2017年03月

2017年03月31日

客車ヤードの延長

 車輛工作もしたが、レイアウトの方をサボっているわけでもない。車輛工作は1日1時間と決めている。例の競作は製作時間16時間と踏んでいたが、最終日の2日前に丸一日使ったので、製作時間は23時間ということになる。長いほうだ。筆者は工作時間を短くするように工夫している。考えながら作ることは、時間の無駄であると思う。工程表を作って部品を集め、工具を確認してから作り始める。工具が見つからないときは作業しないことにしている。趣味なのだが、時間は大切だからだ。

extended yard 客車ヤードの延長をした。終端には車止めを付けた。これが難物で、意外に時間が掛かる。立体を支え無しで作らねばならない。ある程度の角度でハンダで仮留めして、犬釘で押さえて修正しながら付ける。
 本当は木型を作ってそれに沿わせてハンダ付けするのが正しいだろうが、5つしか作らないのだからよかろうと思ったのだ。それが間違いであった。
 一つに20分ほども掛かる。アメリカで買った見本を参考にした。

extended yard2 本物を見たが、実にいい加減な作りで、熔接もへたくそだ。だからというわけでもないが、ごく適当な作りである。左右のレイルが導通しているから、両ギャップで切り離しておく。片ギャップでは心配だ。日本では車止めの手前で止めるが、アメリカではどういうわけか接触させている場合が多い。
 写真を撮ってから、少々時間が経っている。 

2017年03月29日

パンタグラフとポール

OBJX パンタグラフは台の上に載っている。このような背の低い機関車では、乗務員が手を伸ばしたときにパンタグラフに触って、感電することがある。それを防ぐためになるべく高くするのがふつうである。

 パンタ台はアングルを組んで作るが、そのアングルを作らねばならなかった。ジャンク箱で見つけたアングルは 、なんとエッチングで溝を掘って曲げたものだった。くたくたでパンタ台の用をなさない。よくもこんな役に立たない商品を作るものだ。ジャンク箱から全部出して点検すると、そういうものが何種類か出て来た。一部は捨て、残りは角の内側に角線をハンダ付けして保管した。
 アングルは曲げたものでないと硬さがない。加工硬化が必要なのだ。例のベンダを持ってきて、t0.4板を曲げた。曲げたものをシャアで切り落として、50 mm程度のものを10本ほど作った。多少反るから、修正して使う。

 パンタ台ごと外せるように、台の下にネジを出し、屋根を貫通させた。当然パンタグラフ本体を固定するネジは余分を切り落とした。この径の超硬のドリルは持っていなかったので、普通のハイスのドリルを、ステンレス用の切削油を用いて使用した。切粉が硬く、手に刺さると痛い。すぐに始末した。このステンレスは磁石に付かない組成のものだが、切粉は付く。熱で構造が変化するのだ。強力な磁石でほとんど拾い集めることができる。

 ジャンク箱からHO用のポールが見つかった。壊れたところを修理すると使えそうだ。Sacramento Northern の一部の機関車は構内で始動時にポールを使用している。大型のパンタグラフは重く、バネ上昇ではない。空気圧で上げなければならないのだが、その圧縮空気を作るのに補助コンプレッサを始動する。その電源を取るためのものだ。一度パンタグラフが上がれば必要がなくなり、走行時には降ろしている。この写真では、ポールのネジがまだ締めてないので、傾いている。  

2017年03月27日

懸架装置

spring 板バネはすぐに用意できたが、バネ鞍その他の部品を作らねばならない。バネ鞍は扁平角パイプを見つけたので、それを輪切りにしたのち、一部を欠き取ってわずかに開き、無理矢理にフレイムにかぶせた。押出し材であるからとても硬くて都合が良い。細い孔をあけて、下から釘を差し、上で軽くハンダ付けする。その時、バネを巻くバンドも同時にくっつける。上の方は見えないので実にいい加減だ。機能すればよいので、外見には拘らない。

