2007年07月

2007年07月31日

金床の長さ

 金床の長さは、ゴムハンマ頭部の直径の3,4倍程度がよい。短いと、叩き損なって材料に修復できないキズをつける惧れがある。また、長すぎるとほとんどの場所が存在の意味を失う。ある程度の長さはガイドとなるので、経験上この程度がベストであるようだ。

 叩くのは、ある程度の強さが必要である。一発で、その範囲の材料があるていど曲がらねばならない。、一定の速度で送りながら順次曲げていくのがコツである。筆者はハンマをやや傾ける。ハンマの下に送り込まれた時は圧力が少なく、送り出されていくときは強くなるようにするのである。

 要するに、急に曲げられるのではなくある程度の区間で順次曲がるようにするわけである。こうすることによって、内分に歪が溜まるのを防ぐことが出来る。樋を作る板金職人を観察すると、同じ様にしている。但し、最近は叩く音がしない。何かを滑らせている。その道具を押し付けると少しずつ曲がる。もっとも、その方法では角が出てしまうが。

 少なくともハンマの下を通過するのに3回は叩かれるようにするのがコツである。

 この金床を使えば、Vista Domeの丸み付けも容易である。ロストワックスの前面のカーブに合わせた曲げは、普通の方法では困難である。

 この金床は容易に自作できるので、ぜひともお試し戴きたい。アメリカの友人に作ってやった。大変評判がよい。

 
 この金床は筆者のオリジナルであり、無断転載は遠慮願いたい。


2007年07月30日

丸金床 + ゴムハンマ

How to make roof curve 丸棒を支持するのは面倒である。それなら金床に熔接してしまえということになるが、いっそのこと、金床を作ってしまえばよい。こうして出来たのがこれである。

 信じがたいほどうまく出来る。一枚曲げるのに20分程度である。何回でも修正できるので気楽だ。金床の首の長さがあるのがミソで、そこにガイドとなる木片をクランプで留め、その上を滑らせながら順次叩いていくのである。

 このテクニックを使えば、タンク車や蒸気機関車のボイラの丸めも簡単である。そのときは両端を固定した丸棒が必要となるだろう。もちろん最初はこの方法で端から丸めていくのだ。

 模型誌には色々なテクニックが紹介されてきたが、これほど単純で失敗のない方法はない。リヴェットなどのディテールが損なわれないところが最大の利点だ。

 窓を抜いてしまってからでも目的の場所から曲げ始めることが可能である。そういう時はテープで仮留めしておいて位置をずらさぬようにすればよいだけのことである。

 ゴムハンマ(Rubber Mallet)は新しいものを用意した方がよい。砂や鉄片などを噛んでいると傷が付く。近所のホームセンタで手に入るもので十分であるが、大きめのものがよい。

2007年07月29日

ゴム型による絞り

round die + rubber mallet プレス工房を見学したことがある。金型だけでやっているのかと思いきや、そうでもないことが分かった。オス型は鋼で作るが、メス型は作らない場合もあるという。

 メス型は、復元力の強いウレタン・ゴムの厚い板そのものであり、焼きなました板をその上に置き、ゆっくりとオス型を押し付ける。すると見事にメス型が変形しオス型に合う形になる。押し付けたオス型を持ち上げればその通りに成形されている。材料がある程度薄く、軟らかいものであれば、この方法は実にうまく機能する。

 それを上下逆にしてみたらどうなるであろうかと考えた。鋼製のオス型を上向きに置き、材料をセットして、ゴム型で押す代わりにゴムハンマで叩く。

 鋼のシャフトに材料をテープで動かないように留め、1ポンド(450g)のゴムハンマで叩いてみた。実に見事にシャフトの丸みが材料に転写された。焼きなまさなくても、完璧に出来る。

 種々の実験で分かったことは材料が0.5mmくらいまでは非常に容易に成形出来る。エッチングや押し出しリヴェット表現があっても、それがゴムハンマでつぶれることはない。もし、強く丸みが付いてしまったときは、より大きな半径の型を使って更に叩くと簡単に戻る。

 屋根のように長いものも、順に端から叩いていけば歪むことなく全面的に曲げることが可能である。平らな板でも全体を屋根の形にすることは容易に出来る。

 丸棒は焼きが入っている必要はなく、極く普通の鉄筋程度の硬さで十分である。 


2007年07月28日

続々 Streamlinerを作る

roof forming dies この図は屋根曲げ用の型である。アメリカではどういうわけかこれが標準的な方法らしい。ブラスのバーを削って作る。

 手順としては、まず屋根板をガス火で赤熱させて冷やし、完全に焼きなます。それをこの型にはさんで少しずつ送る。型の幅(屋根の長手方向の長さ)は1インチ(2.5cm)である。

 全体をある程度曲げてから、センター線をよく見極めてグッと押すと一応の形が出来る。エッチングのリヴェットがあっても、キズが付かない程度に押すだけで出来るわけである。

inside of the roof 写真はその加工後の裏側。波紋状に、押した型の痕が分かる。意外にも、表面にはその模様はほとんど出ていない。

 この方法で曲げてもらったのがあるが、どうも形が気に入らない。曲線ゲージを作ってあわせてみると、似て非なるカーヴであった。修正するのは可能であるが失敗したくない。

 焼きなます方法では、完成したときに屋根が軟らかすぎて、取り扱いに困る。何かが当たっただけでも凹んでしまう。現実に工具を落としただけで凹んだ箇所がある(このような凹みのことを英語でDentという)。

