2014年09月

2014年09月19日

続 デザイン

「ヨーロッパの高級車は8年を目標に作られる。Mercedes BenzのS classは8年のサイクルだね。その8年後の新型も、旧型のデザインを踏襲している場合が多い。富裕層は極端な変化を望まないのだ。」
「でもアメリカは高級車でも4年で新型ですね。」
「そうだ。あの国はそういう国だ。日本はそれをまねしたのだ。」

 バブル以前はその種の高級車に乗れる階層はとても少なかった。しかし今は小金持ちが増え、S classなら買えるのだ。すなわち大衆車に近づいたと言える。最近のサイクルは短くなっている。

 それでは王侯貴族しか乗れないような車はどうだろう。Rolls-Royceなどのモデルチェンジは少なかった。20年は形が変わらない。これはその形が変わる必要がないからだろう。Phantom VIなどは今でもその形が目に浮かぶ。車輌のパーツ全てが意味をもち、機能している。無駄なものはない。
 日本でも、日産のプレジデントやトヨタのセンチュリーなどのモデルチェンジは少ないし、前とそれほど形が変わるわけでもない。この種のデザインは良く出来ているのだ。眺め廻しても突飛な造形はひとつもない。しかし、 これを縮小して大衆車にすると売れるわけではない。大衆は突飛なデザイン、すなわち陳腐化するデザインを好むと言える。そのあたりの匙加減がとても難しい。土屋氏は、それをいともやすやすと、やってのける。車名は書けないが、ベストセラーになった車は多い。
 20年持つデザインは鉄道車輌のそれである。自動車より寿命が長いので、より簡潔にまとめられなければならない。そういう意味では新幹線の0系のモデルチェンジはいささか遅すぎたのである。100系にしても、単なるマイナーチェンジであって、すぐ陳腐化した。

 300系は優れたデザインで20年持つと思われたが、異なる事情で早期引退してしまった。その後の新幹線車輌は、デザインではなく、空洞試験とコンピュータ解析が形を決めている。土屋氏が鉄道から手を引いた原因はそこにあったようだ。
「人間の感性など要らなくなったのだ。」
と心情を吐露された。
 20年以上の寿命を持つ鉄道車輌が多いので、土屋氏は前頭部を取り換えられる様にしていた。
「もう前頭部は作って渡してある。」とおっしゃったが、取り換えられる気配がない。

 鉄道会社の社長が口を出してきて、駄目になるケースもあるようだ。社長は素人である。デザインのことが分かるはずもないのだが、色を変えろなどと言って来るそうだ。色と形が組になっていることを理解できないのである。こういうことを許す会社は日本には多い。逆に国鉄時代はそんなことが全くなかったらしい。デザイナーの意見が尊重されていたのだ。

 話題の列車も、素人の社長がデザイナーを気に入っただけのことであり、そのデザインの良さを見抜いたわけでもない。このデザイナーは内装デザインが本業である。デザインの本質を理解しているようには見えないのだ。
 車輌は中も外もごてごてと飾り立て、出来た瞬間に陳腐化していると感じたのは筆者だけだろうか。


       <多忙のため、10日ほど休載します>
土屋氏のデザインした車種の問い合わせがありますが、その種の質問には一切お答えできません

2014年09月17日

デザイン

 日本を走るかなりの数の優等列車は、土屋氏のデザインだ。違う人の名前で発表されているのもあるようだが、それについては論じない。

 海外に同行したとき、デザインについて色々な話を聞いた。土屋氏の話をまとめると、「デザインは機能」であることに尽きる。

格好良く見せようと思うと、駄目になる。下手な工夫は陳腐化を早める。」

 土屋氏はここしばらくは鉄道のデザインから遠ざかっていらした。その間に、鉄道車輌デザインが、土屋氏の言う陳腐化を早めるものが多くなってきたように感じる。しかし、そのようなデザインを賞賛する人が居るのである。

 本当にデザインが分かっている人以外は、デザインの評価などできはしないはずだ。最近の鉄道雑誌をみると、不思議な現象がみられる。どれもこれも、その列車を褒めちぎっているのである。どれか一つくらい、「このデザインはおかしい」と書いても良いのだが、どこも書かない。
 要するに、褒めないと次の仕事をさせて貰えないのだろう。取材に行けなくなるのが怖くて、書けないのだろうと推測する。

