2009年10月28日

続 祖父江欣平氏の死去

祖父江欣平氏 1997年7月27日 祖父江氏がKTMで働いていた時、Max Grayが日本にやってきた。

 1952年ころ、あるアメリカ人が、シェイの写真を持ってきたそうである。1枚だけでエンジン側だけであったそうだ。それを見せて、これを作れと言ったのである。反対側の写真もないのに、祖父江氏は作った。そのメカニズムがMax Gray を驚かせ、彼は日本に乗り込んできたのだ。
 そうして1956年より、怒涛のような輸出が始まった。アメリカにあったいくつかの模型メーカはたちまちつぶれてしまった。

 その件は以前にも書いた。祖父江氏は「俺がつぶしたんだ。悪いことをしたとは思っているよ。でも順番なんだよ。次は韓国、中国って決まってんだから。俺も飯の食い上げだよ。」

 祖父江氏は、事実上の日本の鉄道模型隆盛の基礎を作ったまさにその人なのである。しかし、このことは意外と誰も知らない。ほとんどの模型人はHOのことしか知らないので、その前のOゲージが中心だった時代のことは意識の外にあるように感じる。
 日本型は粗悪であったが、輸出用の機関車はすべて軸箱可動であった。そのほとんどが祖父江氏の設計、製作であった
 KTMの中に祖父江工房を持ち、すさまじい速度で製作していた。
 
「図面を持ってくる奴なんていねえんだよ。写真を数枚持ってきて雑誌から切り抜いた仕様書だけで作るんだ。いいものが出来るわけねえよな。」とはおっしゃったが、当時の製品は今でも通用する出来である。
「図面を持ってきたのはMax Grayが初めてだよ。」

「作ったのを取りに来て、KTMの社長と話をしているんだけどね、社長は俺のことを紹介しねえんだよ。作った本人が横にいるのにさ。」その悔しさはよくわかった。だから、アメリカを案内した時は、「この人こそ、KTMの大半の機関車を作った本人である。」と紹介した。祖父江氏は嬉しそうであった。

 その後、アメリカからの客が2人あった。直接工房に案内すると、驚く。
「こんな場所で作っていたのか。従業員は何人だったのか。」と聞く。35年前はパートのおばさんが5人くらい居たように思う。ジグを作ってそれに合わせて部品を取り付けて、ハンダ付けする。奥様も手伝っていた。

 テキサスの富豪は丸抱えで雇ってやるから引っ越して来いと言ったが、その話に乗っていれば、世界の模型界地図は大きく変わっていただろう。筆者もその世界に居たかも知れない。

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