 この型を使う方法では焼きなましてないと曲げることは難しい。というわけで新しい方法を開拓する必要があった。

2007年07月27日

続 Streamlinerを作る

formed brass roof しばらく車両工作をしていた。一日2時間ほど続ければかなりの仕事が出来る。朝1時間、夜一時間というのが日課である。

 昨日紹介した工具は大変便利である。さて何でしょうか。

 Streamlinerはとりあえず11両が形になった。現在3輌を作っている。この3輌は完全なスクラッチ・ビルディングである。そのときに使うのが昨日の工具である。

 そのあとは艤装である。室内はまだ考えが纏まっていない。

 仮に1両だけフル装備で組んでみたところ、質量は約2100gであった。これに室内が加わると2.5kg程度になる。ドームカーは床の構造が複雑でさらに重い。木製の床にすればよいのだが、段つきの床はブラスで作らないと強度がない。おそらく3kgを超えるだろう。

 14両編成で35kg程度であろう。機関車はEMDE8のABB編成を主力に、AlcoのABA編成、FMのErie-BuiltのAB編成がある。これで筆者のコレクションは一応の終結を見る。必要なものは全て揃った。


 写真は、エッチングでリヴェットを表現したものを、屋根の形に曲げたものである。 

2007年07月26日

Streamlinerを作る

What are these? しばらく実物の話が続いた。その間に模型の方も何か書けというリクエストも戴いている。

 

 さてこれは何であろうか。筆者の秘密兵器であり、本邦初公開である。熔接の習作としては最も簡単な部類に入る。

 近所の鉄工所でH鋼の切れ端を貰ってくる。それをちょん切って、二つのTにする。長さは長年の経験でこの程度にすると良いことが分かっている。このH鋼は一辺の長さが200mmのものである。

 丸い部分は鉄筋とかシャフトの切れ端を使用する。クランプで留めて電気熔接する。グラインダでバリを取ってから、サンドペーパで磨くと出来上がりである。

 錆止めの塗装をするが頭は磨きだしたままである。



 さて何であろうか。

2007年07月25日

続々々 UPHILL DOWNHILL

 下りの速度は、機関士が一人で決める。罐焚きが「速すぎる」とか「遅すぎる」と言ったためしはない。

 Creston峠からの「高飛び込み」について、もう少し書いておきたい。ブレーキ弁には一切手を触れず、ただ重力に任せて下っていく。Cherokeeという場所にカーヴがある。そこで転覆するのではないかと考えるだろう。

 どの機関士もここでは同じようにぶっ飛ばす。でも誰も脱線したものはいない。旅客列車は120マイル(192km/時)以上出る。

 下りの運転は機関士にとっても罐焚きにとっても楽しい。しかし機関士の方がもっと楽しいはずだ。速度を決めているのは機関士だからだ。当然なことに現場の指揮者は機関士だ。

 機関士になるには長い経験が要る。もしあなたが"Right Stuff"(機関士になるための資質)を持っているなら、その一瞬一瞬をちゃんと見ておくが良い。勝つか負けるか。ゾクゾクするだろう。経験の無いものには話しても分からない。

 あえぎながら峠を越えるのは、エヴェレスト山に登るようなものだ。多分、ヒラリー卿は登頂の瞬間に「やったぜ!」と叫んだに違いない。俺たちもそうする。

 機関士が下りでつぶやく言葉は特にない。Creston からRawlinsに向かって滑り降りる時の表情を見よ。彼らは特別に楽しそうな顔をしているはずだ。 


 筆者註 "Right Stuff"という言葉は映画の題名にもなった。宇宙飛行士になるための資質という意味であった。ここでも、機関士になるのは難しいという意味で使っている。

2007年07月24日

続々 UPHILL DOWNHILL

 煙の逆流だけは勘弁して欲しい。機関士がスロットルに左手を掛けて戻す瞬間にブロワが効いていなければならない。それからもう一つ、右のインジェクタをONにする。こうしないと安全弁が吹く。インジェクタは蒸気を消費し、冷たい水を温めながら入れる。すなわち圧力が下がり、水位が上がる。

 安全弁は左の2つが吹く。安全弁が開くのは別に構わないのだが、乗務員はそれを吹かさないように訓練されていた。罐焚きはストーカを止め、椅子に深く腰掛けて機関車の様子を見る。機関士はその様子を眺める。自分の習った通り、訓練通りの動作をしているかを見るのだ。

 下り坂では頭を使う必要はない。眼を働かせるのだ。次の閉塞区間の信号を見落としてはならない。夜間なら、赤い発炎筒がないかも見なければならない。

 機関士はいつも前を見ていられるわけではないのだ。煙と湯気が右に来れば、機関士の席からは全く見えなくなる。次の信号機が左カーヴにあれば、罐焚きのほうが早く見られる。

 黄色信号を見つければ、それを知らせる。しかし、どこで止めるか、どうやって止めるかは全て機関士の判断だ。制動弁に手を置いているのは機関士である。列車を止める手順を一人で考えねばならない。

 

2007年07月23日

続 UPHILL DOWNHILL

 考えていることは違う。罐焚きの頭の中は、圧力、水位、火床のことで一杯である。ストーカがが調子よく動くか、潤滑油送出機の目盛りにも注意を払わねばならない。そうなのだ。この自動注油機の監視も罐焚きの仕事のうちだ。それを怠れば、ストーカも空気圧縮機も直ちに止まってしまう。

 登り坂でストーカが30秒止まったら、それは大変なことだ。夜間であるとなおさらだ。原因がどこにあるか突き止めねばならない。

 夜間の運転では、時々煙突から飛んでいく火の粉の様子を見る。ストーカが止まればすぐ分かる。昼間の運転では、煙の様子をよほど注意していなければ、ストーカの停止には気が付きにくい。同乗の制動手と無駄口をきいていると分からない。

