2007年01月

2007年01月31日

機関士は役者である

 機関車は地響きを立てて進入する。機関士は駅にいる人たちから注目されていることを知っている。

 かなりの速さで進入しつつも、給水栓のところに炭水車の給水口が来るようにぴたりと停める。これができるとすばらしい。ほとんどの機関士はそうするように努力している。しかし、さりげなく止めなければならない。

 彼は舞台の上の役者だ。町中の人が見ている。機関士は演じるのだ。その輝かしい瞬間を演じるために努力してきた。片手をスロットルの上に置き、人々が彼に注目しているのを感じている。プラットフォーム上の子供たちが機関士を見つめている。機関士は、自分が子供だった頃、尊敬の念を持って機関士を見つめていたことを思い出す。彼らを失望させてはいけない。

 駅に到着するとき、機関士はそこにいる人たちの注目を集めている。彼のふるまいは、まさに"drive into town"である。これは隊列を組んで町に凱旋するとき、凱旋将軍の受ける栄誉のことを指している。

 機関士の目は線路に注がれる。機関士の頭の中には、そこにいる全ての人が機関士を見つめている絵が描かれている。誰かが手を振っているのに気が付けば、右手を軽く上げる。大きく振ってはいけない。2,3インチ(5cmから7.5cm程度)くらいである。腕を上げてはいけない。
 
訳者註 機関士の席は右側にあるので、窓に面している手は右手である。

2007年01月30日

子供たちの憧れ

 1941年当時のアメリカに戻ってみよう。Tomは、図書館に行って雑誌を読むのが好きだった。当時のアメリカはたいした国だった。何もかもがうまくいっていたと思える。黒人や少数民族に対する差別は確かにあった。しかし、大半の点でこの国はうまく行っていた時代であると思う。

 1941年にはすばらしい旅客列車が走っていた。Tomは毎日見ていた。その旅客列車は消え去り、レイルは磨り減った。何てことだ。もう誰も、鉄道に対しての展望というものを持っていない時代になった。

 Tomの父、Richardが1913年にRawlinsにやって来たとき、彼は汽車に乗ってやってきた。当時、ローリンズに来る方法はそれ以外なかった。すなわち、ローリンズにいた人は、ここで生まれたか、あるいは汽車でやってきた人以外いなかった。

ところが、今ローリンズの町の中に行って、「どの商品が鉄道で運ばれてきたか?」と問うてみると良い。生コンクリートを作るバラ積みセメント以外、鉄道で運ばれてくるものなどない。

 1913年の社会においては、鉄道は最も大切なものだった。そのあとの20年間くらいはその状態が続いた。誰かがこの町にやってくるときは駅に迎えに行った。あるいは東部からの荷物が届くときには、貨物駅に行って受け取ったのだ。

 今の若い男の子はスポーツ選手になるか、ジェットパイロットになりたいと思っている。1900年代前半のアメリカの子供たちは、みな機関士になりたかったのだ。駅に行って、親戚の人や友達を迎えたことのない子供たちなどいなかった。駅で蒸気機関車た到着するのを待つときは胸がドキドキしたものだ。

2007年01月29日

City of Los Angeles

City of Los Angeles form Richard Kurtz Collection 40年前、"City of Los Angeles"という列車があった。COLAと略されたが、飲み物ではない。シカゴからロサンジェルスに行く列車だ。すばらしい列車だった。ディーゼル電気機関車が3両で引く12両編成の列車だ。3日間走り続けた。夢のようなすばらしい設備を持っていた。食堂車、展望車そしてバーもあったし、ピアノもあった。

 その後、鉄道はもっとすばらしくなるはずであった。それがそうはならなかった。速度は低下し、サービスはひどくなった。40年前、旅客列車は時速90マイル(144キロ)で走っていた。Amtrakは時速79マイル(124キロ)しか出せないことになってしまった。
これが最高速度とは信じられようか。もっと速く走れる。フランスやドイツ、日本にはすばらしい高速列車がある。この国は月に人間を送ったではないか。できないはずはないのに。

蒸気機関車の時代の方がもっと速かった。以前も書いたが、下り坂で徐々に加速し、平坦線になった途端にフル・スロットルにし、さらに加速する。こうすれば125マイルは訳なく出せる。それ以上出せる機関車は限られている。Mighty 800の中でも822、835、837、844くらいのものだ。中でも130マイルが出るのは822と837だけだった。この2台は特別の機関車だ。
 
 現代の鉄道の話に戻ろう。何が旅客列車を衰退させたか。バスではない。それは自動車だ。自家用車を持つことは、アメリカン・ドリームの一つの具体例である。アメリカ人は誰でも車を買え、それに乗ってどこにでも行ける。ガソリンの価格は安い。事実上、タダのようなものだ。安すぎる。そのうちに2倍くらいになるだろうが、それでも安い。

 町は広がり、あまりにも人口密度が小さい。この国には公共交通機関というものがない。もう遅すぎる。時計の針は戻らない。

この手記は、1987年に書かれた。当時のガソリンの価格は、1ガロン(3.8L)当たり、40セントくらいであったと、筆者は記憶している

2007年01月28日

続 The Railroads Touched All.

Amtrak Engine Union Pacific鉄道は長年に亘って、アメリカ最高の鉄道の一つであり続けた。しかし、ほとんどのアメリカの鉄道会社は破産の瀬戸際にあり、衰退していく。どうしてアメリカのように恵まれた国の鉄道が、このようになってしまうのか。大量輸送機関は何であれば良いのか。

 鉄道の繁栄と国のあり方とは密接な関係がある。鉄道は必要だ。国はおかしな人たちの言うことを聞いてしまい、鉄道の代わりに大きなトラックとジェット機で、貨物を運ぶようにさせている。これではアメリカという国が磨り減ってしまい止まってしまう。ほとんどの航空会社は財政的危機に陥っている。多くはつぶれるだろう。大きなトレーラー・トラックが国中の道路を壊している。その道路を補修する金もない。

 1900年代においては、鉄道がその答だった。現在においてもその答であることは間違いない。しかしどうしたらよいのだろう。アメリカはこのすばらしい鉄道を維持していくのは難しいように感ずる。

 三つの問題点がある。政府の施策、鉄道会社の経営そして労働組合である。どれが一番悪いかはここでは触れないが、この3つがアメリカの鉄道を破壊してきたことは間違いない。この三つを解決すればアメリカ中に張り巡らされた鉄道を使ってアメリカの工業力を再興させることができるはずだ。

 アメリカにはもっと旅客列車を沢山走らせるべきだ。Amtrakという国営旅客鉄道会社がある。これはアメリカの面汚しだ。おかしなことに労組と国はこのアムトラック以外には旅客列車を走らせないようにしている。アムトラックの旅客列車がすべて悪いわけではないが、国全体で見れば本当にひどいものだ。

