2006年12月04日

プラグマティズム

11月19日のワークスKさんのコメントには考えさせられた。再録させて戴く。

>私も実は機械屋のなれの果てでして、歯数を互いに割り切れない数にすることは、学校で確かに習いました。韓国でも中国でも、それは絶対に常識のはずです。
>ただし、歯車にはモジュールとかピッチとか、門外漢に判りにくい概念がありますから、それを知らない人なら、どうしても要求される歯車比や軸間距離から既成の歯数を使ってしまうという様なことがありそうです。
>昔の我が国を含め、問題は、機械工学を修めた者が、模型製造に関わらなかったところにあるのではないかと思います。社会の成熟度合いの関係ではないでしょうか。

 社会の成熟度合いだけではなさそうだ。これはこの国の教育のせいであると思う。
 明治以来、日本は努力によって身を立てることが美徳とされた。江戸時代までの身分制度から解き放たれ、自己の才覚で生きていくことが求められるようになった。すると学業が能力の目安として用いられるようになり、学業が優秀であると生涯安泰な仕事に就けることになっていった。企業も然り、軍隊も然りである。

 富国強兵の時代はそれでもよかった。戦後の日本では、経済の発展とともに進学競争が盛んになり、学校の勉強は試験に通るためのものに変化していった。

 本日の表題のプラグマティズムとは、簡単に言えば「勉強は役に立つ」という哲学である。そもそも勉強とはそういうものではなかったか。
 日本も貧しかった頃は、勉強して知識が増えればそれだけで確実に生活レベルが向上した。今でも低開発国ではまさにその実践を見ることができる。

 「理科を勉強すれば気候の変化には理屈があることが分かる。太陽の軌道の変化が分かれば、夏涼しく、冬暖かい家はどうしたら実現できるか考えることができる。」

 実は上の2行は、昭和23年の中学校の理科の教科書からの抜き書きである。占領下の日本ではこのような教育が行われていたのである。ところが時は過ぎ、戦後20年も経つと、生活が豊かになると勉強は形骸化した。テストのための勉強の時代が始まった。

 「いくら知識を持っていても、それを使えなければそれを知らないのと同じである。」アメリカの哲学者デューイはプラグマティズムをこのように説明した。

 筆者宅に来られた技術者(高学歴で大企業にお勤めの方)が機関車を持参された。拝見したが、どう見ても何の工夫もなく、できのよい中学生の工作にしか見えなかった。そしてレイルに乗せて電圧を掛けると、「あっ、動いた。」と叫んだのである。ジコジコと走って止まった。喜色満面である。車輪が少し偏心しているらしく妙な揺れ方をしていた。

 この方はいったい何をされている方なのであろうか。有名大学の工学部を出られてどんな仕事をされてきたのであろうか。学校で学んだことが、その模型のどこに生かされているのであろうか。模型はこんなものだという気持ちがあるとすればあまりにも寂しい。

 好きな機関車がジコジコと首を振りながら走っても何も感じないのであろうか。問い詰めたくなる気持ちを抑えながら、筆者の車輌を動かして見せた。「凄いですね。たくさん牽いて走りますね。」とはおっしゃるものの、何が違うのかという質問はなかった。「動いた。」と言ったのは、動くかどうかもわからなかったのではないか。この方はしばらく前に亡くなられた。

 まさにプラグマティズムの欠如である。 

コメント一覧

1. Posted by Jackdaw   2006年12月06日 23:16
教育の形骸化の影響を私自身、ひどく受けているような気がするのです。
しかも、ふとした瞬間、他の方からアドバイスを受けることで気づくんです。自覚がないんです。

そこが我ながらとても恐ろしいことだと思います。

当たり前のことを書き込んでしまいました。最近、自分の将来のことを考える機会があったので。

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