2016年09月26日

関西合運

 ベルの内側の色については、たくさんのコメント、メイルを戴いている。正直なところ、筆者にはお答えできる知識はない。赤は目立つという意見もあるが、振れないベル(固定されて、内部で打ち金が動くもの)もあり、赤である積極的理由とも思えない。 
 日本も銅は戦前は輸出をしていたし、 戦争がはじまると、薬莢製造に多量に必要なので、諸国が輸出を制限したことが大きい。当時はアメリカ西部の銅山はまだまだ未開発の部分があった。

 さて、週末には関西合運に行った。長雨で塗装ができず、生地完成まで持って行った貨車20輌が完成しなかった。せっかく、塗装の工程表を作り、デカールの数も確認したのに、である。かれこれ10年ほども掛けたプロジェクトだったので、少々残念であった。

 仕方がないので、DCCのディーゼル電気機関車と、持ち運びが楽なプラスティック製貨車4輌だけを持って行った。ご覧になった方は、DCCの重厚感ある走りに、感銘を受けられたようだ。機関車がとても重そうに見える動きをする。Momentum(動いていると止まらない) のある動きだ。牽引力は十分あり、連結器を押さえて止めようとするが、かなりの力があるので、皆さん驚かれた。超低速も可能だ。
「『3条ウォームは力がない』ということを言う人がいるが、ありゃ嘘だね。」 
 ホイッスルを鳴らしてエンジン音が高まり、警告ライトを点滅させながら走ると、観客は陶酔状態だ。

 貨車には間に合わせのウェイトを入れていった。例の使えない曲がったゴム板を切って入れていったのだ。固定しなくても具合よく納まる。また、運搬中に中で踊っても、被害はない。 ゴム板を持ってみての感想は、
「意外に重いものだね。」
ということである。 

2016年09月24日

続 ベルの内側

 色は赤か黒だ。赤は警戒色ではあるが、黒い機関車の前面にあったとしても、明度の差が小さく、視認性に欠ける。内側が黄色や白だったりすると、かなり目立つだろう。
 たぶん、視覚に訴えるという話ではないと思われる。

 材質については、書き出すときりがない。金属の専門家に話を聞くと、やはりヤング率に大いに関係がある。硬い材料は高い音が出せる。銅合金であれば、青銅系のものがよく、ブラス(黄銅)系のものはダメだ。青銅系でもスズの割合を多くすると良いらしい。その代わり割れやすい。
 歴史上有名な割れた鐘は、いくつかある。フィラデルフィアの独立記念館に行くと、その割れた鐘が展示してある。嬉しくて鳴らしまくったのだろう。色はかなり白い。ということはスズの比率が高いということだ。

 アルミニウム青銅も極端に硬い。その専門家の話によると、船に付ける鐘の注文があったが、普通の青銅製を示しても納得しなかったそうで、鋳造屋が聞きに来たのだそうだ。

 アルミニウムを1割弱含む銅合金で、恐ろしく硬い。スクリューなどに用いる例が多かったが、それを鐘に転用したのだ。
 素晴らしく良く響く音で、発注者は納得したそうだ。

 日本の話なので、多くの鐘がそれで鋳造されていると思うが、意外に出くわさない。消防車の鐘は今までどおりの音である。

 戦争中はアメリカでも各種の物資が不足した。有名なのはBig Boyなどのパイロット先端のゴムである。日本がマレー半島を押えたので、すぐに木製に取り換えられたらしい。 

2016年09月22日

ベルの内側

 機関車のベルの内側はどうして赤く塗ってあるのかという質問を複数の方から戴いている。これは極めて難しい質問で、筆者にはとても答えられそうにない。

 実は40年以上前に椙山 満氏のところで、それについて論議したことがある。当時カラー写真は少なかったが、明らかに赤のものが多く、たまに黒いものが見つかったのだ。

 アメリカに居た時、いろいろな場所で鉄道関係者に当たってみた。赤が基本のようだが、黒い時もあった。戦争中は黒かったというのが、答えとして多かった。

 赤は目立つから、という話もあるが、それはほとんど意味はなさそうだ。たまたまどこかの機関車メーカが赤く塗って出荷したのが、定番になったというのが信じられる話だ。

 もっと意外な証言も出てきた。東部で聞いた話だ。戦争中は物資が不足し、ベルの材料の銅合金は供出させられた。代わりに鉄のベルが来た。変な音だった。戦後すぐに新しいベルが支給され、音が良くなった。

 確かにその音の問題は深刻だ。鋳鉄で作ったベルの音など、聞けたものではない。ボコボコという音がする。焼きの入った鋼製ならばかなりいい音がするが作りにくい。
 日本のベルは、砲金(青銅)を使っているものが大半だ。専門家の話では、
「音が良くない。もっと硬い材料を使うべきだ。アルミニウム青銅はいいよ。試作したら、皆驚いた。」
 この話を聞いたのは20年以上前のことだ。今ではどうなっているのだろう。

2016年09月20日

続 girder bridges

girder bridge inside ハンダ付けをした。鉄のハンダ付けは久しぶりで、コテを使った。炭素棒では炭素が鉄のほうに拡散して(浸炭)、部分的に不均一になり、しかも硬くなる。以前やった時は部分的に焼きが入った状態になり、ヤスリが引っ掛かった。コテならその心配はない。

 まず片方の板に垂直にXブレイスを差し込み、叩いて固着させる。ハンダを流して固定する。もちろん塩化亜鉛飽和溶液を付けておく。ハンダはすべての隙間を満たして完全に付く。もう一方の板のスロットをよく掃除し、Xブレイスのタブを入れ、水道工事用のプライヤ(アゴが平行に開くように調整できて好都合)で締めると「コツン」と嵌まる。

 すべてが嵌まったら、また塩化亜鉛を塗って、コテで留めていく。 音もせず、臭いもないハンダ付けである。次に稲妻型の部材を逆位相に付けてできあがりだ。完璧にハンダが廻っているので、極めて丈夫である。静荷重なら、大人一人が載れる。

 終わったらすぐに流水を掛けて洗う。錆びないように直ちに高圧空気で吹き飛ばし、扇風機で乾かす。下地処理材を多方向から吹き付け、錆止めする。 

girder bridge completed ダイキャスト製側板をよく洗い、スーパーXで接着するとできあがりだ。思ったよりよくできていて安心した。完成した線路を載せると、透けていて気持ちが良い。


 鉄橋上はガードレイルが必要だ。ガードレイルの図面を見ている。細いものを使うのがデザイン的には良いことに気が付いた。

2016年09月18日

girder bridges

girder bridge construction レーザで切った鉄板を仮組みして、様子を見ている。0.8 mmの板のタブを0.8 mmのスロットに入れるのはやや難しい。タブの先端を斜めに削いで、ぐっと押し込む。ブラスの棒を当てて、金槌で軽く叩くとスロットに入って抜けなくなる。
 この状態でフラックスを塗り、ハンダ付けをする。隙間を、完全にハンダで埋めるようにする。鉄板だから熱が逃げず、100Wのコテでも簡単にできる。

 Xブレイスの両側に板をつけるのは少々難しい。反対側にも楽にはまるように、スロットをダイヤモンド・ヤスリで削っておくことが必要だ。するすると入らないと組むことができない。

 上下の稲妻は逆位相にすることにした。ピッツバーグの街の中でN&Wの橋を見上げて、同位相のものを確認したが、たった1例しかない。あとはすべて逆位相であった。

tie jig 転車台上の枕木整列ジグである。先回の失敗を踏まえて、肉盗みしてある。簡単に嵌められ、外しやすい。この上でレイルをスパイクする。線路の中心がずれると、回転した時、線路が合わないから、精度が必要だ。
       

2016年09月16日

続 隠しヤード敷設

escape track 隠しヤードの中の機廻り線である。長い機関車も一旦突っ込んで、切り離せるような寸法になっている。12輌の客車を留め置くことが出来る。ポイントマシンは、後付けは難しいので、予め付けておいた。切り離し用のアンカプラはまだ付けてない。電磁石方式にしようと思う。この工作は裏からできる。

 この部分は天井が低く、140 mmしかない。首を突っ込むこともできないので、横から手を入れて線路を敷く。ポイント部は、コルク板の上に貼ったものをハーマンのところで貰ったので、それを使っている。車輛が通ると騒がしい。通過速度がかなり小さいので問題にはならないが、貨車を手で押してその騒音を調べた動画を作った。かなりひどいものである。コルク道床は、何の役にも立っていない。


hidden yard その他の通常ヤード部分は7線あって、まだ工事中である。 照明は十二分だ。工事の時や、脱線復旧の時には必要なので、やや多目の照明を付けたのだ。捨ててある蛍光灯器具を有効利用した。使用時間が短いのでこれでよい。ゴムシートを敷いたが、5 mm厚ではなく、2 mm厚のシートを使った。エラストマの効果もあるので、十分静かだ。
 敷設は大変難しい仕事で、釘を打つ手を、横から入れることしかできない。この部分は25 mm合板上に建設し、一気に持ち上げて吊ボルトで留める方法も考えたが、重量がかなりあるので諦めた。長さは6 m以上あるから、同時に8人ほど居ないと持ち上げられないからだ。

 工事は、線路の通りを見る人と釘を打つ人が必要で、T氏にお願いして手伝ってもらった。あまり丁寧な仕事はしていない。速度が遅く、行き止まりで誰も見る人などいないから、完全な直線にはできてないが良しとした。ただし騒音対策は完璧である。 

2016年09月14日

隠しヤード敷設

 亡くなったハーマンのところには、お悔やみを伝えるために、寄るつもりだった。ちょうど線路が不足していたので、荷物を現地で受け取るための送付先に指定してもよいかと聞いたところ、快諾を得た。2日のうちに荷物が届いたと連絡があったが、
「これは線路か?うちにもいっぱいある。持って行ってもいいよ。」
ということになり、博物館への寄贈という形で貰ってしまった。全部で数十本あり、かなりの体積だった。しかし、業者が商品を入れて来た箱が大きめだったので、それにぎっしり詰めることができた。
 空港に持ち込んだ時、検査で引っかかると思ったが、箱に
”Model Railroad Tracks”
と大書しておいたので、X線で検査しただけで通った。開けられると、もう一度きっちり詰めるのは難しいほどのすし詰め状態だったから助かった。透視するとレイルだけしか見えなかったのだろう。