 外国から来た人をこの国の鉄道の駅に案内すると、本当に恥ずかしい思いをする。本当にひどい状態だ。昔は駅はすばらしい場所であったのに。

 アムトラックはアメリカ全体で言えば、ほんの一部の場所にしか列車を走らせていない。日本やドイツのような国と比べると、冗談ではないかと思われるほど少ない。

2007年01月27日

The Railroads Touched All

Pullman Car内部 なかなか訳すのが難しい表題の章である。「鉄道というものは全ての人を感動させた。」という意味であるが、それでは変な日本語だ。

 
 1900年代の初め、アメリカに住む人は誰でも鉄道の恩恵を被っていたし、誰もが何らかの形で鉄道とつながりを持っていた。ところが、現代の人は鉄道の価値や過去の鉄道人のはたした役割についてほとんど知ろうともしない。

 今となってはやや遅い交通手段ではあるが、旅客列車に乗ることは、当時は唯一の旅行の方法であったことに気が付く必要がある。確かに、大きな川にはRiverboatがあったし、馬車に乗るという方法もあった。しかし、大多数は鉄道に乗るしかなかった。

 1913年にあなたとあなたの家族ががワイオミング州ローリンズから、シカゴに行きたいとしよう。おそらくあなたの家族は汽車で行くことしか考えないだろう。他に方法はなかったのだから。汽車に乗れば一泊二日で行ける。

 Pullman Carで行くことも考えるだろう。プルマンというのは寝台車で、夜は座席がベッドに変わる。あるいは座席車でという案もある。多少リクライニングするのでよく眠れるだろう。どちらも快適で、汽車での旅行は楽しかった。

 その後、どうして世の中はかくも変わったのだろう。しかも悪い方に。Tomの父がアメリカに来たとき、アメリカには20万マイル(32万キロ)の素晴らしい鉄路が張り巡らされていた。世界で一番素晴らしい鉄道システムであると皆が思っていた。今は違う。アメリカで素晴らしい鉄道は少ししかない。

2007年01月26日

Wash Room

 乗務が終わればwashroomで顔を洗う。これは機関車乗務員だけの設備で、客車乗務員にはそのような設備はない。

 汚れを落とすには独特の作法があって、セッケンをつけて三回洗うのだ。二回では落ちない。洗面台に水を張り、その水が汚れなくなるまで洗う。きれいになったと思っても、鏡をよく見て黒いところがないかよく確かめる。忘れてはいけないのが耳の中である。

 洗面が終わったら、洗面器をきれいに洗う。次の人が使い易いようにするためだ。

 それが終わったら、オーバーオールを折りたたんで靴と一緒にきれいな方の箱に入れ、普通の服に着替えて家に帰る。決してオーバーオールでは町を歩いてはならない。町の中では、紳士然としていなければならないのだ。機関士は、まさに紳士でなければならない。町中の人が見ているのだから。


 17歳のとき、古い機関士の作法を見て、それをまねた。不思議な作法だとは思ったが、それを自分も間違いなくやっているのだ。 

 鉄道で働くということは、その一部分になるということだ。つまり、多少ははみ出しても良いが、大きくはみ出すことはよくない。その職場で長く続いてきた作法は、尊重されるべきである。

2007年01月25日

機関士の持ち物

tin-box 機関士は帽子をかぶっている。ほとんどは青に白の細かい縞が入ったものだ。しかし人によっては白い帽子をかぶった。旅客列車の機関士は白い帽子をかぶるものが多かった。Tomもそうした。

 美しい白い帽子は、いわば勲章のようなものだった。それは旅客機関士の誇りの表れであった。自分の能力がそれに凝縮されていた。白い帽子は旅客列車の支配者の象徴であった。その帽子に手を触れるときは、汚さないように、汚い手袋を外して素手で触った。

 機関士は全員がブリキの箱を持ち歩いていた。大きさは12×22インチ(30cm×55cm位)である。その中には着替えと洗面具などが入っている。 この箱はミズーリ州の人が作るものであった。その男の名前はJohn Brazeltonという。ここの製品がベストであると思われていた。二つ持っていて、新品はロッカに入れて置き、キズだらけの方は乗務時に使う。

 機関士全員が、面白い方法で機関車にそれを持ち込む。8フィート(2.4m)の"bell-cord"(機関車のベルを鳴らす紐)をその箱の取っ手に結び付けておくのだ。乗務が終わったらその箱を"gangway"からぶら下げて降ろす。ギャングウェイとは、機関車とテンダの間のはしごのことである。もともとは船の上下船用の細いはしごのことらしい。考えてみれば鉄道用語は、船の言葉から来ているものが多い。

 乗務するときは、紐を肩に掛けて箱を背中に背負っていくのである。"cab"(運転室)の後に中が二つに区切られているロッカが作り付けになっている。機関士と罐焚きはそこに箱を入れる。Brakeman(制動手)にはそのスペースはないから、その箱を持って来られない。

2007年01月24日

機関士の身だしなみ

Engineer wore a white cap 機関士は服装に関しては大変保守的である。蒸気機関車の時代、乗務員はみな似た様な服装であった。ほとんどはオーバーオールをきて、「バンダナ」を首に巻いていた。「バンダナ」は赤か青で白い水玉模様であった。二本の安全ピンで留め、石炭の燃え殻が首に入らないようにしていた。

 一度バンダナなしで蒸気機関車に乗務してみたことがあったが、思い出したくないほどひどい目に遭った。下着の中まで石炭のカスが入ってしまうのだ。

 旅客用の800クラスがオイル焚きになってからは、父リチャードはバンダナを首に巻くのを止めた。それ以降、彼はドレスシャツを着て、ネクタイを締めた。この写真をご覧いただければ、その様子が分かる。後ろの機関車はFEF-2である。

 機関士は全員が同じ長手袋をしていた。この写真によく写っている。ボイラの後ろについているヴァルヴ類は全て熱い。二重にはめるのだ。そうでないと火傷をする。

 1941年当時、手袋は安かった。一そろいで25セントだった。外側が少し汚れてくると、それを捨てて、新しいのをはめた。汚いのをはめているのも居たが、ほとんどの機関士はきれいなものを身につけていた。汚れた手袋は、それが触る部分のオーバーオールを汚してしまう。

 機関士はいつも服装が整っていなければならない。オーバーオールは乗務ごとに家に持ち帰り洗濯し、きれいなものを身につける。機関士は客に見られる仕事なのだ。

 機関士が立っているときは、手の甲をズボンに付ける。座っているときは掌を上に向けて膝の上に置く。汚い掌をズボンに当てたくないのだ。 



2007年01月23日

Radio

DDA40X + SD40-2 + DDA40X 調子が悪くなったら無線で列車指令を呼び出せばよい。すぐに、Road Foremanと修理部門の人間がやって来て、どこが悪いかを探し出してくれる。蒸気機関車の時代には、救援を呼べばそれは大変な不名誉であった。

 実際のところ、救援を呼ぶ方法は無いし、呼んでも来ない。機関車を受け取ったとき、その機関車に何が起こるかを予見しなければならなかった。故障は突然起きるものではないからだ。調子を見て、そのときに判断しなければならなかった。すなわち、本線上での故障は、その機関士の能力不足を反映しているとみなされた。