highspeed drillpress 板バネの先にはカマボコ型の部品をハンダ付けし、それに巻き付かせるバンドを作った。これらの部品は精度がないと不揃いが目立つので、全て機械加工で作った。細い薄板に小さな穴を開ける必要があり、高速ボール盤を使った。普通のボール盤では食い込んで滅茶苦茶になる。
 銘柄はSEIKOSHAの"Micro Star"である。ずいぶん前に買ったものだ。1万2千回転出るので具合が良い。高校生のころ、細いドリルを普通の電気ドリルに付けて孔をあけていたが、よく折った。それを見て、父が、
「無駄な努力だな。高速ドリルを使わないと駄目だよ。切削速度には最適域があるんだ。」
と言った。それで、中古の良品を買った。全体の上下が、カラムのボールねじ風の大きな握りを廻してできるのが気に入っている。ステンレスでも超硬のドリルで一発でOKだ。もちろん、切削油はステンレス用のものを選ぶ。ふつうのドリルビットではすぐダメになる。

 作ったバネ関係の部品をフレイムに取り付けるには長いリンクを介している。イコライザがないので、本当はこんなリンクは要らないのだが、フレイムの下の方に孔があいているので仕方がない。
 作った台枠に、軸重470 gw になるように錘を取り付け、走らせてみたところ、フログでドスドスという音をさせて通過した。合格である。ストロークは、0.7 mm程度である。軸距離が短いので、十分なのである。錘は鉛で鋳造した。鋳型は10 mm厚のバルサである。
 バルサは軟らかく弾力があるので、クランプで締めて、台の木に釘で打つと漏れない。 また、熱にも強く、焦げても強い臭いがないのが良い。

2017年03月25日

ステンレスのハンダ付け

 ステンレスの車体をハンダ付けするのは簡単である。コツとしては塩酸を多少含むフラックスを使うことだけである。塩化亜鉛だけではぬれが悪い。表面の酸化被膜が堅いのである。塩化亜鉛だけの時は、接合面をヤスって新しい面を出す必要がある。
 小さなコテでも熱が逃げないので楽に付けられる。しかも素手で持っていても熱くない。いつもは熱絶縁を考えて木片等で押さえていたが、今回はそのまま手で握って付けた。バケツに水を張ってその上で付け、終わったら即、水に漬けて冷やす。こうすれば火傷もせず、効率的である。

BlogPaint 車体に部品をイモ付けするのは簡単である。ブラス車体の時は穴を開けて部品を差し、裏から大きな鏝で留めるのがふつうであった。ステンレス車体の場合は、表面から細い55Wの鏝を添わせるだけで、完全にハンダが廻る。エアタンクの台座(t1.5ブラス板をフライスで加工)を屋根に付ける時にその方法を採ったが、実に簡単で驚いた。炭素棒の出番は、ほとんどなかった。この写真は、余分のハンダを削る前の状態である。 

 手違いで一部の部品が足らなくなった。10台分を作って配分したのだが、自分の分の妻板が無い。仲間に一人ずつ電話して問い合わせるより、作った方が早いと判断して、洋白板で作った。その時、手間を省くために、ヘッドライト穴を無くした。その結果、ヘッドライトは外に設置することになった。
 ステンレスは洋白よりも一桁以上硬いので、ステンレスの窓枠を付けておいて、それをガイドにヤスリで窓を仕上げた。実に簡単で、これは技法として使えると思った。

2017年03月23日

動力機構

 サスペンションはバネ付きでないとフログが壊れ易い。軸重は500gwであるから、硬い軸バネが必要である。Big Boy用のが見つかったので、枚数を減らして使った。

 機関車であるから、牽引力を必要とする。ステンレス車輪であるから、かなり損である。多少重くするから、バネが効いていないと壊れてしまうし、音がひどくなる。モータはエスキャップのΦ18の高級品である。これは同径では当時世界最高の起動トルクを誇った。低回転型で、模型には極めて適するが、非常に高価であった。出力を最大限に利用すべく、出力曲線をもとにギヤ比を選定した。
 設定としては 10 V で動輪がスリップするようにした。こうしておけば、焼けることはありえない。16‰の勾配を、標準貨車12輌を牽いて楽に登れる。

OBJ Drive 動軸は連動しないと牽引力が損なわれる。実物の構造に拘って、1軸1モータにするのは賢明とは言い難い。モータは水平にウォーム軸と平行に置き、チェーン・ドライヴで駆動する。このチェーンはプラスティック製で、アメリカでは40年も前から売っている。Bill Wolfer氏が使っていたので、分けてもらったのが最初だ。トルクが少ないので1本だが、出力が大きい時には2本、3本を平行掛けにして、位相を1/2歯あるいは1/3歯ずらすと効率が良くなるはずだ。これは金属製ではないので、伸びを考えたときの推論だ。 