 沢山の線路が揃ったので、隠しヤードの線路を敷き詰めた。「8線」+「機廻り線」で9本あると、線路がかなりの量必要だ。
 5 mmゴム板の上にエラストマを置いて、線路を留めた。ゴムは25 mm合板の上に置いてあるだけで、ところどころ、ずれ留めで釘が打ってある。この方法は、デッドニングがよく効いて、とても静かである。
 貰ってきた線路の中には、コルク道床に木の枕木を接着したものにスパイクしたポイントがあった。分岐の向きがちょうど良かったので、機廻り線用にフレクシブル線路の間に挟んで使った。
 その部分はとてもやかましい。ビデオに撮ったので、いずれYoutube にupする。 

2016年09月12日

続 Allegheny

the Henry Ford (14)the Henry Ford (29)the Henry Ford (28) 1973年にこの博物館を初めて訪れた時、持っていた情報は、
「とてつもなく大きな機関車がある。世界一大きい。」だけであった。
the Henry Ford (25)the Henry Ford (23)the Henry Ford (24) それはBig Boyに違いないと思っていたのだが、行って見たら外れであった。
 当時はどこにどんな機関車があるかという情報はあまりなく、現物を見て驚くことが多かった。幸い、アレゲニィは井上氏の模型を知っていたので、なるほどという感じである。

 世界一大きいというのは間違っているとは言えない。機関車の「大きさ」はいくつかの次元で語られる。
 質量、長さ、出力、引張力などである。その前に「機関車+テンダ」が、100万ポンド(454トン)以上なければ比較の対象にはならないらしい。1980年代のNMRAの会報にいろいろな諸元から考える記事が載っていた。整理が悪くてその記事が見つからない。
 確か、アレゲニィは引張力と機関車の質量とが最大ではなかっただろうか。長さはPenssyのS1だ。出力にはいろいろな測定条件があり、Big Boyは連続した出力の点で1位だったような気がする。短時間の出力ではPenssyのQ2が凄い。それと速度の問題もある。Big Boyは大動輪で高速運行ができた。特に下り坂ではその違いは大きい。また稼働していた輌数、期間、運行距離も大きなファクタである。
 様々な点で、Big Boyを最大、最強、最速、とする意見が支配的であると感じている。

2016年09月10日

Allegheny

the Henry Ford (26)the Henry Ford (27) 多くのコメントを戴いた。すべて正解で、Alleghenyである。ビデオが繰り返し放映されていて、その発音はやはり第一音節にアクセントであった。

 この機関車は整備し終わった状態で放置されたので、それをそのまま博物館に収蔵した。タイヤが削りたてである。デンヴァに置いてあるBig Boyのタイヤが磨り減っているのとは大違いである。塗装も当時のままだろう。ベルの外が黄色であるのは興味深い。
 
 ベルの内側を赤く塗るのは、大半の鉄道会社で行われている。40年ほど前、筆者は自分の機関車のベルを赤く塗って椙山氏のところに持って行って披露した。椙山氏はそれを目ざとく見付けられて、褒めて下さった。懐かしい思い出である。

the Henry Ford (21)the Henry Ford (30) この機関車の大きさは、尋常ではない。よくぞこんなものを作り上げたものだと感心する。
 この博物館がなければ、屋外に放置されて朽ちていったのだろう。

2016年09月08日

続々 Greenfield Village

Greenfield Village (15)Greenfield Village (16)Greenfield Village (17) この工場はフォードの工場の一角をそのまま移設したものだ。動力は蒸気機関である。非常に懐かしい。筆者の子供の頃は、日本にはまだこのようなシャフトのある工場がたくさんあった。もちろん電気モータ駆動であったが。天井のシャフトから動力を取るから、ベルトに巻き込まれると大事故である。3枚目の写真の機械は、売店で売る小さなブラス製の商品の部品を作るために作動させるが、作業中にベルトに巻き込まれる事故を防ぐために金網でその部分を囲ってある。

 シャフトには丸いドーナツ状のフェルトが通してあり、シャフトの回転により、自然にあっちへ行ったりこっちへ来たりする。即ちシャフトの錆び止めである。
各種の工作機械が並び、これで自動車を作っていたと思うと隔世の感がある。

the Henry Ford (7) 前後するが、Henry Ford博物館の中の最も人気のある展示物はこの貨車の前にある。
冷蔵車は保存状態が良く、あちこちの飛び出し具合がよくわかる。ちょうど製作中のと同型だから助かる。しかしここまで細かく作っても、他が同水準でないと変なものだ。
the Henry Ford (11) 冷蔵車の扉に手前に黒い札が差してある。板の厚みには驚いた。こんなに厚いのである。

 さて、その前方にあるのは何だろう?この博物館の中で最も写真に撮られる頻度が高いのだそうだ。大き過ぎて、運び込む時に入り口を少し壊して入れたそうである。  

2016年09月06日

続 Greenfield Village

 この村の中には、20世紀初頭の様々な職業を再現して見せてくれる場所がある。印刷屋とか、焼き物を作る工房とか、機織り、ガラス屋、木工所、鍛冶屋などがある。
 その中で特に興味を持ったのはこのブリキ屋である。ブリキ板(スズめっきをした軟鋼板)を曲げて、いろいろなものを作ってくれる。大物は時間が掛かるので、簡単なクッキィの抜型をお願いした。短冊形に切ったブリキを片方だけ曲げて手を切らないようにする。それをくねくねと曲げて目的の形にして、最後はハンダ付けだ。

Greenfield Village (11) 大きな焼ゴテ(1ポンド級)を出して見せたが、これは使わないと言う。どうするのかと思えば、アルコールランプを使うのだそうだ。このアルコールランプは、タンク部分が多面体で、いろいろな角度で置くことができる。

Greenfield Village (12) ほとんど横向きに置き、吹管を使って炎を所定の場所に導く。吹管は、長さが30 cmほどの平仮名の「し」の字の形をしたブラスの細い管で、青い炎を目的の場所に当てることができる。フラックスを少量塗ってハンダの粒を置く。やはり置きハンダだ。ブリキはハンダ付けが極めて容易で、あっという間に付く。机に松脂が置いてあるので、それも使うのかと聞いてみたら、松脂はあと始末が面倒だから使わないそうだ。
 ハンダは2×3×1.5mm程度の大きさであった。

 ここで作られた商品は、売店で適価で売っている。 

2016年09月04日

Greenfield Village

 このグリーンフィールド・ヴィレジには1991年から鉄道が整備された。もちろんヘンリィ・フォード自身の意思によって線路敷設は予定されていたのだそうだが、時間が掛かった。
Greenfield Village (9)Greenfield Village (7) 機関庫は1884年に建てられたものを移設した。転車台は手動である。
 稼働可能な蒸気機関車は3輌あって、先の4-4-2、4-4-0とこのメイソンボギーがある。 
  
Greenfield Village (30) かなり大型である。訪問時には機関庫に入っていたが、走っている動画はかなり見つかる。


Greenfield Village (31) 機関庫の中にはピットも切ってあり、動輪の嵌め替えもできるようになっている。工具類の並べ方は参考になる。


Greenfield Village (34) 煙突は上下できるようになっていて、煙を庫内に充満させることがない。見学スペイスは高く、作業の邪魔にはならない。原則として機関車を奥に突っ込む。そうすれば作業スペイスが確保できる。
 テンダは後ろに尻を出しているときもある。昔、テンダばかり買う男がいたので、何をするのだと聞いたら、こう言った。
「機関庫に並べるのだ。」

2016年09月02日

祖父江欣平氏の殿堂入り

 祖父江欣平氏を、O Scale Hall of Fameに入れようと、過去5年ほど動いてきた。その前の段階から考えると、もう10年もやって来たことになる。

 DavidはワシントンDCの弁護士で、この運動に力を入れてくれていた。今まで殿堂入りした人は、すべてアメリカ人だ。その点も難しいところであった。
 筆者は各地で何回か、祖父江氏に関するクリニック、”The man who built engines for Max Gray" を講演した。参加者はすべて、祖父江氏のファンになり、運動を後押ししてくれた。O Scaleのコンヴェンションをまとめる評議会で何度も話題になったらしいが、すでにその年の人選が終わっていて、難しかったようだ。
 ようやく、今年になって可能性があるという知らせをもらったが、決定を知らされたのは最近だ。日本人が、アメリカの殿堂入りをするということは、画期的なことであり、日本の模型界のみならず、世界に影響を与えた模型人という意味でも、我々模型ファンは深く心に刻むべきことであろう。
 写真を送らねばならない。良い表情のものを探している。
  
 これは、もちろん日本の模型雑誌でも発表すべきことである。さて、どんな扱いになるだろうか。雑誌社にコンタクトしたいが、先年コンピュータが2台ともクラッシュして、アドレスが行くえ不明になってしまった。 

2016年08月31日

続 O Scale Rresource

 OSRは、もともとあった紙媒体の雑誌を受継いでいる。数千部では経費ばかりかさんで採算割れしてしまった。いっそのこと、無料のウェブ雑誌にしてしまえば、採算が取れるという計算だ。大きな利益を目的としていないので、損失がなければよいのだ。編集者は、良い書き手を求めて、取材活動をしている。くだらない投稿記事ばかり並べるような雑誌とは、一線を画しているのだ。

 編集者は、筆者と過去に何回か話をしている。記事にあったように、Melissaが日本に来て、当家に逗留していった報告を聞いて、ぜひとも詳しい話を聞きたいと思ったのだそうだ。
 博物館のレイアウトの分岐がハンドメイドであることには甚く感動していた。例の4番Y分岐と8番の関係など、目から鱗だったようだ。また、持って行った等角逆捻りのサンプルを見て、眼を輝かした。
「これはすごい発明だ。このデモンストレイションをやったら、みんな拍手喝采だよ。」
線路を持って行かなかったので、ハーマンの遺品の線路を借りて置いた。p.28の写真を見ると泣き別れになっているが、そんなことはどうでもよい。3点支持のまずいところがよくわかったのだ。