 機関士の頭の中は別のことで一杯だ。時間のこと、制限速度、退避のことを考えている。後ろから迫ってくる優等列車を、どこで退避するか。Rawlinsまで行けるか、手前で退避するか。

 谷の底でも峠の上でも、頭の中ではそのことが巡っている。時計を見て考える。あの坂を登るのに何分掛かったから、次の坂を何分で登れるかということを考える。

 下り坂では罐焚きは遊んでいる。機関士の腕だけである。峠ではスロットルを閉める。罐焚きはしばらく遊んでいられる。煙突の下にあるブロワ(煙を外に放り出すための噴出口)を開ける。排気がなくなるから、この操作をしないと火室の中の煙が吸い出されないのだ。これを忘れると運転室の中は煙でいぶされることになる。



 

 



2007年07月22日

UPHILL DOWNHILL

The Seventh District 前にも書いたように、機関士と罐焚きのチームワークは大切だ、特に登り坂ではその一体感がなければ仕事が出来ない。

 その前に、機関車の調子が良いこと、列車もそれほど重くないとしよう。機関士は余裕がある。椅子に深く掛け、パイプをふかしながら景色を眺め、帰ったら行く予定の釣のことを考えている。

 もちろん、罐焚きが何をしているかは見ていなければならない。逆転機を多少前に倒して、蒸気の消費量を増やしてやると機関車をより多く働かせることになる。罐焚きがそれについて来られるかだ。

 登り坂では少し前に倒す。坂が緩くなると少し戻す。Crestonの手前のLathamというところがそれだ。

 Crestonは大陸分水嶺である。その西に降った雨水は太平洋に行く。東の雨は大西洋と言いたいところだがそうでもない。行き先はない。このあたりは盆地で、本来ならば湖があるはずなのだが、雨が降らないので砂漠である。要するに、Hadsellにももう一つの大陸分水嶺があり、Crestonとの間はやや低いというだけの事だ。

 機関車の調子が良く、列車が重くなければ、逆転機に手を触れることもない。スリップするようなら砂を撒く。踏み切りの前では汽笛を鳴らす。夜間の運転で、すれ違う列車の方にヘッドライトが向くようなら、減光スウィッチを切り替える。単調な仕事である。


2007年07月21日

続 Bates機関士

 私はいつかこのBates機関士の代わりを務める日が来るのだろうかと考えた。自分が特急列車の運転が出来るようになるまで無事故で務められるであろうか。

 まさかStreamlinersが消えてしまうなどという事は考えても見なかった。Streamlinersが無くなってしまった今でさえも、Bates機関士の持っていたPrestage(威光)というものは消え去りはしない。

 StreamlinerのFireman(機関助士)の仕事は、30日で終わった。素晴らしい体験であった。

 いつか父がそのStreamlinerを運転できる日が来ると良いと思った。しかし、この素晴らしいディーゼル電気機関車の運転ができるようになるまで、あと7年の勤続が必要であった。

 結局のところ、父はStreamlinerの運転をせずに退職した。生涯、蒸気機関車の運転だけに携った。

 私はガス・タービン電気機関車、ディーゼル電気機関車の運転をしたが、Streamlinerの運転をすることはなかった。消滅してしまったのである。UPはその運転を1971年に取り止めた。航空機路線の拡充により、長距離の特急列車の採算が取れなくなったからである。

その後、旅客列車というものはUPから消えてしまったので、以後貨物列車の運転しかしたことがない。

2007年07月20日

Bates機関士

 その機関士の名前はCharley Batesであった。当時の機関士の中で飛びぬけて優秀な機関士である。まず服装が違う。

 当時、普通の機関士はブルー・ジーンズのオーバーオールを着ていたが、彼は違った。青と白の縞のCoverall(つなぎの上下)を着ていた。しかもそれがきれいに洗濯してあった。そして白いドレスシャツを着て、ネクタイをしていた。

 彼は全ての点で傑出していた。このベイツ氏は1901年に罐焚きとして雇われた。そして1942年当時、既に61歳だった。とても年寄りに見えた。多分18歳のFiremanから見れば、今の私も年寄りに見えるだろうが。その年寄りの機関士が機関車の運転室へとハシゴを登るのを見て驚いた。

 この人は、ユタ州のPromontoryで始めての大陸横断鉄道が完成した当時の事を憶えている人たちが居た頃に、このUPに入ったのだ。1942年当時、41年勤続であり、それはベイツ氏が始めて乗務したとき、完成後32年しか経っていなかったのだから、それより長いのだ。

 1901年の手焚きの小さな機関車の時代から、1930年代後半にStreamlinerを走らせるようになるまで、彼は仕事を続けてきたのだ。この優秀な機関士が時速90マイル(時速144km)で列車を走らせるのを称えざるを得ない。彼には自信が漲り、何か普通の人とは違うものを感じた。

 私はこの機関士と同列に並べられる機関士を2,3人しか知らない。

2007年07月19日

続 City of San Francisco

 私はこの列車のFiremanとして乗務したことがある。それは私の人生の中で特記すべきことであった。運転室に登って中を見たとき、息が止まりそうであった。後に、アメリカ空軍少尉としてBoeing B-17の爆撃手になったときと同じような緊張であった。

 蒸気機関車とは異なり、前方にはボイラがない。運転室から前が見える。大した違いだ。乗り込んだ瞬間、私は何か場違いなところにいると思った。何か犯罪を犯しているように感じたほどだ。

 蒸気機関車であれば罐焚きであるが、ディーゼル電気機関車なので、特に何もすることがない。機関士と並んで座り、前を見ているだけの仕事である。時々機関室を見に行かねばならない。ディーゼル・エンジンと発電機の後ろにはちゃんとボイラがあった。冬の間、列車全体を温めるためのものだ。私は多少安心した。ボイラの無い列車はないことが分かったからだ。