 蒸気機関車の時代の機関士は常に決断を迫られた。優等列車を通すためにどこで退避するかということは大変重要なポイントだ。どの待避線がどれくらいの長さがあり、この列車がそれに収まるかどうか。それは全て、機関士の頭に入っているはずだ。
 
 もし、列車が待避線からはみだせば、優等列車を止めてしまう事になる。その結果どうなるかはすぐ分かる。誰にも相談できない。全て自分で答を出さねばならない。

 現在では全ての側線は、どんな列車も収容できる長さになっている。もし列車がはみ出せば、それは機関士の責任ではなく、列車指令の責任である。

 コンピュータを使って、列車指令は待避線のポイントを遠隔操作する。機関士は信号にしたがって進み、無線で連絡するだけでよい。機関士は単純労働者になってしまった。


2007年01月22日

Hogger

 "Hogger"というのは機関士を表すスラングである。機関士は支配人にはなれない。幾人かは昇進して、"Road Foreman"になる。その程度だ。このフォアマンという仕事は名前だけの地位で、権限がない。単なる指導機関士という程度のものだ。人事権がないから意味がない。

 Rawlins出身の機関士で、最高支配人、部長、課長になった人はいない。この機関士たちが管理能力に欠けているとはとても思えない。しかし、昇進した人はいない。鉄道会社の管理部にいる連中で鉄道の運行の仕方をよく知っている人はほとんどいない。一番よく知っているのは、機関士であるのに。

 ほとんどの機関士は管理能力があるとは思えぬし、彼らは管理者になろうとも思ってはいない。しかし、Tomが知る限りで何十人かは、能力があり、昇進したいと思っていた。しかしチャンスは与えられなかった。この国では機関士は、重役にはなれないのだ。航空会社では様子が違う。パイロットを重役に迎え入れているではないか。


 現代の機関士にはPrestigeなどほとんどない。どうしてこうなってしまったのだろうか。それは多分ディーゼル電気機関車と無線電話の採用のせいだ。

 ディーゼル電気機関車のスロットルを動かすのは、それほど優秀でなくてもできる。列車が動き始めれば、Dispatcher(列車指令)が無線で指示して来る。この列車指令の言うことさえ聞いていればよい。ということは、偉大な機関士になろうとすると、それは極めて難しいということだ。

 現代では優れた機関士とそうでない機関士の間には到達時間に10分間の違いしかない。蒸気機関車の時代には、その差は歴然としていた。能力のない機関士は、目的地に到達できないことが多々あったのだから。

2007年01月21日

Bill と Jeff

 オマハにはUPの本社がある。BillはUP本社に社長を訪ねて行ったのだ。2人は互いにニックネームで呼び合い、社長室で歓談した。社長を"Jeff”と呼ぶことができる人は、当時ほとんどいなかったのだ。BillはRawlinsでの顛末をJeffer社長に話した。

 Jeffer社長は直ちにRawlinsに電話を掛け、機関区の管理部を呼び出して次のような指令を伝えた。

 「Bill Winstonを復職させ、これまでの停職中の給与を全額払え。」

 この事件は、UPの歴史の中で機関士が直接社長室に行って、決定を覆した唯一の例である。もうこんなことは二度と起こらない。もうこのようなPrestigeを持つ機関士はいないのだ。そのような日々は、遠く過ぎ去ってしまった。

 
 アメリカの大多数の鉄道では、このBill Winstonのような長老機関士を大切にしていた。というのは、経済的な理由で機関士の数を減らさねばならない時には、経験年数の少ない若い機関士をクビにする。経験年数が長く、勤務実績が優秀であるような機関士は残される。

 機関士の仕事は経験がものを言うからである。鉄道会社が悪い記録しか残さないというのにも理由がある。経験年数が長くてもミスが多い機関士は排除せねばならないからだ。経験年数というものは、鉄道内で大きな意味を持つものだった。

 「給与を高くし、その地位を不安定にする」という方式は、この種の仕事の質を高く保つには一番良い方法であることは認めざるを得ない。多分、現在の飛行機のパイロットの雇用形態も同じような方式であろうと思う。

2007年01月20日

Bill Winstonの事故

Mighty 800 in Rawlins 50年に亘る彼の機関士人生の中で、一つだけ事故があった。1947年Rawlinsに差し掛かる少し手前で、彼が乗務する東行き列車のMighty800のタイヤが外れるということがあった。

 Rawlinsの管理部はBillがブレーキを掛けすぎて、過熱したタイヤの熱膨張により、その事故が起きたと断定し、Billを停職にした。Rawlinsの機関車乗務員たちは、そんなことはありえないと思った。Billは機関車のブレーキを全く使わない機関士として有名であったからだ。

 Billは出発すると、機関車のブレーキ弁(単独弁)を閉め切ってしまうのだ。これは機関士の膝の横にある小さなコック2つを閉めるだけのことだ。Billにはその習慣が深くしみついていた。30年以上に亘って、動輪のタイヤが緩まぬようそういう運転法をとってきたのだ。

 ワイオミングを走る山岳路線では、機関車のブレーキの掛けすぎで動輪のタイヤが外れる惧れがあった。列車全体のブレーキにより速度を抑えるのが正しいやり方だ。

 停職になったBill Winstonは、Rawlins線区の最高支配人に対しては何も言わなかった。言っても無駄だ。物を知らない奴だったからだ。次の日、Billは旅客列車に乗って東に向かった。ネブラスカ州オマハに行ったのだ。
 
 さて、Bill Winstonの力を紹介するとしよう。
 UPの社長のWilliam JefferはBillの古くからの親友だ。この社長はUPの歴史の中でも最も有名な社長だ。14歳からUPでCall-boy(機関士を呼びに行き、サインを貰う仕事)を始め、社長まで登り詰めた伝説の社長である。

訳者註: 蒸気機関車の動輪のタイヤは、焼き嵌めといって、ガスの炎で熱膨張させたタイヤを輪心に嵌めてある。すなわち、あまりブレーキを掛けすぎてタイヤが熱くなると、タイヤが緩んでこの事故のように外れてしまう。このような時は、タイヤをガスで焼き切って取り除き、軸箱をジャッキでもち上げてスペーサを挟み、浮かして回送する。

2007年01月19日

機関士 Bill Winston

 機関士は強い権限を持っているから、罐焚きは全て機関士の言うとおりに石炭をくべ、水を入れねばならない。軍隊ではこう習った。「疑問を持つな。命令に従え。そうでなければ死ね。」全くその通りだった。罐焚きは、伝統に従い、機関士の命令に従った。