 ハーマンの奥さんが、
「線路がたくさんあるが、持って帰れるものなら博物館に寄贈したい。」
と言う。有難い申し出であった。線路はいくらあってもよい。ショウケースの中の展示用が不足していた。縦横高さの和158 cm以下であれば持って帰れる。航空会社の上級会員になっているので、荷物の数も余裕がある。数十本貰い、ちょうど良い箱を作って入れた。他にも、
「組み掛けの貨車キットなども、持って帰ればどうか。」
と勧めるので、10輌分ほどもらってきた。完成時には「ハーマンからの寄贈」というシールを貼る。
  墓地でハーマンの墓に参り、
"Bye bye, Harmon."
と言った瞬間に、それまで気丈に振舞っていた奥さんが号泣した。遠いところを来てくれたことを感謝された。

 帰国してから、すでに半分以上組んでしまった。欠落した部品は自作して補った。どれもシカゴ近辺の鉄道会社の貨車である。久しぶりの車輛工作だ。ハーマンのことを思い出している。

2016年08月29日

O scale Resource

 昨日友人から連絡があって、記事が載っていると言う。開いてみたら、5ページもあって驚いた。27ページからである。編集者によると5,6回の連載にするつもりだそうだ。この雑誌は無料のウェブ雑誌で、広告費と寄付だけでやっている。金を取る雑誌よりも中身が良いと評判である。数千人の定期読者がいるそうだ。

 先日、シカゴに行ったときに、亡くなったハーマン宅を弔問し、墓参した。その時、奥さんが編集者に筆者が来ることを連絡したのだ。彼は急いでやってきて、3時間半のインタヴュを受けた。
「世界中であなたしかやっていないプロジェクトを紹介したい。なぜ、ここまで機関車の性能向上に心血を注ぐのか、それは一体何が始まりだったのかを知りたい。誰があなたに影響を与えた(mentorという言葉を彼は使った)のか。」と聞く。
 彼はジャーナリストである。今まで、仕事上でも趣味の世界でも、さまざまな報道関係者と話をしたが、彼の姿が一番正しい。核心を突いているのだ。

 i-Padの写真を見せながら、いくつかのサンプルを机の上に並べて見せた。彼は一つずつ動かしてみて、驚嘆した。
「これは模型の世界ではない。とてつもなく素晴らしい性能だ。どうして模型製造業者が飛びついてこないのだろう。」と聞く。
「単純に言えば、彼らに能力がないからです。見ても理解できない人たちなのです。実際に走らせていないから、100輌牽くと言っても、フーンで終わってしまうのですよ。」
と答えた。
「誰にもわからない、とは思えないけど。」
「ごく一部の人はわかります。今回も車輪を1000軸ほど買ってくれた人がいて、それを持ってきました。また、韓国の製造業者はこの歯車を欲しがりました。」
「でも、実用化されなかったよね。」と畳みかける。
「アメリカのインポータがそれを蹴ったのです。頭が悪いとしか言えませんよ。『単なるマスターベーションの一種だ。』と言ったそうです。でもヨーロッパには売れたようです。それほど高いものではないからね。」
「うーん。そうだね。」

 100輌以上の列車が1輌の機関車によって牽かれ、なおかつ下り勾配で発電しながら降りて来る様子をヴィデオで見せると、
「これは世界中に見せる必要がある。」と言った。           
 
 忘れていたが、このブログの開設10周年の記念日が過ぎたことを指摘された。 

2016年08月27日

gas engine

Greenfield Village (26) これがそのガス・エンジンである。gas motorとも言う。「〇×モータース」という言葉はここから来ている。アメリカではいまだによく聞く。diesel motorという言葉もある。

Greenfield Village (29) さて、エンジンはこの配置であったのだ。排気ガスは観客のほうに出て行ったらしく、途中で切れている。軸受は二つで、クランクケースはない。コンロッドやピストンの潤滑はどうしたのだろう。シリンダの中頃にパイプがある。そこから潤滑油を滴下したのであろう。油は飛び散り、ブロゥ・バイ・ガスはすさまじいものだったろう。点火プラグが見えないから、焼玉エンジンのようなものであったのかもしれない。窓を開けないと、とても運転できないだろう。
 当時は電気モータは非常に高価だったようだ。また直流送電の区域では大電流が取れず、使えなかったらしい。

Greenfield Village (25)  翼の組み立てはここで行われたのだ。堅い木を接続して作られ、ワイヤで引張って羽を捩じる工夫がある。細かい細工は自転車の技法を駆使してあり、自転車屋ならではである。

Greenfield Village (28) この一角にはボーリング中のガス・エンジンがある。4気筒だ。既存のものでは役に立たなかったので自作し、出力を上げている。この大きさでもせいぜい12馬力であるが、他の熱機関に比べると、対質量比で大きく勝っている。

 風洞では、揚力を羽の断面を変えながら測定していた様子が分かる。彼らは職人であると同時に科学者であった。考えながら作るというところが、他の挑戦者と大きく異なるところであったことを実感した。理屈だけではだめなのだ。

2016年08月25日

Curator

 Henry Ford博物館の隣にあるGreenfield Villageは、古き良き時代のアメリカを再現している博物館である。明治村は、これの劣化コピィである。

 Edisonの研究所とか、Wright Brothersの自転車店もそのまま本物を移築して、内部も再現してある。エジソンの研究所には電池の開発のための、ありとあらゆる試作品があった。試薬瓶もかなりたくさん当時のものを置いてある。錫箔に録音した当時の機械を実際に作動させて、音声の再現を見せてくれる。ただしアルミ箔であった。

Greenfield Village (18)Greenfield Village (19) ライト兄弟は自転車屋を開いていて、その利益で飛行機の開発をした。当時の自転車はとても高く、現在の3000ドルほどもしたそうだ。だからこそ、開発資金が賄えたのだ。
 裏には自転車を加工する工場があり、その一角で飛行の原理を研究した。風洞なども当時の本物がある。研究ノートも再現してある。

Greenfield Village (23)Greenfield Village (22) 1989年に行ったとき、筆者はその工場の動力がないのに気が付いた。天井にはベルト駆動で旋盤、ボール盤を動かすシャフトがあるのに、どこにも動力がない。
 たまたまやって来たキュレイタに、
「この工場の動力は何を使っていたのですか。ないのはおかしい。」と聞いてみた。
 彼女は博士号を持つキュレイタで、
Greenfield Village (29)「確かにおかしいですね。蒸気機関はこの工場にはあまりにも大きすぎて維持が大変ですし、水車というのも考えられない場所です。小型の
gas engineかもしれない。」と言う。
ちなみにガスエンジンというのはガソリンエンジンのことである。
「とても素晴らしい質問です。早速調査して、今度お越しになるときには、納得のいく形にしておきます。」ということであった。
 今回はその確認もあって、楽しみにしていた。 

2016年08月23日

Atlantic

Greenfield Village (32) このアトランティック 4-4-2は出発時の牽引力を一時的に増すための装置を持っている。文字通り、traction increaser と呼ぶ。従台車のイコライザ中心穴が上下に長い。長穴の上は親指が入るくらいの隙間がある。

Greenfield Village (4) 下から覗くと、蒸気シリンダが2本下向きに取り付けられている。テコでイコライザの動輪に近いところのピンを押し下げるようになっている。そうすると第二動輪の軸重が3割くらい増す。機関車は後ろが持ち上がり、妙な姿勢になるが、短時間のことである。加速する間はこの姿勢を保つ。機関士の乗り心地は良くないだろう。これは以前図示したので、覚えていらっしゃる方もあるだろう。筆者は、理屈は承知していたが、現物を見るのは初めてだった。図面はp.202にある。

 機関庫内にいたcurator(日本語では学芸員)に、この装置のことを聞いてみた。多分知らないだろうと思っていたのだが、実に正確にその機能を説明してくれた。その瞬間に機関車の姿勢が変わることまで知っていた。さすがはヘンリィ・フォード博物館である。

 博物館はキュレイタで持っている。能力のないキュレイタしかいない博物館は、「仏作って魂入れず」である。日本の博物館には、不合格点しか付けられないものがかなりある。

2016年08月21日

Russian Iron の表現

 この方法は膜が薄いところが良い。電着した膜は加熱によって硬化させる。おそらく、熱硬化性樹脂(エポキシ系か)を用いている。低温ハンダを使うと、ばらばらになるかもしれない。
 常識的にはマイナス極に析出させるはずだ。陽極には溶けにくい金属が良いが、ステンレス板で十分だ。電圧はそれほど問題にはならない。適当に調節すればよい。模型用の電源で十分だ。電流は少ない。

 この方法では、色が自由に選べるので、黒染めの代用になるかもしれない。あらかじめニッケルめっきを施すと色が良くなるだろう。アメリカの機関車の一部にはラシアン・アイアン風の緑色のボイラ・ジャケットがある。それも簡単に再現できるはずだ。 

 先回の黒い被膜の機関車も、この方法で仕上げる方法が可能だろう。 塗装に依らない機関車の仕上げの時代が来るかもしれない。
 HO以下のサイズなら、全体を容易に液の中に沈める ことができる。凹凸があると、凹んだ部分は電界が小さくなるので、やや不利だが、それも工夫によって克服できる範囲にあるとみている。相対する電極をとがらせて、その近くに持って行けばよいのである。電界を狭い範囲だけ大きくするわけだ。

2016年08月19日

続 Russian Iron

 ラシアン・アイアンの表現は塗装による再現もあるだろうが、筆者の興味のある方法は化成処理である。これは顔料を含む電荷をもった粒子の懸濁液(suspension)であろう。電圧を掛けると電気泳動を起こし、被着物の表面で析出する。自動車の車体を防錆加工する時の電着塗装と同じ原理を用いている。 
 この製品はある程度の厚さに着いたところで、加熱処理をして定着させている。見たところ、メッキ面のような光沢と適度な色を持っている。