 機関車の運転室の床は油滲み一つ無く、輝いていた。現代の機関車とは大きな違いだ。

 走行は滑らかで快適であった。このような滑らかさは、それまで経験したことが無かった。最高速は90マイルであり、当時としてはとても速いと感じた。

 すばらしい列車だった。また運転してみたいものだと思う。いつかこのような、あるいはもっと素晴らしい列車が、この鉄道を走る日が来ると信じたい。

 

2007年07月18日

City of San Francisco

 City of San Francisco という特別な列車があった。私の子供のころから走っている大陸横断特急だ。機関車も客車も全て特別に素晴らしい列車であった。

 Union Pacificは、当時3つのStreamliners(流線型特急列車)を走らせていた。それらは、City of Los Angels, City of San Francisco および City of Portland であった。これらの列車は大恐慌の初期にRawlinsを走り始めた。私の記憶が正しければそれは1934年だ。

 これらの列車は会社にとって、その暗い時代では大きな賭けであった。誰もがその超近代的で静かな列車に乗ってみたいとは心の中で思ったに違いない。しかしそれはほとんどの人には叶わなかった。私も乗ったことは無かったし、知り合いにも乗った経験がある人は居なかった。今で言えば超音速のConcordに乗りたいと思うようなものだろう。現代でもConcordなど見たことのある人は少ない。しかしそのうち乗ってみたいと思う。夢はなかなか叶わないものであることは知っている。

 UPの職員の家族は普通の旅客列車なら無料で利用できた。しかしこの列車に限っては、半額を払わなければ乗ることは出来なかった。車内は豪華なホテルの様であり、たくさんの乗務員が乗っていた。

 この列車は大金持ちのための列車であると思った。

 最初にこの機関車に乗り込んだときのことを覚えている。それは1942年の春だった。私は当時18で、それからもう40年もこの鉄道で働いている。(この手記の執筆は1982年)。

2007年07月17日

西向き列車

Big Boy 4006 西向き列車は罐焚きにとって楽な乗務だ。小さい峠を3回越えると740マイル地点のTipton峠だ。そのあとBitter Creekまでは下る一方で、そこで石炭と水を足し、Green Riverに到着する。

 RawlinsよりGreen Riverの方が標高が低いのだから、楽なのは当たり前だ。スロットルは半分までしか開かないし、ボイラがHotでなくても運転できる。ここの運転は楽だった。

 Big Boyは、調子の良い機関車であったが、冬の運転には難しいことがある。関節式であり、蒸気管が可動式である。その関節部分からはかなりの蒸気漏れがありうる。工場から出てきたばかりはよいのだが、しばらくすると、磨り減って蒸気が漏れる。

 発車時は圧力が高いので、凄まじい蒸気漏れが発生する。視界ゼロの霧の中を発進するわけだ。しかし、ある程度走れば、蒸気は吹き飛んでしまう。

 白い霧の中をBig Boyが頭だけ出して発進する姿は、今となってはとても懐かしい。

 Big Boyは動輪が大きいので、貨物用としては素晴らしくスピードの出る機関車であった。80マイルくらい訳はない。100マイルを出したこともある。Challengerはもっと速い。110マイルは出る。高速で走ると、煙と蒸気がボイラの周りにまつわりつく。信号機が見えない。

 そういうときにはスロットルを一瞬開いて、排気で煙を吹き飛ばす。そのとき、あまり開くと、列車に響く。連結器に衝撃を与えないように最小限で行うのがコツだ。

2007年07月16日

続 Fireman の能力

 私はかなり若くして機関士になった。30歳のときだ。ほとんどの罐焚きは私よりも年上であった時期が続いた。それは戦争中に雇われた連中だった。この罐焚き連中は機関車の理屈を理解しているようには見えなかったし、どうやって焚くかということも分かっていないようだった。

 夜中にCreston峠を旅客列車を牽いて登っているときのことである。力が出ない。圧力計を見ると、50ポンドほど圧力が足らない。300ポンドの圧力が必要なのだ。煙突から出る火の粉を見ていると、この罐焚きの石炭のくべ方は全く足らないことが分かった。だから、「もっと焚け。」と合図を送った。

 彼は何もしない。圧力はどんどん下がった。私は立ち上がって焚口戸を開け、中を見た。 思ったとおりだ。こんなことはしたくなかったが、罐焚きの前にあるストーカの駆動ヴァルヴを全開にした。煙突から煙が出はじめた。そして、彼の側のインジェクタを止めて罐がHotになるまで待った。

 たちまち罐がHotになり、Gun(インジェクタのこと)をOnにした。この大馬鹿者は、火力が弱いと言っているのにそれが分からなかったのだ。同乗の制動手の前で赤恥をかいたのだ。

 このようなわけで、私はしばらくこの戦争の遺物と戦うことになった。勝ったり負けたりであったが、負けの場合も私はするべきことをしてなんとか切り抜けた。

 優秀な罐焚きもいた。駄目なのよりは多かった。大体予想通りの仕事をしてくれたが、もうちょっと頑張って欲しかった。

2007年07月15日

Fireman の能力

Rock Springs Rock Springsは罐焚きにとっては大切な場所だ。ここで態勢を立て直せなければ破滅に向かうことになる。駅の外れにYard Limitという札がある。ここから駅の構内である。

 機関士が駅のかなり手前でスロットルを閉じて惰力で走れば、水面計はまだ半分くらいを指している。大抵の機関士はスロットルを最大限に開き、勢いよく走ってきて駅の手前でエア・ブレーキを効かせて無理やり止める。このような走らせ方をすると罐焚きはかわいそうだ。火床を整える暇がない。ヤードリミットの手前でスロットルを閉じてやるべきだ。