 Billは、"low-water-man"と呼ばれていた。水面計ガラスの1/3以下に保てという指示を出した。その水面は低いが、できないことはない範囲にある。

 罐焚きは機関士に質問をしてはいけないことになっていた。幸いなことに、Tomは優秀な機関士に当たることが多く問題は少なかった。当時のBillは、アメリカ全土でも最も優秀な機関士ではないかと思われた。「Bill以上の力量を持つ機関士には会ったことがない」とTomは言っていた。当時のTomの年齢以上の期間、Billは旅客列車の機関士をしていた。彼の全てが尊敬できたという。
 
 この機関士と乗務する罐焚きには、水面を低く保つということが指示されなくても分かっていた。Billのような優秀な機関士と乗務することは名誉なことだった。彼の一挙手、一投足を見守った。いつか彼のような最高の機関士になりたいと、彼の動きを鷹のように見つめた。彼は、他の歳のいった旅客列車機関士のように気難しい人ではなく、罐焚きに当たり散らすこともなかった。

 石炭のくべ方に文句をつけることもなく、水面についてもあまり言わなかった。しかし水面が1/3を越えると、何も言わずにBlowdown弁を引き、泥とともに水を捨てて正しい水面に戻した。 


2007年01月18日

続 Prestige

 当時のアメリカでは機関士には高い給料が支払われた。機関士は単なる熟練工ではない。重要なことは機関士にはとても大きな責任があったということである。

 何百万ドルの列車と二、三百人の命を預かり、誰の監督下でもなく自分自身の判断で行動しなければならない。普通の仕事は監督者の下で働くことである。多くの会社では機械を操作したりするだろうし、建設工事では煉瓦を並べたり木の板を打ちつけたりする。それは全て後ろにいる監督者の指示である。

 機関士にはボスはいない。ああせよ、こうせよという者はいないのだ。全て自分で考えて指示を出さねばならない。Union Pacific鉄道では、規則というものは最低の条件であり、現場での判断は機関士の裁量に任せていた。

 全ての機関士には"Prestige"があった。ここではその訳語は出さないで、読者の御判断に任せたい。それぞれの運転区には最優秀の機関士が居た。RawlinsにはBill Winstonという名の傑出した機関士が居た。UPの社長が視察に来るときは、必ず指名されて、スロットルを握った。1939年にRoosevelt大統領がワイオミングに特別列車でやってきたときにも、1948年にTruman大統領が来たときにも指名されて運転をした。

 UPでは、優等列車の運転は実績ある経験年数の長い機関士に割り当てられる。大統領に限らず特別列車は、必ずBill Winstonが指名された。

 Tomは、偉大な機関士Bill Winstonの最後の乗務に、Firemanとして乗務することができた。Tomはそれ以前に蒸気機関車とディーゼル電気機関車のFiremanとして何度も乗務したことがある。Billは、その時代に既に伝説となっていた人物である。銅像が立っていてもおかしくない人であった。

2007年01月17日

Prestige

UP elevation profile chart "Prestige"とは「名声」とか「威光」という訳語しかないが、ちょっと違うように思う。

 蒸気機関車の時代、機関士であるということはたいしたものだった。現代の人たちがジェット機のパイロットを見るときのような気持ちよりもはるかに尊敬の念を持つものであった。
 当時のアメリカの男の子は、必ずと言っていいほど「大きくなったら蒸気機関車の機関士になりたい」と思った。とにかく、その当時は今と比べて鉄道と接する機会が多かった。たくさんの子供たちは線路ぎわで機関車が轟音を立てて走り去るのを見た。"high-iron"(本線)にはたくさんの蒸気機関車が走っていた。

 この"high-iron"という言葉には二つの意味がある。まず、側線(待避線)のレイルは本線に比べて細く、背の高さも低い。すなわち背の高いレイルという意味である。これはたいした意味はない。本来の意味は本線は側線より1feet(30cm)高く作られているということである。この目的は、過って側線から本線へ流入することがない様にするためである。だから、側線から本線に入るときには、列車は機関車で引き上げられることになるわけで、事故防止には賢明な方法である。

 鉄道内でも機関士は尊敬される。特に優秀な機関士は、会社の幹部にも尊敬されていた。父Richardは、UPの重役たちともファースト・ネームで呼び合う関係であった。一番印象的だったのはUPの社長が視察に来たとき、皆の前で父を"Dick"と呼んで、近寄ったことだ。会社の人はRichardに敬意を払っていたし、同僚は尊敬していた。

 困難な状況下においても鉄道を動かすことができるのは、機関士の献身的な努力のおかげであることを皆が知っていたのだ。しかし、時は流れ、様子は変わった。

 父の時代は社長が機関士全員の名前を覚えられた時代だ。今の社長は覚えてはいない。いや覚えられないほど多くなった。Tomは40年もこの会社で機関士をしているが、そんなことも知らないだろう。(訳者註:この手記は1987年に書かれた。)


2007年01月16日

規則違反

 マイナス30℃の中、列車は非常に急な坂を登らなければならない。その列車は重く、10マイル/時(16キロ/時)も出せない状況である。このままでは止まってしまう。止まったらもう動き出せない。

 そういうときには、"double the hill"という方法をとらざるを得ない。列車を二つに分け、半分引き上げておいて残りの半分を取りに帰るのだ。このとき閉塞信号は当然赤である。赤であれば、他の列車が来ることはない。しかし、赤で走っているのだから間違いなく規則違反である。

 これを鉄道会社側の人間が見ていれば、直ちにクビである。しかし、そんな雪嵐の中では周りに人は誰もいない。だからやってしまう。規則違反ではあるが、もっとも実効力ある方法である。

 これは駅間で行う。駅には人がいて報告されてしまう。ところどころにある工事用側線に入れてしまうのだ。

 機関士は自分の走る線区を完璧に憶えている。どこにどのくらいの長さの側線があるかは、憶えているのだ。Tomは"every inch of the rail"という言葉を頻繁に使った。線路のどの1インチでさえも憶えていると強調したのだ。
目をつぶっていても、音を聞いただけでどの線区のどの地点を走っているのかを当てることができると言った。

 当然、これは蒸気機関車の時代の話である。ディーゼルの時代にはこんなことは起こりえない。ディーゼル電気機関車は強力で、いかなる状況下でも重量列車を引き出すことができる。

2007年01月15日

列車運行規則

brakeman behind fireman このような事故の後、機関士は査問にかけられる。そこで列車全体を見渡すことができなかったことを認めたうえで、自分が目視点検に出かけず、Brakeman(制動手)に見に行かせたのなら、その機関士はクビだ。

 制動手とは空気ブレーキのなかった時代に始まった職種である。長い貨物列車の手動ブレーキを掛けるために機関車とカブース(車掌車)から飛び出して、走行中の列車の上を走って行き、一台ずつブレーキを掛けるのだ。危ない仕事だが、長年行われていた。Westinghouseが機関車から列車全体にブレーキを掛けることができる自動ブレーキ(貫通ブレーキ)を発明するまでに何百人のBrakemanが転落死したか分からない。自動ブレーキになってからも、その職種は残り、機関車には3人が乗務していた。機関士、罐焚き、制動手である。制動手は単なる安全確認係である。本当は何もしていないに近い。駅に到着して側線に入ったら、機関車から降りて本線側にポイントを切り替えるのが仕事だ。また、貨車を切り離したりするのも彼の仕事である。

