2007年03月

2007年03月31日

Ogdenの鉄道博物館

Ogden Union StationTime Table circa 1955 この時刻表は1955年当時のオグデン駅から出る旅客列車の数を示している。鉄道が斜陽化していた当時でもこの数の列車が走っていた。しかも大半が蒸気機関車で!当時、Big BoyChallengerマイティ800は現役で、オグデンにはBig Boyを転向させる巨大なターンテイブルがあった。現在は埋められてしまっている。

UP833 Mighty800というのはこの機関車の愛称である。高速で強力な旅客機関車であったが、後には貨物用としても活躍した。
 長らくソルトレークのUP駅の正面に置いてあったが、冬季オリンピックの開催により都市計画の一環でオグデンに移転させられた。例のアスベスト問題でボイラが裸にされ、惨めな姿を晒している。






Cab Signal 近くまで行けるチャンスはめったにないので、CTCの受信機のコンテナを撮ってきた。当時UPはCTC化を推進していた。東部の鉄道は40年代にCTC化に着手していたが、UPは50年代に開始した。シャイアンの駅にCTC装置を置くつもりであったが、当時のCTCは真空管およびリレィ式であまりにも重く、床が持たないことが分かった。仕方なく駅の隣に、鉄筋コンクリートのビルを建てて収容した。

CTCとはCentralized Traffic Control列車集中制御装置の略語である。全ての列車の位置を一元的に掌握し管理する装置である。日本では新幹線の開通時にその名が知られた。現在の鉄道はよほどの閑散線区以外はCTC化されているはずである。

2007年03月30日

Ogden Union Station

Ogden Union Station これも70年代の写真である。オグデンはソルトレークの北約60キロにあり、SP,UPの接続駅であった。70年代にはもう旅客列車は少なかったが、どうしても乗りたくなって、ネバダ州Rinoまで行くことになった。 
  
 切符を買って所定の時間に駅に行ったが、汽車(AMTRAK)は来ない。駅員は「今日は貨物列車が脱線したから、カンザスシティー経由でしか来られない。8時間遅れだ。」と言う。仕方が無いから、市内の友達の家で泊めてもらい、早朝に駅に行った。

 駅員は「お前は日本人か?日本にはシンカンセンという列車があるそうだな。どれくらい速いか。」と聞く。「最高速は140マイル位かな。」と答えると、「な−んだ、その程度か。この国でもそれくらいの最高速を出せる機関車はある。」と言う。

 「でも、それが15分おきに走っている」というと、目を丸くして驚いた。「本当か?列車の間隔がそんなに狭くて追突はしないのか。」と聞く。「旅客列車にそんなに人が乗るのかね。こちらの旅客列車は週2便だけどな。」

 これは30年前の話だが、今でも旅客列車はとても少ない。新幹線が5分おきに走っていることをアメリカの人たちは理解できないだろう。

UP822 FEF2 at Ogden さて、今回は久しぶりにオグデンの博物館を訪ねた。Union Stationが博物館になっている。中にはソルトレークを 渡っていた木橋の実物も展示してあった。屋外にはFEF2の833号機、DDA40X、3-unitタービン電気機関車などが展示してある。以前は柵の中には立ち入り禁止であったのに、どういうわけか中に入れた。

UP26 at Ogden RR Museum 展示物の下にもぐりこむ事も可能であったので、タービン機関車の床下の写真をたくさん撮ってきた。
 

2007年03月29日

続 Echo Canyon

C30 at Echo この写真をご覧になって、「これ、知ってる。」と思われた方はかなり年季の入った鉄道ファンである。筆者が1977年に撮影したものである。コダクロームの発色はすばらしい。ニコンFに105个鯢佞院待ち構えた。シャッター速度は1/125、絞りはF5.6と8の中間。ブログ上では解像度を落としているのが残念だが、スライドは極めて鮮明である。

 不思議なもので会心の一枚の撮影データは憶えているものだ。この光景が頭に焼きつき、それ以降の筆者の人生を支配してしまった。

 この写真もEcho Canyonのすばらしさをよく伝えるものだ。谷の反対側から俯瞰している。右上に高速道路がちらりと見える。線路沿いの道は旧国道である。起伏がひどく、曲がりくねった道だが、ここを大陸横断のトレーラーが走っていたのだ。この区間に高速道路ができたのは、1985年頃である。