 土屋氏はデザインの世界では超一流の専門家であった。彼のような人に取材して、はっきりと言って貰えば、全て解決することなのではないかと思う。専門家でない人がいくら褒めても、何の価値もないと思うのは筆者だけだろうか。

 土屋氏のデザイン論はとても面白い。
「車のデザインには1年しか持たないデザインと、2年持つデザイン、順に4年、8年持つデザインという具合になっている。」
「えっ、1年しか持たないデザインなんてあるのですか。」
「モーターショウに出てくる突飛な形の車があるだろう。あれなんて、次の年に見ると、もううんざりだね。」
「なるほど。しかしその次の2年というのは、車のデザインとしては短いと思うのですが。」
「いや普通の車は2年しか持たないように作られるのだよ。」
「それじゃあ、3年目には売れなくなりませんか。」
「だから、マイナーチェンジというのを施すんだ。それであと2年売って、もう駄目というところで次の型が出てくるんだ。」
なるほど、と合点が行った。すごい話だ。

話はさらに続いた。
「それでは、8年というのは何でしょう。」

2014年09月15日

続々々々々々 土屋 巖氏の死去

 祖父江氏を土屋氏に紹介してから3年ほど経った頃の話である。

「dda40xさん、祖父江氏は仕事がないと言っている。改造だけでは面白くないらしい。彼は機関車を作りたいんだ。でも、資本が無い。出してくれないかという話もあるが、それよりも、あの人をうちの会社に取り込んでしまいたい。会社の定款を多少変更しなければならないが、今でも1/1の モデル作りをしているんだから、そのままでも行けるかもしれない。」
「えっ、祖父江氏を雇うということですか?」
「いや、工場長ということではどうだろう。模型部門を独立させて、社員を何人か移動させる。中には好きなのも居るからね。工場には週2日ほど来てもらうという案ではどうだ。」
「祖父江氏は『自分の工場の中にある道具がないと仕事ができない』と言って、アメリカ移住の話も断ったのですから、難しいと思いますよ。」
「それなら、うちの会社の近くに、そっくり家ごと引っ越してもらうのはどうだろう。祖父江氏の図面は全て買い取り、NCの機械に掛けられるように、うちの社員に描き変えさせて保存する。」

 祖父江氏はあまり気乗りがしなかったようだ。
 しかし、土屋氏は諦めきれず、機関車を三次元測定器に掛け、NC彫刻機で彫り出して複製を作ったりしていた。そこで分かったことは、祖父江氏の図面と、出来上がった模型との間には僅かの差があったことだ。
 図面通りに彫り出したモデルと、製品とでは微妙な違いがあるのだ。

 土屋氏は矯めつ眇めつ、モデルと製品とを比べて、
「製品の方が良い。この差は祖父江氏の感性から来ている。これは図面通りに作ったらこうなる、というものではないんだ。要するに、無形文化財だな。彼は天才なんだ。祖父江氏が死んだら、もうおしまいだ。同じことを出来る人はいない。工場を作っても駄目だな。」

 その後土屋氏は、祖父江氏の持っている能力を全て模型という形にして、移し替えるという哲学で接した。必要なものは全て揃えて渡し、祖父江氏の好きなように工作をさせたのである。正しい意味のパトロンである。祖父江氏はそれに応え、素晴らしい仕事を残した。

「うちには祖父江氏の能力が具現化した模型が揃っている。これは素晴らしいコレクションだよ。」と土屋氏は満足であった。


2014年09月13日

続々々々々 土屋 巌氏の死去

 土屋氏は単なるコレクタではない。自ら工作をされる方であった。しかもそれが実にお上手である。会社の社長室は工作室であって、ありとあらゆる素材が用意されていた。
 大物は会社の設備を使って加工するので、精度が出る。筆者もジグの部品をいくつか作って戴いたことがある。

 土屋氏は遠州鉄道のナロゥ・ゲージがお好きであった。かなりの作品を残されている。実物を見て写真をたくさん撮られている。藝大で同級生だった田宮督夫氏を訪ねて、静岡に遊びに行ったことがあるのだ。督夫氏は田宮模型の社長俊作氏の弟である。
 面白い小さな鉄道があるというので駿遠線を見に行き、全線に乗車したそうだ。

