加えても的外れであれば加点0どころか下手すれば減点対象になりますから、土屋氏は核心を掴むことに非常に長けておられたのですね。
それも「冗談半分で受けた」試験で首席とは・・・・。
学士入学で同じ大学に再入学する人は有名大学ならままいるとは思うのですが、教養課程の最初から入学で、2回共同じ学部でかつ首席というのは、全く持って稀有な話だと思います。
氏の学生時代のアルバイトであるプラモの箱絵などは時代が経てば習作として評価されてくるのかもしれません。

2. Posted by dda40x   2014年09月06日 06:42
本当は行く気がない学校だったようです。高校の美術の先生が、土屋氏に最高の評価をし、「君は天才だ。」とおだてたものだから、面白半分で芸大に出願したのだそうです。本人は一期校に合格するつもりであったと言っていました。
受験作品には名前もなく、ただ受験番号だけしかない状態で、試験官に最高点として二度も選ばれるというのは、たしかにすごい話だと思います。
入学してからは、先生方の間では二度も首席で入った男として、目を掛けられたそうです。

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