 モータはブラスの板を巻いて作ったホルダに収めた。ホルダはギヤボックスにハンダ付けした台座にネジ留めである。長穴にしてあるので、微調整が効く。

2017年03月21日

競作

 珍しいことに電気機関車を作ることになった。50年ぶりである。チラ見せする。最近はやりの teasing advertising(じらし広告)である。  

OBJ 1 所属クラブの70周年記念例会に、伊藤剛氏追悼の電気機関車を作ろうということになった。剛氏が作られた原型を各ゲージでアレンジして、好きなように作るというのが主題である。
 Oゲージ部会では、ステンレス板をレーザで切って作ることになった。車体にレーザ加工板を使うのは初めてである。車体寸法を決めるのに、時間が掛かった。元が自由形なので、縮尺を変えるだけでは意味がない。Oゲージの車体幅は63 mmを超えると、ろくなことが無い。手摺りなどの突起物を考えると車体幅は61 mmとなった。基本設計は土橋和雄氏が担当し、工場に渡すプログラムは、例によってnortherns484氏にお願いした。


 伝導装置は筆者が設計して、提供した。強力コアレスモータと3条ウォームギヤ軸をチェーンドライブする少々贅沢な組み合わせである。車輪はΦ25のLow-Dがあったので、配布した。軸箱はフライス盤で切り出したボール・ベアリング用を用いた。ロストワックス製のものを好む人もいるので、その方達には、ボール・ベアリング用の穴を開けてお渡しした。

Sacramento Northern 654 and 652 10-3-09rr 外観は全く自由なので、筆者はアメリカン・スタイルにした。実はSacramento Northernの電機に惚れていたのである。いつか、ものにしたかったのだが、作ることはあるまい、とも思っていた。
 ジャンク箱をかき回して、カウ・キャッチャを見つけた。大きさは良いのだが、一つしかない。仕方がないので採寸して図面を描き、作る準備をした。そこまでやったところで、もう一つ見つかったので、図面は投げ捨てた。

 さて軸配置は何であろうか。BrassSolder氏は、一発で当ててしまわれた。

2017年03月19日

英語表現

 英語の記事を紹介してすぐに、質問を複数の方から戴いた。皆さん、よく見ていらっしゃるので驚いた。
 p.31の下から8行目に、
"No one was able to do what he did."
という文がある。どうしてここでcanの過去形の could を使わないのですか、というものだ。

 日本の英語教育では、canの過去形は could と習う。私もそう習ったが、アメリカで手厳しい批判を受けた。could は仮定法の時に使うものだ、と言うのだ。そんな馬鹿な、とは思ったが、確かにその通りであった。
 仮定法を英語の時間に習って、うんざりした人も多いだろうが、婉曲表現とか反語表現などの別の表記だったら分かり易いと思うのは、筆者だけだろうか。

 You could do that. は 「あなたはそれをできた。」ではない。 「できるかもしれない(けど、多分しない)。」という感じである。場合によっては、なじっているのかもしれない。

 過去の話であることが時間の関係を示す語でわかる文章なら could でよいが、そうでないときは、
I was able to do that. 私はそれができた。  
である。このことを日本の学校ではほとんど教えていないように思う。

 ついでに、よくある誤りとして、「やったね!」という誉めるときに使う言葉を、
”You could do it.” と言う人がいる。これでは「やればできるものを(どうしてやらないの?)。」になってしまう。
 正解は、”You did it."
である。 
 日本の英語教育で最も怪しいところが、この仮定法の部分である。英語教師もわかっていないと思われる節がある。 

2017年03月17日

Kimpei Sofue’s life  (9)