 ロックスプリングズでしくじると、そのあと何をしても手遅れだ。この先ずっとBitter Creekまで登り坂なのだから、火床を直す暇がない。どんどんくべるが、火床が持たない。次の駅までてんてこ舞いをするのだが、出力は低下してくる。

 Cab(運転室)の中には見えない線が引いてある。機関士はその線を越えて行かないし、「こう燃やせ、ああしろ。」とは言わない。機関車の中では、その種の話は全く出ない。するべきことは決まっている。

 罐焚きの側から見れば、自分がどれくらい焚けるかということは機関士には見透かされている。父はそれをよく教えてくれた。しかし私が機関士になっても、自分と組んだ罐焚きの腕は分からないこともあった。ほとんどの場合、罐焚きは何も分かってない。また、自分が分かっていないことすら、わかっていない場合が多かった。そういう連中が多かった。

2007年07月14日

続 出発時の注意

 罐焚きに水面を高く保てと指示を出すと機関車を最大限に働かせることは出来ない。中の水が泡立ち、シリンダーの中に入る可能性があるからである。そういうときはすぐにインジェクタを停め、石炭の供給量をやや少なくする。そしてストーカのジェットを調整し、石炭が均一に撒かれていることを確認する。火室扉を閉めると、火室温度は見る見る上がる。インジェクタは止まっているので水面はすぐ下がる。

 この状態が最高である。水面は低く、石炭は均一に、インジェクタは水面を見ながら動かすのだ。この状態を"Red-Hot"と言う。罐焚きは「もう2インチ(5cm)水を足させてくれ」と言うだろう。それでは戦いに勝てない。我慢させるのだ。

 すぐ我々のチームワークは報われる。よし、今だ。インジェクタを働かせて、注水すると同時に、スロットルをやや開く。罐焚きは石炭の供給量を増す。機関士はまたスロットルを開き、罐焚きは石炭をより沢山くべる。あとは水面計を見ていればよい。

 これを機関車の能力の限界まで行う。そしてその状態を維持できれば最高だ。この戦いは我々の勝ちだ。罐焚きは煙突から吹き出る煙の色を見る。どんな色が最高に調子のいい状態を作り出せるかを憶えるのだ。ストーカのスティーム・ジェットを調節し、どうすればその色が出せるのかを頭に叩き込む。

 こうしているうちにKandaの坂を越える。峠の頂上では水面計は下から1インチまで下がっている。それでよい。あとはRock Spring までほとんど平坦である。 

 

2007年07月13日

出発時の注意

 機関士が列車を出発させるとき、逆転機を前進側に最大限傾ける。すると蒸気の消費量は最大となり、牽引力が最大となる。当然、排気量が増え、通風が凄まじく良くなる。火床を通過する空気量が増えるから、石炭が持ち上がろうとする。石炭は厚く撒いておかなければならない。しかしあまり長くこの状態を続けると、罐焚きが火床を維持することが出来ない。

 出発直後は、まだボイラーが完全には熱くなっていない。石炭もまだ完全に燃えている状態ではない。これを"Green Coal”と言う。(このGreenという語は、若葉という意味に近い。訳者註)、火室、レンガアーチ、クラウン・シートいずれもまだ十分には熱くなっていない。出発直後のレンガアーチはまだ淡い黄色をしている。2,3マイルも走ると耐熱レンガは灼熱する。融ける寸前の色だ。 

 このレンガアーチが十分に熱くならないと十分な蒸気を発生させることができない。それには多少時間が掛かるのだ。鍛冶屋が鉄を焼く温度よりもっと熱くなるまで待つ。

 機関士はスロットルを大きく開く必要はない。逆転機が前進最大になっているときスロットルが全開であると、機関車は動けなくなる。火床が吹飛ぶからだ。罐焚きの事を考えれば、スロットル開度は2/3までだ。それでも、あまり長くそれを続けてはいけない。逆転機を中立の方に少しずつ戻すのだ。圧力計が300ポンド(約21気圧)を指し続けていなければ、どうやったってどこへも行けはしないのだ。他機種ではこの数字は多少低い。

2007年07月12日

続々 東行き貨物列車の運転

 10分前の退避はなかなか難しい。機関士の判断ミスで旅客列車を遅らせることはありうる。もし機関士がオーヴァーランしたら、本線を塞がないように機関車を下げなければならない。その間に旅客列車が後ろにくっついてしまう。そのような失敗をした機関士は、今度は手前で止めようとする。すると最後尾のカブースは本線上に残ってしまう。

 狙ったところにぴたりと停めるのは名人芸である。そうすると旅客列車は定刻どおりにやってきて、機関士と罐焚きは「いい仕事をした」と思うのだ。

 話を最初に戻そう。Green RiverからKandaの坂で罐焚きが失敗すると、あとは泥沼である。全てが失敗である。時間通りにはRawlinsには到着できない。途中の側線で何本かの列車を見送る羽目になる。だから、最初の坂が勝負なのである。

 前にも書いたと思うが、機関士と罐焚きは、意思の疎通が一番大切なのだ。最初の数マイルで勝たなければならない。他のどの職場でさえも、機関士と罐焚きほど息が合っていないとできない仕事はない。それぞれが、なさねばならない仕事を持ち、そのベストを尽くす。そして、互いに相手の仕事の内容を知り尽くして助けあう。運転室の両側に座っているのだけれども、相手の挙動を見てその仕事を理解する。