 10年ほど前から、土屋氏はナロゥ・ゲージに力を入れ始め、バックマンのGゲージを楽しんで来られた。1/20.3サイズの模型をたくさん集められたが、やはり日本の模型も欲しいということになり、駿遠線のモデルを作り始めた。
 762 mmを1/24にすると31.75 mmになるから、Oゲージの線路と車輪が使えるということに気が付き、車輪をLow-Dで作った。下廻りはブラスで、車体はプラスティック板から作られた。実に写実的で美しい模型であった。塗装は御専門であるから、素晴らしい仕上がりだ。全部で10台ほど作られたと記憶している。

 10年ほど前のJAMでGゲージの大きなレイアウトを出展されていたことをご記憶の人もいるだろう。巨大なTimber Trestleの上をサウンド装置付きの機関車が大きな音を立てて走っていた。あのレイアウトも土屋氏の自作である。色調が独特で、実に渋い。実物の色調をよく見ていらしたからだ。

 海外に御一緒すると、土屋氏は街の色、自然の色を丹念に観察されていた。次にデザインする車をそこに置いたとき、どのように見えるかを考えていたのだ。
 ホームセンタに行くと、ペンキ売り場で色見本をたくさん手に入れ、大事に持って帰った。
「日本にない色もあるからね。」


2014年09月11日

続々々々 土屋 巌氏の死去

 土屋氏が亡くなって、御子息と話をさせて戴いた。

「博物館の話は進めて下さい。父や母から話はよく聞いております。」
とのことで、予定通り工事は進んでいる。

 土屋氏は、博物館の運営方針として、いくつかの条件を付けられた。

1) 共同経営者を入れないこと。苦しくても一人で持ち堪えよ。人に助けを求めると、喧嘩別れしたときに半分持って行かれてしまう。コレクションの分割は絶対に許されない。

2) 寄贈された品の処遇に対して、遺族は異議を申し立てることができないようにせよ。部分的に返せなどと言って来ると大変困ることになる。

3) いずれ遺品を寄付したいと、色々な人が申し出てくる時代が来ると思うが、多少なりとも、運営費として浄財を寄付してもらうこと。タダで貰ってくれるならあげますと言うなら断ること。電気代だけでも払えるくらいの寄付を戴け。価値あるものを収蔵していることをアピールすること。

4) トイレをきれいにすること。トイレがショボいと、全てがショボく見える。最高級のトイレを備え、清潔にしておくこと。

5) 背の低い子供達のために、お立ち台を作ること。その前には堀とフェンスとを設けて手を出させないようにすること。

 その他いくつかあるが、割愛する。土屋氏が、一番気を付けよとおっしゃったのは2)である。仕事上、藝大にはよく行かれて、博物館事情にも明るいので、このようなことをおっしゃったのだ。

 博物館は寄贈に当たって念書を取るらしい。そうでないと、様々な問題が起こるということである。
 よくあるのが、本物だと思って寄贈したが、贋作であったということだ。博物館は展示出来ないので、倉庫に入れておくと、遺族はどうして展示しないのだと怒鳴りこんで来るのだそうだ。
  
 現在、博物館は天井、壁、床が完成した状態で、来週から路盤作りに掛かる。鉄工所を経営している友人が、路盤を支える支柱を格安で提供してくれることになった。多くの友人の助力により、建設が進んでいる。

2014年09月09日

続々々 土屋 巖氏の死去

 土屋氏の存命中に博物館をお見せすることは出来なかったが、設計図、工事中の写真は頻繁にお送りし、配置、色彩等について、細かい指示を戴いた。土屋氏の頭の中では、博物館は完成されていたはずである。土屋氏のコレクションは指示された通りに、全て運び出し、博物館に運び込んだ。

 ところが、一番の理解者だった奥様が、7月に急死されたのである。
「大変なことになってしまった。自分の死後のことを全部頼んであったのに、順番が変わってしまった。」
土屋氏の憔悴された様子は、本当にお気の毒であった。