 祖父江氏のハンダ付けのテクニックは白眉である。常に完璧なハンダ付けをするから、彼の模型でハンダ付けが外れるということはない。 
 棚にハンダは何種類もストックがあった。また、ブラスの材料も何種類かあり、より楽にかつ、正確に工作できるものを用意していた。
 最終期の特製品には、彼独特の仕上げ加工が随所にみられる。ブラスの針金を切ると、すぐにヤスリでその断面は面取りされる。シャァで剪断加工された板は、全ての切断面をヤスリで加工して直角にする。彼は大量のヤスリを持っていた。すべてのヤスリは使用前にsafety edgeを油砥石で擦って、準備する。そうしないと、削れて欲しくないところが削れてしまうからだ。
 足踏みのシャァは完璧に研がれ、薄いティッシュの一枚を置くと、真っ二つになる。彼の工房はすべて整頓され、美しかった。

 25年前、私は再度アメリカに居て、祖父江氏の望むものを送って差し上げていた。日本に戻って、彼に会いに行った。祖父江氏はドイツの機関車のスポーク動輪の原型を作っていた。私と話をしていても、手を休めない。眼はこちらに向いているのだが、糸鋸でブラスの円盤を切り続けていた。指に目が付いているのか!と思ったほどだ。
 お茶と菓子を戴きながら話をするのだが、彼の手はテーブルの下で動いている。突然彼は、言った。
「ほら、できた!」
 彼は小さなキサゲを用い、手の感触だけでスポークの断面の丸味を付けていたのだ。

 アメリカの模型人で、祖父江氏の工房を訪ねたのは二人で、ペンシルヴァニアのBill Pierson氏と、Original Whistle Stop のFred Hill氏だけである。 

 祖父江氏はKTMで長く働いたが、要求される以上のことをしていた。それは彼のプライドである。彼は世界最高の機関車が作りたかった。そして、彼はそれを成し遂げたのである。

2017年03月15日

Kimpei Sofue’s life  (8)

 祖父江氏が亡くなる前から、彼を「O scaleの殿堂」入りをさせるべく、運動を始めた。アメリカの友人たちがそれを後押ししてくれたが、5年以上の時間を要した。存命中に殿堂入りが果たせれば、祖父江氏にとって素晴らしいことだったのだが、それは実現しなかった。
 ともかく、日本人の殿堂入り(2016)は初めてであり、日本の模型人はそれを誇りに思う。

 祖父江氏の影響力は大きく、プラスティック製機関車の上にもそれが表れている。
 RivarossiのIndiana Harbor Beltという0-8-0のOスケール・モデルをご存じだろう。それは祖父江氏の作った0-8-0を元にしている。
 祖父江氏はこう言った。
「US Hobbiesの0-8-0を作った時にね、3箇所間違えちまったんだよ。それがねえ、全部リバロッシの模型にあるんだ。本当に参っちまうよ。」
また、ブラス製HO模型のいくつかは、彼のOスケールの縮小ヴァージョンである。

 祖父江氏は3条ウォーム、ボールベアリング化の改造工事を、1000輌以上の機関車に施した。私の手元には100輌近くあり、近く開館予定の博物館で展示走行する。それらは信じられないほど滑らかでパワフルである。ギヤは15ワットの出力を伝達でき、強力なコアレスモータで120輌の列車をやすやすと牽引する。

2017年03月13日

Kimpei Sofue’s life  (7)

 国内で祖父江氏のOゲージ模型を欲しがる人は多かったが、祖父江氏には新規にそれを作る資力がない。そこで、神戸の地震で亡くなった魚田真一郎氏が良い方法を提案した。買いたい人から毎月一定額を集めて、それで新しい機関車を作ってもらう。1年ほどで、注文者は新しい機関車を受け取り、祖父江氏は注文数以上の機関車を個人的に売ることができる。一部はアメリカに私自身が持って行ったし、直送もした。この方法は祖父江氏に素晴らしい機関車を作り続けてもらう、良い方法だった。

 こうしてできた機関車は3条ウォームとボールベアリングを装備し、テンダには抵抗の少ないLow-D車輪を付けていた。こうしてこの特製品を作る方法は10年ほど稼動し、C&NW H-1, CB&Q O-5, SP5000, ATSF 4-6-4, PRR DD1 が完成した。それと並行して、古いKTM製の機関車の動力を、3条ウォーム、コアレスモータ、ボールベアリング化する改装工事を引き受けた。こうして2009年10月27日午前2時の突然の死まで、彼は仕事を続けることができた。彼は87歳の人生を終えた。