 以前にも書いたが、アメリカの高速道路は東部とカリフォルニアには早くから存在したが、それ以外の地域に高速道路網が完成したのは1980年代後半である。1974年の地図を見ても、UP沿線にはほとんど高速道路がなかった。

 Echo Canyonを抜けてOgdenに出るとそこはGreat Salt Lakeである。この写真は渓谷を抜けたところである。
 
 もう少し下ると扇状地を走るようになる。このあたりの勾配はかなり緩い。
 



2007年03月28日

Echo Canyon

Echo Canyon エコー・キャニヨンは、グリーンリヴァーとソルトレークシティーの中間にある。

 細い谷ではあるが勾配が小さく、鉄道を敷くには適した場所である。ここは筆者がもっとも好きな鉄道風景である。

 古い映画を見ると、この谷を汽笛を響かせながらBig Boyやタービン電気機関車が100両もの貨車を引いて走る様子がよく出てくる。

 実際にこの谷に立って。音を聞くと遠くの方から機関車の音が響いてくる。最近は高速道路のトラックのエンジン音が邪魔をするが、それでもよく聞こえる。

 手を振って汽笛を鳴らしてもらうと、音がこだまするのがよく聞こえる。

 すばらしい写真が紹介されているのでご覧戴きたい。

 この写真は、エコー・キャニヨンの東の出口から望遠レンズで撮ったものである。このまましばらく東に向かうとUPの本線は上下二段になり、崖にへばりついて走る。その写真は80年ころの雑誌に発表したことがある。

 筆者のレイアウトの半分はその情景を再現している。

2007年03月27日

続 Green River

UP Green River グリーン・リヴァーの周辺はホッパーカーが大量に走っている。積荷はソーダ灰である。

 高校の化学の授業で「ソルベー法」なるものを覚えさせられた記憶がある方も多いだろう。その目的はガラスの製造である。現在のガラスはソーダガラスが主体でそれにいろいろなものを融かして作っている。
 
 その元になるソーダ灰(soda ash)は、ベルギー人Solveyが発明した方法により、食塩水にアンモニア、二酸化炭素を順次溶かして作る。決して安価ではない方法であるが、他に方法が無いので、100年以上も続いてきた。

 ところが、グリ−ンリヴァー周辺で、それが大量に堆積しているところが見つかったのである。人類があと1万年も使い続けることができるほど…。それ以降、世界中のソルベー法による生産量はかなり減ったはずである。大陸横断鉄道の沿線で見つかったので、東部にもカリフォルニアにも送りやすく、海を越えて日本にも大量に輸出されている。

 この鉱石はトロナ鉱と言い、厳密には炭酸ナトリウム、炭酸水素ナトリウムおよび水の化合物であるが、加熱すると簡単にソーダ灰(炭酸ナトリウム)になる。

 1980年当時、これを積んだ列車は世界で一番重い列車と言われていた。200両の貨物列車である。長さは2マイル以上、2万5千トンあったらしい。それをDDA40Xの3両プラス途中にさらに2両の合計33000馬力で牽いていた。週2便のその列車をTomは運転していた。

DDA40X's operated by Tom Harvey 最近はそんな長い列車はもう無い。せいぜい125両である。


 この写真をご覧になると、駅と周りの地形がよくおわかリ戴ける。

2007年03月26日

Green River

Green River Station Green Riverは、Rawlinsの次の補給地である。ここにはコロラド川の支流が流れ、良い水が豊富にあった。

 Tom Harveyの母、Ohmaはこの駅のBeanery Queenとして働き始めた。

 この機関区は、Big Boyを転向させる巨大なターンテーブルを持っていた。いろいろな角度でその写真が紹介されているが、その後ろには巨大な岩が写っているものが大半だ。