 機関士に全責任を負わせるのが、この国の全ての鉄道で行われているやり方だ。ありがたいことに、機関士は全て保険に入っているのだ。免職になったときの補償が得られる様になっている。アメリカ中でこのようなことがくだらないゲームが行われていて、全く改善の様子がない。
 
 誰も強制されて機関士になったわけではないのだから、これがいやなら機関士にならなければ良いだけの話だ。鉄道内の他の職種でこのような保険があるという話は聞いたことがない。

 列車運行規則にはまともなことも書いてある。例えば「閉塞信号が赤のときは止まれ」とある。これはいかなる状況下でも守らなければならない。これを守らなければ当然クビだ。
 しかしこれを守らなかったことがない機関士を見たことがない。この規則を破らなければ運転ができない状況もあるのだ。

2007年01月14日

機関士の義務

 機関士の守るべき規則は、鉄道会社によって細かく決められている。いかなる状況においてもその手順を守らなければならない。

 単純に考えれば、忠実なる機関士は規則を守って、鉄道会社による懲戒を受けないようにするのが当然だ。しかし、そんなことができない状況もある。規則を守らない方が安全であることもある。

 その頃の規則書には、「走行中列車全体が見えないときには、列車を止め、歩いて目視点検をすべし」とあった。
 真冬のワイオミングの地吹雪の凄まじさを知らない人が作った規則だ。マイナス50℃、風速30m/秒では歩けるわけがない。そんなことをしたら、機関士は永久に戻って来ないだろう。
 列車が見えなくても、特に問題がなければそのまま走らせても大丈夫だ。この規則は守るべきではない。

 ただし、"hot-box"については例外だ。これは貨車の軸箱の潤滑油が切れて焼きつくことだ。焼ける前には煙が出る。煙が出始めたら直ちに列車を停めて注油する。そういう意味で、列車の注視義務がある。列車を見回るのも地獄、見回らないでも地獄に落ちる。

 しかし現在そういうことは必要なくなった。UP沿線のあちこちにホットボックス検知機がある。悪天候のときにも視界が悪いときにも赤外線で検知できる。これはすばらしい発明品だ。昔は平軸受けが多く、油切れの心配が多々あったが、現在ではローラーベアリングが付いている。これが焼付くことはまずない。

 他の鉄道にはこの装置は少ない。だから脱線とかその他の事故で列車が止まって機関士は頭を抱えるのだ。(訳者註:この手記は1979年に書かれたものである)


 
 

2007年01月13日

失職

Double Heading  1923年、それはTomの生まれた年である。この年、Bitter Creekで事故があった。Richardはその事故に関し、責任を追及され懲戒を受けて、失職した。収入がなくなり、家族を養うために溝掘りの仕事をする羽目に陥った。

 その脱線事故はBitter Creekの西2マイルほどのところで起きた。川は線路をくぐって流れていた。その日、Richardは機関車2台で牽く、後の機関車を担当していた。重連の補機を運転していたのである。

 川の水位が高いという警告は受けていた。土手は水で緩み、機関車が横転して、本務機関車の罐焚きが死亡した。二台目の機関車の運転台からは線路の様子などほとんど見えやしない。しかし、鉄道会社は二台の機関車の機関士の双方に、均等に前方注意義務があるとし、停職とした。ということは、補機の機関士もその土手が緩んでいるかどうかを確認しなければならないことになる。

 これは鉄道会社の方針で、機関士には均等に責任を負わせるという先例を作りたかったからであると思われる。これはおかしい。Dispatcher(列車指令)が列車を停め、線路の安全を何らかの方法で確認してから列車を発車させるべきであった。機関車の加減弁を動かして汽車を走らせている時に、「線路が緩んでいることを察知して停めよ」と言えるはずがない。

 六ヶ月の後、Dick(Richardの短縮形)は許されて乗務に戻った。溝堀りはつらく、収入は少なかった。Dickは二度と事故を起こして停職になるまいと決心した。

 そのお陰で、Dickは安全運転に努め、事故を起こすことはなかった。

2007年01月12日

機関士と罐焚き

Ford Model T clubの画像より 決断を下してやってみて、駄目なら次の手を考えなければならない。全ての責任が機関士の方に掛かっている。残っている有効時間を考慮し、次善の策を練る。
 
 Richardが機関士になりたての頃はまだ若かったので、機関士の席から飛び降りて罐焚きを助けて投炭し、罐焚きを多少休ませることができる。どんな坂も2人で焚けばなんとかなる。当時は給炭機がなかったので急な坂では罐焚きがへばってしまうのである。罐焚きの能力不足で列車が遅れても、それは当然機関士の責任である。

 当時の機関士の給料はかなり多かった。資格の必要な電気工事技師、経験を積んだ大工、配管工よりもはるかに高かった。罐焚きより少なくとも40%多かった。

 父Richardは、1920年代に最初の車を新車で買った。それはT型フォードであった。
 それに乗って帰宅するRichardはどれほど誇らしかっただろう。現代の人たちには想像もできないであろう。馬車の時代にイギリスの田舎で育ち、アメリカに移民し、努力して収入の良い仕事に付き、ついに新車のオーナーになることができたのだ。当時、この車はかなり安くなってはいたが、決して誰もが買えるという時代ではなかった。

 最初、彼はこの国に来て自分の足と汽車に乗ってここまでやって来た。しかし、彼は馬なし馬車に乗ってどこにでも行ける。こうしてT型フォードは人々の生活を変えた。Richard Harveyの場合も例外ではなかった。

 最初、彼は車に乗ってRawlinsの西の外れにある池に釣に行った。道はでこぼこでよくパンクした。ちょっとした遠足でもそれは大冒険であった。彼はそれが大好きであった。彼はRawlinsの東の方に15マイルほど行ったPlatte川にもよく釣に行った。

 もう一つの楽しみとして、ウサギ狩りがあった。家族全員で行って、ウサギを追廻し、食事をして帰った。とても楽しい思い出である。 
  

2007年01月11日

Foaming

Callenger firebox 蒸気の上がり具合は、罐焚きの腕に掛かっていることはもちろんだが、ボイラの中の汚れにも大きく依存する。

 汚いボイラでは、中の水が泡立つようになる。これを"Foaming"という。こうなると、塩分を含む水滴が、シリンダの中に入る。シリンダが抜けたりするほどの量ではないが、たくさんの問題が引き起こされる。

 一番大きな問題はシリンダの潤滑油を洗い流してしまうことである。するとピストンが焼きつく。だから、賢明な機関士は、その予兆があれば直ちに対策を立てる。

 まず潤滑油の供給量をうんと増やす。そしてボイラの水を抜く量を増やす。もちろん給水量は最大限にする。こうしてボイラ中の塩濃度を下げるのだ。すると水が不足することになる。燃料も余分に要る。先の線路状況をにらんで、最高の結果を出すように考える。これを走りながら行う。