 伊藤剛氏が亡くなり、氏の作品群、蔵書を全て当博物館に収蔵したことを報告に行くと、
「それは素晴らしい。どこにもない博物館になる。むしろ伊藤剛博物館と銘打って発表した方が良いかもしれんな。」と喜んでくれた。土屋氏は初期のTMSの時代から、伊藤剛氏のファンであった。

 剛氏所蔵の古い雑誌を、デジタル化して公表することには大賛成で、その具体的な方法のヒントも戴いた。

 博物館の線路は、吉岡精一氏の設計されたものを用いる。土屋氏と筆者、吉岡氏の所蔵分を合わせたもので、大半の線路本体は完成しているが、路盤はまだできていない。
 工程数を省くため、木の支柱は取りやめにし、スティールの支柱をコンクリート床に直接留める工法に切替えた。床のカーペット・タイルを介さず、直接取り付けるので、精度が出やすい。トランシットで水平を見ながら、路盤を支えるアングルを熔接する。このことを報告すると、
「そうだ。あの方法では、精度を保つのが難しいから心配していた。鉄骨の熔接が良い。祖父江氏の機関車の中にはベベルギヤを採用したものもあるから、ちょっとでも傾いていると流れて行ってしまうからね。線路が水平であることが大事だ。うちのコレクションにはこの種のカスタム・ビルトがたくさんあるから。」
と賛同を戴いた。

 最後にお会いした時、
「ちょうど良かった。明日から入院するんだ。もう会えないかもしれないから、来てくれて良かった。」
とおっしゃった。博物館に掲出する予定の土屋氏の経歴の文案を持って行って、赤を入れて戴いた。

「本当に世話になった。ありがとう。今後のことは頼む。」
と筆者の手を握り締めたが、もう以前のような力は感じられなかった。

 そして間もなく、訃報を受けることになる。

2014年09月07日

続々 土屋 巖氏の死去 

 土屋氏は祖父江氏の改造した機関車を大変気に入り、全ての機関車を改造した。重いブラス製客車もボールベアリングを装備し、極めて軽く動くようになった。たくさんある貨車にはLow-D車輪が装着された。 長い編成が慣性をもって走る様は、非常に実感的である。筆者の車輌も持って行って、会社の大きなレイアウトで走らせて遊んだ。

 18年前、土屋氏は体調を崩して入院した。癌が見つかったのだ。幸い手術は成功したが、土屋氏はその後の不安を訴えた。
「dda40xさん、自分が死んだら、この素晴らしいOゲージの模型はどうなるのだろう。いろんな奴らが来て、『これはくれることになっていました。』などと言って、持って行ってしまう。もう狙っている奴もいるのだ。」
「まさか、そんなことはないでしょう。」
「いや、心配なんだ。自分が心血を注いで集め、祖父江さんに頼んで改造した機関車がばらばらになるのは許せない。万一の時はdda40xさんがまとめて保管してくれ。カミサンにはそう言ってある。」
「うちはそんなに広くないのです。」
「準備をしていてくれ、ということだよ。」

 それから土屋氏はさらに2度の手術を受けたが、特殊な抗癌剤のおかげで回復し、一緒に海外旅行もできるようになった。しかし、将来への不安は大きくなっていった。

 本年3月、土屋氏は電話を掛けて来られ、「近々に直接会いたい。」とおっしゃった。出向くと、
「実は、もう余命が3ヶ月しかないんだ。医者に、『治療は終わりです。』と言われてしまった。ホスピスを探せってさ。この子たちはどうなる。自分が死んだらどうなってしまうのだ。」
 言葉を失った。

「息子たちは興味がない。自分が死んだら捨てられてしまう。dda40xさん、あなたに頼みたい。博物館を作ってくれ。全ての模型を一括して管理して欲しい。あなたにしか頼むことができない。」
 同席されていた奥様も、「よろしくお願いします。経済的なサポートはさせて戴きます。この人の夢をかなえてあげて下さい。」とおっしゃった。