 残念ながら、筆者のコレクションにはこれを施すべきものがない。どなたか試されたら、報告をお願いしたい。


henryford1 さて、Greenfield Villageの鉄道には素晴らしい4-4-2がある。この色をご覧戴きたい。塗装ではない。表面処理でこの色を出している。
 文字では表現できない色だが、黒みがかった銀色である。30年ほど前、木曾森林の0-4-2のGゲージ程度の大きさの置物が売り出されたが、その色と似ている。上廻りのみならず、下廻りにもかなり施されている。

Greenfield Village (33) この角度から見るとよくわかるが、ボイラーバンドも同じ処理である。とても立派な機関車である。キャブは木製だ。この機関車はヘンリィ・フォ−ド本人がとても気に入っていて、早い段階から購入して保存していたものだそうだ。

 この種の表面処理は機関車ではあまり見ないが、古い大型のキッチン・ストーヴ(調理用のかまど)や、暖炉に施されているのを見たことがある。

2016年08月17日

Russian Iron

Greenfield Village (10) ラシアン・アイアンの処理の仕方の説明を探しても、なかなか見つかるものではない。もうすでに誰もやっていないからだ。
 博物館での再生処理は秘伝の方法でやっているのだろうが、公表されているとは思えない。 古い文献を当たると、それらしいものが見つかる。
 筆者の祖父が使っていた金属便覧昭和25年版には、 400 ℃ で融解した硝石(硝酸カリウム)に清浄な鉄板を浸すと書いてある。
 硝酸カリウムの融点は 333 ℃ だから、それほど高くない。ハンダごての先の温度のほうが高い。るつぼに硝酸カリウムを入れて融かし、磨いた釘を入れると確かに酸化被膜が付き、青みを帯びた艶のある被膜ができる。高温の硝酸カリウムは徐々に分解して酸素を放つので、それが鉄に結び付くのだ。
 しかし、これを大きな鉄板に施そうと思うとなかなか大変だ。どういう装置でやっているのだろう。 
 
 出来たものを、油を付けてぼろきれで磨くと、さらに艶が出る。青い色は干渉膜の色だろうから、削らないように拭く程度だろう。昔の機械式の掛時計のゼンマイ・バネの色が近いが、あれはすぐ錆びてしまう。おそらく、緻密な膜ではないのだ。その点、ラシアン・アイアンは屋外で使っても大丈夫だ。

 模型に塗ってあるのをたまに見るが、艶消しになっていることがある。これは明らかな間違いだ。本物はピカピカだ。そうでないと錆びてしまう。塗装で再現するのは難しいが、銀塗装して磨き、さらに透明青塗料を掛けるぐらいしか思いつかない。プラスティック模型の世界には達人がいらっしゃるだろうから、テクニックを紹介してほしいものだ。

2016年08月15日

the Henry Ford

 アメリカに行っていた。友人に案内を頼まれて、シカゴ、デトロイト方面に行ったのだ。降って湧いた話で、何の準備もなく出発した。 向こうに着いてから、会うべき人と連絡した。
 最近はこの手の話がよくあって、今後この種の通訳・ガイド・ビジネスができるかもしれない。

 表題のヘンリー・フォード博物館はこれで5回目だと思う。最初は1973年で、
まだ隣のGreenfield Villageがそれほど充実していなかった。76年もさほど変わりがなく、89年はかなり建物が増えていたと感じた。
 名古屋に、トヨタの作った産業技術記念館という博物館がある。明らかにこのヘンリー・フォード博物館の劣化コピィである。真似をするなら、完全な真似をすべきであった。

 周辺の道路にある行先表示は、最近は表題のような表現になった。固有名詞にtheが付くようになったのだ。「あなたの行きたいヘンリー・フォード博物館はここです。」という意味になったわけだ。
 
 2009年に鉄道施設の拡充があり、扇形機関庫、転車台が整備された。収蔵されているのはかなり大型の4-4-2などで、非常に美しい。塗装でなく、鋼の表面を緻密な酸化被膜で保護した、いわゆるRussian Ironである。

 この色については様々な場所で論議されているが、あまり正しいことは示されていない。塗装による再現の話題もあるが、それを見ても正しいとは思えない。反射光であるから、塗膜の中での反射では解決するわけにはいかないのだ。 

2016年07月27日

隠しヤード

image (19) 隠しヤードが大半完成した。あとは終点まで延長するだけなのだが、フレクシブル線路が無くなった。昔のブラス製のレールが沢山あるので、それをめっきして枕木を付けようかと思っていたが、めっき代が意外と高く、買った方が時間も金も節約できる。線路を買いに行かねばならない。


image (18) ヤードは8線で、9 m強ある。実物で言えば、400 m強だ。障害物を避けるために、微妙に曲がっている。実はそれがやってみたいから、支柱の位置を決めた。真っ直ぐにしようと思えば、できたのだ。ここでも、分岐の整列はレーザ光で行った。
 Kansas Cityの巨大なヤードは川沿いにうねり、実に素晴らしかった。曲がったヤードは美しい。土屋氏とそこに行ったのだが、かなり感動的な景色で、
「これをやりたいものだ。」
と話し合ったことを思い出したのだ。
 
 直線部分の線路間隔は90 mmだが、途中の曲線では少し拡げて95 mmにした。だから、微妙な曲線を描いている。さらに奥に進むと細い柱があるので、もう一度曲がって2線と6線に分岐する。

 少し離れた1本は、 機廻り線である。突き当り部にポイントを付けるのだが、切り離しを確認するために、TVカメラが必要だ。剛氏なら、光電式の検知装置を付けるのだろうが、カメラの方が簡単で安そうである。


2016年07月25日

客車ヤードの配置

IMG_0608 客車ヤードは入り口のダブルスリップ以外が完成している。型紙は作ったが、まだ取り掛かっていない。DSは機運が熟さないと出来ない。すべての部品を作った上、体力があって気分の良い時に、1日で一気に作るに限る。何日も掛けるとろくなことはない。


image (19) 曲線部に同じ番手の分岐を並べたので、こんな形になった。10番分岐の型紙を何度も並べ替えて、S字カーヴにならない配置を割り出した。これ以外の配置では不可能だ。

 順に7番、8番、9番、10番と急なものから緩やかなものへと使えば、もう少し機能的だったろう。そんな話を鉄道関係者としていたら、
「そんなことはありません。ヤードなんかは手持ちのもので作るのです。余っている分岐で現物合わせですよ。速度が遅いので、線形なんか気にする必要はありませんから。」
とのことであった。

 確かに、港の近くのヤードの線形はかなり無茶だ。ありえない形をしているものがある。

2016年07月23日

押して付ける

soldering iron (2) これが筆者の厚板工作用ハンダこてである。先が少し曲がっている。この角度で下に向かって押し付けるのだ。その時、肘(ひじ)は机に付ける。もちろん小指の方にこて先が来る。
 最近はほとんど使っていないのでハンダは付いていない。いや、どちらかと言うと、ハンダをこてに付けずに押し当てることが多い。最近は炭素棒使用が9割である。

soldering iron (1) このハンダこては祖父江氏の工房で使われていたものの複製である。アカエの100 Wの電気コテをばらして、ヒータを150 Wに取替え、石綿シートでくるんだ。普段は70%くらいの電圧で使っている(すなわち出力は半分)。ここぞというときは、電圧を上げて使う。こての材料は銅のブス・バァを切って作った。軽く焼きなまして先端を少し曲げた。こうするとワークが見えやすい。

 多量の熱を供給したいときは、少しハンダを融かしてハンダを熱媒体とする。そうすれば、1 mmの板の裏側でもハンダ付けできる。もっとも炭素棒なら、2 mm板の裏でも付けられるが。

 この方法を伊藤 剛氏にお見せしたところ、かなり驚かれていた。
「圧力を掛けてハンダごての熱を一気に流し込むのですね。私は、こて使用の場合は、どうしてもハンダを熱媒体に使ってしまいますね。」
「炭素棒ハンダ付けと一緒ですよ。押して付けているのですから。」
「この形のコテは面白いね。あまり見ないですね。」
「祖父江氏の物のコピィです。」
「あの人は本当に凄い。普通の人には真似できない腕があります。手を機械のように正確に動かせる人なのです。」
という会話があったことを記憶している。

 今野氏からの質問で作業台は何を使っているかということだが、厚い合板(15 mm以上)の切れ端を使うことが多い。焦げると捨てて、新しいものを使う。釘が打てるので便利だ。釘を曲げたり、細い木を打ったりしてワークを押え、さらに付けたいものを例の三本足で押さえる。あとは、こてで押さえるだけである。これは客車の組立てに使う。

 塩化亜鉛水溶液が飛ばないので、合板は焦げない限り変色もない。炭素棒の時の台は、もちろん2 mmのブラス板である。

2016年07月21日

続 ハンダ付け時の押え

「塩化亜鉛水溶液を薄めたものを使っても、撥ねたりしない」と書いて来た人があった。その人は飛沫が飛んでいることに気付いていないだけであって、飛んでいないとは言えない。詳しく伺うと、ピチピチ音がしているそうで、それは撥ねている証拠そのものである。

 中学生のころからハンダ付けは塩化亜鉛を使ってきた。薬品は少量しか手に入らなかったから、薄くして使った。付くには付くが、 細かい飛沫が飛び散って、周りの糸鋸、ヤットコ、ヤスリが錆びた。そんなものだと思っていたが、大学生になると塩化亜鉛が豊富に使えて、その飽和溶液でのハンダ付けは、それまでとは全く異なる様相を示した。

 音もせずハンダがつるりと浸み込むのは、見ていて気持ちが良い。周りに飛び散ることは全くない。試しに、周りにヤスリを並べてハンダ付けしたが、錆発生の痕跡もなかった。

 これは使える、と思った。その後いろいろな人にそれを伝えたのだが、誰も興味を示さなかったので、最近は黙っていた。ところが、今回今野氏のブログでそれがかなりの盛り上がりを見せたので、発言者としては妙な高揚感を得ている。  