 この判断は、機関士自身が行う。罐焚きには相談できない。しても無駄だ。責任は全て機関士にある。機関士は孤独だ。

 このような機関車は直ちに機関区に帰し、ボイラの栓をあちこち開け、鉄の棒を突っ込んで"Scale"を落とす。スケールとは、湯垢のことである。ボイラの内部に鱗状に白い石がついている。水の中に溶けていた、カルシウム分が析出したのだ。厚さは1インチ(2.5cm)以上もある場合が多い。

 スケールが付く場所は限られている。ほとんどは火室の廻りだ。"Washout Plug"(洗口栓)はそのあたりについている。これは大きさが4インチ(10cm)程度のねじ蓋で四角のレンチで開けるようになっている。長いタガネを突っ込んで、たたいてスケールを取る場合もある。スケールにはそれほど硬い場合があるのだ。

2007年01月10日

水と石炭

600-ton Coal Dock in Cheyenne 機関士は列車の運行に注意を払うばかりでなく、自分の機関車に積んである石炭と水の量に気をつけなければならないのは当然である。

 砂漠の中では給水地点は限られている。しかも水の悪いところでは給水したくない。Big Boyの時代には随分と改善されたが、昔は水の処理は完全ではなかった。予期していない事態で側線であまりにも長く待たされていると、水が足らなくなることもある。給水をためらったがために、本当に水が足らなくなる。冗談ではなく、一種のギャンブルである。この水量で次の峠が越えられるか、どうか。救援機関車を呼べば、それで成績簿に一生消えない汚点が残る。ここが思案のしどころだ。

 駄目だと思えば"Cut-and-Run"しかない。列車を切り離し、身軽になって給水に行く。それでトンボ返りして、列車をつなぐ。その間に何も起こらなければ、ギャンブルに勝ったことになる。その間に優等列車が後ろに"Stick"していれば査問の対象になる。言い訳はできない。ギャンブルは負けだ。

 勤務評定表には、終生消えない記録が残る。どんなにすばらしい勤務歴がその前にあろうがなかろうが、同じことだ。鉄道会社は機関士の失敗の記録しか残さない。

 機関士は、この先起こることを全て予測せねばならない。いくつかの変数を入れて、結果をはじき出さねばならないのだ。天候、線路の状態、機関車の調子、ボイラの具合、列車の重量、石炭の質、それと一番大事なのは機関助士の腕である。Richard Harveyと同じだけの技量を持っているかどうかである。できの悪い罐焚きは全ての災難の元である。優秀な罐焚きは、常に先を読む。

訳者註 Stickとは文字通りくっつくことであり、背後に優等列車が停車してしまうことを指す。

2007年01月09日

機関士の仕事

Fireman Ed 機関士は列車の全てに責任がある。貨車の連結器が切れてもそれは機関士の責任だ。長い貨物列車の連結器が切れないような運転をせねばならなかった。

 一言で言えば、"keeping stretched"(常に連結器に一定の張力が掛かるよう)にするのだ。これに気を遣わないと、下り坂から上り坂に差し掛かったとき連結器が急にぴんと張り、そのショックで連結器が切れる。連結器が切れれば、列車には非常ブレーキが掛かる。機関士はスペアの連結器ナックルを持って行き、取り替えて再連結する。

 このような時間浪費で列車は遅れを生じる。対向列車が優等列車のときは、退避予定時間までに駅に着けないと、正面衝突事故の原因を作ることになる。

 一つの区間に一つの列車しか入れないようになっているのだから、そんなことは起こりえないはずだが、人間のやることにはミスもありうる。予定時間までに到着すればそのようなことは起こらない。だから列車を遅らせる要因はすべて排除しなければならない。

 機関士の胸ポケットには時刻表が入っている。優等列車、次優等列車の時刻は正確に決まっている。自分の運転している列車の退避時間に余裕がないと、大変あせることになる。特に困るのは優等列車が自分の後ろについているときである。これを"Sticking"(くっつく)と言う。言い訳は許されない。

 対向列車しかも優等列車を待たせることは、決して許されない。中でも特別優等列車に対しては15分前に退避させなければならないのだ。

 機関士はいつも正確な時計を持っている。その時計はオーバーオールの胸ポケットに入れてある。鎖を持って時計を引き出し、時計を見つめる。それはまさに機関士である。貴方の頭の中の機関士像はそれと一致するだろうか。

2007年01月08日

昇進試験

Richard and Tom Harvey 試験に通れば機関士になれる。Dickは自分の能力には自信があったが、勉強をしたことがない。どうすれば勉強できるのかも分からない、という状態だった。

 当時、fireman(罐焚き)の仕事は大変な重労働で、Green Riverまで行ってRawlinsに帰り、寝てまた出かけるということを繰り返していた。 
 機関車の構造、列車取扱規則の本を読むのだが、試験では見事に落第する。2回目も落第である。3回目の試験は最後の試験である。これに落ちれば、再度の挑戦は認められない。即ち、もう永久に機関士にはなれないことを意味する。
 
 Ormaは、初めてDickの受験の手伝いをした。彼女は教師であったのだ。生徒に勉強させるのと同じ手法を用いた。問題と答を別の紙に書き、それらを結びつける説明をさせた。毎晩父母は死にものぐるいの勉強をし、最後の試験に備えた。

 Ormaのお陰で、Dickは優秀な成績で試験に通った。Tomはその母が書いた試験問題の紙の束をまだ持っていて、見せてくれた。その紙がなかったら、Dickは決して機関士にはなれなかったのだ。

 ともかく、Dickは機関士になった。この時代、ワイオミングでUPの機関士であるということは、すばらしいことであった。シャベルで石炭を投げ込む仕事からは解放されるばかりではなく、誰からも尊敬された。しかし機関車を走らせるためには、機関士の免状だけではなく、知っていなければならないことが沢山あった。

 1920年当時、UPの本線といえども単線であり、優等列車をかわすために待避線に列車を入れるのは、Dispatcher(列車指令)の名人芸であった。列車指令から電信で送られてくるTrainorder(指令書)に従い、機関士は通過時間の10分前には待避を完了しなければならなかった。そして、Switchman(転轍手)はポイントを切り替え、列車指令に退避完了を打電する。当時の鉄道は全て人の手で動かされていたのだ。

2007年01月07日

続 Tomの父母 

Richard Harvey on Mighty 800 西部では若い女性が不足していた。国策もあったのだろうか、鉄道会社は大量の教育を受けた女性を採用した。しかもかなりの高給で。この結果、西部に女性が送り込まれたことになる。他の鉄道とのサービス競争の結果でもあった。