 私は彼と35年余の長きに亘って良い友達であった。私は彼の顧客であるが、写真、図面を入手するのに手を尽くした。それ以外に新技術の導入の手伝いをした。いわゆるlaunching costomerである。(ローンチング・カスタマーというのは、新型航空機を発注して導入する会社が、設計時から深くかかわる時、その航空会社のことを言う。)我々はいつも助け合った。ある時、祖父江氏はこう言った。
「あんたには本当に感謝するよ。あんたがいなけりゃ、俺はとっくに廃業して、アル中になって逝っちまってたよ。」 
 私は彼の友達として、かくも長くお付き合いできたことを、誇りに思う。 

2017年03月11日

Kimpei Sofue’s life  (6)

 次に、私の友人であるUnion Pacific鉄道の機関士Tom Harveyに会いに行った。トムはBig Boy、Challengerおよび4-8-4を運転したのだ。 Cheyenneの機関庫に行って、保存機となっているそれらを見せてもらった。祖父江氏はビッグボーイに強い興味を示した。彼はすでに1000輌近く、その模型を作っていたのだが、それらをはるかに凌ぐSuper Big Boyを作ってみたかった。そこでDenverのForny Museumに行って、写真を撮った。その頃は、機関車に登って上から写真を撮ることが許されていたので、すべての蓋を開けて内部を撮ることができた。

 1987年に、あるスポンサーが現れた。その人は株を売買していた。スーパー・ビッグボーイ を発注したのだ。ところが、彼は総費用の半分を払ったところで倒産してしまったのだ。祖父江氏は経済的に多大な被害を受けたが、30輌を完成させた。

 1990年になると、アメリカの輸入業者は日本からの輸入をやめてしまった。祖父江氏は、いよいよ窮地に追い詰められた。私は彼を助けるため、日本国内の裕福な友人を紹介すると、1番ゲージのドイツの機関車の手作りをすることになった。製品はぞくぞくするほど素晴らしい出来であった。たいていは3輌、時に5輌、10輌という生産であった。しかし彼は幸せではなかった。

 彼はOゲージを作りたかった。彼曰く、「Oゲージは正しいサイズだ。1番ゲージは大き過ぎて、片手で持つには大きすぎる。 HOはメカニズムを楽しむには小さ過ぎる。」

2017年03月09日

Kimpei Sofue’s life  (5)

 そして、ミルウォーキィで開かれたNMRA(全国鉄道模型協会)のコンヴェンションに行き、我々の”押して動く機関車”を披露した。かなり劇的な展開であった。いくつかの注文を受けることができたし、あるアメリカ人は日本に来て、UPの4-8-4を輸入したいと言ってきた。それはKTMーUSAという名前で輸入された。
 その機関車はそのころまでの模型とは全く異なり、3条ウォーム・ギヤ、コアレスモータと素晴らしいディテールを持っていた。写真で、煙室内部を示した。

 それが終わると、デトロイトのDick Tomlinsonのところに泊めてもらった。彼は70年代にデトロイト模型鉄道クラブの会長であった。彼はアレゲニィを私たちに見せるために、ヘンリィ・フォード博物館に連れて行ってくれた。祖父江氏はこの機関車を300輌以上作っていた。彼は一箇所を除き、その全てを知っていた。その一箇所とは、パイロットの上の小さなステップの上面である。滑り止めのパターンがどうなっているかを知りたかった。ディックは警官で、仲の良い友達が博物館の警備主任であった。彼は警備主任に、機関車に上っても良いという、特別許可を出すよう頼んでくれたのだ。

 祖父江氏の勘は当たっていた。その面は祖父江氏に手に入るいかなる写真でも見ることができなかったのだ。ところが、10秒もしないうちに、笛を吹きながら警備員が走って来た。
「降りろ、このクソッタレ。降りろ。」
「私たちは特別許可を得ている。」と答えると、
「黙れ、降りて来い。逮捕する。」と警備員が怒鳴った。
 警備主任が、「もういい。行きたまえ。」と言ってくれたので、我々は何もされなかった。

2017年03月07日

Kimpei Sofue’s life  (4)

