2008年11月30日

椙山 満氏の車輌群 HOゲージ編

 昭和36年あたりから、HOの台頭を目の当たりにし、椙山氏はHOを採用し始める。当初はOとHOを併用していたようだ。
 名古屋の陶磁器輸出商の大路氏が鉄道模型の輸入を始めたのもその頃であった。欧州型の模型をいくつか買われたようだが、ご不満であった。やはりアメリカ型でなくてはという気持ちが強かったと仰る。

 アメリカへの輸出用の模型を名古屋の百貨店から買うことが出来るようになり、当時入手可能であったものをほとんどを買い揃えられた。
 その頃、酒井喜房氏との親交が始まり、PFM-Unitedの製品をかなり集めることが出来た。アメリカの模型店からもかなりの数を輸入した。それには筆者も多少の貢献をしている。

 椙山氏は、入手するとすぐに塗装された。車庫の片隅に塗装台を置き、コンプレッサでラッカーを吹き付ける。気に入らないとすぐにラッカーシンナにつけて再塗装である。自然乾燥は待ちきれなくて、ヘアドライヤで乾燥し、ディカール貼りとなる。車輌にウェザリングを施すようになったのは、日本ではほとんど知られていない頃からである。

 当時ディカールを貼ることを知っていた人は少ない。水に漬けて浮き上がったのをさっと掬って貼るのだが、リヴェットの部分がうまくなじまなかった。洗剤を塗ったりして努力されたがあまり効果があるとは言えなかった。

 その頃、Model Railroaderの広告にSolvasetを見つけ、「これだ!」と購入されたのだ。その効果は覿面で、過去に貼った失敗作は全て張り替えてしまわれた。
 何百輌もあったのだから、大変な作業であったと思われる。

 ディカールの在庫はかなりの量であったので、それを目あてに来訪する客も多かった。しかし、いつもにこやかに応対され、貼って上げた。貼り終わると、客は嬉しくてすぐ持ち上げてしまい、台無しになる場合も多かった。しかし、決して声を荒げることもなく、直ちに貼り替えられた。その客は毎回同じことを繰り返す人なので、貼ったらすぐに高いところに置いて、客が帰るときに渡すようにはされていたが。

 思い出は尽きないが、来月からは筆者自身の模型製作の報告である。

コメント一覧

1. Posted by ワークスK   2008年11月30日 02:15
 昔から不思議でならないのは、デカール膜の材質と、この柔軟剤の成分ですね。判ったところでどうなるものでもないのですが……(笑)
 デカールは、1965年(昭和40年)前後に買ったゼロ戦のプラモデルに貼った記憶があります。
2. Posted by dda40x   2008年11月30日 20:11
デカール膜の材質は、水に溶けやすいポリビニルアルコールと油性インクでしょうね。
その上に透明樹脂を塗ってあるのですが、それが文字の上だけにあるタイプと、昔ながらの全面塗布型があります。ニスはインクの下にあるものもありますね。

柔軟剤の成分は謎です。自作したデカール(既製品の余白に薄くフロクイルなどを塗ったもの)は柔軟材がほとんど効きません。
おそらく、水に溶ける有機溶剤でしょうね。そうなるといくつかしかないのですが、どれを調べても違うのです。ニスの材料との相性が大切なのでしょう。
3. Posted by 愛読者   2008年11月30日 20:36
そのお客の気持ちがよく分かります。自分の車両に文字が入り、嬉しくて飛び上がりたくなる気持ちだったでしょう。
何回か繰り返すというのは、ちと幼稚ですが分からないでもないです。
それにしても、椙山氏の心の広さには感服します。すばらしい方だったのですね。
4. Posted by dda40x   2008年12月02日 08:26
> それにしても、椙山氏の心の広さには感服します。すばらしい方だったのですね。

 知識欲の旺盛な方でした。いつも話題が出ると、辞書でどんな綴りかと確かめられる方でした。私もそれでかなりのことを教わりました。当時から洋書の蔵書もたくさんあり、それを読ませて戴いたおかげで、現在の自分があると思います。
 いろいろなことを思い起こすと、人徳の深さに感じ入るところがあります。

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