 Ormaはオクラホマの小さな町で小学校の教師をしていたが、西部に行きたくなった。Green River駅の食堂のウェイトレスは単なるウェイトレスではない。大陸横断列車の大切な客の世話をする役目を持つ。教養が必要とされたのだ。今で言う国際線スチュワーデスのようなものだ。外国語の能力も要求されたのにはそういう意味もあった。
 そこでDick(Richardの短縮形)との出会いがあった。乗務員は汚い服を着ていたので、旅客の入る食堂には入れなかったが、ウェイトレスは共通であった。

 時は第一次世界大戦中で、Dickは応召しフランスでドイツ兵と戦った。その間に手紙をやりとりし、愛を育んでいた。この時代はアメリカの歴史でもっとも輝いていた時代だ。戦争は勝ちいくさで、兵隊はただ行っただけで凱旋し、故郷の愛する娘に手柄話をするわけだ。

 というわけで、DickはOrmaを口説き落とし、オクラホマの教会で結婚した。この頃の写真を見ると母は細く、魅力的な人であった。父は165僂半柄だったが、母は背が高かった。父は教育を受けていない自分に、教養のある妻を迎えたことをとても誇りに思っていた。母はピアノが弾けた。子供たちを育てるのに忙しく、学校で教えるということは、もうなかった。

 1920年、Harvey一家に大きな転機がやってきた。経験を積み、昇進試験を受ける資格がDickに与えられたのだ。
 

2007年01月06日

Tomの父母

Dick Harvey and 2-8-2 Tomの父Richard Harveyは、1892年生まれである。イギリスのCornwallというところからやってきた。故郷に何度も手紙を書いているが、一度も返事が来たことがないという。多分、家族の誰も字が書けなかったのだろう。

 アメリカに来て最初の仕事はワイオミングの鉄山の鉱夫であった。そのうち、その鉱山の鉄道の運転を任された。次にもっと収入の良い炭鉱に移った。始めは鉱夫をしていたがそこでも機関士になった。次にCorolado Southern鉄道の機関車の火夫(罐焚き)の仕事をして、Union Pacific鉄道に移った。やはり火夫であった。

 そんな時、Green Riverの駅で働いていたOrma Robinsonと知り合った。OrmaはBeanery-Queenをしていた。ビーナリ・クイーンとは、旅客駅の食堂のウェイトレスである。当時、旅客列車は一日に上下で十数本であった。停車時間に食事を提供する必要があった。各鉄道ごとにいろいろな名前で呼ばれるこのような食堂施設があった。旅客用にはテーブルが、乗務員用にはカウンタがあった。beaneryという言葉は西部開拓時代のスラングで「豆しか食わせない安食堂」という意味である。実際のところは、かなり立派なレストランであったが、わざとそういう言い回しをしていた。

 Santa Fe鉄道ではHarvey Girlsと呼ばれた。列車到着後、注文をとると時間が掛かるので、車内で注文をとり、汽車が駅に近づくと汽笛で連絡して準備をさせるということまでしたらしい。

 ビ−ナリ・クイーンの3人に2人は鉄道員と結婚した。その中で機関士は一番もてた。収入が一番良かったからだ。1916年の暖かい春の日、このあたりではかなり大きな駅Green Riverに降り立ったOrmaは、まだ自分の運命に気付いてはいない。
 
 西部では若い女性は貴重である。たくさんの男たちとの競争を勝ち抜き、RichardはOrmaと結婚した。Ormaはオクラホマ州Enidの出身であった。父は小学校しか出ていなかったが、母は高卒であった。1910年頃の高卒は今の大卒よりはるかに価値があった。外国語を4年も勉強した人は少なかった。高校を出て、短大のコースをいくつか取り、ワイオミングに来る前は小学校の教師をしていた。

2007年01月05日

続 チャレンジャとビッグボーイ

View from Big Boy's Cab ビッグボーイのボイラは長い。走行中にヘッドライトが切れると、取替に行かねばならない。

 罐焚き(機関助士)はスペアの電球を口にくわえ、機関士側のラニングボードを手すりを伝って行く。落ちた時、助けに行かねばならないからだ。もっとも、落ちたらただでは済まないとは思われるが…。電球の直径は10cm位もあったそうだ。

 とにかく最先端まで行って、球を取り替えるとそれは投げ捨てる。帰りはスキップして帰って来るのだそうだ。夏は暑いし、冬の吹雪の中での作業は命懸けだ。

 一番調子の良い4005号機は、保線作業中のポイント切り替え間違い事故で横転している。そのときTomの友人のEdが、機関士と共に亡くなっている。事故後4005号機は修復されたが、テンダは他の機関車のものを流用しているそうだ。この事故では、過って側線方向に開いたポイントに高速で突っ込んだのだ。テンダが運転室にめり込んだ。二人が即死し、一人は助け出されたが二日後に死んだ。

 
 彼らにとって、テンダ(炭水車)は単なる付属物でほとんど意識の外にある。"Hog(豚)"という言葉を使って、かなり馬鹿にしたものの言い方をする。テンダは取り替えるものという意識である。水漏れその他の故障が起こると、他機種のものであっても直ちに付け替える。

 "Locomotive and Tender"という言葉がある。HOのプラスチック製の機関車の箱にそのように表示されている。機関車という言葉は、まさに機関車そのものであってテンダは含まれないのだ。

 筆者がFEF-2をワイオミングまで持っていって見せた時のことである。「こいつを友達に見せるから持って行こう。」と出かける時、テンダを持ったら、「そんなもの、置いていけ。」と言った。「テンダなんか、見たい奴はいない。」とまで言い切った。

2007年01月04日

チャレンジャとビッグボーイ

blowdown valve on Challenger fire box チャレンジャは、関節式機関車だ。動輪はやや小さく69インチ(1752ミリ)である。走り装置のバランスがよく、高速運転に耐える。100マイル/時くらいが力行時の最大速度であったが、下り坂で120マイル出したことがあったそうだ。さすがにそのときは「壊れる」気配があったそうで、恐ろしい思い出の一つだそうだ。

 チャレンジャは旧型も新型もよく走る機械で、当たり外れがなかったそうだ。一方ビッグボーイは当たりはずれがあり、4005号機以外は良くないと言い切った。

 4005に当たったときは、「今日はキャディラックだ!」と叫んだそうだ。4005号機はほとんど"Automatic"だったそうだ。ストーカ(自動給炭機)を動かし、排気インジェクタを作動させておけば、時々水面計を見るだけで機関助士は何もすることがなかったそうである。外れに当たると死に物狂いで給炭し、機関士側のインジェクタを作動させて水を足さねばならないのだそうだ。

 機関車を受け取ると、全ての動輪のタイヤ(踏面)を素手でなで、減り具合を確かめる。磨り減ったタイヤの機関車は、注意して走らせないと脱線転覆事故を起こすという。

 西部の砂漠地帯を走る機関車に入れる水は、全て炭酸ナトリウム等で処理してある。これはカルシウム塩が缶内に析出するのを防ぐためである。ナトリウム塩は水によく溶けるので問題ないが、調子に乗って入れすぎると、ボイラ内の塩濃度が上昇し、プライミングが起こりやすくなる。"Priming"とは水面で魚が跳ねることから来た言葉で、水がシリンダの中に入るとシリンダの底抜けや、ピストン抜けが起こる。