 筆者は商売柄、全てのことに疑問を持つ。本に書いてあることなど、ほとんど信用しない。条件を変えてテストし、起こる現象の分析をする。世の中にはずいぶん間違いというものが存在するものだ。高校の化学の教科書ですら、怪しい話が無数に載っているのだ。筆者の指摘で随分と是正されてはいる。

 ハンダ付けはクランプで締めて行うというのも、場合によっては失敗の元になる。締め付け過ぎることがありうるのだ。ハンダ付けの隙間は 0.03 mm程度が具合が良い。クランプで締める前に、何らかの方法で隙間を空けねばならない。先回書いたように、片締めになる惧れもある。そういうことを考えると、3本足の押えはなかなか大したアイデアである。板同士の接着時には、ブラス板に細かい傷をつけて、その「めくれ」で、隙間を確保する。この状態でクランプで締めると、うっかりしてその「めくれ」をつぶしてしまうこともありうるのだ。

2016年07月19日

ハンダ付け時の押え

 最近あまりハンダ付けをしていない。ポイントの作成と電気関係の工作をするぐらいで、車輛の工作をほとんどしないからだ。今野氏のブログで、塩化亜鉛飽和溶液の話が出ていて筆者の提供した話題が反響を呼んだようだ。
 ハンダ付けは、日本では塩化亜鉛水溶液を薄めて使うことになっているが、煮詰まるまでにブチブチと撥ねて、周りのいろいろなものが錆びる原因になる。筆者は飽和溶液を使う。全く飛び散らない。音もなくハンダ付けが終了する。飽和溶液にするにはどうすれば良いかという計算例も示されたが、そういうことは考える必要はない。小さな瓶に結晶を入れ、少量の水を足せば結晶が残った状態で、上澄みは飽和溶液だ。どろりとしている。密度は大きい。溶かしたときに濁るのは、水道水に溶けている空気の行き場所がなくなるからだ。放置すれば消える。粘りがあるから浮き上がるのに時間が掛かるが、次の日には消えている。

soldering aid (2) さて、押えの方法だが、ほとんどの方はクランプを使っていらっしゃるようだ。筆者はクランプも使うが、ほとんどの場合、この写真の補助具を使う。今野氏から要請があったのでお見せする。部品は撮影用に仮に置いたもので、他意はない。この設計では鉛の錘の3/4以上がワークに掛かる。押えの先端は平面にして丸く面取りしてある。傷をつけないようにである。

soldering aid (4) このアイデアは、昔アメリカで50年代の古いRMC(Railroad Model Craftsman)を読んでいて見つけた。鉛の付いている部分は針金をつぶしておいて鉛を鋳込んだが、長い間には外れてしまった。特に落とすと一発で壊れた。数年前に作ったのはこれで、鉛をブロック状に鋳て、それを鉄線の途中に付けた台にネジ留めした。壊れにくい。足はブラスで良いが、長い針金はブラスではもたない。Φ4の亜鉛引き鉄線である。熱を伝えにくいというのも、利点ではある。5円玉は大きさの比較用である。

soldering aid (3) 鉛は400 gである。平たくしたのはさらに錘を載せたい時があるからだ。ここで載せているブラス塊は380 gだ。 クランプ締めでは正確に保持するのは意外と難しく、押えるべきものの片方しか、力が掛かっていない場合がある。すなわち、断面が二等辺三角形のハンダが存在することになる。

 この重力による押えはなかなか具合が良く、お勧めしたい。作るのはわけない。鉛の錘を作るのには手間が掛かるが知れている。ブラスの塊でもよいのだ。後ろの2本の足はもう少し広げると安定が良くなるが、作業台が広くないのでこの程度で満足している。

2016年07月17日

続 TMS195号 

 筆者が高効率模型開発の実践をしていることを、山崎喜陽氏は井上豊氏から聞いていたらしく、
「TMSで発表させてあげるから・・・」
と話し掛けてきた。物の言い方が気になったが、数分間話をした。彼は筆者の話に非常に興味を持ち、実際に80坪の部屋の床で大規模な線路を敷いて実験をしている写真を見て、愕然としていた。
「日本で模型の効率を測定している人はあなただけだ。」
と言った。実際にはもう一人いて、それは吉岡精一氏であった。しかし、当時はまだ、吉岡氏とは連絡が付いていなかった。それを妨害した張本人は山崎氏その人であったのだが。
 極めて初期のTMSに、歯車の効率の話がある。山崎氏は、鉄道模型はよく走らねばならないという信念は持っていたようだ。

 話の内容を横で聞いていた荒井友光氏は上機嫌で、
「山崎君、名古屋にはこういう人もいるんだよ、大したもんだろ。『尾張名古屋はO(オウ)で持つ』って昔から言ってたじゃないか。」
と嬉しそうだった。その前の年のNMRAの新年会で、アメリカのNMRAのコンヴェンションのスライドを100枚以上見せた。カツミの栗山氏がそれを見ていて、筆者は請われて東京で二回再演した。そのことも聞いていたらしく、見せてくれと頼まれた。当時アメリカでも、
"O gauge is back" というキャッチ・フレイズでOゲージの復権が始まっていると言うと、非常に興味深そうだった。彼はアメリカの話には心を動かされるようだった。

その席で、筆者は山崎氏が「Model Railroader に投稿するならウチを通さなければ載らない・・・・」と、また言ったものだから、呆れてしまった。筆者は若いとは言え、アメリカに居たことのある人間だから、そんなことを言えばバレることぐらいわかりそうなものだ。
 筆者は井上に連れられて、山崎氏とは過去に複数回会っている。いつもそれを言う人であった。本人はそう信じていたのだろう。お気の毒ではある。
 
 例の3条ウォームの記事はぜひともTMSで扱いたかったものだったと、発表直後に荒井氏から聞いた。

 一方ミキストで、実名を挙げて攻撃された副会長の加藤 清氏の怒りは収まらず、553号まで投稿しなかった。漁夫の利を得たのが「とれいん」誌で、かなりの原稿がそちらで発表された。


2016年07月15日

TMS195号

TMS195 もう50年以上も経ったのだ。TMS195号(1964年)のミキスト欄にはかなりすごいことが書いてある。筆者の持っている一番古いTMSが186号であるが、それ以前のTMSで、NMRC(名古屋模型鉄道クラブ)の記事はよく見ていた。だからクラブに入会しようと思っていたのだが、突然TMSでのNMRCの記事が全く無くなってしまった。解散したのではないかと思ったぐらいだ。
 しばらく経って、椙山氏のお宅でNMRCの会長だった荒井友光氏を紹介され、直ちに誌友となり、正会員になった。NMRCが無事に存続していたことは、筆者には驚きであった。
 
mixt195 そのミキストにはNMRCの悪口が40行くらい書いてある。今だったら、名誉棄損で直ちに裁判沙汰になるような内容である。個人名も明記するなど、とても信じられない記事だ。剛氏と山崎氏は「ケンカ友達」だったのだが、副会長の加藤氏はそうではなかった。TMS憎し、でそれは加藤氏が編集長だったYard誌に表れている。
 これがきっかけで、NMRCはTMSと絶縁した。剛氏はそれまで極めて頻繁に紙面に登場していたが、全く影を潜めた状態が、400号まで続いた。ざっと16年間の冷戦状態であった。剛氏は東京勤務の時代もあったのだが、TMSとは接触しなかった。
 剛氏は仲直りが必要だと考えたのだが、副会長氏は強硬で実現しなかったようだ。
 この状態に心を痛めたのは井上豊氏で、東京方面に引っ越されたこともあって、頻繁にTMSとは接触し、仲裁を試みた。360号(’78年)あたりから、かなり頻繁にアメリカ型蒸気機関車の記事を発表している。古橋正三氏はギヤード・ロコの記事をかなりの数投稿したし、また、荒井友光氏も395号でトラス橋の記事を書いた。荒井氏は上京の際山崎氏に会い、400号までに関係の修復をすることを約束させた。
 その年のNMRC新年会で、山崎氏は来名し、「また仲良くやろう」と全会員を前に、伊藤 剛氏と握手をした。その後名古屋特集が出たのは、筆者の解釈では、いわゆる手打ちではないかと思っている。あの内容を訂正もせず放置したのは良くなかったからだ。


2016年07月13日

C&O 2-6-6-6 Allegheny

 井上 豊氏のHOモデルが掲載されたのはTMSの1967年11月号である。表紙のうすい黄色を覚えていたので探すのは容易だった。実は自宅の書庫のどこにあるのかはすぐには分からないのだが、博物館の棚には全て並んでいるので、探すのは非常に楽である。
 当時は高校生で、ずいぶん興奮して読んだ覚えがある。井上氏はどうしてこの機関車の図面を手に入れたのだろう、という疑問を我々の世代の人は持ち続けていたようだ。
 TMSの569号にはウォーカー氏の記事があり、疑問が氷解された方が多かった。 

 このHOモデルはのちに改良された。テンダのリヴェット打ち出しをやめ、酒井喜房氏の紹介で、エッチング図面を描いて外注したのだ。出来上がったテンダは素晴らしく綺麗で、メーカ完成品かと思うぐらいだった。デカールは椙山 満氏が貼った。テンダの改良は、1983年のTMS436号に載っているが、やはり不満で、すぐそのあとに根本的に作り替えられたのだ。 
 その試運転に来られて、拙宅に泊まられた。その2日間は非常に濃密な時間であった。あらゆる常識、テクニック、機構的アイデアを伝授して戴いた。
 押して動くウォームのアイデアはまだ出ていなかったが、すでに筆者は摩擦の少ない模型鉄道の実現に向けて動き出していた。ミニチュア・ボールベアリングには大変興味を示され、しばらくするとTMSにその記事が出た。筆者が半径3mの線路を敷いて、60輌運転をしていた時代だ。
 ウォーカー氏の件も多少は話題になり、569号の記事にある「お代官様」という表現も、その時出てきたことを覚えている。