 その岩はこの駅の北側にある。駅の正面が昔の国道US30でその道をはさんでこの巨大な岩がある。

Castle Rock この岩はCastle Rockと言う。あまりにも近い。直線距離で600mくらいだろうか。そのふもとには住宅もある。

 UP沿線を紹介する昔の絵葉書などにはこの岩と駅を写したものが多い。30年前にはこの地域には高速道路がなかった。大陸横断のトラックなどは全てこの岩の前を通った。市内は時速25マイル(40キロ)でのろのろと走らねばならなかった。

View from Green River Station この写真は、筆者が1978年に駅から撮ったものである。自動車の形からも時代が分かる。

その後高速道路ができた。それは、なんとこの岩の中をくりぬいて作られた。中心をわずかに外しているので、町の中からはそれは見えない。地形を考えるとそこしかないのだが、ずいぶん思い切ったことをしたものだ。

Green River Stationの歩道橋 この駅の裏手にはUPの職員が沢山住んでいたので、このような跨線橋(歩道)が作られた。これは1930年頃に作られたものらしい。







 


2007年03月25日

ブルーカラー

 ブルーカラーの人たちの仕事についての本が出ることは喜ばしい。彼らの仕事についての誇りというものに光を当てることは大切なことだ。日本でも、国鉄時代の仕事振りを書いた本がいくつか出ている。消えていった仕事についての記録を残すことは必要である。

 ロレインとはそのような話もした。いずれ、このブログに連載中のTomの手記も出版できればありがたい。

 ロレインは、筆者がディーゼル機関車を追いかけて写真を撮ったという話をすると、不思議疎な顔をした。
 「現在の鉄道のどこがいいのか?」と聞く。「Big BoyChallengerの時代は遠く過ぎてしまった。もう見るべきものは無いのではないか?」と真顔で聞く。

 確かに蒸気の時代の乗務員たちは今の時代の乗務員たちとは違う何かを持っていたはずである。機関車と人間が一体化しなければ運転できなかったのだから。

 しかし今の鉄道にも魅力はある。「鉄道の持つメカニズムの美しさに魅了されている。システム全体が好きだ。」と答えると、「私には分からない。」と首を振った。

 「Tomは機関車を愛していた。機関車を乗りこなすことにかけては天才であった。」と強調した。ディーゼル機関車の時代が始まると、機関士としての腕はあまり関係なくなった。

 ブルーカラーの人にとっては腕が誇りなのである。また、鉄道会社はプロフェッショナルを大切にしていた。

 プロを大切にするというのははアメリカ社会に共通した哲学であり、日本ではその気持ちは薄いと感じる。久しぶりにそんなことを感じた会話であった。
 

2007年03月24日

Crossing Sherman Hill

Sherman Hill この本もTomと同時代の人たちが書いている。昨日の本と一部の内容が似通っている。

 この本の著者たちも、機関士、罐焚き、制動手、線路工夫長、信号取扱掛、機関車に石炭を積む人等々、鉄道のブルーカラーの人たちである。

 この本には事故の写真が多い。800とぶつかったディーゼル機関車とか、まさに鉄屑となった貨車(カヴァード・ホッパー)などが載っている。

 その他の写真も未発表のものが多く楽しめる。UPの蒸気機関車の最盛期の姿を知るには良い本である。

 この本の57ページに機関士、罐焚きの組み合わせを示す黒板の写真が出ている。目を凝らすと、このブログに登場した人たちの名前が読める。その右下には、補欠の罐焚きの名を書くところもある。

 
 


2007年03月23日

「機関士の人生」

Locomotive Engineer 本屋に行くと、鉄道関係の本が気になる。手にとって見ると、まさに機関士の人生について書かれたソフトカヴァの本があった。1992年に出版されたものをCarstens社(Model Railroad Craftsmanの出版社)が再版したものであった。

 著者はSPの機関士であった。文体が生き生きとしていて読んでいても気分が良い。Tomの話と一脈通じるところがあり、とても面白い。300ページほどもあるが、一気に読んでしまった。

 踏切事故で機関車の側面が大被害を受け、ロッドが吹き飛んでしまうところが妙にリアルに書かれていて興奮してしまう。

 挿絵は数枚しかなく、ほとんど文字ばかりだが、気軽に読める本である。

Saving a Big Boy and other Railroad Stories この本はTom Harveyと同時代の人たちの話である。

 Big Boyを走らせていた人たち、裏方の人たちにスポットライトを当てた本である。機関区で働いていた女性の作業員、電信係、電話交換手、機関車整備員、列車指令、機関士の話をまとめたオムニバス形式の本である。写真も多い。