 これを防ぐには、注入した水の1%弱は常に抜かねばならない。これが"Continuous Blowdown”である。これは火室の下から抜いて線路に向けて噴き出させる。このあたりの蒸発量が一番多く、濃縮されやすいためである。また給水はボイラの前の方の比較的温度の低いところからなされる。温度差が小さく、ボイラの鋼板に熱的ショックを与えないための工夫である。

2007年01月03日

Tomの家

DDA40X w/circus train and Amtrak Tomの家はワイオミング州Rawlinsにあった。彼はここで生まれ育った。彼の父Dickはイギリスからの移民で、客船の罐焚きの仕事をする契約でアメリカまでただでやってきたという。

 肉体労働をしながら勉強して、機関士になったそうだ。努力の人であった。

 Rawlinsはローリンズと発音し、UPの重要な補給点であった。東の方から言えば、標高1850mのCheyenneを出るとSherman Hillという2440m位の峠を越えて、57マイルでLaramie、さらに120マイルでRawlins、そしてもう一つの峠を越えて140マイル離れたGreen Riverに達する。

 Sherman Hillはこの鉄道の最高地点であると同時に、この鉄道建設当時、鉄道の世界最高地点であった。地名はアメリカ陸軍の中で最も背の高いシャーマン将軍の名をとって付けられた。峠といっても単なる丘陵地で、ほとんど木も生えていない砂漠であるが、平均15パーミルの勾配が続く。Cheyenneから西に下るとその峠がある。Laramieは標高は2200mくらいである。Rawlinsは標高2000mほどでそこから西へは単調な坂道で約10パーミルであるが30マイル以上続いている。最後はやや急になって11.4パーミルになる。

 Big Boyという機関車は、この峠を単機で3300トンを引っ張り、時速32キロ程度で登れたというから凄いものだ。この数字だけから計算される出力は5750馬力である。実際はその20%増しの出力が必要とされた。すなわち6900馬力で巡航する実力を持っていたということである。

 Tomは、父親とこのSherman Hill越えの機関車の運転をしていたのだ。父子で乗務することも多々あったという。騒音の激しい運転室での意思疎通は目くばせ一つで行うものだったそうだ。親子なればこそ可能なもので、鉄道随一の高速運転を可能にしていたという。

 蒸気機関車の世界最高速は、公式にはイギリスのマラード号という3気筒グレスリー弁の機関車による202キロ/時ということになっている。それを言うと、Tomは鼻で笑って、「俺たちは毎日130マイル出してたぞ。」という。「しかも16両牽いて。」

 これは時速208キロに相当する。もっとも機関車の速度計は120マイルまでしかないから、マイルポスト間を走る秒数で算出するのだそうだ。1マイルを30秒で走れば120マイル/時、27秒なら133マイル/時である。いつも28秒を切っていたそうだ。

 この速度を出せるのは"Mighty 800"という4-8-4の急行用機関車だけであった。動輪は80インチ(2032ミリ)であった。その中でも822号機が最高でその次が837号機であったそうだ。844号機は保存機で健在である。これもなかなかよい機関車であったという。

 Tomは"Flying Machine"という言葉をよく使った。「とにかく凄いんだ。駅を出て加速するとき、このまま飛び上がるのではないかと思うほどいい加速だった。」という。

2007年01月02日

機関士のTom

Tom Harvey and the Circus Train 1976年夏、筆者は友人を訪ねて、Wyoming州、Rock Springsという町に滞在していた。するとラジオが「サーカス列車がやって来る!」と興奮した声で伝え始めた。

 友人が見に行こうと言うので隣の町のGreen Riverの駅まで行ってみて驚いた。近在の人たちがたくさん集まっている。予定時刻よりやや遅れて列車がやってきた。DDA40Xを先頭にした約30両編成のRingling Brothersの貨客混合列車であった。最初の10輌くらいの客車は人間が、次の10輌くらいの貨車には動物たちが、そのあとにはテントその他の機材が積まれていた。昔見たダンボの映画そのままの列車であった。筆者もいささか興奮してあっちこっち写真を撮っていると、長身の機関士が、「Newspaperman(新聞記者)か?俺を撮れ。俺が機関士だ。」と言う。

 話を聞いてみるとUPで1941年から働いているという。現役で3番目に古い機関士であると胸を張る。「Big Boy を知っているか。」と聞く。「チャレンジャも800も俺が運転した。俺はUPで一番速く列車を運転したのだ。」と自慢する。横にいた機関助士は「またかよー。」 という顔をした。

 「こんなクソ・ディーゼルなんか、俺に運転させやがって、」と悪態をつき始めた。「蒸気機関車の運転にかけては俺様が一番だ。いや、俺の親父は俺より速かったかな。ディーゼルは誰でも運転できる。お前でもできるぞ。」と言う。  

 「俺の家に来い。何でもあるぞ。蒸気機関車の部品なら山のようにある。」というので、後で遊びに行くことにした。

 これが、機関士Tom Harveyとの出会いであった。自信家で、実際に能力もあった。後で遊びに行くと近所の老機関助士を呼んで酒を飲みながらの昔話に付き合わされた。この機関助士は機関士に昇進せずに退職した人であった。機関士になるのはそれなりに大変なことであったようだ。

 日本に帰ってからも、大量の手紙を送って寄越し、写真のネガも貸してもらえたので一部は日本で出版された。

2007年01月01日

謹賀新年

あけましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いします。

 毎年夜中に汽車を走らせながら新年を迎える。最近知ったのだが、ある雑誌ではそれを特集しているのだそうだ。

 65両編成と80両編成が上下の本線ですれ違うのを見るのは壮観だ。片方は1952年頃のチャレンジャの牽く貨物列車、他方は1975年頃のDDA40Xの牽く貨物列車だ。スロットルを両手に持ち、汽笛、ベルを鳴らしながら走らせる。

 これもDCCのお陰である。DCCがなければさぞかし味気ない運転であろう。以前はそうだったのだ。レイアウト建設当初に遊びに来た鉄道模型の趣味がない友人は、筆者が嬉々として汽車を走らせているのを見て、「何が面白いの?」という顔をしていた。しかし、二回目に来たとき、DCCで音が出るのを見て夢中になってしまった。

 DCCにはそういう魅力がある。自分が機関士になったような錯覚が起こるようだ。

 実は筆者自身も、DCCを導入した当初、本当に夢中になってしまった。しかもその状態が3ヶ月以上も続いた。デコーダが焼損して初めて一段落したという感じである。その後、永末さんとお知り合いになり、高性能なデコーダが供給されるようになった。

 チャレンジャをスタートさせるとき、前部機関がスリップするかどうかはスロットルの開け加減によるので、本当に自分が機関士になったような気がする。

 駅を出発する時の機関士の緊張を擬似体験するのだ。

 明日からはUPの機関士だったTomの話をしたい。



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