 もし、線路脇に立っていて機関車が通過して行くのを見ていれば、機関士が一人で運転していて、罐焚きはただ黙って石炭を放り込んでいるだけに見えるだろう。運転室の中では、機関士と罐焚きは本当の意味のチームであるが、それは外からは見えにくい。

 運転室の中に立って、我々の仕事を見よ。機関士はスロットルを開ける瞬間にも罐焚きがそれに追いついて来られるかを観察している。もし、スロットルを大きく開けたままにすると、火床が持ち上がる。燃えている石炭が全部吹き飛んでしまう。あるいは、逆転機を一番前に倒したときも一緒だ。排気が強く通風が良過ぎて火床が無くなる。

2007年07月11日

続 東行き貨物列車の運転

 私はここで逆転機を中立に近く戻す。2ノッチほど前進側にあるだけである。このままTiptonから下っていく。速度は60マイル(時速96Km)くらいのものだ。
 
 Wamsutterまでは下りで、そこからこの線区最大の難所であるCreston峠を越えねばならない。12マイル(約20km)の急坂だ。どんどん焚き続けるのだ。水面を低めに保つのだぞ。

 ビッグボーイのボイラは大したもので、必要な蒸気を十分に発生してくれる。水面が高いと反応が遅くなるので水面を低めに保っていればうまく行くのだ。

 ようやく峠を越えた。もう一つ峠があるが、ここは惰力で乗り切ろう。Creston峠からの高飛込みである。速度はどんどん増し、70マイルを越える。ここでブレーキを掛けるようではいけない。後ろを振り返って、Hot Boxがないことを確かめる。

 そのまま次の登りに差し掛かる。この登りは楽である。罐焚きの仕事はこれで終わりだ。ご苦労さん。

 私はまだ仕事が終わらない。所定の位置に停めねばならない。長い貨物列車を後続列車の邪魔をしないように側線に入れねばならない。カブースが本線に残っていてはいけない。前を見て、後ろも見るのだ。そしてカブースに乗っている制動手がポイントを切り替え、本線を開通させる。

 これをローリンズに進入してくる旅客列車が到着する10分前に完了させねばならない。本線の信号がGreenになるのを確認するまでは仕事は終わらないのだ。

2007年07月10日

東行き貨物列車の運転

 機関士と罐焚きの気持ちが一つにならないと機関車は走らない。登り坂で石炭のくべ方を間違えれば、大失敗だ。レイルの1インチごとに彼らの努力の跡が刻まれる。

 さて、今あなたは1946年に罐焚きとしてUPで働いている。私の罐焚きを務めるのだ。グリーン・リヴァからローリンズに向けて長い貨物列車を牽いている。機関車はBig Boyである。列車は重く、ローリンズで後ろから来る旅客列車を通すために退避する予定である。うまく走らなければ、途中で退避しなければならない。また、そうすると"Hot-Shot"(長距離を無解結で走る急行貨物列車)を何本か見送らねばならないことになる。何とかして調子よくローリンズまで走りたい。しかも、真夜中の乗務である。疲れていて、帰って早く寝たい。そのためにも頑張ってもらいたいものだ。

 グリ-ン・リヴァの側線から本線に出る。機関士はスロットルを開ける。ここから6マイルは登りだ。あなたは最初の上り坂での戦いを始めるのだ。火床の調子が良く、水が水面計に一杯であリ、さらに石炭が良ければ最初の坂は楽勝だ。インジェクタを止めて置け。蒸気の上がりもすこぶる良い。Kandaを通過して、Bitter Creekまでの緩い登り坂だ。今のうちにボイラーの調子を最高まで持っていかねばならない。

 東向きの貨物列車は全てBitter Creekで停車し、石炭と水を入れる。ここからは、急な登りとなる。これからの16マイルは煙突が破れるくらいの運転をすることになる。

 さほど心配することはない。もう火床は十分に厚く、機関士がスロットルを開けても火床が全部吹っ飛ぶという事はない。どんどん石炭をくべればよい。蒸発によって水面が下がり始める。水面計を見るのだ。下から2インチのところまで下げなければならない。こうすると火力の調節によってボイラの温度がすぐに制御できる。

2007年07月09日

山岳路線の運転

The Seventh District Rawlinsから西に向かい、Green Riverに達する132マイルの線区(第7線区)の運転方法を書きたい。途中にはいくつかの峠がある。



 東向列車について書こう。

1. Green Riverを出てKandaまで6マイルの上り坂
2. Bitter Creekまで緩い登りが53マイル続く
3. Tiptonまで16マイルの急な登り坂16マイル
4. Wamsutterまで16マイルの下り
5. Crestonまで12マイルの急な登り坂
6. Daleys Ranchまで16マイルの下り
7. Hadsellまで6マイルの登り坂
8. あとはRawlinsまで5マイルの下り

という訳である。   

 この坂道を貨車80輌を牽いて行くのだ。  

2007年07月08日

続 Block Signal

 どの信号を見落としたかが判っていれば、危険が差し迫っているという訳ではない。見落とした信号を黄色信号と看做せばよいのだ。機関士は全ての信号機の位置を正確に記憶しているからだ。

 減速し、次の信号機が見えるまで徐行すればよいだけのことである。つまり、一つは見落としても大丈夫であるが、二つ続けて見落とすとそれは致命的である。

 高速で走る旅客機関車は、煙が邪魔でこのような見落としがよく起こった。だからMighty800や一部のChallengerにはウィングが付けられた。これは、日本を占領した軍人からの情報で付け始めたという説があるが、真偽のほどは分からない。ドイツからかも知れない。彼の地ではSmoke Deflectorと言っていたらしいが、我々はただWingsとしか言わない。これはなかなか効果がある。