 そのTMS569号1993年4月号には、NMRCの新年例会の記事が載っている。このころはすでにTMSとNMRCとの和解の時期であり、その以前の20年弱の「反目の時代」が終わったのだ。だからこそ井上氏の記事が取り上げられたのだ。「名古屋特集」もこの後出版されている。

2016年07月11日

Walker氏のこと その10

Walker 名古屋模型鉄道クラブで長老方にこの話を詳しく聞こうと思っても、ほとんどの方が言葉を濁されてしまう。
 井上 豊氏のお宅にお邪魔して話を伺った時、食料を持ってきてくれたということを仰ったが、同席されていた奥様は突然話を逸らされた。
 話してはいけない、という気持ちがどなたにもあったのだろう。

 伊藤 剛氏は、
「アメリカは時効が長いからね。場合によっては無いかもしれない。突然、軍法会議に掛けられても・・・という気持ちもありましたね。」
「会社のためとは言え、我々もこれが賄賂性があるということは、百も承知していましたよ。ウォーカー氏が帰った時、関係者はほっとしたけど、口外してはいけないという気持ちがありました。」
と仰った。

 椙山 満氏のお宅でこの話が出て、当時のNMRCの会長の荒井友光氏が、いろいろなことを教えてくれたが、写真の件となると、見せてはもらえなかった。
 井上氏のお宅に、伺って見せてもらった時、機関車のことは嬉しそうに話され、試運転の写真を見せてもらったが、その背景については話されることはなかった。

 3年ほど前伊藤 剛氏宅に伺った時、剛氏はこれらの写真を筆者に渡して全てを話され、近い将来の公開を委ねられたのだ。

 多くの模型人の心に傷を残して、それらの模型はアメリカに向かった。


2016年07月09日

Walker氏のこと その9

 Walker氏の模型は、すべて完成後、大同製鋼の集会室で運転をしたのだそうだ。戦災で焼け残った大きな建物は少なかったようだ。おそらく旅客列車が写っている場面がそれなのだろう。
 詳しくはわからないが、中央三線式交流18 V 程度であったろう。HOが12 V になったのは比較的古いが、大規模なOゲージ、1番ゲージは電圧を高くしておく必要があったと思われる。

 ウォーカー氏は帰国時に、
「これらは日本の模型人のレベルの高さをアメリカに知らせる良い見本だ。アメリカ中でこれを見せるツアをする。」と言ったそうだが、それをしたという話はどこからも聞こえてこなかった。彼自身もこれが賄賂性があることを認識していたはずだから、そんなことはできなかっただろう。

 1980年代の終わり頃、名古屋模型鉄道クラブに一通の手紙が舞い込んだ。それはウォーカー氏の子息からのもので、
「里帰りさせたい。」
とあったが、よく読むと、要するに買い取ってくれないか、というものだったそうだ。
 当時筆者はアメリカに居たので、間接的にしか知らないが、乗用車1台分くらいの価格であったそうだ。

 後で土屋氏にその話をすると、
「買っていたかも知れんな。」
と仰った。

 その後、その話は全く消えてしまったので、どうなったのかは分からない。一度見てみたいものだが、手掛かりを探すだけでもかなり時間が掛かりそうだ。

2016年07月07日

Walker氏のこと その8

FM2400FM 2400 ディーゼル電気機関車の完成写真がまだ見つかっていない。製作中の写真が数葉あるだけだ。この機関車はFairbanks-MorseのC-liner 2400seriesだと思う。前後で台車が異なるB-A1Aタイプだ。steam generatorを載せると、軸重が大きくなるので、一軸足したのだ。

「このような設計はいかにもアメリカ的な発想で、日本人にはできませんなぁ。」と、
伊藤 剛氏は語った。

 自動逆転機はもちろん、燈火の点滅、汽笛吹鳴まで手元でできるようにした。車内はその制御器が満載だ。制御器は冷却ファンの部分の天井からも操作できるようになっていて、制御器の軸はモータの大きさがあるので斜めに配置されているのが面白い。駆動用モータはまだ取り付けていない。 前部台車2軸と、後部3軸台車の後ろ2軸が駆動されている。 

伊藤 剛氏(左)伊藤 剛氏 (左 作っている時の写真が数葉ある。伊藤剛氏(左)はまだ二十代で、髪の毛もふさふさとしている。右は青木茂氏と思われる。
「ある時、髪の毛が突然どこかに行ってしまったのですよ。毛があった時代を知っている人はほんとに少なくなりましたねぇ。元々なかったわけではないのですからね。」

 工作台の写真もあったが、今回は見つからない。その工具ラックが面白い。すべての工具が見た瞬間にわかるような配置になっている。金鋸をはじめとする工具が、木製のラックに掛けられていた。決して引き出しには仕舞わない。ネジ回しは先端が見えるように斜めに差さっている。ハンダ鏝は目玉クリップをつけて浮かせてある。
「工具を探す時間は無駄そのものです。アマチュアであっても、プロであっても同じです。」
 筆者はそれを聞いて、直ちに工作台を改装した。

2016年07月05日

Walker氏のこと その7  

NYC Hudson  and L&N streamliner 客車は5輌編成だ。荷物車、コーチ(座席車)2輌、食堂車、展望車である。


coach interior 屋根の外せる範囲が、今日ある模型とは異なる。コルゲート部のつなぎ目を利用して、別れるようになっている。屋根板はネジ留めである。車体が大きいので、ネジは相対的に十分小さい。
 車内の椅子は専門の職場で作ったらしい。クッションこそ入っていないが、実物並みの仕上げを施したそうだ。この写真では洗面所の内部が付けてない。作ったはずである。内装は伊藤 剛氏が中心になって作成した。
 連結部分の幌を吊る装置がいかにも動きそうである。

dinerdiner interior 食堂車にはキッチンキャビネットも付いているが、食堂部分のみ、屋根が外れる。厨房部分の屋根には通風装置が付いている。


parlor observationparlor interior 展望車はいわゆるパーラーカーである。
 parlor carとは、一人掛けの座席を持つ特等車のことである。「こだま」号の一等車は、これらのアメリカの車輛を参考に作ったはずだ。ガラスの仕切りは職人が削った。
 灰皿はホックでできているように見えるが、いかがだろうか。 

2016年07月03日

Walker氏のこと その6

baggage Walker氏はライオネルをたくさん持っていたらしい。剛氏たちはそれを見せて貰って、内部を考察し、TMSなどに解説記事をたくさん書いている。 
 井上豊氏は汽笛の構造に興味を持ち、その中に針金を突っ込んで内部の様子を調べ、その通りに再現したものを作った。ちゃんと本物と同様の音がしたそうだ。そのあたりの様子は、「高級モデルノート」などに再録記事が載っている。

coachcoach interior いかんせん、ライオネルはおもちゃであり、模型ではない。伊藤 剛氏率いる名古屋模型鉄道クラブは模型を作っていた。より精密で、実感的なものだ。
 その点、Walker氏も同様で、スケールモデルの美しさには敵わないことを認めていた。だからこそ、このプロジェクトで鉄道模型が賄賂として機能したのだ。

 伊藤 剛氏からこのアルバムを譲られたとき、
「あなたのブログで紹介して下さい。ただし私たちがみんなこの世に居なくなってからにしてくださいよ。なんと言っても賄賂であることは否定できないですからね。私たちは胸を張ってこれを見せられるかと言うと、決してそうではないのですよ。」
と仰った。

 賄賂としての鉄道模型は絶大なる効果を発揮し、それらを作ってくれる人たちがいる工場には、決して無理難題を言わなかったそうだ。

 その製作に関して得た知識は、その後模型製作に大いに貢献した。私たちもその恩恵を受けていることになる。

2016年07月01日

Walker氏のこと その5

40-ft Reafer and hopper car この写真の裏にはこのような文章が書きこまれている。(原文ママ

 砂利を敷いた線路の上の七両の貨車は、内部も本物そっくり、
 トビラを開けば、電燈もともり、左は冷蔵庫、右は小麦、セメントなど積み込む貨車で、底が開くようになっている 製作費十万円


 その通りなのであろうが、この金額は7輌分なのであろうか。昭和24年当時の10万円は大金である。今の200万円くらいに相当するかもしれない。

 caboosecaboose interior このカブースの内部の写真をご覧戴きたい。室内灯が点き、ストーヴがある。煙突にストーヴ本体が付いているのが面白い。煙突部分でつなぐというのは素人の発想なのだろうか。

 貨車のブレーキハンドルは鋳鋼製であったそうだ。伊藤剛氏はこれからは鋳鋼の時代だと思って、どの程度薄くできるかの試験をしたそうだ。結果は0.5 mmだそうだ。したがってこれらにはその技術を使われていて、鋳鋼でできている。もちろん台車枠も鋳鋼だ。

 本物の動くところはすべて動くようにした。ハンドルを廻すと、鎖が巻上げられてブレーキが掛かったそうだ。これらの鋳物は大同製鋼で作らせた。

2016年06月29日

Walker氏のこと その4

covered hopper Alleghenyの発音の件は先に書いたが、この言葉の複数形はアクセントが後ろに来る

 アメリカにいた頃、この機関車の走った線路に沿ってドライブした。急峻な地形ではなく、老年期山脈である。Appalachian Mountains(アパラチア山脈) Blue RidgeとかSmoky Mountains のあたりである。そこでアレゲニィの音は頭に叩き込まれたが、テキサスの友人宅に行った時は混乱した。アレゲニィがたくさんあったのだ。彼は説明する時にアレゲィニィズと発音したのだ。

 聞き直すと、複数形はそうだと言う。理由はわからないが、いくつか例があるらしい。しかし、Alligator も最初にアクセントが来るが、複数形であっても同じ位置だ。

 

 さて、完成したアレゲニィの写真がまだ見つかっていないが、そのうち出てくるだろう。スロットルを引くと、前後が別々に回転し、スリップした。当たり前だが、妙に感動したそうだ。筆者はその話を聞いていたので、関節機にはモータとギヤを二組入れるようにした。すると祖父江氏も同じことを言っていた。

dda40xさんがさぁ、『二個モータにするといいよ。』って言ってたんだけど、大したことはねぇだろうと思ってたんだ。でもやってみたら、それがいいんだよね。ゾクゾクっとするね。」