 大変なことになってしまった。
 
 それから一月、運良く空き店舗を見つけ、それを無期限で借り受けることになった。

2014年09月05日

続 土屋 巖氏の死去 

 当時、祖父江氏は元請からの注文を切られて廃業を考えていたのだが、土屋氏からの改造注文を受け、息を吹き返した。動力の改造は蒸気機関車以外に、ディーゼル、電気機関車等があり、その滑らかな走行に、土屋氏は大満足であった。
  しばらくして、筆者がアメリカに引っ越すと、土屋氏からはよく電話を戴いた。市場から良い製品を選んで購入し、日本に送った。その後、吉岡精一氏設計の線路も共同で製作し、経営されている会社の3階に大きな線路を敷いて遊んでいらした。その後、ご自宅の3階に25坪程度のレイアウトを作られ、DCC運転を楽しまれた。

 土屋氏は東京藝術大学の出身で、二度も首席で入学したという特異な経歴の持ち主である。高校では一番だったそうで、東大に行くつもりだったのだが、不本意な結果に終わり、冗談半分で出願した藝大の入試を受けることになった。試験会場では黒板に題が書かれ、試験時間は5時間であったそうだ。氏は5分で描き終わり、周りを見ると誰も絵を描き始めていなかった。さらに30分待っても、誰も身動き一つしなかったそうだ。氏はバカバカしくなって席を立ち、作品を受付に出して帰宅したという。

 すると電報が来て、首席合格であるから、入学者総代として宣誓文を読めとあった。入学したものの、冗談で受けた自分が首席ならば、こんな学校は行く価値がないと退学届を出し、当時開校したばかりの代々木ゼミナールに通い始めた。ところが、東大クラスには優秀なのがたくさん居て、たとえ合格してもビリかもしれないと、心配になったそうだ。しかし藝大に行けば1番だ。よし、もう一度入ってみようと再受験すると、またもや首席合格だったという。

 土屋氏が絵を描くのは、信じられないほど速い。「見て描くのではない。頭の中にあるものを描くのだ。」とのこと。要するに、土屋氏の目には、紙の上にあるべき絵が見えているのだ。他の人には見えない。それを見えるようにする操作が、彼にとって絵を描くことなのである。天才という言葉が、ここでは適当だろう。

 それにしても、土屋氏を二度首席に選んだ藝大の先生方の眼力には、恐れ入る。ただし、二年目は音楽科と交代でその首席入学者が宣誓文を読んだので、宣誓文を二度読むということはなかった。学生時代は優れた先生や良き友人に恵まれ、楽しい日々だったそうだ。

  学生時代はアルバイトで絵を描いていた。ホンダのオートバイのカタログの絵や、初期のタミヤのプラスティック・モデルの箱絵は、ほとんど土屋氏の作品だという。このころから、ゴーストライターをしていたのだ。
 卒業後は非常に優秀な先輩の居た日産自動車に入社したが、その先輩が病気で辞めてしまい、やる気をなくしてしまった。退社後はフリーのデザイナーとして本領を発揮し、世界中から殺到する注文をこなされた。

 その世界では、誰が何をデザインしたかということは、誰でも知っているのだそうだ。だから指名で注文が来るのだ。

2014年09月03日

土屋 巖氏の死去

土屋 巖氏 2 土屋 巖氏が、昨日死去されたことを、ご家族から知らされた。1937年生まれであるから77歳であった。写真は2014年5月筆者撮影。
 土屋氏はその世界では著名なデザイナーであった。世界中の車の1割弱が土屋氏のデザインであった時代があったのだ。ご本人曰く、「世界一のゴーストライターさ。」
 クライアントとの契約があるので、車種は明らかにできないが、日本車はもちろん、韓国、中国、インド、イラン、フランス、アメリカをはじめとして多くの乗用車、バス、トラックをデザインされていた。鉄道車輌も特急列車の半分弱は土屋氏の作品である。航空機の内装なども手掛けられた。

 筆者とはちょうど30年のお付き合いを戴いたことになる。何度か海外にご一緒し、ビジネスのお手伝いをしたこともある。知り合ったのは、カツミ模型店が主催したOゲージの運転会であった。筆者の機関車の走りを見て、質問された。
「いったい何が違うのだ?こんなに良く走る機関車は初めて見た。」
「何もかも違うのですよ。機関車のボディはKTM製ですが、下廻りは完全新製です。モータも、ギヤも、軸受も、ロッドまでも違うのです。」
と答えたら、「ウーン」と唸ったきり、黙ってしまった。