 機関士を長く続けていると、昔の機関士がいかに優秀であったかという事がよく分かる。彼らは仕事に全精力を傾けていた。特別に優秀な人たちの選りすぐりであった。自分の父親がその一員であったことは誇らしく思う。

 鉄道の全てを知り、いかなる状況下でも絶対に事故を起こさないように努力していた。この人たちのことを忘れてはならない。車内信号がない時代でも、事故を起こさなかったのだ。いや、事故を起こさない人間しか機関士になれなかったのだ。

 

 ワイオミングは山岳路線である。平坦線とは違う。蒸気機関車の運転は、山岳路線では特に難しい。急な坂を重い列車を牽いて登れば、奈落の底に落ちるような下り坂をブレーキなしで下らなければならないこともある。

 そのような運転の話をしたい。


2007年07月07日

Block Signal

 昔は大変だった。車内信号どころかAdvance-approach Signalすらなかった。Advance-approach Signalとは、点滅する黄色の信号である。最近の規則書にはその名前がなくなったが、昔はそう呼んでいたからここではそう書く。現在の信号表示は、黄色点滅黄色赤色の順である。

 規則書には、「黄色点滅が表示されている時は時速40マイル(時速64km)を越えない速度で次の信号機まで進むべし。」とある。黄色が表示されている信号まで来たら、「直ちに時速30マイル(時速48km)以下に減速し、次の閉塞区間の前で停止すべし。」である。当然、赤色信号のときは「信号機の前で停車すべし。」ということになる。

 たいていの場合、機関士は黄色点滅信号から0.5マイル(0.8km)で停止しなければならない。誰が強制している訳でもないが、黄色点滅を見つけたら1マイル以上前から減速するのが普通だ。

 蒸気機関車の時代の機関士は、石炭を満載した重い列車を牽いて山を越えているときに、黄色信号を見落とすとそれが追突事故に直結するということを知っていた。それは別の列車が次の区間に止まっているわけだから、当然である。当時はこういう曲芸とでも言うべき運転方法をとっていたのだ。

 煙や蒸気はボイラに沿って流れ、視界をさえぎる。信号を見落とすのはよくある事だった。また、機関車の調子が悪いときはそちらに気を取られてしまい、Block Signalを見落とすのだった。  

2007年07月06日

Cab-Signal

 昨日の記事は読者にとってはどうでも良い事であったと思う。読んで下さる方がいることに驚きを感じる。(原文通り。訳者註)

 今日の機関車の運転は昔のことを思えば、極端に簡単になった。どこがどのように簡単になって、どのように安全になったかということを、くどくどと書くのは勘弁してもらいたい。現代の安全装置の中で最大の発明はCab-signalである。要するにCTCの車内信号のことである。

 車内信号は機関車の中に積まれている物の中でもっとも価値がある。車内信号は「進行」以外の信号を全て表示する。車内信号は、視認性を良くしたというだけではない。制限信号を現示するだけではなく、閉塞区間に進入したときの指示を「進行」以外なら機関士に教える警報装置である。

 視界ゼロであっても、閉塞信号は表示される。車内信号は機関車のエアブレーキに接続されているから、制限信号地点を超えた瞬間、機関士が"Acknowledge" (確認)のボタンを押さない限り、ブレーキが掛かる。

 要するに、「進行」以外の信号区間に進入したときは、機関士が速やかに何らかの正しい動作をしないと機関士の存在を無視して停車するということだ。勝手に止まるのを防ぐためには、直ちに確認ボタンを押さねばならない。

 この装置が導入されたとき、もうこれで追突事故は永久に無くなると思った。しかしながら、この一年半の間に2回の追突事故があり、どちらも機関士たちが死んでいる。

 国の事故調査委員会の報告によると「居眠りをしていた」のだろうというのだが、納得できるはずがない。どんな素晴らしい安全装置でも、事故を防ぎ切ることは出来ない。もう何回も起きている。

2007年07月05日

続 第7線区

 Tomはローリンズで機関士の組合長をしていた。第44分会である。会社側が乗務距離の延長を申し入れてきた。何回かの話し合いの後、現在の乗務距離の二倍を越えないというところで妥結した。調停委員会の指示でもあった。その程度の距離なら良いだろうということになったのだ。

 しかし、組合側の主張としては、距離だけでなく、勤務体系や乗務時間についての条件をつけていた。そして、線区をまたいでの乗務が始まることになっていたのだ。

 ところが、機関士組合側の付帯条件が勝り、鉄道会社はなかなか線区をまたいでの乗務をせよとは言ってこなかった。多分より高い調停委員会に掛けなければならないことになるだろう。列車の乗務員はソルトレークからローリンズまで、6時間半の乗務をこなしている。

 無線による通信さえなければ、6時間半の乗務など簡単だ。Tomにとって、無線ほど腹の立つものはないと言う。無線が機関車に付くまでは、乗務はとても楽しかった。この意味は読者の皆さんにはなかなか分かるまい。

 無線さえなければ余分なことは考えなくてもよい。無線でうるさいことを言われたくはないのだ。昔は気楽だった。無線のように精神的負担の大きいものは要らない。まあ、これはTomの頭の中だけの問題かも知れないが…。

 ともかく、長距離の運転は出来るだろう。いま、組合員に無記名の投票をさせれば
線区をまたいだ乗務に反対する奴は少ないと思われる。


 
 


2007年07月04日

第7線区

 Rawlins から Green Riverまでの線区は、1913年に父が最初に雇われた線区である。また、私が1941年にこの鉄道で働き始めた線区でもある。そして、ローリンズ以西の線区は今でもそう呼ばれている。 

 それはUnion Pacific鉄道が、1869年にこの地に線路を敷いた時のままであろう。しかし、純粋な歴史家は、ユタ州で東西の線路が結ばれたのが1869年だから、ワイオミングを通過したのは1868年だろうと言うかも知れない。
 