 祖父江氏は1985年までアメリカに行ったことが無かった。日本とアメリカの経済の関係が変化し始めたころで、為替レートが日本からの輸出に不利な状態になった。アメリカの輸入業者は、日本から韓国へと切替え始めた。
 そこで、私は祖父江氏をアメリカに連れて行き、友人らに会わせた。アメリカの模型人は誰も、この小さな男が14,000輌もの機関車を作ったとは知らなかった。

 Bill Wolfer氏はとても驚き、話は尽きなかった。彼はPomonaの競馬場にあるOスケールのレイアウトを見せに連れていってくれた。そこにはビッグボーイ 、UP9000, SP5000などの本物もあった。祖父江氏はSP5000の模型を作ったことがあった。本物を見ての感想は、「俺の作ったのと同じだ。よく出来てた。これを見て安心したよ。」であった。彼は自分の作ったものが実物通りであったことを知って、とても喜んだ。マックス・グレイはこの機関車の図面を用意できなかったのだ。20枚ほどの写真と諸元だけしか寄こさなかったのだ。祖父江氏はそれらの資料から作らねばならないので、1月ほど死に物狂いで取り組んだ。彼の作った機関車の中で、最も難しいものであったそうだ。
 
 次にテキサス州サン・アントニオのLorell Joiner氏に会った。彼は祖父江氏に会って、とても感銘を受けたようだ。日本に帰らず、ここに居てくれと言った。家と日本食のコックを用意してくれると言うのだ。
 ジョイナ氏は、模型会社を立ち上げるつもりだった。私も残して、通訳と経営をさせようとした。3人で長い時間話したが、結局我々はその話をお断りした。もし残ってジョイナ氏の下で仕事をしていれば、おそらく模型界はかなり変わった姿になっていただろうと思う。

2017年03月05日

Kimpei Sofue's life  (3)

 資料が少ないので、出来の悪い模型しかできなかった。良い模型を作ろうとすれば、図面が必要なのだ。カリフォルニアから来た男が、祖父江氏にたった一枚のシェイの写真を見せて、それを作ってくれと頼んだ。写真はエンジン側だけで、反対側の情報はないが、祖父江氏はドライヴ・シャフトの裏にウォーム・ギヤを隠して、なんとかそれを作り上げた。発注者はとても嬉しそうだった。

 1年後、ある紳士がKTMに来て、Bシェイを多数注文した。彼の名前はマックス・グレイであった。これがKTMが商業規模の対米輸出をするきっかけとなった。次の注文はSPのキャブ・フォワードであった。マックス・グレイは本物の図面を持って来た。祖父江氏にとって、アメリカの機関車の図面を見るのは初めてであった。マックス・グレイは次の注文のための、いくつかの図面も持って来た。祖父江氏はマックスグレイのためにパイロット・モデルを作るのに忙しかった。

 祖父江氏は英語ができなかった。KTMはマックス・グレイと祖父江氏の前で何度も話をするのだが、一度も紹介されたことが無い。彼は、誰が職人の長(master craftsman)であるかということを知らなかった。KTMにとっては、祖父江氏は「金の卵を産むニワトリ」であった。もしマックス・グレイがそれを知ったなら、彼は何としても祖父江氏をアメリカに連れて行ってしまっただろう。 祖父江氏はマックス・グレイと直接話ができなくて残念であった。マックス・グレイはNYCが好きで、それがハドソンやナイアガラを何度も再生産した理由である。

 60年代の終わりに、祖父江氏は独立して工場を持ち、KTMからの注文を受けた。マックス・グレイはレヴォン・ケマルヤンを連れて来た。彼はその後、後継者となり、その会社はUS Hobbiesである。ケマルヤン氏はいい男で、発注したL&NのバークシャのBig Emmaを見て、「とてもよくできている」と祖父江氏を褒めた。


2017年03月03日

Kimpei Sofue’s life  (2)

 祖父江氏は1922年、東京に生まれた。父親は建具職人であった。父方の伯父は日本刀の鞘を作る職人であった。祖父江氏は中学校時代からブラスの切れ端で蒸気機関車を作っていた。科学雑誌を見て知識を得、駅で本物を見てメカニズムを理解した。
 彼は本物の機関車の部品を作る工場に就職した。速度計、インジェクタ、自動逆転器、汽笛、ベル(満鉄の機関車用)などを作った。そして会社の中の学校に通う許可を得た。そこでは図面の描き方、機械工学を習った。これが彼の作る機関車が他と違う理由である。
 戦争中は軍艦の部品を作る工場で働いた。彼の技量は傑出していて、兵役を免除された。他の誰も彼の代わりができなかったのである。戦争中でさえも、彼は小さな機関車を作っていたという。(訳者注 3台作ったが、戦後の混乱期にGIに売って食べるものになったそうである。)