「うちに来てくれないか?」と言われて付いて行ったところ、大変立派な御屋敷で、Oゲージの機関車がたくさん飾ってあった。
「どいつもこいつも、まともに動かないんだ。電流ばっかり喰ってさ。あなたのメカニズムで行きたい。改造してくれないか?」

 当時筆者は大変忙しく、自分の工作をするのが精一杯であった。
「私にはその改造を引き受ける時間がありません。でも、素晴らしい職人が居ますから、ご紹介しましょう。」

 その次の週、筆者は土屋氏の車で、祖父江氏を訪ねた。土屋氏は祖父江氏の作品をいくつか見せて貰ってから、
「少し持ってきたから、改造をお願いしたい。」と、車のトランクを開けると10輌もあった。

 祖父江氏は電話を掛けて来て、「大変な人を紹介してくれたね。一輌ずつ改造してたんじゃあ、間に合わねえからさぁ、量産体制を取るよ。部品を設計し直すから、ひと月くらい、待って貰うようにお願いしてくれ。」

 以来、土屋氏は祖父江氏の重要な顧客となり、3条ウォームの標準化に貢献されたのである。 

Mike のレイアウト

 Mike Rossは日本の蒸気機関車に非常に詳しい医師である。若い時に横須賀の海軍病院に居た。日本全国をカメラを持って歩いた。数千コマのネガを保管しているそうだ。

Mike Ross 6Mike Ross 4 このレイアウトを訪ねるのも2年振りだ。以前は遅々として進まなかったが、このところ急速に進んでいるように感じる。聞けば、常勤だった病院を退職して週に2回程度行っているだけで、残りの日々はレイアウト建設に邁進していると言う。

Mike Ross 7Mike Ross 山に緑が増えてきた。このレイアウトはNorth Carolina州のBlue Ridgeを題材としている。アパラシァ山脈を縫って走る炭鉱鉄道という前提である。走る鉄道はVirginian と C&O, Norfork & Westernが主である。Mikeは少年期をそこで過ごしたらしい。  


Mike Ross 3 配線は台枠の下に孔を開けて通してある。全てのレイルに給電し、レイル・ジョイナは機械的なアラインメントのみで、通電を期待していない。

 台枠は太い2x4である。

Mike Ross 2 とても広い部屋で、母屋の2階を全て占有している。線路は優雅に曲線を描き、美しい。

2014年09月01日

Dennis のレイアウト

Dennis' Hobby Room Dennisのレイアウトは庭の小屋の中にある。小屋とはいっても、熱絶縁のされた空調の効いた部屋である。10 m × 8 m 程度の大きさであって、アメリカの基準で言えば、大きな方には入らない。
 入口にはデッキを作り、夕方ここで飲むビールは格別である。

Dennis' Layout 全ての車輪がLow-Dに取り換えられ、曲線での抵抗がかなり減少した。デニスは最近GG1に凝っている。あらゆるボディを買い集め、寸法を測定している。人間の目は1 cm 程度の長さの誤差には気が付かない。筆者用にもひとつ用意されていたので、受け取ってきた。彼はパンタグラフ部品までロストワックス鋳造する。
 奥の壁には色々な鉄道用品や部品がぶら下がっている。細長い黒いものは、筆者が持参した某軽便電鉄のパンタグラフの擦り板である。妙に気に入ったらしく、壁に掛けてあった。

 地震の無い地方はうらやましい。壁に付けた棚に、無造作に飾ってある。これで落ちないのだ。

Dennis' Layout 3 2枚目の反対側、すなわち入口に近い部分の壁が写っている。2層になっていて、下が隠しヤードである。ある機関車が天井を擦るらしく、全体を1/4インチ(約 6 mm)下げたとのことである。


Dennis' Layout 2 このスイッチはエアコンの機能切替スウィッチである。手が届かないので、外して線を延長した。温度調節は、銀色の棒を使う。ユニヴァーサルジョイントが付いていて、つまみを遠くから廻すことができる。この種の工夫はDennisの最も得意とするところである。 
 遠くのポイントはワイヤで動かしている。 


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