 そんな昔のことはどうでも良いが、考えてみれば当時の人たちがグリーンリヴァーのような西部の果てにまで行こうと思ったとはとても考えがたい。

 私の父の時代は、手で石炭を投げ込んでいた。しかも勤務時間は平均12時間である。現在(1987年当時)私の平均乗務時間は3時間くらいのものだ。2時間で終わるものもある。

 客車の乗務員はグリーンリヴァーを越えて、ソルトレーク市やオグデンまで行った。また、アイダホ州のポカテロまでという乗務もあった。これらの乗務距離は350マイル以上もある。ローリンズの機関士は、グリーンリヴァーまでの132マイルであった。

 多分これはそのうち変わるであろうと思われる。しかし鉄道の中の取決めというものは、変わる速度が遅い。UPは、乗務時間を長くしようとしていたが、最近はその気持ちが弱くなってきたようだ。

 鉄道ファンは皆良く知っているように、機関士と乗務員の最長勤務時間は12時間である。これは、国の法律の規定による。1907年には16時間だったが、10年以上前に12時間になった。 

2007年07月03日

機関士魂

 父と鉄道で働くことは、とても楽しかった。父が急行列車を、私が貨物列車を運転する。線路を相手のために空けてやるように運転するのだ。

 父には機関士としての心構えを習った。蒸気機関車の時代はそうだった。機関車と機関士が、一心同体にならなければ運転は出来ない。いつも、何が起きているのかを知っていなければならない。音を聞き、臭いを嗅ぎ、そして見る。何かの部品が焼けているのを見つけるようでは駄目だ。焼け始める前兆を知らねばならないのだ。

 もし、その前兆を捉えたら直ちに機関車を止め、応急措置を講じる。それが出来なければ機関士ではない。焼け始めた箇所に、「はなぐすり」をつける。そうすればそれ以上の事態にはならない。

 コツは、「早く見つけ、早く直す」だ。異常事態は、突然起こるものではない。常にその予兆がある。列車を遅らせない秘訣は、全てそこにある。

 ディーゼル電気機関車に乗っていると、居眠りをしていても良いだろう。父はそんなことはしなかったが…。

 目をつむる事は決してしなかった。片目を瞬きすることもなかったと信じている。

 蒸気機関車の時代は、故障箇所を見つけるのに3分間、修理に3日と言われていた。ディーゼル電気機関車になってからは、故障箇所を調べるのに3日、修理は3分と言うようになった。ディーゼル電気機関車は複雑であるが、回路がユニットになっているのでそれを差し替えれば、修理は終わる。

2007年07月02日

旅客列車の乗務

 1949年、復員した私はワイオミング大学法学部を卒業した。しかし、馬鹿なことにまた鉄道に就職した。すると父の病気は奇跡的な回復を遂げ、旅客列車の機関士になった。

 父は長く待ち望んだ旅客列車に乗務することが出来、運転したかった素晴らしい800クラスに毎日乗れるようになった。父のみならず、私もその800に父の罐焚きとして乗務することが出来たのだ。

 私たちは幸せであった。私はいつもボイラーをHOTな状態にした。目は常に線路に注がれ、速いペースで走る父の運転を邪魔するものが線路上にないことを確認していた。この時期は父にとって最高の日々であった。そして私とのペアは、50年代に入ってからも続いた。

 この時期、私は機関士に昇進するための準備に入った。父は大きな助けであった。父は800を運転させてくれたのである。もちろんそれは、ルール違反であった。旅客機関車は、機関士が罐焚きに運転を代わるということは許されていなかった。

 そんなことはお構いなしで、私はよく運転した。父は旅客列車の運転の仕方を教えてくれた。当然,貨物列車の運転もだ。

 「Tom、連結器を伸ばした状態で運転するのだぞ。」とよく言われた。その通りだ。そうしなくてはいけない。私は旅客列車を運転するときも、貨物列車を運転するときもそうする。

 1953年から57年の父の死まで、私は冬の間の数ヶ月は父の罐焚きをし、残りの期間は貨物列車の機関士をした。

2007年07月01日

兄の戦死

 父が心配していたことが起こった。軍から戦死公報が来た。兄のRichard Harvey少尉はフランスで戦死したのだ。

 連合軍のノルマンディー上陸作戦に参加して生き残ったが、その運が尽きるときが来た。1944年7月10日St.Mere Egliseという町で、狙撃兵にやられたのだ。即死であった。兄の上官に会ったことがある。しかし、弾がどこから来たのかは分からなかったと言う。戦闘中、兄から両親に宛てた最後の手紙をまだ持っている。心を打つ手紙であった。兄は勇敢に戦って死んだ。兄は英雄である。私たちはそれを誇りに思う。

 戦争が終わってから、私たちの家族は兄の遺体をアメリカに持ち帰るか、あるいはアメリカ軍が最初にヨーロッパに侵攻した地点のオマハ・ビーチを望む高台の墓地に残すか、という選択を迫られた。

 両親は遺体を取り戻したいと願ったが、私は違った。戦いで散った勇士たちは、戦場を見下ろす美しい墓地(St.Laurentという名前だ)に眠るべきだと思った。

 ここを訪れるアメリカ人が涙を流さないとしたら、私はその人を許しはしない。両親はそこを訪れたが、私はまだ行っていない。写真をたくさん撮ってきて、その感動的な様子を詳しく説明してくれた。

 私もいつかはそこに行く。そして兄と語るのだ。

 兄の死後、私たちの家族は本当に不幸せであった。父の体調はより悪くなり、1948年と49年は仕事を休んだ。

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