 吹雪に閉ざされて動けなくなった列車が凍りつく話も紹介されている。燃料がなくなった瞬間に機関車は凍り始める。800クラス、チャレンジャの燃料が尽き、氷の塊になった機関車の写真も紹介されている。

2007年03月22日

Tomの家を再訪

Loraine Tomの家は昔と同様きれいにしてあった。今は娘さんたちは結婚して遠くに住み、未亡人のLoraineが一人で住んでいた。ロレインと会うのは19年ぶりで、Tomの死後初めての訪問であった。話さなければならないことが、いくらでもあった。

 Tomは1992年の5月に亡くなったそうだ。もう15年になる。彼の死の直前、死を覚悟した手紙とテープが届いた。それには、彼の手記を日本とアメリカで出版してくれるようにという依頼がしたためてあった。

 今回の訪問はその確認であったが、意外なことにアメリカ国内での出版はできないということが判明した。ある大学の歴史学の研究室に、研究目的以外の出版を禁ずる旨記した契約で、手記の原本が寄贈されていることが分かった。これでは完全に埋もれてしまうことになる。

 日本国内でのことは触れられていず、自由に出版できるので、いずれまともな出版社から出版したいとロレインに伝えた。

 ロレインは前回の出版時には大変に喜び、5冊ほど差し上げた。日本語が読めないのでそのなかに多数あるミスプリントの件は気がついていなかった。実はこのようなわけでひどいミスプリントがあるのに、校正なしで出されてしまったと言うと、知らなければ良かったと言う顔をした。

 近い将来、私の聞き書きと言う形でなら、アメリカで出版することができるかも知れない。最近、機関士の人生を描いた本がいくつか出版されるようになった。機関士以外の職種に光を当てたオムニバス形式の本も出ている。

2007年03月21日

Rawlinsへ

Blizzard ララミーからローリンズに向かう途中、ちょっとした山地がある。そこで天候が急変し、猛烈なブリザードとなった。降雪量はかなりありそうだが、風が強くみな吹き飛んでしまう。ということは、しかるべきところには大量の吹き溜まりができるという事だ。UPの沿線にはいたるところに防雪柵が設けてある。
その効果のほどはしっかりとは確認できなかったが写真をお見せする。
 
防雪柵 かなり年季の入った柵である。風が運んでくる雪を上に押し上げる働きをするように見える。





Rawlins 雪がやむと、車はローリンズに近づいていた。
電話するとTomの未亡人のLoraineが出た。突然の訪問であったが昔のように歓迎してくれた。 
 

2007年03月20日

Laramie駅

Laramie Station Laramieはそれほど大きい町ではなく、乗降客も少なかったと思われる。ただ、機関車にとっては給炭、給水、乗務員の交代、保線の拠点として重要な位置にあった。したがって、駅自体はそれ程大きくはないが、ヤードはかなり広い。駅の裏手には、鉄道職員のために建てられたと思しき、こじんまりとした住宅がたくさん並んでいる。

 ララミー駅は木造の梁を室内に露出させた山小屋風の駅である。いや、山岳地にあるリゾートホテル風であろうか。旅客待合室は広くなく、駅の事務室が1/3くらいを占める。

1/12 チャレンジャ 興味を引いたのは、地元の人が作ったと思われる1/12くらいのチャレンジャのレプリカがガラスの箱のなかに入れてあったことだ。あまり正確にできているわけではなかったが、その大きさが迫力を持っていた。



ガラス製碍子 それとそのガラスケースには、鉄道開通時に使われていたと思しき、青いガラス製の碍子が展示してあった。横にはモールス電信器もあった。

 Tom Harveyの父親の時代には全てがこの電信によって伝達されていた。機関車には電信器が積まれ、非常時には電信柱に登り電線にクリップでつないで交信したらしい。

