2014年03月25日

機関士人生

 川端氏から2枚のCDを送って戴いた。
 1枚目は名古屋機関区のお召し列車の機関士であった伊藤 実氏を椙山 満氏が招いて、談話会を開いた時の録音である。C52が関ヶ原で、中央シリンダのコッタ・ピン脱落で脱線事故を起こした話とか、グレスリィ弁の水平クランクの中心のボールベアリングから玉がこぼれる話など、信じられないほど面白い話があった。
 C52は、名古屋機関区に集中的に配置され、そののちはC53の初期ナンバー機が大量に居たということだ。新型機の実験場のような雰囲気で、日本で最も先進的であったという。「いや、東洋一の…」という言葉が出るところが当時の人たちの意識だったのだろう。
 C53のテンダの水が少なかったので、容量が増えたものも作られたようだ。その3トンの違いが、大きな違いをもたらしたと言う。
 名古屋から沼津まで240 kmを早くて3時間強、遅い列車は4時間半乗務して、2時間半の休み時間でまた折り返して帰るのだそうだ。同じ機関車に同じ乗務員が乗るようにしていたらしい。その休み時間に飯を食い、機関車の点検をするので、実質の休みは1時間ほどしかなかった。

 もう1枚は、NHKラジオのラジオ深夜便という番組で、ディレクタの質問に答える形で川端氏が語っている。あらすじは先回紹介した。機関士と機関助士は強い絆で結ばれ、親子、兄弟、夫婦のようなものであったという。
 機関士の娘は機関助士と結婚する例が大変多かったそうである。いつも一緒に居ると人格が全部見えてしまうので、「こいつならいい。」と家に呼んで御馳走し、それが見合いになっているという話だ。川端氏は「私はそうではなかった。」と念を押していらした。

 筆者はアメリカの機関士を何人か知っているので、彼らの話と照らし合わせると、共通するところも多々ある。しかし、狭軌の機関車を少ない石炭で効率よく走らせる技量というのは、アメリカ人にはとても理解できないだろう。


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