 それから、関節機には二個モータというのが、祖父江氏のところの標準になった。 当然、井上 豊氏もそうした。もともと彼は自動車の差動装置を使うつもりだったが、こちらのほうがずっと簡単だった。

 のちに伊藤 剛氏にお見せすると、「やはり、これはいいね、ウォーカー氏の模型を思い出しますね。」とのことであった。



2016年06月27日

Walker氏のこと その3

opentop hopper 井上氏はその図面を祖父江欣平氏にも見せている。だから、Oゲージの アレゲニィのよく出来ている。Max Grayの時代にしては、他の機種より数等、出来が良いのだ。
 祖父江氏は、そのお礼にOゲージのアレゲニィの鋳物、プレスで抜いた板を井上氏に差し上げた。その板や部品は長い間井上氏の押し入れに眠っていたが、ある時、
50-ft boxcar「もうOゲージを作ることは無いから、君に上げるよ。組めるだろ?」
と筆者に譲ってくれた。半分くらい組んだところで、祖父江氏が仕事が無い時期があったので、組んでもらった。
そうしたら、
「鋳物の台枠なんてオモチャっぽいから、厚板で作り直したよ。他にも気になっていたところを全部作り直しちまったよ。」
と言って送ってくれた。それは完全にカスタム・ビルトと言えるものであった。そして、韓国で作っていた怪しいアレゲニィの鋳物部品のうち、正しいものだけを組み付けた。当時のメーカが提供してくれたものから、選り出したのだ。半分以上は捨ててしまったが。
 そのアレゲニィは筆者のコレクションの中で、最も価値ある機関車である。

livestock car さて、ライヴのアレゲニィであるが、井上氏は国鉄の工場の旋盤を使って主要部品を作り、自宅で仕上げをしていた。
 ウォーカー氏は時々寄って、ヤスリ掛けを手伝ってくれたりしたそうだ。そういう時には、
”For your family."
と言って、缶詰をたくさん持ってきてくれたそうだ。
「食べ盛りの子供がいたから、あれは助かったね。」

 蒸気の自在継手を球状に仕上げて、漏れないことを確かめたときは嬉しかったそうだ。  

2016年06月25日

Walker氏のこと その2

flat car 会社のための模型作りだから、勤務中に会社で作る。
「私の人生の中で、あれが唯一の経験でしたね。仕事で模型を作ったのは。」と、剛氏は仰った。剛氏が図面を描き、一部はカツミ模型店で作ったものもある。

reefer 模型とはいうものの、実物通りに扉は開き、ロックも掛かるようにした。実物の図面があるのだから、やればできてしまう。材料は会社が購入し、塗料は塗料会社に注文した。白眉はレイルで、製鋼会社が、わざわざその断面を作って挽き出した。ポイントも熟練工が実物同様に削り出したものを用いた。クロッシングは一体鋳造である

NYC J-1e and streamliner 蒸気機関車はライヴ・スティームだから、ボイラを作らねばならない。井上 豊氏は銅板を丸く曲げてリヴェット留めし、銀鑞付けするつもりであった。ところが、日本碍子の旋盤工が、「ワンピースで作ってやる」と言い出し、薄いボイラを肉厚銅菅から挽き出してしまった。その話を何度も井上 豊氏から聞いてはいるが、いまだに信じられない。銅のような粘っこい材料を旋盤に掛けると、喰い込んでお釈迦になるはずだ。

「彼はね、今で言えば技能オリンピックで金メダルを取れるような人なんだ。出来ないことなんか無いんだよ。」と井上氏は強調した。
 ピカピカの薄いボイラで、素晴らしい出来だったそうだ。 

 1967年、井上氏は C&Oの2-6-6-6 アレゲニィのHOモデルをTMS誌(233号)に発表した。当時はそのような機関車の存在すら、ほとんどの日本人は知らなかったが、彼は本物の図面を持っていたので、わけなく作ってしまったのだ。
 また、井上氏はAlleghenyの発音を正確に覚えていらした。日本の模型人はこの地名をよく知っているのだが、筆者が出会った人の中で、正しい発音をされたのは井上氏と剛氏だけだ。
 参考までに書くと、最初のA強く言うラゲィニ と言えば通じるが、それ以外の発音では不思議そうな顔をされるだろう。しかし、TMSの表記はやや異なってアレゲーニーとなっている。この表記だと第三母音にアクセントが来ると思ってしまうだろう。筆者もそう思った。

2016年06月23日

Walker氏のこと その1

剛氏のアルバム 連合軍が日本を占領していた頃の事情を細かくつづった本を読んでいるときに、筆者はある名前を見てどきりとした。ウォーカー中将という名が出てきたのだ。
 もちろん別人なのだが、名古屋には別のウォーカー氏が居た。剛氏の遺品の中にそのアルバムがある。

 アメリカから派遣されて、当時の中部地方の工業地帯を統括していた人の名である。軍属ではなく民間人であろう。
Mr.Walker ハロルド・ウォーカー氏はこの地方のすべての産業を押え、アメリカの国益を守る経営をさせるために派遣されていた。あまりにも厳しい人で、どの会社も、どうしたら少しでも目こぼししてくれるかを考えていた。ある時、彼は鉄道模型が好きだということが分かった。そこで日本車輛の伊藤剛氏が抜擢されて、話をしに行ったのだそうだ。剛氏は模型人であるし、英語が堪能であったからだ。ウォーカー氏は、Missouri Pacific鉄道に勤めていたことが分かったのだ。

 そこで日本車輛が車輛を、大同製鋼がレイルを作り、彼の好きな列車を進呈することになった。はっきり言えば、賄賂である。鉄道模型を用いて懐柔しようというわけだ。蒸気機関車は井上 豊氏が作ることになった。三菱や日本碍子、国鉄まで巻き込んだ大作戦である。

 車種は先方の指定で、NYCハドソンとC&Oアレゲニィ、FMのディーゼル機関車、流線形客車5両、貨車7両であった。すべてアメリカから本物の図面と写真を取り寄せ、その1/32、1番ゲージ模型を作ることになった。(写真は完成した模型を手にするウォーカー氏)

2016年06月21日

鉄橋上の線路

jig for superelevated ties トラス橋の延長上にガーダ橋がある。線路を続けて作っておかないと、曲率が変化してしまうこともありうる。

 ジグを加工して、長い線路を作れるようにした。2.6 mmの鉄板だから、糸鋸で切れないこともない。
 伊藤 剛氏は、
「糸鋸は最も仕事量が少ないので、手でやる仕事ならこれに勝るものは無い。」
と仰っていた。

 掛かってみると、ほんの数ミリメートルを切るだけで、かなり疲れた。いつも快削ブラスを使っているので、その10倍ほどの手間が掛かる。

 一箇所切っただけでギブアップし、アングル・グラインダに切断砥石を付けて切った。20 mm ほど切るところもあったが、数秒で終わった。角を落として、手を切らないようにした。
 
 また10 mm厚のバルサを敷いて延長工事をするのだが、この写真で左の方は浮いてしまうので、10 mm程度の板を挟んで安定化させた。

 レイルの曲率が一定になるようにあらかじめ曲げて置く。レイルは長さが足らないのでつなぎ、ハンダ付けして一体化させた。こういう作業は塩化亜鉛に限る。ジョイナの隙間をハンダが満たし、固着する。

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2016年06月19日

客車ヤードの現況

passenger car yard bpassenger car yard finished 懸案の客車ヤードの線路敷きが完了し、配線も済んだ。線路間隔を本線と同じ100 mmにしたが、それは正解であった。長い85 ft車(25 m車)を曲線上に置くと、車端がかなり近接する。

 この部分は機関車が走る部分ではないので、饋電線は少ない。客車の照明だけだから、レイルボンドに頼っている。饋電は 3 m おきで十分である。

rail bonds and bender レイルボンドを作るときに、今まではごく適当に銅線を捩じり、手で曲げていた。正確に曲げて取り付けると見栄えが良いので、 今回は工具と型紙を使った。銅線は裸撚り線の一端を万力で挟み、他方をヴァイス・グリップでつまんで捩じった。

making rail bonds この工具は、歯科の入れ歯保持用の針金を曲げるためのものである。日本製の本物は極めて高価であるが、これはPakistan製であると表示してある。アメリカの工具屋で手に入れたまがい物であるが、何ら問題ない。細い線を実に正確に曲げることができる。
wire bender 他にも丸く曲げる道具もあり、それは挟む位置で曲率を連続して変えられるようになっている。入手したのは20年ほど前であるが、当時の価格は一つ3ドルくらいだった。今ではもう少し高いだろう。

rail bonds and tools この種の工具は日本ではまず使っている人を見ない。とても便利である。立てて置く時は、このような保持台に置く。
 これは以前紹介したが、厚板に穴を開けて、底に薄い合板を張ればいくらでもできる。


2016年06月17日

カント付き線路

hand laid superelevated track カント付きの曲線はこのように出来上がった。曲率が一定であるので、なかなか壮観である。枕木裏も削ったので、平面に完全に密着する。スパイクは緩いものをすべて抜き、接着剤を塗って押し込んだので、二度と抜けることはないはずだ。

underside of the superelevated track 裏はベルトサンダの平面で軽く削ると、このようになった。枕木の多少厚いところは削られている。フライスで斜めに削いだ部分は刃型が出ている。目で見ても分からないが、このようにするとオイル・ステインの浸込み具合が浅かったので、その凹凸が強調されているのだ。
 釘の切り口が平面になって光っている。何かの間違いで短絡を起こすといけないので、絶縁材を貼る予定だ。
 