電信器 電線には情報が行き交っているので、接続してしばらくは様子を見て、途切れた瞬間に割り込むのだ。「きょうは空いている」と思うと、それは電信線が切れているのだという。当時は必要なときには電信線が切れていることが多かったらしい。

2007年03月19日

Laramie

Big Boy at Laramie Station  ララミーという地名を聞くと、ララミー牧場という言葉を連想する人は50歳以上であろう。西部劇の題名にもなり、いかにも牧草地のような感じがするが、実際のところは草砂漠(ステップ)気候である。

 「OK牧場の決闘」という映画があったが、原語では"Gunfight at OK Corral"であり牧場でも何でもない単なる「囲い地」のことである。牛馬が逃げないように木で柵を作ってある場所を指す。このあたりの勘違いが、頭の中の深いところに埋め込まれているような気がする。

 ララミーは重要な補給地である。人間にも機関車にとっても。町並みは19世紀のままで、かなり古臭いがよい雰囲気を醸し出している。上の写真の建物は現在でも残っている。これは歩行者用の陸橋から撮られたものである。下の写真と照らし合わせて見られると良い。 

 駅は木造で、歴史を物語る重厚な雰囲気である。既に旅客列車はこの線区を通らないので、普段は閉じられている。たまたま地元の人が会議を開くために開いたところに行ったので、特別に内部を見せてもらうことができた。Laramie

2007年03月18日

UP Common Standard

Spring FrogUPに限らず、大手の鉄道会社は、Common Standard(標準仕様集)を持っていた。Pennsylvania鉄道のそれは日本に持ち込まれて、旧国鉄の標準仕様になったらしい。信号機の形など明らかにそれと分かるものがある。

 以前、Tom Harveyに貰った図面のなかにこのスプリング・フログがあった。写真のものとは細かいところが違うが、大まかに言えばそっくりである。

 この図によると、ウィング・レイルはスプリングのみで密着しているので、通過時には激しく閉じたり開いたりを繰り返したであろうと推測される。かなり凄い音がしたに違いない。

 現在ではオイル・ダンパが作動するので、閉じるときはかなりゆっくりと動くはずである。したがって、ウィングレイルの損耗も少ないであろう。

 この図面は90lbレイル(約45キロレイル)用である。現在はかなり背の高いレイルであり、また別の図面が用意されているであろう。

 Mainline ModelerのJune'05号の図面にはイリノイ・セントラル鉄道の例が示されていて、これとはやや異なる方式の復元バネが用いられている。

2007年03月17日

可動フログ

spring frog1 可動フログはUPのスタンダードとして、図面集に載っている。話はTom Harveyに聞いていたので、そこらじゅうにあるものだと思っていたが、見つからなかった。

 今回見つかったのは単線の一方通行区間であり、これ以上単純な運行方式が無い場所なので残ったのではないだろうか。Googleで検索してみると、この可動フログが元で脱線した事故が報告されており、それがきっかけとなっていっせいに取り除かれたのではないかと推測する。可動部の錆付きで、動作が不完全であれば乗り上げ事故は起こりうる。

 この勾配緩和新線にはいくつか待避線があるので、それら全てにこの可動フログが残っている可能性は高いと見ている。いずれ調査に行きたい。

spring frog2 構造は簡単でウィングレイルの片方が大きな円弧を書いて動く。間違って飛び跳ねないよう、しっかりと固定された角パイプの中を動くようになっている。スプリングは一本で、ダンパーがその動きを制限している。

 筆者がこのフログにこだわるのは、本線側の摩耗が少ないからである。実は筆者所有のレイアウトで一番の問題はそこである。保有車両全てが金属車輪付きで、重い車両ばかりである。毎日1時間くらい運転していると、フログが目に見えて消耗する。順次取り替えてはいるが、疲れてきた。この際焼入れした材料に取り替えるか、可動フログにしたいと思っていた。本線側が密着していれば、磨り減ることは無い。側線側に開くときは、スプリングを押し開く方法でも良いが、先端軌条と連動して動かすのも難しくは無い。

 この写真を見て計画を進めている。

2007年03月16日

続々 シャーマン・ヒル

Siding is lower than Mainline しばらく前、側線の高さは本線より低いと書いたが、この写真でそれがよくわかる。かなリ登らないと、本線には入れない。これ位の落差があれば、過って本線に流出させてしまうような事故は、かなり防げる。