 戦後、日本は連合軍によって占領された。彼はKTMで工場長として働き始めた。KTMはもともとはゴム動力の飛行機模型を売っていた。たくさんの兵隊が、彼に機関車の模型を作るように頼んだ。写真を数枚と、車輪径などの諸元しか寄こさなかったが、彼は1週間に1輌!ほどの速さで作った。
 ある将校がKTMにロボゥの機関車を持ってきて、そのコピィを作ってくれと言った。ロボゥは素晴らしい模型メーカで、いくつかのアイデアはKTMによって使われた。たとえば、先台車のセンタピンは長いネジで、シリンダ・ブロックを貫通してボイラを留めた。また、KTMのモータはロボゥの形を真似ている。

 東京の立川基地の格納庫の天井裏にはなかなか良いOスケールのレイアウトがあった。祖父江氏は背が低くて見えなかったので、誰かが肩車をして、見せてくれた。それは15メートル角くらいの大きさで、素晴らしい出来だった。そこには祖父江氏の機関車が走っていた。その場所には何度か連れて行ってもらった。

2017年03月01日

Kimpei Sofue’s life  (1)

日本語版を発表してくれという要望が多いので、しばらく連載することにした。

     祖父江欣平氏の生涯

           マックス・グレイに機関車を作った男
 
 70年代の中ごろ、アメリカで見るHO、Oの機関車は、ほとんどすべてが日本製であった。日本で誰が作っているのか、全く見当もつかなかった。 
 日本に帰ってから、友人がHOのいろいろな製造所で機関車の図面を描いていたという老人を紹介した。(訳者註  椙山氏が酒井喜房氏を紹介してくれたのだ。) 彼曰く、「祖父江さんに会うべきです。その人がKTMのOゲージの機関車を作っている、まさにその人ですよ。」
 私は、たった一人の人がKTMのほとんどのOゲージ機関車を作っていると聞き、とても驚いた。Oゲージのみならず、その設計がHOの機関車にも使われていたという。私は東京の郊外の田舎にある祖父江氏の工場を訪問してみようと思った。

 彼の工場は小さく、6 m X11 m ほどの作業場であった。3台の旋盤のうち1台は中型、残りは小型である。足踏みプレスが2台、型削り盤が1台、縦フライス、横フライス各1台、足踏みシャア1台、コンタマシン(いわゆる縦型帯鋸)、ボール盤数台とタッピングマシン2台があった。一角には簡単な鍛冶屋をする場所があった。ほとんどの特別な刃物はここで自作して焼きを入れていた。一番大きな機械は湿式研削盤である。これは自製のプレス型を研削して平面にする装置だ。

 3,4人の女性が主としてハンダ付けをしていた。祖父江氏は彼女らに組み立てさせる”キット”を作っていたのである。もちろん奥さんも手伝っていた。私が彼女らのハンダ付けを見ていたら、祖父江氏は聞いた。
「あんたはハンダ付けはできるかい?」
「もちろんできます。」と答えたので、私がハンダ付けする準備をしてくれた。

「駄目だ。」と彼は長いブラスの棒(断面は 3 mm X 25 mm)で、私の手首をぴしゃりと叩いた。「そんなんじゃ駄目だね。」と、彼は肘を机の端に付ける方法をやって見せてくれた。(次ページの私が鋼製トラス橋をハンダ付けしている写真を参照されたい。)これが、強い圧力を掛けながら鏝先を正確に制御するコツなのだ。
 彼が言うには、ハンダ付けは温度だけではなく、圧力で出来るのだ。熱い鏝はたくさんの熱量を持ち、先端には平らな面がある。押し付けると、熱エネルギィは短時間にワークになだれ込むのだ。私は練習生で、彼は厳しい教官であった。私は彼のところによく通って、模型の作り方を習った。 

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