 ここまでの工事で延べ6日掛かっている。もちろん仕事をしている時間は3時間くらいだが、ステインの固まる時間、接着剤が硬化するまでの時間を取らねばならないので、その程度の時間が必要だ。重しを載せて保持する平面も必要で、生産性は極めて低いと言わねばならない。あまりやりたくない仕事だ。
 この部分はトラス橋の上で、さらにガーダ橋の部分も連続して作る。ジグを加工して延長できるようにするのだ。ジグは2.6 mmの鉄板だから、糸鋸で切るのは大変だ。

2016年06月15日

視力とDCC

 検診で視力測定を受けた。意外なことに両眼ともかなり良くない。
 白内障、緑内障の心配は全くなく、網膜も無事なのだが、ピントが合わない。老眼でレンズが薄くなっている。かなりの遠視になったのだ。以前は両眼とも、視力2.0を誇っていたのだが、今はどちらも0.8程度だ。しかし+1.0ディオプタのレンズを装着すると、2.0になったので安心した。夜間、車を運転するときには眼鏡を掛ける必要がある。2,3年前、本業の本を仕上げるのに、数か月コンピュータと睨めっこをしたので、急速に悪くなったような気もする。

 過去に何回も手術を受けて角膜を引張ったせいか、左眼に微妙にあった乱視が完全に直っていた。このことは伊藤 剛氏も仰っていた。
「私は乱視でしてね、夜空の星が点に見えなかったんですよ。ところが白内障の手術をしたら、角膜を縫い付けて引っ張ったので、ピンと張って、おかげでとても良く見えるようになりました。角膜にシワがあったんでしょうね。」

 遠視になると不便この上ない。日中は虹彩が細く絞られるので、かなりピントが合うが、夜間や室内では裸眼ではピントが合わない。線路をつなぐような作業は、眼鏡を掛けないと全くできない。
 もう一つ困ったことがある。DCCの機関車の番号を打ち込む作業ができない。そこに止まっている機関車を、少し移動したいので呼び出そうとするのだが、番号が読めないので非常に難しい。普段あまり動かしていない機関車の番号は忘れてしまうからだ。

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2016年06月13日

客車ヤード

 眼科で検診後、有無を言わせず切られてしまった。本来は手術の日程を決めるための検診であったのが、少々急を要する事態であったので、即手術となった。 中の方ではなく外側なのだが、しばらくは視線を動かすと痛いので、静養していた。
 居間のリクライニング・チェアで好きなカントリ・アンド・ウェスタンを聞いて過ごした。 本は読んでも良いことが分かった。コンピュータ画面とは違って、視線を動かさずに読むことが可能だからだ。河原匡喜氏の「連合軍専用列車の時代」を熟読した。
 実に興味深い本で、3回読み直した。お薦めする。黒岩保美氏から直接伺った話とも重なり、様々なことが分かった。

 そろそろ車の運転もできるので、博物館の工事を再開する。
up, level and down 客車ヤードがある程度完成に近づき、車輛を置いてみた。客車はペンシルヴェイニア鉄道の急行用車両である。隠しヤードに下りていく貨車はNYCのPacemaker塗装である。どういうわけか6輌が番号違いで揃っている。その後ろは複々線を登っていく貨物列車である。たまたま写っているこの2輌はワシントン州に関係がある。スポケーンから来た男は、この2輌を見てホームシックになると言った。こうしてみると、この付近は地下鉄の入り口のような感じである。

 隠しヤードへの線路の敷設もかなり進捗した。5 mmのゴムの効き目は大したもので、レイルヘッドと車輪との転動音しかしない。Low-Dの表面の平滑度が良いことが如実にわかる。しかも、レイルの継ぎ目の音が実にやさしい。あまりにも静かで、拍子抜けする。機関車がベルを鳴らして上がってくるようにしないと、事故を起こしそうだ。

2016年06月08日

plate girder bridge

 シカゴから届いたダイキャスト製の橋を架けるにあたって、その内側をどうすべきか、しばらく考えていた。 間隔を保てばよいので、木の角棒を作って接着するのが一番簡単だ。
 下から見ることなどないと思っていたが、最近は車載カメラという面倒なものがあって、全て見えてしまう。手を抜くと後々まで後悔することになるので、ある程度のところまでは作ることにした。レーザ・カットなら設計さえ気を付ければ、組むのも簡単である。 精度も高い。

girder bridge bracing 実物の図面を何日か眺めて、 作図を開始した。この手の物は非常に単純で30分で設計が終了した。Xブレイスにタブを付けて側面のスロットに入れる。簡単な直角ジグで支えながらハンダ付けすれば、たちまち形が出来る。
 それに上下の稲妻を付ければ良い。問題はこの稲妻の位相だ。同位相なのか、半周期ずらしたほうが良いのかがわからない。近所のものを調査中である。アメリカでの調査では逆位相であった。理論的にはどちらが有利なのだろう。

 このようにして作った箱状のトラスに、側面のダイキャストを接着すればできあがりだ。 稲妻は、透けて見えれば用は足りている。細かい造作は省略する。

 ガーダの上をどうするか、しばらく悩むことになる。直接線路を敷くのか、コンクリートの路盤を載せるかである。後者の場合はバラストが敷いてある。これも資料が手に入ったので、 あれこれと迷う羽目になった。




 

2016年06月06日

Alf の死去 

 先ほど我々の共通の友人であるBoからAlf Modineの死去の連絡を受けた。87歳であった。

 アルフとは25年ほどの付き合いであった。お互いに助け合った仲である。さまざまな部品を作って供給し、また逆に向こうから部品をもらったりした。
 最近は、博物館の工事進行状況を知らせて、意見を聞いたりしていた。

 昨年の春には泊めてもらった。日本に来ないかと誘ったのだが、健康上の理由で少々難しいという話であった。最近は足が悪く、歩きにくそうであった。

 訪問した際には上機嫌でワインを次々に開け、こちらがあまり強くないのを笑っていたものだった。いつも政治がらみの話を持ち掛けるので、事前に予習してから会うようにしていた。

 もうあのような話ができないと思うと悲しい。

2016年06月05日

続 鉄橋内の線路

 cutting the excess枕木の下にはスパイクが貫通しているから、それを裏返して喰切りで根元から切り取る。そののちにベルトサンダのテーブルの上で、裏側に軽くヤスリを掛ける。そうすると、微妙に出ている釘は完全に削り取られると同時に、やや厚い枕木だけが削られて全体が床面に接するようになる。

 この釘の切れ端は始末に負えない。磁石で集めようと思ったが、鉄板の上であるから、磁路ができて、ちっとも集まらない。刷毛で履いて大半を集め、残りは粘着テープの糊で集めた。

 この方法で曲率が一定の軌框ができる。これを橋の床面に置けば、完成だ。しかし問題点がある。スパイクが枕木を貫通しているので、それに金属が接触すると、短絡する可能性がある。裏にプラスティックのテープ状のものを貼るか、何らかの方法で短絡を防がねばならない。

 橋の本体には接着剤で付けることになろう。その時、レイルに継ぎ目をわざと深く入れて、集音マイクロフォンを取り付ける。
 果たしてどんな音が出るのであろうか。場合によっては別の音を出す工夫も必要かもしれない。

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2016年06月03日

鉄橋内の線路

 カントの付いた枕木を整列ジグに入れて、レイルを取り付けた。

 レイルを曲げて所定の半径にする。枕木に罫書きを入れて、位置を確定した。仮留めの位置に、外側レイルを取り付けるためのスパイクの下穴を細いドリルであける。枕木に少量のスーパーXを塗り、レイルを固定する。その時、半径2900 mmのジグを押し当て、全く隙間が無いようにする。

 レイルを圧迫し、枕木と密着するようにせねばならない。枕木はいかに精密に作られたとは言え、多少の厚さの違いはありうる。それでも密着させねばならないので、柔らかなバルサの厚板の上で作業する。その厚さは10mmである。

 レイルの上にあらん限りの重いものを並べる。合板を置いて、その上に定盤、スライダック、金床、電線、ネジ釘、工具、重そうな雑誌を山のように積み上げると、バルサは多少凹み、すべての枕木とレイルが密着して、接着される。
 次の日、重しを取り除くと、バルサには枕木の凹みがあるのが分かる。重しがよく効いた証拠だ。レイル10 cm当たり、6 kgほど載っていたことになる。

M1040001 そこにスパイクを打つ。もちろんバルサまで貫通する。再度2900 mmのジグを置き、内側レイルを接着し、また重しを載せる。固まるまで一昼夜を要する。
 錘を外しても位置関係が正しくできているので、スパイクをすべての枕木に4本ずつ打つのは容易だ。もちろん下穴を開ける。
 裏返してバルサ板を取り除くとこんな具合だ。


2016年06月01日

室内は室外である

caboose by Go Itoh これは伊藤 剛氏の作られたカブースである。かなり傷んでいるが、原型を保っている。これも折り畳み式の筈だと思ったが、そうではなかった。他にもあるのかもしれない。

 このカブースはいわゆる”NE type”である。米国北東部の鉄道で共通に使われたタイプだ。Reading RRで最初に採用したので、Reading cabooseとして売っていた。インポータは複数あったような気がする。ブラス製で、製造は安達製作所である。
 剛氏は安達庄之助氏を訪ねて、板の状態の部品を入手し、それをもとに工作をした。

broken NMRA X2E coupler NMRA型のカプラが付けられている。 X2Eである。この板金製のカプラーは弱い。強くぶつけると、上下に泣き別れになるのである。合わせ目に薄い板を貼れば壊れにくいが、下の押し合う部分が曲がるだろう。砂鋳物製の製品も持っているが、やや分厚い。
 その後ケイディが普及して、誰もこのカプラを使う人は居なくなった。 

caboose interior このカブースには剛氏によって内装が付けられている。剛氏は、「室内は室外である」という名言を残されている。「外から見えるものは、付けるべきだ。」という意見だ。
 このカブースも、見えるところだけは工作してある。キュポラの部分の椅子が付けられているし、洗面台もある。
 経年変化で接着剤が変質して、あちこち壊れているが、直せばすばらしくなる筈だ。また、ガラス窓は上に抜けるようになっている。反対側(この写真では左)の窓はポジフィルムの透明な部分を使っている。 いずれ修理して、デヴュウさせたい。

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