 Harriman駅には巨大な給水タンクがそのまま残っている。75000ガロンの鋼製タンクだ。Big Boyがここで給水する写真は非常に有名な場面で、多くの書籍に掲載されている。この駅は登りの一方通行なので、給水設備は1箇所しかない。

 Harrimanはコロラド州境に近く、一度コロラド州に出てしばらく北西に向かうと、Hermosaトンネルに向かう道がある。これがひどい道で、途中吹き溜まりがたくさんあった。

 地元の人はHermosaを「ヘルモウサ」と発音する。ハーモウサではない。このトンネルの土かぶりは、どう見ても20メートルくらいしかない。長さは500Mくらいもない。どうしてトンネルにしたのかが謎である。他にもこのような場所はかなりあるが、それらはどれも切り通しになっている。

Hermosa Tunnel at Sherman Hill 表面が固い岩で、その下の地層が柔らかい砂岩だったのかも知れないと、思いをめぐらせた。

 強風吹きすさぶワイオミングの丘陵地には風をよけるものは何一つなく、車に逃げ込んで暖を取った。

2007年03月15日

続 シャーマン・ヒル

Sherman Hill 勾配図 この図をご覧になると、シャーマン・ヒルがかなりの勾配を持っていることが分かる。短距離ではあるが1.5%区間がある。蒸気の時代、5000トン牽引はBig Boyの重連が必要であった。

 1950年代に入ってからUPはシャーマンヒルの勾配緩和に着手した。かなり迂回をして距離を稼ぎ、勾配を1%未満とした。これでBig Boy単機で5000トン牽引が可能になった。

 Harrimanはその勾配緩和新線の一方通行区間にある。現在では待避線の使用頻度はかなリ小さい。当初は本線上に給炭設備および給水設備もあった。

 Movable Frog at Harrimanフログをご覧戴きたい。本線の通過側に偏っているのがお分かりであろう。よく見ると、オイル・ダンパが付いている。これがウィングレイルの急速な復元を妨げるようになっている。

 先端軌条は完全に覆われ、プロパンガスの燃焼により温風が吹き出して、凍結から守る。プロパンのタンクは10㎥くらい(約5トン)あり、長期の使用を前提としている。このような寒冷地では、ブタン(分子量58、沸点0℃)が含まれているLPGを使わない。沸点の低い純プロパン(分子量44)を使わないと、ブタンは蒸発できずタンクのなかに残ってしまう。

 駅舎はすでに無人であり、保温装置は遠隔操作で作動するようになっていた。

2007年03月14日

シャーマン・ヒル

Sherman Hill 東斜面地図 シャイアンに行ったのは、シャーマン・ヒルを走ってみたかったからだ。

 この区間は何度も走ってはいるが、UPの路線に沿って走ったことは無い。Tom Harveyの運転する車では行ったことはあるが、自分で運転していないので、記憶がはっきりしていない。この時期に行くと雪が心配だったが、インターネットの情報では強風晴天としかなかったので行ってみた。高地なので雪が多く残っていて吹き溜まりをつくっていたが、ある程度は除雪されていてかなりの奥地まで進入できた。

 シャーマン・ヒルは1860年代の建設当初から、何度も線路の敷き替えがなされており、1950年代になってから、さらに新線が敷かれた。今回の目的はその新線の確認であった。

Harriman Harrimanという駅を見たかった。その写真は何度となく見ているのだが、どんなところかを知りたかった。この駅は南に下がったところに作られ、コロラド州境に近いところにある。一度コロラドに入ってから行くと行き易い。

 そこで20年来探していたものを見つけた。それは可動フログのポイントだ。

 可動フログは新幹線にも使われていて、特に珍しいものでもない。しかしこれから紹介するのはやや異なる種類に属するものである。

 一方通行の路線で側線から本線に出る回数は少ないとする。するとほとんどが本線を通過する。本線通過のフログに隙間があるとフログは傷む。保守を軽減するにはフログの隙間を無くすしかない。普段はフログが閉じて本線側の通過に備え、側線から出るときは、フログを押し分けて出る。押し分けられたフログはすぐ戻ろうとするのだが、オイルダンパーがあってゆっくり戻る。

 すなわち、重い機関車がこじ開ければ、貨車はほとんど抵抗なく通過できる。

 昔はかなりの箇所にこのスプリングフログがあったはずなのだが、全く現物を見たことがなかった。しばらく前のMainline Modelerという雑誌に、どこかの引込み線の現物の写真があったが、それはずいぶん古いものであった。実際に稼動しているものがあるとは思わなかったので、妙に興奮した。

2007年03月13日

ワイオミングの旅 

Colorado Southern Overpass コロラド州に行ったついでに北に向かい、ワイオミング州を走ってきた。高地はやはり寒い。途中猛吹雪に見舞われ、−10℃くらいになった。しかし、高速道路ならばノーマルタイヤで走れるところが、アメリカ的である。

 除雪車が30分ごとに廻って来てくれるので、そのあとをついていけば安全だ。あっという間に30cmくらい積もっても、平気である。冬季はガソリンタンクをいつも満して置きさえすれば、死ぬことは無い。

 アメリカの除雪車は雪をどかすだけではない。岩塩と砂(といっても直径8ミリくらいはある砂礫)をばら撒いていく。これが効果を発揮して、全くといっても良いくらい滑らなくなる。

 シャイアンで安宿を探し、眠りに着く。明け方、すさまじい地響きと汽笛で目が覚める。そのモーテルは、UPの本線をまたぐCorolado and Southern鉄道の陸橋の真下にあった。現在はBNSF路線の一部ではないだろうか。写真の右手、青い看板の裏がそのモーテルの所在地。左手、トラス橋の下のかなたにUPの機関車が見える。

Original painting in Cheyenne Station シャイアンの駅の周りを一巡りし、陸橋を何度も往復してUPの機関区を俯瞰する。駅に行けば、既に旅客扱いをしていないが内部を見学できる。天井のインディアンの模様は塗り直されていたが、一区画だけオリジナルの模様がしみだらけではあるが残されていた。

 昔の二車線の陸橋は、片側三車線で二本掛け替えられていた。聞いてみると、機関車が暴走して、橋脚にぶつかったのだそうだ。即ち、橋は崩落したのだ。
「その機関士はクビになったか?」と聞くと、「当然!」ということであったが、しばらくして復職したそうだ。

2007年03月12日

続 運転免許

Vanishing Point ともかくも試験は合格で、その場で写真を撮り、指紋をとられて免許が交付された。確か10ドル払ったような気がする。「事故死したとき、臓器の摘出に同意するか?」ということも聞かれた。

 ワイオミングの友人の所に遊びに行って、「ほら、免許を取ったんだよ。」と見せると、彼は不思議そうな顔をして「ワイオミングには運転免許制度が無い。」と言う。12歳以上なら誰でも車を運転できると言う。そうでないと、子供が学校に行けないという。中学生になると、弟妹を乗せて学校に行くのだそうだ。

 その後ワイオミングにも運転免許制度ができた。かなりの反対運動があったそうだ。子供の通学権を奪うものだとデモがあった。当時ワイオミングには高速道路がなかった。国道があって時速55マイルでは走れたが、遠くまで行くにはかなりの腕と勇気が必要であった。1980年頃にI-80(全米を網羅する主幹高速道路網の一つ)が全通した。ワイオミングの住人が他州に出掛けて、事故を起こしたりするようになった。そのため、国家の法律との整合性が問題になり、運転免許制度ができたのだそうだ。

 ワイオミング州の田舎を走ると(どこも田舎ではあるが)、時々赤い三角帽子を付けた車に行き会う。"STUDENT DRIVER"と書いてある。これは通学用に学校が認めた車で、通学路線を日の出から日没までしか運転できないらしい。

 ワイオミングは本当に田舎である。時間と言うものが無いような気がする。朝と昼と夜は確実に存在するが、何時何分という感覚がなくなってしまう。
 たまには、そんな経験も良いものだ。

 

 当時、ネバダ州には速度制限がなかった。"at Appropriate speed”(適当な速度で)としか書いてなかった。だからスピード狂はネバダの砂漠の中で合法的にぶっ飛ばしていた。


2007年03月11日

運転免許

 よく考えて答えた。答案を試験官の所に持っていくと、ちらりと見て、「この答はこれでよいのか?」と聞く。
「はい、いいと思います。」と答えた瞬間に、「残念だったね。また受けに来なさい。」とやられてしまった。

 ガックリきて帰ろうと思ったら、「どうだい、もう一回受けてみるかい?」と聞く。「ええ、お願いします。」と受け取った問題を見ると、さっきとは全く違う問題であった。何通りかの問題があるようであった。今度は難なく解け、提出すると、"You are a lucky guy.”(運が良かったね)と、笑顔で合格証書をくれた。

 次は路上試験だ。自分の車を取って来いと言うので、試験官室の前に停めた。試験官が乗り込んできて、「運転できるか?」と聞く。「できます。」と答えると「それでは適当にその辺を走れ。」と言う。

「ほう、うまいじゃないか。それなら、そこでUターンしてみろ。バックできるか。」と次から次に指示を出した。まっすぐ走ってきたので、バックはハンドルを押さえてそのままバックギヤにしてアクセルを踏んだ。当然まっすぐ走る。試験官は「うまいっ」と叫んだ。「今までの中で、一番バックがうまい受験者だ。」と褒めてくれた。

「ところで、お前、英語は読めるか。」と聞く。「はい、なんとか」と答えると、スクールゾーンの標識を読めと言う。読むと、解説せよという。「この近くには学校がある。子供を見かけたら速度を落とさねばならない。黄色ライトが点滅しているときは停止せねばならない。」と答えると、「とてもよく読めるな。たいしたもんだ。外国人でそこまで答えられた奴は今までいない。」と言う。「英語は今までどれくらいの期間勉強したのか。」と聞かれたので「8年間」と答えると、「それにしては下手だな」と言った。

2007年03月10日

長らく休載しましたが本日より再開します。

driver license 筆者の個人的な用件も含めて、しばらくアメリカに行って居た。時差調整がなかなかできず、やや体調不良だが本日より再開させていただく。

 個人的な用事とは運転免許の更新である。昔とった免許を中断せず保持し続けているのにはいくつかの理由がある。

 まず、アメリカ国内での「信用」である。レンタカーを借りるにせよ、ホテルに泊まるにせよ、いくつかの場面で要求される。パスポート、国際免許でも用は足りるが、信用度が全く異なる。自動車保険でも、アメリカの免許と国際免許では料率が異なるはずである。

 五年ごとに更新だが、一回だけは郵便で可能で、十年に一回は必ず本人出頭が求められる。

 更新のたびに条件が厳しくなり、今年は場合によっては無理かと思ったが無事通過した。10年前には外国人であってもSocial Security Number国民総背番号が必要とされ、わざわざその申請をして、大変な時間が掛かった。今回は9.11テロ以降初めてのことであり、外国人には大変面倒なことになると思っていたが、意外にすんなり通った。写真は新しい免許証だが、偽造の助けにならないよう色を換え、解像度を極端に落としてある。


 一番最初に運転免許を撮ったときのことを思い出す。どうしたらよいかわからなかったので、とりあえず試験場に電話してみた。すると、
「自分の車に乗ってきてください。」と言う。「免許が無いのですが、」と言うと、「運転できるでしょ。」と言う。
「それはできますが、運転していいのですか。」と聞くと、「もちろんOKだ。もし警察に捕まったとしても、『今から運転免許試験場に行くところだ』と言えばよい。」

「そんなバカな。事故を起こしたら困る。」と言うと「「それなら今から保険屋に行きなさい。車を買ったから保険に入りたい。免許はない。今から取りに行くと言えば良い。」 

 保険屋でその通り話すと、「はい結構です。」と言う。半信半疑で試験場に赴いた。法規の問題を渡された。解かねばならない。当時の私には難解な法律用語がいくつかあって意味がとりかねた。

 試験官に「私は外国人で英語の難しい言葉が分からない。辞書を使っては駄目か?」と聞くと、"That's a very good idea"(それはいい方法だ)と言う。

                       <この項続く>


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